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「硝煙の海」談話室

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[932] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2017年10月06日 (金) 18時05分


[931] 痛恨録
From:菊池金雄 [/]

        H26 10 1     元戦時徴用船員 菊池金雄

 私の戦時記録は下記WEBで公開していますが、元船会社等から何等の慰労も無く痛恨至極です。
 おそらく他の戦時体験船員たちも同様かと思いますが、会社によっては、退職時に戦時勤務への謝意付言の例もあったようですが、私の場合は「単に永年勤続への謝意」だけでした。
 このことは、会社(大同海運梶jには、戦没した社船の一覧表だけしか無く、個々の船の戦歴皆無のためかと推察されます。
 何かご所見願います。

2017年10月06日 (金) 16時02分


[930] 気管支ぜんそく顛末碌
From:菊池金雄 [/]

加齢とともにあちこち不調傾向は致し方がないのであるが、趣味の謡曲発声時に「ぜんそく」症状に悩み、某大病院で受診して投薬するも改善なく。たまたま河北新報主催の「気管支ぜんそく講演会」で画期的新薬情報をキャッチ。ためしに近所の医院から入手して服用の結果、効能書き通り一週間後にピタリと改善したので、重い腰を上げて件の総合病院にこの薬を所望したところ・・・あなたは初期症状だからこの薬をださなかったと弁明。
 やっと処方箋を入手、薬局に出したら「所望の薬ではない」とのことで、主治医に電話確認の結果「書き間違い」(パソコンキーミス)とはナンセンス。ちなみにこの薬名は「アドエアです」。
 目下この薬のおかげで平常に余生消光はありがたい次第です。

2017年10月06日 (金) 14時55分


[929] 終戦直後の回想
From:菊池金雄 [/]

@神戸での空襲警報
 向日丸(むかひまる)が北鮮の羅津で、ソ連機の追撃から奇跡的に逃れ、終戦二日後の昭和二十年八月十七日に無事舞鶴に帰還。GHQの指令で無為に長期停泊を余儀なくしていたが、私は交代下船の根回しのため神戸の会社(大同海運)に十月七日出張し、一夜先輩の簗瀬氏宅にお世話になった。
 実は本船に乗船途次の五月十日も泊めていただき、翌朝辞去の折、簗瀬氏の奥様の妹さんが、私の同僚であるY君と新家庭を持ち、近所に居るから尋ねて見たらと助言があったので立ち寄ったことを思い出した。
 Y君とは初対面であるが、同じ職種なのでお互い知悉しており、玄関先で双方率直に心情を語り合い、私はすぐ船舶運営会に行き、乗船指令を受け、更に大同海運にも挨拶に回った。
 ところが・・・Y君が爆死したらしい・・・と言うので・・・それは変だ・・・私はさっき彼に会ったばかりだ・・・と、反論し、玉野ドックの向日丸に向かった。
 当時Y君も予備員の筈だが、明日は横須賀に電探講習のため出張するとのことで、向日丸配乗は私に回ったものと推察された。
 さて話を前段に戻すと・・・簗瀬氏の奥さんが私の顔をみるなり・・・菊池さんは運の良い方ですネ!・・・
と独語された・・・と言うことは、新婚のY君ご夫婦は空襲警報のため近くの防空壕に避難したのであるが、運悪く直撃弾で爆死なされたとのことであった。
 実は、私が船舶運営会に向かう途中、空襲警報のため近くのビルの地階に避難した記憶があり、或いはそのときの空爆かも知れず、若しY君と長話すれば一緒に避難したことであろう。
 今思うと、生前Y君ご夫婦に会ったのは私が最後のようで、切にご冥福を念ずるばかりである。

A山陰線脱線事故
 前記用事後の翌日、舞鶴に戻るため京都から山陰線に乗り継ぎ豪雨下を走行中、綾部の手前辺で列車がガックンと急停車した。私は前から二両目客車だったが、一両目の乗客が・・・命拾いした、と言って移乗してきた。 原因は機関車と一両目が脱線・・・機関車は右崖下の濁流に落下。幸い一両目客車は脱線しても連結のままで人命に異状なく、一夜現場に停車し、翌日救援車で綾部方面に向かった。
 この事故について最近「あやべ市民新聞社」に事実関係を問い合わせたところ
○ 多分、昭和二十年十月七日から九日にかけて襲った「阿久根台風(台風20号)」と思うこと。
○十月八日、京都発〜福知山行きの山陰線旅客列車が山家―綾部間で山崩れのため機関車が由良川に転落して、機関手、助手ら四人行方不明となったこと。
が確認できたことは、ひとえに前記新聞社のご好意と感謝したい。
また、この事故以来なるべく後部車両に乗る習慣が身についたように思う。


