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「硝煙の海」談話室

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[912] 向日丸(むかひまる)関係戦記
From:菊池金雄 [/]

2009年1月 光人社NF文庫より発売された、土井全二郎著「戦時船員たちの墓場=消耗品となった補給路の旗手たち」http://www.bk1.jp/product/03073427
第六章「ソ連軍機との戦い」に、終戦間際、北鮮北東岸海域でのソ連雷撃機からの追撃を奇跡的に逃れた向日丸(むかひまる)関係戦記の一部が収録されたことから、第82号海防艦関係者から次のようなコメントが寄せられました。

@森武艦長のご親戚から
同艦の慰霊碑に参拝したいので所在場所を教えて欲しい。
回答;呉の海軍軍墓地の一角にあります。

A私の祖父は第82号艦の生き残りの一人で、間もなく90歳になる が最近になってから当時の体験を話すようになった。

B同海防艦幹部ご遺族から
「ソ連軍機との戦い」の項を何度も読み返しました。ご苦労されました先人たちのことを勉強し直し、無用な戦争がこの地球の中から消えるようになってほしいものです。

2017年08月13日 (日) 18時58分


[911] 海防艦82号の縁者出現
From:菊池金雄 [/]

拙著「硝煙の海」85ページ「海防艦82号の勇戦」関連の縁者出現・・・

  このサイトを拝見させていただきました木下と申します。
私の大伯父は先の大戦で戦没しているのですが、どこで亡くなったかどうかが
わからず、親戚の「ヤマトの護衛艦」というわずかな情報から呉、靖國神社など
の慰霊碑を探しておりました。
 そして予期せず正月に祖母の遺品整理をしていた叔父が第82号海防艦の慰霊碑
建立の知らせという古い手紙を見つけました。そこからこのサイトを見つけるこ
とができ、大伯父の戦没時の詳細を知ることができました。本当にありがとうご
ざいます。
戦後70年の年に見つかることも偶然かとは思いますが、慰霊祭が行われるとい
う8月10日に時間が作れれば、呉へ赴こうと考えております。
このサイトがなければ私自身もルーツも何も知らぬままでした。本当にありが
とうございます。

2017年08月11日 (金) 16時03分


[910] 第八十二号海防艦について
From:菊池金雄 [/]

