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第八十二号海防艦について |
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From:菊池金雄 [/]
第八十二号海防艦は第二号型海防艦の1艦である。 日本海軍の海防艦は、昭和初期までは旧式となった戦艦、巡洋艦などが、この艦種に充当されており、軍艦に類別されていた。 日本海軍が海防艦の新造計画を持ったのは1931年(昭和6年)の第一次補充計画が最初で、従来と異なる北方警備用の小型艦(1,200トン級)であった。 しかし、このときは予算が成立せず、1937年(昭和12年)の第三次補充計画にいたって、ようやく建造された。 このとき建造されたのが占守型海防艦で1941年(昭和16年)3月までに4隻が竣工した。 主要目は基準排水量860トン、速力19.7ノット、12cm単装砲3基、爆雷投射機1基、爆雷18個で、北方行動用に補助缶を装備していた。 開戦直前に、この種の護衛艦不足に気付いた日本海軍は、昭和16年度戦時建造計画(マル急計画:○の中に急)で30隻の海防艦を計画した。 このうち14隻が擇択型で、占守型をわずかに改正し、艦橋、上構、艦首尾の直線化、爆雷搭載数の増加(18個→36個)等を実施したものであったが、北方行動用に補助缶は残された。 本型の対潜・対空能力は、その後の戦況を考えると不十分なものであった。 マル急計画で計画された残りの16隻は、択捉型をさらに改設計した御蔵型である。 主砲を12cm高角砲3門(連装1基、単装1基)に改め、爆雷投射機を2基、爆雷搭載数を120個として、対潜・対空能力を強化したものであった。また、北方行動用の補助缶も廃止されている。 しかしながら、船体の簡素化は徹底しておらず、量産性に欠けるものであった。 このため、御蔵型の建造は8隻で打ち切られ、鵜来型の建造に移行した。 鵜来型においては、船型、艤装の徹底的な簡素化を実施し、曲線部分を平面化した設計を行った。 また、電気溶接を大幅に用い、ブロック建造法を採用、これにより平均建造期間が御蔵型の9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。 兵装面では、掃海具を装備せず、従来の爆雷投射機を2基に加え三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、対潜攻撃能力を大幅に向上させている。 尚、計画艦のうち9隻は御蔵型と同様の爆雷装備とした日振型して完成している。 1943年(昭和18年)に入って船舶被害が増大すると、海防艦の増勢が求められた。 これにより従来艦よりも量産性の高い艦が必要とされ、第一号型と第二号型海防艦が計画された。 艦型を小型化かつ簡略化し、兵装は12cm単装高角砲2基、三式爆雷投射機を片舷6基(計12基)と減少したが、爆雷搭載数は120個のままとしている。 機関は第一号型は艦本式23号乙8型ディーゼル機関2基としたが、第二号型では機関の製造能力の問題から、航続力の低下をしのびホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基と艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基とされた。(2) 要目(3)(4) 新造時 艦種海防艦 建造所三菱重工業長崎造船所 基準排水量740トン 公試排水量900トン 垂線間長65.00m 水線長68.00m 水線最大幅8.60m 喫水3.05m 主機艦本式甲25型オール・ギヤード・タービン1基、1軸 主缶ホ号艦本式水管缶(重油専焼)2基 出力2,500馬力 速力17.5ノット 燃料重油:240トン 航続力14ノットで4,500浬 乗員141名 兵装45口径十年式12cm単装高角砲2基 九六式25mm3連装機銃2基 九六式25mm単装機銃4基 三式爆雷投射機12基 爆雷投下軌条1基 二式爆雷120個 その他 艦歴(5) 年月日履歴 1944年(昭和19年)9月6日起工。 1944年(昭和19年)11月18日進水。 1944年(昭和19年)12月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。 1945年(昭和20年)1月3日佐世保発。 1945年(昭和20年)1月4日佐伯着。 訓練開始。 1945年(昭和20年)2月1日佐伯発。 豊後水道南方行動。 1945年(昭和20年)2月15日第一護衛艦隊付属。 1945年(昭和20年)2月16日門司発。 モタ38船団と基隆に向かう。 泗礁山泊地に仮泊 1945年(昭和20年)2月21日泗礁山発。 1945年(昭和20年)2月23日基隆着。 1945年(昭和20年)3月3日基隆発。 タモ47船団と門司に向かう。 1945年(昭和20年)3月5日泗礁山着。 1945年(昭和20年)3月6日1435船団と泗礁山発。 1945年(昭和20年)3月11日六連着。 1945年(昭和20年)3月12日呉に回航。 整備修理、休養。 1945年(昭和20年)3月26日呉発。 門司に回航。 待機。 1945年(昭和20年)4月1日門司発。 済州島兄弟島を停泊地として対潜掃蕩に従事。 1945年(昭和20年)4月25日第百二戦隊に編入。 1945年(昭和20年)6月1日山東半島石島湾着。 待機。 1945年(昭和20年)6月11日石島湾発。 船団を護衛して門司に向かう。 1945年(昭和20年)6月17日船団と六連着ののち、佐世保に回航、入渠修理。 1945年(昭和20年)7月5日第百二戦隊は解隊。 第二海防隊に編入。 1945年(昭和20年)7月15日佐世保発。 対馬・浅茅湾着、待機。 1945年(昭和20年)8月1日隠岐の島着。 仮泊待機。 1945年(昭和20年)8月5日隠岐の島発。 船団を護衛して元山に向かう。 1945年(昭和20年)8月6日元山着 1945年(昭和20年)8月8日元山発。 同日、城津着。 1945年(昭和20年)8月9日城津発。 陸軍船遭難者救助に向かう。 1945年(昭和20年)8月10日清津南方の大良化仮泊地発。 羅津に進出。 命令により船団を護衛して元山に退避中、城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没。 1945年(昭和20年)8月11日向日丸に救助された生存者94名は、城津に上陸。 戦傷7名を残し、87名は陸路移動、14日京城着。 1945年(昭和20年)8月15日乗員87名は陸路南下、のちに呉帰着、復員。 1945年(昭和20年)9月15日除籍。
2017年08月09日 (水) 15時29分
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