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「硝煙の海」談話室

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[944] 随想
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2017年10月15日 (日) 16時14分


[942] 戦時南方の石油
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/f_iwamatsu/oil/oil03.html

2017年10月14日 (土) 18時36分


[941] 第82号海防艦戦没者慰霊碑
From:菊池金雄 [/]

  昭47.8.10 建立 合祀者117柱
艦種艦名長さm幅m吃水m排水量t速力kt主要兵装
丁型第82号65.08.63.0590017.512cm高単×2,
 
昭和19年度計画, 建造所 三菱長崎造船所
昭19.9.6起工, 19.11.18進水, 19.12.31竣工, 海防艦に編入
昭19〜20  太平洋戦争。 内地,台湾及び日本海方面の海上護衛戦に従事,
 20.8.10  朝鮮半島城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没
 20.9.15 除籍
 「第八十二号海防艦」は、偶数番号型海防艦として、昭和19年12月31日三菱長崎造船所で竣工、急速訓練ののち翌20年2月15日第一海防隊に編入された。
 船団護衛任務につき南に北に奮戦し、終戦を目前にした7月5日、第二海防隊に編入され隠岐島に移動した。8月9日羅新、清津方面上空に猛火煙を望見、攻撃中の100余機視認、ソ連参戦の電報受信で、攻撃の飛行機はソ連機と判明した。
 8月10日最後の避難船を護衛して南下中、ソ連雷撃機隊24機が来襲、次いで第二波が来襲、魚雷が後部に命中、瞬時に沈没した。93名が救助されたが、機関長田島長次郎大尉以下117名が終戦を目前にして散華した。
 戦後、27年たって生存者の間で、共に戦って散華した戦友の英霊を鎮魂をする声があがり、この碑をお参りに来る人々と共に永遠の平和を願ってこの〃碑〃を建立し                                 ページ187
 第82号海防艦は昭和19年暮当時東南アジアから南北太平洋全域に拡大された戦線の随所において戦況極めて不利の状況に転じていた頃三菱長崎造船所で竣工直ちに第一線部隊に編入せられ就役したものである。
 乗組総員215名、明けて昭和20年初頭から船団護衛対潜掃蕩作戦に従事し終戦直前の同年8月10日日本海方面において単艦作戦行勤中ソ連機の来襲を受け、これを多数撃墜せるも間断なき敵機の攻撃により遂に被雷爆沈117名将兵の尊い命を一瞬のうちに失ったのである。
 爾来27年平和と繁栄の時代を迎えた今日生存者相寄り、かねて念頭の慰霊碑を此所ゆかり地に建立し心からなる祈りを捧げて戦没者の霊を慰め且つこの地を訪れる人々と共に永遠の平和を希うものである。(航海長 歴 義一郎)

2017年10月14日 (土) 17時06分


[940] 日ソ開戦直前の日本軍北朝鮮配備状況
From:菊池金雄 [/]

北鮮所在海軍部隊
羅津、清津方面には第901海軍航空隊派遣隊、羅津、清津在勤海軍武官府、羅津、清津港湾警備隊があり、元山方面には、元山方面特別根拠地隊、元山海軍航空隊、第901海軍航空派遣隊、元山通信隊、第354設営隊、及び第51海軍航空廠の分工場があり、
平壌方面には第5海軍燃料廠、第353設営隊等が配置され、その兵力は約5000名であった。
第901海軍航空派遣隊は、8月10日、ソ連軍の羅津攻撃とともに、同地を撤退して8月13日、清津所在の部隊に合流を図った。しかし、清津にもソ連軍が上陸を開始したため、更に元山に向って撤退し、同地所在の部隊に合流した。
その他の羅津、清津方面にあった海軍部隊は付近の陸軍部隊の指揮下に入り行動を共にした。

北朝鮮正面陸軍部隊
 この正面の警備は第34軍、羅津以北は第33軍の担任であって、第59師団、及び
第137師団を威興西南側に、羅南師管区部隊を清津、楡城、羅南の線に配置していた。