第八十二号海防艦は第二号型海防艦の1艦である。
日本海軍の海防艦は、昭和初期までは旧式となった戦艦、巡洋艦などが、この艦種に充当されており、軍艦に類別されていた。 日本海軍が海防艦の新造計画を持ったのは1931年(昭和6年)の第一次補充計画が最初で、従来と異なる北方警備用の小型艦(1,200トン級)であった。 しかし、このときは予算が成立せず、1937年(昭和12年)の第三次補充計画にいたって、ようやく建造された。 このとき建造されたのが占守型海防艦で1941年(昭和16年)3月までに4隻が竣工した。 主要目は基準排水量860トン、速力19.7ノット、12cm単装砲3基、爆雷投射機1基、爆雷18個で、北方行動用に補助缶を装備していた。
開戦直前に、この種の護衛艦不足に気付いた日本海軍は、昭和16年度戦時建造計画(マル急計画:○の中に急)で30隻の海防艦を計画した。 このうち14隻が擇択型で、占守型をわずかに改正し、艦橋、上構、艦首尾の直線化、爆雷搭載数の増加(18個→36個)等を実施したものであったが、北方行動用に補助缶は残された。 本型の対潜・対空能力は、その後の戦況を考えると不十分なものであった。 マル急計画で計画された残りの16隻は、択捉型をさらに改設計した御蔵型である。 主砲を12cm高角砲3門(連装1基、単装1基)に改め、爆雷投射機を2基、爆雷搭載数を120個として、対潜・対空能力を強化したものであった。また、北方行動用の補助缶も廃止されている。 しかしながら、船体の簡素化は徹底しておらず、量産性に欠けるものであった。 このため、御蔵型の建造は8隻で打ち切られ、鵜来型の建造に移行した。
鵜来型においては、船型、艤装の徹底的な簡素化を実施し、曲線部分を平面化した設計を行った。 また、電気溶接を大幅に用い、ブロック建造法を採用、これにより平均建造期間が御蔵型の9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。 兵装面では、掃海具を装備せず、従来の爆雷投射機を2基に加え三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、対潜攻撃能力を大幅に向上させている。 尚、計画艦のうち9隻は御蔵型と同様の爆雷装備とした日振型して完成している。
1943年(昭和18年)に入って船舶被害が増大すると、海防艦の増勢が求められた。 これにより従来艦よりも量産性の高い艦が必要とされ、第一号型と第二号型海防艦が計画された。 艦型を小型化かつ簡略化し、兵装は12cm単装高角砲2基、三式爆雷投射機を片舷6基(計12基)と減少したが、爆雷搭載数は120個のままとしている。 機関は第一号型は艦本式23号乙8型ディーゼル機関2基としたが、第二号型では機関の製造能力の問題から、航続力の低下をしのびホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基と艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基とされた。(2)
要目(3)(4)
新造時
艦種海防艦
建造所三菱重工業長崎造船所
基準排水量740トン
公試排水量900トン
垂線間長65.00m
水線長68.00m
水線最大幅8.60m
喫水3.05m
主機艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基、1軸
主缶ホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基
出力2,500馬力
速力17.5ノット
燃料重油:240トン
航続力14ノットで4,500浬
乗員141名
兵装45口径十年式12cm単装高角砲2基
九六式25mm3連装機銃2基
九六式25mm単装機銃4基
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
二式爆雷120個
その他
艦歴(5)
年月日履歴
1944年(昭和19年)9月6日起工。
1944年(昭和19年)11月18日進水。
1944年(昭和19年)12月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1945年(昭和20年)1月3日佐世保発。
1945年(昭和20年)1月4日佐伯着。 訓練開始。
1945年(昭和20年)2月1日佐伯発。 豊後水道南方行動。
1945年(昭和20年)2月15日第一護衛艦隊付属。
1945年(昭和20年)2月16日門司発。 モタ38船団と基隆に向かう。 泗礁山泊地に仮泊
1945年(昭和20年)2月21日泗礁山発。
1945年(昭和20年)2月23日基隆着。
1945年(昭和20年)3月3日基隆発。 タモ47船団と門司に向かう。
1945年(昭和20年)3月5日泗礁山着。
1945年(昭和20年)3月6日1435船団と泗礁山発。
1945年(昭和20年)3月11日六連着。
1945年(昭和20年)3月12日呉に回航。 整備修理、休養。
1945年(昭和20年)3月26日呉発。 門司に回航。 待機。
1945年(昭和20年)4月1日門司発。 済州島兄弟島を停泊地として対潜掃蕩に従事。
1945年(昭和20年)4月25日第百二戦隊に編入。
1945年(昭和20年)6月1日山東半島石島湾着。 待機。
1945年(昭和20年)6月11日石島湾発。 船団を護衛して門司に向かう。
1945年(昭和20年)6月17日船団と六連着ののち、佐世保に回航、入渠修理。
1945年(昭和20年)7月5日第百二戦隊は解隊。 第二海防隊に編入。
1945年(昭和20年)7月15日佐世保発。 対馬・浅茅湾着、待機。
1945年(昭和20年)8月1日隠岐の島着。 仮泊待機。
1945年(昭和20年)8月5日隠岐の島発。 船団を護衛して元山に向かう。
1945年(昭和20年)8月6日元山着
1945年(昭和20年)8月8日元山発。 同日、城津着。
1945年(昭和20年)8月9日城津発。 陸軍船遭難者救助に向かう。 
1945年(昭和20年)8月10日清津南方の大良化仮泊地発。 羅津に進出。 命令により船団を護衛して元山に退避中、城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没。
1945年(昭和20年)8月11日向日丸に救助された生存者94名は、城津に上陸。 戦傷7名を残し、87名は陸路移動、14日京城着。
1945年(昭和20年)8月15日乗員87名は陸路南下、のちに呉帰着、復員。
1945年(昭和20年)9月15日除籍。

2017年08月09日 (水) 15時29分


[909] 90%が戦没した第1次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]

戦時標準船(戦標船)は戦争の拡大に対処するため、昭和17年に第1次戦標船の建造計画が策定された。太平洋戦争開戦当時、継続していた造船計画は建造中94隻36万総トン、未起工が187隻70万総トンあった。新たな戦標船建造の目的は大量建造、工期の短縮、資材の節約などであり、従来の建造計画や標準船型を大部分で踏襲し、鉱石船や油槽船を加えた計画であったが、工期も長く効率が悪かったため、 部品や材料の規格統一化、工事の簡素化により増産を図り、ある程度の性能低下が容認された。
  これ等の第1次戦標船は185隻が建造されたが、ミッドウエー海戦のころから米軍の反攻が激化し、船舶の損失が想像を超えて増加し、第1次戦標船は90%が戦没し、戦後に生き残った船舶はたった11隻であった。
  船舶の大量損失を補うため、昭和18年に第2次戦時標準船建造が計画された。その骨子は、@急速大量建造を行うA資材、工数を節約し、かつ輸送力を増大させるB諸設備は必要最小限にとどめるC耐用年数への考慮や、運行能率並びに航海安全性能を低下させても、徹底的に規格の簡易化を図る。これによって船体用鋼材を20〜25%方節約するなど、戦争遂行のため安全性能や耐用年数を犠牲にしても、大量の船舶建造を目指したものであった。
  この徹底した簡易化の対象は、二重底の廃止、隔壁の一部廃止、航行や安全のための設備、機関部・居住設備等の徹底した簡易化であった。そのため建造期間が極端に短縮されたが、その最たるものがE型船であった。
  第2次戦標船では、徹底した簡素化により大量建造を目指したが、低速力・低性能で運航効率が悪く、特に敵に攻撃されやすく、事故も多かったから、第3・4次戦標船の計画では、大型化・高速化船の建造を目指したが、資材も技術者や労働力も枯渇して、終戦までに3次船が5隻だけ建造された。


