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「硝煙の海」談話室

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[922] 大同海運物故者追悼法要に第八十二号海防艦代表者参列の意義
From:菊池金雄 [/]

                    平成20年10月   菊池金雄
 拙著「硝煙の海」の資料収集過程で向日丸を護衛した海防艦が第82号海防艦で、森武艦長が、かつて海上保安庁に勤務していたことが判明したので様々追跡の結果、平成14年に物故されたが、同艦長の手記「葉隠れに生きる」があるとの情報が、元同艦隊員の横見氏から電話があった。色々情報交換して同艦長の手記を拝借のうえ、拙著の欠落文脈に参考にさせていただいた。また、毎年同艦の慰霊祭が、同艦沈没日の8月10日呉の海軍墓地内の同艦慰霊碑で挙行しているとのことなので、平成14年8月10日、同艦戦友とともに参列。幸い地元の中国新聞が取材して翌11日の記事に載ったこともあった。
 海防艦側から向日丸OBの集いがあったら是非当時のお礼を述べたい、との申し出があったが船会社には船単位の会合が無い旨を伝えたら、生き残り乗組員に会ってお礼したいとのことで、一度大阪在住の方を紹介したら重病で対面できなかった。(間もなく死去)
 しかるところ10月26日の大同海運物故者追悼法要のことを漏らしたら、是非参列して亡くなった西船長以下乗組員に救出謝意のことばを奉納したいとの申し出があった。
 大同海運は他社と合併を重ね、ジャパンライン〜ナビックスラインと変遷、現在は商船三井に吸収された。また、大同の社史には自社船の戦時喪失一覧表だけで個々の船の戦時記録が無いため、拙著の資料収集に難儀の末何とか上梓し、友人を介し大同OBに数冊配布しただけで大半の方の目に触れていないことと、参集するOBは向日丸とは無縁の方ばかりなので、生き証人のひとりとして配布資料を携行して馳せ参じ、自身の高齢柄、神戸の姪、京都の大学生の孫、熊本から次男のサポートを得て様々根回しのうえ歴史的な祭事を無事終えた訳である。
 ここに、横見氏のご参列、および大同海運OB各位並びに宮道幹事にお礼を申し上げるとともに、わざわざ東京から取材に駆けつけ、近刊「戦時船員たちの墓場」第六章に収録くださった土井全二郎先生にも感謝を申し上げたい。

          光人社NF文庫
戦時船員たちの墓場―消耗品となった  補給路の旗手たち 土井 全二郎【著】
光人社 (2009/01/13 出版) 価格: ¥689

2017年10月02日 (月) 14時32分


[921] 隠された新鋭艦酒匂(さかわ) ビキニ環礁で沈没
From:菊池金雄 [/]

http://www.dance.ne.jp/maizuru/bay/sakawa.html
 舞鶴で造られた2等巡洋艦「酒匂(さかわ)」は全長200mの新鋭艦でした。
酒匂は佐波賀の岸壁に繋がれ、出番が来るまで隠されていました。
佐波賀の山の斜面から大きな網で艦全体をすっぽりと覆って、まるで山の一部の様にカモフラージュされていました。
グラマンの空襲の時も発見されず無傷で残りましたが、一度も参戦することなく終戦となりました。
 その後酒匂はアメリカ軍によってビキニ環礁の水爆実験に使われ沈んでしまいました。

2017年10月02日 (月) 12時49分


[920] 能における「発声」の効用
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。

では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。

丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。

また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。

一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。

参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2017年10月01日 (日) 15時47分


[919] 戦時商船運航の実態 その1
From:菊池金雄 [/]