 ソ連軍は1個師団を8月13日から清津に上陸させるとともに、戦車部隊を羅津方向から南下させ、まず羅南付近への進入を図った。

 羅南師管区部隊は、13日清津に上陸したソ連軍の一部に対し陣地から出撃してこれを撃破したが、14日夜上陸したソ連軍の主力、及び南下のソ連軍戦車部隊に対し、陣地に拠ってこれを拒止中、8月18日、停戦命令を受領するにいたった。第144警備大隊の主力は、15日、清津東側の陣地で孤立戦闘し、多くの損害を受けた。
 前記以外の部隊は戦闘することなく停戦を迎えた。

出典;昭和三十四年五月
    満州・北鮮・樺太・千島における日本人の日・ソ開戦以後の概況
               (厚生省引揚げ援護局未帰還調査部)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/MikikanRepo.html

2017年10月12日 (木) 16時23分


[939] 第82号海防艦のご遺族出現
From:菊池金雄 [/]

  このサイトを拝見させていただきました木下と申します。
私の大伯父は先の大戦で戦没しているのですが、どこで亡くなったかどうかが
わからず、親戚の「ヤマトの護衛艦」というわずかな情報から呉、靖國神社など
の慰霊碑を探しておりました。
 そして予期せず正月に祖母の遺品整理をしていた叔父が第82号海防艦の慰霊碑
建立の知らせという古い手紙を見つけました。そこからこのサイトを見つけるこ
とができ、大伯父の戦没時の詳細を知ることができました。本当にありがとうご
ざいます。
戦後70年の年に見つかることも偶然かとは思いますが、慰霊祭が行われるとい
う8月10日に時間が作れれば、呉へ赴こうと考えております。
このサイトがなければ私自身もルーツも何も知らぬままでした。本当にありが
とうございます。

2017年10月10日 (火) 16時32分


[938] マニラ待機中の遭難船員の帰還事例
From:菊池金雄 [/]

 レイテ作戦当時、マニラに一万人くらいの遭難船員がホテルやマンションに収容され、中にはダンスホールで空き室待ちを余儀なくした。これが管理は陸軍の停泊場司令部で最小限の衣服も支給された。海軍徴用船の場合は、軍の雑務にかりだされたとのこと。
 なぜこんなに大勢の遭難船員が集まったのかは、敵に制空権をうばわれたのに、しゃにむにレイテ作戦に増援部隊を投入したため戦没船が続発したことと、日本への帰還させる便船が僅少であったからである。

 一例だが、昭和19年10月25日、私の乗船、小型タンカー昭豊丸がスルー海で爆沈。運よく僚船に救助され。マニラ〜高雄経由で、散散苦労して門司に帰還したら、暁部隊から一流料亭を宿所にあてられ、長袖衣服(当時流行のカーキ色の国民服)が支給された。翌日の軍属解雇式で暁第2940部隊長が全帰還船員に木盃を配って謝辞を述べ、自宅までの切符も渡された。
 他方、海軍徴用船の場合・・・徴用船の戦没は軍秘とて、小人数ごとに分宿させられたとのこと。
 これらのマニラで待機の遭難船員中、各船の船長・機関長は軍の輸送機で空路帰国し、門司で自社船員を出迎えたケースもあるが、出迎えしかなかった例が多いのは会社側に帰還情報が無かったのではないかと思う。それは、私が帰郷途次、真っ黒な顔で会社に出向いても、誰一人から「ご苦労さん」の言葉が無かったことからも首肯できる。

 当時衣類が欠乏だったので、事後、この国民服は外出用に重宝だった。

2017年10月10日 (火) 09時13分


[937] 関西懇親の旅(07年10月)
From:菊池金雄 [/]