 1カ月で完成の2E型戦時標準船

  第2次戦標船は、徹底した簡素化により、短期大量建造を目指した。その中で、特にE型船(改E型ともいう)の建造方針は、@簡易造船所を新設して充てるA造船技術者や熟練工員を多く要しないで建造できるよう設計・工作を考慮し、労務員の主力を囚人労働者で充足するB厚鋼板供給能力の不足を補うため、 使用鋼板規格及び寸法を低下させ、従来造船材を生産しなかった製鉄会社も利用するC機関不足に対しては、新たに主機工場として中小工場を利用するほか、機関の種類も、レシプロ、ディーゼル、焼玉等入手できるものはすべて利用するーなどというものであった。
  新しく作られた改E型専門の簡易造船所は既存の4造船所が所管し、それぞれの創意によって、一流れ方式とか、ブロック組み立て方式、ソロバン船台流れ作業方式など、異なった方式で建造が進められた。
  改E型は着工から完成までが1カ月という猛スピードで、毎日新造船が完成する有様であったが、軍の命令で受け取った新造船が、水漏れが激しいためすぐに乾ドックに入れて修理する程の、低速の粗製乱造船であった。
  船舶の大量喪失の中で油槽船が逼迫し、この改E型貨物船を油槽船に改造することとなり、これを「ET型」と呼び、終戦までに149隻が建造された。貨物船として設計されたものを「油槽船」に改造したため、タンカーとしての性能が低く危険の多い船であった。E型はもともと国内航路用に設計された船であったが、シンガポールなど南方からの石油積み取りに使用され、戦没した船も多く、戦後海外で連合軍に接収された船も20隻を超えている。
  生き残った第2次戦標船で、戦後主機換装や二重底に改造して船級を取得した船は、昭和38年頃まで稼動したが、昭和25年の「低性能船買い入れ法」により政府に売却され、28・9年の新造船建造の引き当て船として解体された。

2017年08月05日 (土) 14時00分


[908] 米寿の関西行脚余談
From:菊池金雄 [/]

                   08年10月  菊池 金雄
去る10月26日神戸の旧船会社(大同海運梶jのOB会である同友会から3年毎の物故者追悼法要も行う旨の案内があり、あの戦争の末期、ソ連機の空爆に曝された北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した私の船(向日丸=むかひまる)が必死に南鮮向け避航中、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機に襲われたとき、首尾よく第八十二号海防艦と合流。両艦船と敵雷撃機と激烈の海空攻防戦を展開。向日丸は敵機2機撃墜するも、該海防艦は敵機3機撃墜後、不運にも被雷〜轟沈したため、向日丸が生存者を懸命に救出して城津まで送り届けた秘話があったのであるが、今回の法要にその生き残り代表者が、すでに亡くなった当時の向日丸船長以下乗組員各位へ、往時のお礼の追悼文を奉納する手はずで、今日参集するOBはすべて戦後派のためと、会社側には自社船の戦没一覧表だけで、生存船の戦時記録も見当たらないので、私が6年前に上梓した拙著「硝煙の海」が唯一の記録のため、証人として老骨に鞭打って西下したのであった。
 往路は25日1030発の 仙台―伊丹 ANA1836便で 久々でフライトを楽しみ、幸い徐々に晴れ間となり 一時間ほどで「渥美半島上空 中部国際空港が見えます」とアナウンスがあり 眼下にはっきり望見しながら、間もなく伊丹空港着。三宮までバスに乗り継ぎ 一年ぶりで活気に満ちた ミナト神戸の土を踏む。
物故者追悼法要は神戸市の八王寺で翌26日午前10時から催されるので、広島市から参列する海防艦側代表の横見氏とホテル パレス神戸で同泊を約束していたので、三宮で所用後、在神戸の姪のクルマでホテルまで送ってもらい、六年ぶりで同氏と再会することができた。ということは、私はかつて呉の海軍墓地にある同艦の慰霊碑に参拝したことがあったからである。
 翌日、二人で八王寺に行き、大同海運外B25名が参集して物故者の追悼法要が執り行われ、横見氏の追悼文、並びに私も、故小川次席通信士へのお詫びと、スルー海で爆沈した昭豊丸戦死者への追悼及び、故中村清三郎船長の的確な指揮に対する謝辞を奉納した。
 この「商船が沈没海防艦将兵救出」は当然海軍サイドから会社へ謝辞があって然るべきなのに、当時すぐ終戦という混乱期のため今日まで公式記録も見当たらず、膝もとのOB会は、元の会社が合併を重ね、今日、商船三井に吸収された関係もあり往時の記録もあいまいなので、今回、救助された側の代表者が参列下さったことは、私の記録の証言ともなり、有意義な法要となったことと、加えて、当日、作家の土井全二郎先生がわざわざ東京から取材に駆けつけ、何れ、次回の作品に載せてくださるものと期待されるところである。
 正午、席を改め三宮の第一楼で更に15名加わって40名が懇談し、盛会裏に閉幕した。
翌朝、横見氏と新神戸駅で東西に別れを惜しみ、それぞれ新幹線で帰途に就いたのであった。