 私は昭和19年4月10日 石川島播磨造船所で、工期35日で建造の戦時標準2ET型タンカー昭豊丸(880トン)に乗船、近海に就航したら漏水するような粗製乱造の船だった。一応ドックで補修後、陸軍徴用船となり、単船でシンガポール(当時、昭南島と呼称していた)派遣が下命された。
 単船で台湾の台北経由、マニラに向かった。幸いバシー海峡も空船のためか敵潜に襲われず無事マニラに到着。当時、同港には大型商船隊が在泊していて兵站基地の威容があった。
 マニラの暁部隊から、シンガポールでなく、ボルネオのミリ〜マニラ間油送に変更指令を受け、またまた単船でミリに向かった。
 ミリでは沖がかりのまま油送管でC重油を搭載、老朽タンカー共同丸(1000トン)と二隻船団に陸軍の護衛船(中国の拿捕船)が同航してマニラに向かったが、スルー海で該護衛船から、昭南島でドック入りすると称して護衛を中断する旨通告されたので、両船側は護衛なしでは続行至難と抗議したら、航空機の間接護衛をさせる旨を返答したので、一夜パラワン島北辺で仮泊。翌朝抜錨〜朝食中に爆音がしたので味方航空機と思ったら敵の哨戒機が襲ってきたので、船橋楼の14、5ミリ機銃で必至に警乗の海軍兵が応戦したため敵機は高度から爆弾投下・・・ドカドカーンと船体が一瞬浮き上がり、エンジンストップ。二発目の至近弾で船体が亀裂・・・沈下のため、船長が「総員退船」を下命・・・甲板部員はすばやく救命艇を降下・・・沈没寸前に全員移乗したら、敵機は救命艇への機銃掃射態勢に入ったので・・・船長が「各自泳ぎながら散開せー」の指令がとぶ。
 同航の共同丸は船首楼に陸軍の野砲を装備していたので難を逃れ・・・敵機退散後我々を救助・・・近くのブスアンガ島コロン陸軍基地に揚陸してくれた。
 数日後、南洋鉱業の日南丸に便乗してマニラに移動。マニラ湾在泊の商船隊はすべて沈没・・・マストが林立していた。
 当時、レイテ作戦の最中で、マニラには多数の遭難船員が溢れて収容マンションが満杯のようだった。

 今日 往時を回顧してみる
@小型船の単独行動は敵側の戦火で沈没しても救助の手段が無く、陸軍は船舶の運航について無知であったと断じたい。
Aスルー海での護衛中断は当時の戦局から無謀であり、陸軍機での間接護衛の言質は欺瞞であったと思う。
B 当時の戦局を概観してみると、若し昭豊丸がこの地点を無事通過してマニラ方面に向かったと仮定してみると、共同丸同様の戦火を浴びたと思われるので、むしろ波穏やかなスルー海での爆沈は幸運ではなかったかと回想される。

2017年09月30日 (土) 16時40分


[918] 難民の記を読んで
From:菊池金雄 [/]

         元大同海運褐日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

はじめに
 福地さんと私の間接的な接点は、羅津でソ連機から電撃的猛爆撃の洗礼をうけたことにあります。当時向日丸は内地向け穀物類を搭載のため第一埠頭に着岸していました。何しろ不意打ち空襲のため在港商船隊は貧弱な搭載火器で応戦するのが精一杯でした。
 本船警乗の海軍警戒隊員負傷者は次々と陸軍病院(満鉄病院)に移送。西船長も頚部負傷で移送するとともに、当時病臥中のO通信士も緊急入院の形で船外に退避させ人命安全策を講じたのですが、船長だけは応急手当のうえ帰船〜羅津脱出〜終戦2日後の8月17日奇跡的に無事舞鶴に帰還するも、O通信士の消息を追跡の結果8月10日羅津で戦没したことが判明。往時の安全策が裏目となったことは遺憾の極みです。
 当時船側では陸上の動向を把握不可のため種々情報収集中のところ、「羅津」が縁で電子メールでの福地さんと接触結果、様々な情報の提供があり空白記録を補完させていただいているところです。
 この度「難民の記」を上梓なされたことは、この方面の戦時記録を補強する貴重な文献でありますので拙い感想を述べさせていただきます。

序について
 著名人お二人のコメントは本書を遺憾なく評価しているものと思います。

各章について
 羅津港の誕生と終焉は私の最大関心事で、今日まで種々文献を調べましたがこれほど明解に記述されたものはありませんので大変参考になりました。
 北鮮三港の沈没船=この見取り図は貴重な記録で、向日丸は抜けていますが、元船友の証言では第一埠頭に接岸のようで、被弾を免れた強運と老練な西豊船長[60歳]の手腕および海防艦82号の自艦犠牲による護衛で生き残ったものと確信しています。