今年の第48回海上保安庁謡曲大会が名古屋市の栄能舞台で10月27日開催されるので塩釜のS氏と台風余波の雨のなか、同日0635の東北新幹線で名古屋に向かう。途中東京駅で「こだま」に乗り継ぎ10時一寸すぎ、やはり雨模様の名古屋駅着。地下鉄〜タクシーと乗り継ぎ、やっと「栄(さかえ)能舞台」に辿り着く。
 今回の参加者は31名(二管区2 三管区17 四管区5 五管区6 六管区1)で
素謡9番 連吟2番を10時から熱演。 17時から嘉文;栄(さかえ)本店でお待ちかねの懇親会に移った。この店は鮪・生魚料理の名門らしく千客万来のようで、各グループで歓談に花が咲いたが余興は出なかった。
 来年は五管区(神戸)で開催と内定。再来年は50回の節目で、開催地は何処になるか未定とのことであった。 
 遠隔地参加の二管区組みは一泊したが、私は翌日が偶然、旧船会社(大同海運梶jのOB会と連動したので翌朝神戸に向かったのであるが 会場の第一楼の在処を失念、小一時間ロスとは情けなや! とにかく定刻の正午前に着いたが、旧知のひとりが未着のため、初対面OBに持参した身上資料を示して自己紹介につとめ、面識のあった小池会長、宮道幹事、江頭氏等に挨拶の間に、やっと親友川人氏が見えたので何かしらほっとする。
 案内状82名に対し、今回の参加者は19名(内女子2名)。死亡1名の八塚元一氏とは、かつて同船したことがあり、再会が叶わず残念であった。
 実は数年前に初参加した際、格別新参者を紹介することもなく、やーや−とそれぞれ旧交を温めるだけで何か物足りなかったが、今回は事前に幹事へそのことを根回していたのが効果覿面して発言の場を与えられ、自身の乗船歴開陳にからめ、向日丸が救助した戦没海防艦生存者からのお礼のメッセージを披露するとともに、小謡(羽衣)一曲を吟じ、各位の健勝を念じた。
 実は前回偶然同時に初参加した大阪の川崎氏とは面識がなかったが、双方自分史出版がらみで知り合い頻繁に電子メールで対話していて、彼はこのOB会には不参加なるも、私と初対面願望から午後2時ころ当会場ロビーで出会う約束をしていたところ、彼が早めに着たので午後1時半頃中座し、彼の案内でシテイループバスでの市内観光に出かけ、異人館地区で下車し、暫しコーヒータイムで懇談。私は神戸の姪宅に立ち寄る都合からマイカーで姪に異人館周辺まで出迎えてもらい、彼の友情を謝して別れた。
 彼は陸上社員であり、戦時中シンガポールの子会社に赴任の際、私が乗っていた高瑞丸に便乗したとのことであるが、私の記憶からは欠落していたので今回が初顔合わせとなった。
 私は北区の姪宅デナーに招じられてから、午後8時頃「しあわせの村」本館まで送ってもらい、ジャンググル温泉に入って床に就く。
 翌朝、0825の新幹線で東京向け出発するので、再度姪のクルマで新神戸駅まで送ってもらい帰途についた。珍しく富士山を望見できたのは幸いだった。
 東京には定刻の1143着。神田神保町の全船協を表敬するため入居ビルを見つけるのに小一時間ロスとは歳の所為か? やっと見つけてエレベーターに乗ろうとしたら、降りてきた顕彰会の斉藤理事とぱったり出会い、私の知人が不在と分かったので、同氏と地下鉄で難なく顕彰会に着いた。
 いろいろ追跡情報などのコピーを入手し、また機関誌への原稿依頼をうけるなど、所用を済まし、1708発の新幹線に乗り1920仙台着、関西二大都市の殷賑ぶりに圧倒された二泊三日の旅を無事に終えた。

2017年10月09日 (月) 19時07分


[936] 海上保安庁長官に中島氏 2代連続で現場出身
From:菊池金雄 [/]

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H1M_U6A610C1EAF000/

2017年10月08日 (日) 14時11分


[935] 現職当時の回想
From:菊池金雄 [/]

戦没船員の碑余禄
この碑の存在は、羅津で別れた向日丸小川次席通信士の消息を追跡中に偶然把握し、平成11年5月15日の第29回追悼式に、はじめて参列した。
実は殉職船員顕彰会からの案内状を読み違えて、JR横須賀駅まで送迎バスがくるものと思い込んでうろうろしていたら、幸いK社OBに出会い、開式に遅れるおそれがあったので彼とタクシーで観音崎に向かい、辛うじて定刻に間に合うというハプニングがあった。
もちろん彼とは初対面であるが、自社の船に乗組中海軍に召集され、入隊した途端「貴様は商船船員」かと、散々しごかれた悔しさを私に白状した。実は私も開戦直前北米から帰航中,太平洋のど真ん中で陸軍入隊の召集をうけたが、指定入隊日までに帰国不可で召集免除の経験があったので、身につまされる思いで拝聴した。
これは、当時の軍尊民卑のいまわしい一挿話で、何故商船船員を悪役扱いにしなければならないのか理解しがたいところである。