2017年08月03日 (木) 18時42分


[906] ある小型戦標船タンカーの処女航海爆沈記
From:菊池金雄 [/]

http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm

2017年07月29日 (土) 18時38分


[905] 第2次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]


増大する船舶被害に造船が追いつかなくなり、建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなった。 ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能な2E型が東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南深堀の 4造船所を中心に419隻生産された。 二重底や隔壁の廃止、簡略化のため抵抗が大きく速力や燃費の面で不利な船型、故障しやすい低出力の機関によりカタログスペック上でも7から8ノット程度しか出ない上に、燃料の粗悪によりそれ以下の低速しか発揮できないことも多く、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり、[2]、粗悪な鉄板など粗製濫造といわざるを得なかった。第2次以降に建造された戦時標準船の耐用年数は、すぐに撃沈されるだろうという想定から「機関1年・船体3年」とされ、鋼材の質の低下や舷側鋼板の薄肉化により強度が低下し、座礁しただけで大破沈没した船舶[3]や、ボイラーの爆発[4]など重大事故を起こした船舶もある。「轟沈型」とのあだ名さえあった。

2017年07月28日 (金) 13時04分


[904] 日本近海の戦い
From:菊池金雄 [/]

http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t230.html

2017年07月27日 (木) 16時35分


[903] 向日丸の対ソ連機攻防戦記抄
From:菊池金雄 [/]

向日丸通信長(S20.5.11〜20.11.25) 菊池金雄

本船は昭和20年5月20日から玉野―若松―釜山―門司―羅津に就航。当時瀬戸内海や日本海沿岸、朝鮮東岸等は米軍投下機雷のため薄氷の海で、先行船の触雷を再三目撃した。
 8月6日北朝鮮の羅津に入港して内地向け穀物の緊急輸送作戦(日号作戦)に従事中、8日深夜(2355頃)突如、ソ連爆撃、雷撃機編隊の波状攻撃に晒され、在港船が次々と被弾、炎上。西豊船長(60歳)が頚部負傷にひるまず、応急手当てだけで指揮を続行し、10日早朝必死で羅津脱出。南鮮向け避航〜途中から第82号海防艦が護衛〜ソ連雷撃機の追撃で該海防艦轟沈〜向日丸が海兵93名救助(戦死117名)〜城津で海兵揚陸〜元山で船団編成〜舞鶴に8月17日奇跡的に無事帰還した。

 本船の戦没者は小川次席通信士1名で、彼は病気のため船内で静養中であったが、ソ連機空爆下の自船保全が急迫したため、彼を羅津満鉄病院に緊急避難入院させたのであるが、駄目かと思った本船が生き残り、事後彼が8月10日現地で病死したことが確認され、安全策が裏目になったことは遺憾至極であった。
なお、次席通信士欠員を率先してバックアップしてくれた陸軍通信連絡将校、那和少尉の勇断に深謝するとともに、海軍警戒隊員は若干名の戦傷者があったが、その勇戦を讃えたい。

事後の調査によれば、羅津在港船団17隻のうち、生還できたのは、向日丸・辰春丸・さまらん丸の3隻だけであった。

舞鶴入港直前、新造巡洋艦(酒匂)が偽装して隠れていた現場を目撃したが、命からがら帰還した商船側としては疑念をもたざるを得ない。また、舞鶴湾内を先航中の辰春丸が触雷した現場も目撃した。

関連Web
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/mukahimaru.htm
http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0365.html

2017年07月26日 (水) 18時51分


[902] ラバウル航空戦
From:菊池金雄 [/]

http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t211.html

2017年07月26日 (水) 05時54分







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