羅津〜撫順間の苦難に満ちた避難
 当時船側では陸上の状況は皆目関知できませんでしたので、改めて海陸とも敵襲から脱出のため生死の狭間をさまよっていた事実を再認識させられました。

私の原風景
 ご家族やご親族のこと、特にご尊父が厳しく教育された反面、母上が優しく養育された様子は微笑ましく、
著者の生い立ちの原風景景から、長男としての今日〜羅津若草会等のお世話等々様々な奉仕精神に敬服いたしました。
 また、多数のグラビアには幼少時代からのものから最近のスナップまで網羅し、自伝としての真価を包含した力作に感心いたしました。

付記
 私がS15年1月恵昭丸での**航海で清水港に帰港したとき、沖あいから明峰富士の遠望は鮮明に脳裏に刻まれています。
 また、私は戦時中5隻の貨物船やタンカーに乗り組みましたが、生き残ったのは向日丸だけで他の4隻は戦没(内3隻は交替後沈没)しています。
 目下公開中のホームページは今月アクセスが5万台となり、改訂版を夢見ていますが?

2017年09月29日 (金) 19時07分


[917] 随想
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2017年09月29日 (金) 15時55分


[916] 建日丸の最後 追跡情報
From:菊池金雄 [/]

 林銀次郎元通信長の手記
 私は昭和十八年十一月、日本重工業富山造船所で建造の戦標D型船、建日丸(1938総トン)に乗船。尾道の向島ドックで機関砲装備の噂から、また前線派遣が判明した。
 同船は、陸軍御用船として広島宇品の停泊司令部付となりパラオに行き、その後前線に派遣されることになっていた。
 パラオで三日停泊し、さて出港となるもエンジンが作動せず、陸軍の修理班がきて、やっと直った時には、すでに代船が前線に向かった。このため軍命により、郵便物を積んで宇品に帰港し、私は社命により交代。後任は結婚早々の若い通信長であった。
 その後の建日丸の行動について生存者の証言によると、同船は比島で鉱石を満載して内地向け帰航中の昭和十九年六月二十四日、長崎県野母埼灯台が見えたので安心.久方ぶりに寝巻きを着て寝た途端の十一時頃に潜水艦の攻撃をうけ、一瞬の間に沈没したという。
 生存者の一人は、救命ブイを着けたまま沈む船に巻き込まれ、数回海水を飲みながらも浮上し、幸い救出されたとのことである。
 (会社の記録=戦死三十七名 生存者十六名)

 駒宮真七郎著 戦時輸送船団史参照
 建日丸は昭和十九年六月三日一〇〇〇シンガポール発の船団(輸送船十九隻、護衛艦五隻)で門司に向かったが、六月六日二二二五頃、サンジャック南東三〇〇キで、第十五号海防艦が雷撃をうけ沈没した。
 十一日一六〇〇マニラに入港し、第八号海防艦はマニラで分離。十四日一三三〇高雄に向かい、十八日〇九一五高雄入港。二十日一〇〇〇出港し、基隆に寄港。二十一日出港し、門司に向かった。このときの船団は十一隻で、八隻は寄港先で分離した。
 船団はいよいよ最後のコースを門司に向け航行し、やがて二十四日二三五四、長崎を目前にした野母崎南西二十キロに達した時、予期せざる雷撃を受け、那須山丸(三井船舶、四三九九総トン)、玉鉾丸(会陽汽船、六七八〇総トン)、台南丸(大阪商船、三一七五総トン)、建日丸(大同海運、一九三九総トン)が、相次いで被雷沈没した。
 船団が攻撃された位地は、北緯三二−二四 東経一二九−三八の天草灘で、それまで防御海面といわれた安全地帯で四隻が撃沈されたことは、あまりにも衝撃的であった。
 ちなみに、四隻を攻撃した潜水艦はタングで、米潜水艦中の猛者である。

2017年09月22日 (金) 14時01分


[915] 戦禍の海に消えた命
From:菊池金雄 [/]

☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員 「ニュース(35400)」

 毎日新聞の皇室記事に天皇、皇后両陛下:紀宮さまと「戦没船員の碑」に供花と掲載されていた。「ふーん、そんな石碑が観音崎にあったんか」と「戦没船員の碑」について調べてみた。その結果、皇室のメンバーは「慰霊」もお仕事、こんな細かい慰霊まで参加するのかと軽く考えていたワタクシが浅はかだったと痛恨。
 今まで「戦没船員」そのものについてほとんど知らなかった。戦時中、民間人が軍の徴用で犠牲になった話を知らないわけじゃない。航行中の民間船舶が米艦の攻撃で沈められた事件は書物やニュースで知っていたけれど「戦没船員」がこれほど多く犠牲になっていたとは・・・・今は胸が塞がれる想いだ。
 日本殉職船員顕彰会のホームページを開くと「わが国の海運・水産業は、太平洋戦争において軍人の損耗率( 戦争に参加した員数と戦死者の比率) を上回る6万余人の戦没船員と、膨大な船舶の喪失による日本商船隊の壊滅という大きな犠牲を払った。」と太平洋戦争の犠牲になった戦没船員のデーターが詳細に掲載されていた。

 もっとも気になったのは「軍人の損耗率を上回る」を証明するデーターだった。これによると、同時期の軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43%。 戦没船員の多くは軍に協力させられた輸送船団の乗組員、そのため兵士でもないのに多くの戦死者を出している。それがいかに苛酷な犠牲だったか「戦没船員の年次別戦死者数」の統計を見ると一目でわかる。と同時に、無謀な日本軍の戦略が多くの民間人を道連れに殺したかも。

 敗戦が目に見えていた昭和19年〜20年の戦死者が約4万7千人、全体の戦死者の8割に相当する。さらに「戦没船員の年齢別分布」を見ると、口では言い表せない怒りを感じる数字がある。14歳から19歳までの少年船員の死者数が全体の3割以上を占め、その数1万9千人余り。

 「戦史に残る船員と輸送船の悲劇」では民間船員たちが戦闘に巻き込まれ、挙げ句の果て、日本軍からもお荷物扱いされた残酷極まる史実が掲載されていた。
昭和17年8月から7ヶ月におよんだガダルカナル島の奪回作戦は、ソロモン群島方面の制空・制海権を確保するために彼我の死闘が展開された、まさに太平洋戦争の天王山であった。
この作戦もその中心は、上陸部隊への増援、補給であった。
そのため、この輸送作戦には、わが国が誇る高速輸送船で船団が編成され、2回にわたる強行輸送が実施された。しかし、敵の反攻は、とくに航空機によって熾烈を極め、その多くが目的を達することなく撃沈された。
なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。
 戦没船員は漢字でたった4文字だが、その4文字に戦争で奪われた6万人以上の船員の命が埋め込まれている。その埋め込まれた犠牲をワタシは今まで見過ごしていたのだ、知らなかったのだ。

 元、海上保安庁に勤務されていた菊池金雄氏は戦没船員の惨状を見てきた生き残りの一人だった。菊池さんも当時は民間海運会社の乗組員、軍に輸送船団として船事徴用され、敵艦の砲弾をくぐり抜け、奇跡的に生き延びた体験を持つ。
 その体験を私たちに知らしめるため、「陸・海軍徴用船乗組員の記録」として「硝煙の海」の著書に書き綴っている。あとがきにある菊池さんの慟哭の願いを継承したいと思う。この記録を読むと、靖国神社の戦没者を祀る傲慢さがより鮮明になる。真の慰霊よりポーズ優先、首相の参拝が薄っぺらく見える。
「硝煙の海/あとがき」より

横須賀市の観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に祀られている、第二次大戦中に戦没した六万余人の船員仲間の無念を思うと、痛憤に堪えない。

この戦没者数は、陸海軍の戦死率より高率である。それは日本海軍が艦隊決戦一辺倒の偏った用兵思想から。シーレーン保護について極めて冷淡であったからで、このため裸同然の兵站輸送船が、敵の潜水艦や航空機の餌食となり、多くの船や船員がいたずらに犠牲を強いられたからである。その結果、逐次南方占領地からの戦略物資の還送が意のごとくならず、特に石油の枯渇が敗因のひとつであると、戦史でも指摘されている。