2017年10月05日 (木) 16時18分


[928] 大同海運物故者追悼法要に第八十二号海防艦代表者参列の意義
From:菊池金雄 [/]

  平成20年10月    拙著「硝煙の海」の資料収集過程で向日丸を護衛した海防艦が第82号海防艦で、森武艦長が、かつて海上保安庁に勤務していたことが判明したので様々追跡の結果、平成14年に物故されたが、同艦長の手記「葉隠れに生きる」があるとの情報が、元同艦隊員の横見氏から電話があった。色々情報交換して同艦長の手記を拝借のうえ、拙著の欠落文脈に参考にさせていただいた。また、毎年同艦の慰霊祭が、同艦沈没日の8月10日呉の海軍墓地内の同艦慰霊碑で挙行しているとのことなので、平成14年8月10日、同艦戦友とともに参列。幸い地元の中国新聞が取材して翌11日の記事に載ったこともあった。
 海防艦側から向日丸OBの集いがあったら是非当時のお礼を述べたい、との申し出があったが船会社には船単位の会合が無い旨を伝えたら、生き残り乗組員に会ってお礼したいとのことで、一度大阪在住の方を紹介したら重病で対面できなかった。(間もなく死去)
 しかるところ10月26日の大同海運物故者追悼法要のことを漏らしたら、是非参列して亡くなった西船長以下乗組員に救出謝意のことばを奉納したいとの申し出があった。
 大同海運は他社と合併を重ね、ジャパンライン〜ナビックスラインと変遷、現在は商船三井に吸収された。また、大同の社史には自社船の戦時喪失一覧表だけで個々の船の戦時記録が無いため、拙著の資料収集に難儀の末何とか上梓し、友人を介し大同OBに数冊配布しただけで大半の方の目に触れていないことと、参集するOBは向日丸とは無縁の方ばかりなので、生き証人のひとりとして配布資料を携行して馳せ参じ、自身の高齢柄、神戸の姪、京都の大学生の孫、熊本から次男のサポートを得て様々根回しのうえ歴史的な祭事を無事終えた訳である。
 ここに、横見氏のご参列、および大同海運OB各位並びに宮道幹事にお礼を申し上げるとともに、わざわざ東京から取材に駆けつけ、近刊「戦時船員たちの墓場」第六章に収録くださった土井全二郎先生にも感謝を申し上げたい。

          光人社NF文庫
戦時船員 たちの墓場―消耗品となった  補給路の旗手たち 土井 全二郎【著】
光人社 (2009/01/13 出版) 価格: ¥689

2017年10月05日 (木) 14時38分


[927] 八木アンテナ
From:菊池金雄 [/]

42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。

2017年10月05日 (木) 10時51分


[926] 魔のバシー海峡突破〜浜辺の歌
From:菊池金雄 [/]

(小型タンカー昭豊丸の章抜粋)
約一ヵ月後の深夜、突然の指令で海軍の徴用船、和洋丸(約三千トン)で台湾の高雄まで便乗することになった。十二月一日午前十時半頃--和洋丸・萩川丸の二隻船団は、三隻の護衛艦に守られてマニラ港をあとにした。そして、翌日の午後三時頃--船団はサンフェルナンド港に仮泊--十二月三日朝、高雄向け抜錨した。敵は、日本の重要なシーレーンであるバシー海峡に多数の潜水艦を配備して虎視眈々と獲物をねらっているものと推測された。北上してまもなく、北よりの季節風が強まり--船団の速力は十ノット(時速十九Km)から三ノット(時速六Km)に落ちた。翌四日も荒天--各船は終日難航した。その夜和洋丸は、バシー海峡中央部にある、サブタング水道に辛うじてすべり込み仮泊した。しかし僚船萩川丸と護衛艦を見失なってしまった。終夜--僚船と護衛艦を待ったが遂に合流できず、荒天のためか、または敵襲で消えたものか分からなかった。十二月六日午前七時半--和洋丸船長は悲壮な決断。単独で魔のバシー海峡突破を強行しなければならなかった。ただ一つの頼みの綱--高雄海軍基地からの航空機による支援--接触できなかった。午後になって、北西の季節風がしだいに強まる--夕刻には風速二十メートル以上の暴風雨--速力が五ノット以下になった。敵潜側は、荒天下の攻撃は至難であったものか、幸運にも和洋丸は敵の網をくぐりぬけ--十二月七日午前十時無事高雄に入港することができた。 (海上平穏なとき、和洋丸船内に「浜辺の歌」のメロデーが流れる--以来この曲を耳にすると、魔のバシー海峡がまぶたに浮かぶ
追記;その後私たちは高雄で便船を待って12月31日 クライド丸に便乗。 パレンバン丸と船団を組み 翌年の1月8日夕刻無事門司に帰還しました。