元海軍大尉と激突
海保のある部署で元海軍大尉の某係長と所掌事務がらみで激論したことがあった。それは私の頭越しで、私の部下に対し、命令口調で○○はまだか?と詰問したので、私は、戦時中彼らにしいたげられた苦衷がむらむらと湧きあがり、結果部内会議で決着することになった。
相手は部長の信任が厚く、私は孤立無援のテーブルに着かざるを得ず、悶々の一夜の翌日対決することになった。私は戦時中の怨念で自説を頑固に主張して相手を追い詰め、幕を閉じたことはめでたしではあった。
実は、私がこの部署に赴任したのは年末の御用納めの日で、全く異例な発令だった。加えて通信所長官舎に入居できるものと思い込んで親子5人で着任したところ、前任者が体調不調の事由で居座り、新築早々の二間を当てられ、大いに困惑せざるを得なかった。
保安部長には予め所管事務と施設の改善の要を申告し了承を得ていたので、逐次その路線で改革に取り組んでいた段階で、上記不協和音が派生したので、部長の下問に対しては、
予め部長了承の筈と応酬したところ、これが実行は部内会議を経て実施するよう指示があったので前段の所掌事務介入案件も包括して、私の改善路線を会議に諮ったのであった。
とにかく腹案が会議で了承されたので、元大尉とも仲直りしたら「あなたの経歴は」と問われたので「商船」と答えたら「商船はつまらない」というので「何故」と尋ねたら「機関科士官でも作業服が油まみれだから」と言うので「職務柄、当然であること。商船は住み心地良し」と応酬したのであった。
それから間もなく年度末となり、私のセクションが機構改革でランクがあがり、私は閑職に内示された。予期せざる意外な展開に、人事当局への不信少なからざるものがあった。
やはり当局でも自責故か3月末に第二管区本部に配置替えを行った。その一週間後に該部署はスト―ブの不始末で全焼したことは、人生は何が幸いするか不透明であること。一体3ヶ月足らずの在勤は何なのか。一番の被害者は小学校通学の子供たちかも知れなかったかと回想される。
付記
本稿の元海軍大尉はすでに鬼籍に入られた。

2017年10月08日 (日) 10時05分


[934] 戦時遭難船員に対する処遇事例
From:菊池金雄 [/]

 レイテ作戦当時、マニラに一万人くらいの遭難船員がホテルやマンションに収容され、中にはダンスホールで空き室待ちを余儀なくした。これが管理は陸軍の停泊場司令部で最小限の衣服も支給された。
 海軍徴用船の場合は、軍の雑務にかりだされたとのこと。
 なぜこんなに大勢の遭難船員が集まったのかは、敵に制空権をうばわれたのに、しゃにむにレイテ作戦に増援部隊を投入したため戦没船が続発したことと、日本への帰還させる便船が僅少であったからである。

 一例だが、昭和19年10月25日、私の乗船、小型タンカー昭豊丸がスルー海で爆沈。運よく僚船に救助され。マニラ〜高雄経由で、散散苦労して門司に帰還したら、暁部隊から一流料亭を宿所にあてられ、長袖衣服(当時流行のカーキ色の国民服)が支給された。翌日の軍属解雇式で暁第2940部隊長が全帰還船員に木盃を配って謝辞を述べ、自宅までの切符も渡された。
 他方、海軍徴用船の場合・・・徴用船の戦没は軍秘とて、小人数ごとに分宿させられたとのこと。
 これらのマニラで待機の遭難船員中、各船の船長・機関長は軍の輸送機で空路帰国し、門司で自社船員を出迎えたケースもあるが、出迎えしかなかった例が多いのは会社側に帰還情報が無かったのではないかと思う。それは、私が帰郷途次、真っ黒な顔で会社に出向いても、誰一人から「ご苦労さん」の言葉が無かったことからも首肯できる。

 当時衣類が欠乏だったので、事後、この国民服は外出用に重宝だった。

2017年10月08日 (日) 06時21分







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