これら輸送船の苦難の真相は「慟哭の海」に詳しく叙べられているが、私の乗った輸送船二隻の臨戦体験からも、軍の船舶保護のずさんな対応を指摘しておいた。

しかし、陸、海軍の軍人一人ひとりが祖国のため勇敢にその本分を尽くしたことに対し敬意を表することは当然であり、武運拙く戦死された多くの軍人のご冥福を念じてやまない。

〜中略〜


したがって、わが国は輸出入国との友好関係と、シーレーンの安全確保を、最優先の国是としなければならないことを、国民一人ひとりが肝に銘じ、二十一世紀は二度と国家・国民を破滅させるような、過去の非民主的な政治があってならないことを子孫への遺言としたい。
なお、「戦時徴用船遭難の記録画展」が名古屋市民ギャラリー矢田で来年開催されるそうだ。

2017年08月27日 (日) 16時47分


[914] 現職当時の回想
From:菊池金雄 [/]

戦没船員の碑 余禄
この碑の存在は、羅津で別れた向日丸小川次席通信士の消息を追跡中に偶然把握し、平成11年5月15日の第29回追悼式に、はじめて参列した。
実は殉職船員顕彰会からの案内状を読み違えて、JR横須賀駅まで送迎バスがくるものと思い込んでうろうろしていたら、幸いK社OBに出会い、開式に遅れるおそれがあったので彼とタクシーで観音崎に向かい、辛うじて定刻に間に合うというハプニングがあった。
もちろん彼とは初対面であるが、自社の船に乗組中海軍に召集され、入隊した途端「貴様は商船船員」かと、散々しごかれた悔しさを私に白状した。実は私も開戦直前北米から帰航中,太平洋のど真ん中で陸軍入隊の召集をうけたが、指定入隊日までに帰国不可で召集免除の経験があったので、身につまされる思いで拝聴した。
これは、当時の軍尊民卑のいまわしい一挿話で、何故商船船員を悪役扱いにしなければならないのか理解しがたいところである。

元海軍大尉と激突
海保のある部署で元海軍大尉の某係長と所掌事務がらみで激論したことがあった。それは私の頭越しで、私の部下に対し、命令口調で○○はまだか?と詰問したので、私は、戦時中彼らにしいたげられた苦衷がむらむらと湧きあがり、結果部内会議で決着することになった。
相手は部長の信任が厚く、私は孤立無援のテーブルに着かざるを得ず、悶々の一夜の翌日対決することになった。私は戦時中の怨念で自説を頑固に主張して相手を追い詰め、幕を閉じたことはめでたしではあった。
実は、私がこの部署に赴任したのは年末の御用納めの日で、全く異例な発令だった。加えて通信所長官舎に入居できるものと思い込んで親子5人で着任したところ、前任者が体調不調の事由で居座り、新築早々の二間を当てられ、大いに困惑せざるを得なかった。
保安部長には予め所管事務と施設の改善の要を申告し了承を得ていたので、逐次その路線で改革に取り組んでいた段階で、上記不協和音が派生したので、部長の下問に対しては、
予め部長了承の筈と応酬したところ、これが実行は部内会議を経て実施するよう指示があったので前段の所掌事務介入案件も包括して、私の改善路線を会議に諮ったのであった。
とにかく腹案が会議で了承されたので、元大尉とも仲直りしたら「あなたの経歴は」と問われたので「商船」と答えたら「商船はつまらない」というので「何故」と尋ねたら「機関科士官でも作業服が油まみれだから」と言うので「職務柄、当然であること。商船は住み心地良し」と応酬したのであった。
それから間もなく年度末となり、私のセクションが機構改革でランクがあがり、私は閑職に内示された。予期せざる意外な展開に、人事当局への不信少なからざるものがあった。
やはり当局でも自責故か3月末に第二管区本部に配置替えを行った。その一週間後に該部署はスト―ブの不始末で全焼したことは、人生は何が幸いするか不透明であること。一体3ヶ月足らずの在勤は何なのか。一番の被害者は小学校通学の子供たちかも知れなかったかと回想される。
付記
本稿の元海軍大尉はすでに鬼籍に入られた。

2017年08月19日 (土) 15時31分


[913] ラバウル航空戦
From:菊池金雄 [/]

http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t211.html

2017年08月17日 (木) 12時47分







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