2017年10月04日 (水) 16時25分


[925] 喪失商船と戦没船員数の推移
From:菊池金雄 [/]

喪失商船と戦没船員数の推移
(年/年度)喪失商船(隻)戦没船員(人)
1941     9   1,455  
1942   204   2,830  
1943   426   7,608  
1944 1,009  25,801  
1945   746  22,849  

出典;平成18年8月13日 中日新聞サンデー版 世界と日本 大図解シリーズ

2017年10月03日 (火) 15時35分


[924] 90%が戦没した第1次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]

戦時標準船(戦標船)は戦争の拡大に対処するため、昭和17年に第1次戦標船の建造計画が策定された。太平洋戦争開戦当時、継続していた造船計画は建造中94隻36万総トン、未起工が187隻70万総トンあった。新たな戦標船建造の目的は大量建造、工期の短縮、資材の節約などであり、従来の建造計画や標準船型を大部分で踏襲し、鉱石船や油槽船を加えた計画であったが、工期も長く効率が悪かったため、 部品や材料の規格統一化、工事の簡素化により増産を図り、ある程度の性能低下が容認された。
  これ等の第1次戦標船は185隻が建造されたが、ミッドウエー海戦のころから米軍の反攻が激化し、船舶の損失が想像を超えて増加し、第1次戦標船は90%が戦没し、戦後に生き残った船舶はたった11隻であった。
  船舶の大量損失を補うため、昭和18年に第2次戦時標準船建造が計画された。その骨子は、@急速大量建造を行うA資材、工数を節約し、かつ輸送力を増大させるB諸設備は必要最小限にとどめるC耐用年数への考慮や、運行能率並びに航海安全性能を低下させても、徹底的に規格の簡易化を図る。これによって船体用鋼材を20〜25%方節約するなど、戦争遂行のため安全性能や耐用年数を犠牲にしても、大量の船舶建造を目指したものであった。
  この徹底した簡易化の対象は、二重底の廃止、隔壁の一部廃止、航行や安全のための設備、機関部・居住設備等の徹底した簡易化であった。そのため建造期間が極端に短縮されたが、その最たるものがE型船であった。
  第2次戦標船では、徹底した簡素化により大量建造を目指したが、低速力・低性能で運航効率が悪く、特に敵に攻撃されやすく、事故も多かったから、第3・4次戦標船の計画では、大型化・高速化船の建造を目指したが、資材も技術者や労働力も枯渇して、終戦までに3次船が5隻だけ建造された。


 1カ月で完成の2E型戦時標準船

  第2次戦標船は、徹底した簡素化により、短期大量建造を目指した。その中で、特にE型船(改E型ともいう)の建造方針は、@簡易造船所を新設して充てるA造船技術者や熟練工員を多く要しないで建造できるよう設計・工作を考慮し、労務員の主力を囚人労働者で充足するB厚鋼板供給能力の不足を補うため、 使用鋼板規格及び寸法を低下させ、従来造船材を生産しなかった製鉄会社も利用するC機関不足に対しては、新たに主機工場として中小工場を利用するほか、機関の種類も、レシプロ、ディーゼル、焼玉等入手できるものはすべて利用するーなどというものであった。
  新しく作られた改E型専門の簡易造船所は既存の4造船所が所管し、それぞれの創意によって、一流れ方式とか、ブロック組み立て方式、ソロバン船台流れ作業方式など、異なった方式で建造が進められた。
  改E型は着工から完成までが1カ月という猛スピードで、毎日新造船が完成する有様であったが、軍の命令で受け取った新造船が、水漏れが激しいためすぐに乾ドックに入れて修理する程の、低速の粗製乱造船であった。
  船舶の大量喪失の中で油槽船が逼迫し、この改E型貨物船を油槽船に改造することとなり、これを「ET型」と呼び、終戦までに149隻が建造された。貨物船として設計されたものを「油槽船」に改造したため、タンカーとしての性能が低く危険の多い船であった。E型はもともと国内航路用に設計された船であったが、シンガポールなど南方からの石油積み取りに使用され、戦没した船も多く、戦後海外で連合軍に接収された船も20隻を超えている。
  生き残った第2次戦標船で、戦後主機換装や二重底に改造して船級を取得した船は、昭和38年頃まで稼動したが、昭和25年の「低性能船買い入れ法」により政府に売却され、28・9年の新造船建造の引き当て船として解体された。

2017年10月03日 (火) 14時23分


[923] 太平洋戦争終結の日の早朝に 米軍機が京都に投下したビラ
From:菊池金雄 [/]

http://www.asahi-net.or.jp/~uk9o-tkzw/brindex.html

2017年10月02日 (月) 19時32分







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