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「硝煙の海」談話室

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[901] 勧進帳
From:菊池金雄 [/]

http://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/673

2017年07月25日 (火) 14時50分


[900] 海防艦戦史」木俣滋郎
From:菊池金雄 [/]


 地味な割には苦労ばかりの商船護衛。
 “陽の当たらぬ海軍”、縁の下の力持ちだった海防艦の戦記をまとめたものが本書。
 まあ、マニアックといいますか、好きな人以外には何が面白いのかわからないような本でしたね。
 著者の木俣滋郎は戦史研究家で、私は初めて読みましたが、ちょっと文章にクセがあります。

 海防艦という艦種は、だいたい艦隊駆逐艦の3分の1程度の大きさの、航洋性のある輸送船団護衛艦です。
 敵艦隊との交戦を任務としたものではなく、あくまでもその敵は商船を狙う潜水艦でした。
 昭和20年の終戦時までに、建造中の19隻を含めて189隻の海防艦が造られました。
 戦時中78隻が沈没。損傷のため行動不能になったままなのが16隻。戦後海難(掃海中など)で7隻が沈没。
 頭数は駆逐艦並みに造られた海防艦ですが、その大部分は昭和19年になってからの就役です。
 アメリカの主に潜水艦による海上交通線破壊によって、こりゃヤバイとなってから慌てて造り始めたのですが、だいぶ遅かったのですね。海防艦は島の名前が艦名になりましたが、数が増えすぎてそのうち番号制になりました。
 開戦時にも実は海防艦はありました。占守、国後、八丈、そして石垣の4隻です。
 しかしこの時は、北洋漁業の警備が目的で造られた艦種でした。ロシアがソ連になってからオホーツク海で操業する日本漁船が、ソ連の砲艦にいじめられていたのです。当時の日本は今の日本ではなく強面ですから、こんなときは駆逐艦が急行すると、ソ連の砲艦はおっかなびっくり逃げていたのです。今では信じられないことですがね。
 ところがロンドン条約によって軍縮が決まり、貴重な駆逐艦を辺鄙な北方で使うのはもったいない、ということになりました。それで海防艦ができたのです。駆逐艦の3分の1程度の大きさ、馬力、20ノットを切る速力。もちろん建造費、維持費の安さも魅力でした。
 ちなみにこの4隻は小さくても菊の御紋章をつけた立派な軍艦であり、北洋ですれ違った駆逐艦が小艦艇と舐めて「挨拶は?」と信号を送ったところ、海防艦が軍艦(駆逐艦は軍艦ではない)で艦長は駆逐艦の艦長より上位である中佐であることがわかり、慌てて駆逐艦の艦長が内火艇で謝りにいったという実話も残っているそうです。
 その海防艦が、戦況の変化によって大量に建造されることになったわけです。菊の御紋はなくなりました。
 沿岸用の警備艦は駆潜艇や掃海艇がありますが、航洋性はない。かといって速度の遅い輸送船に高速の駆逐艦を使うのはもったいない、そこで燃費も良い海防艦の出番となったわけですね。
 艦長には、神戸と東京にあった高等商船学校を卒業して商船の船長や一等運転士の経験のある者が就きました。兵学校出では間に合わないわけです。操船の腕は抜群ですが、編隊航行や戦闘には素人だった商船乗り。それを新造艦が竣工するたびに、九州の佐伯にあった特設対潜訓練部隊で2週間程度の猛訓練を施して戦場に送り込んでいました。本当ならもっと訓練時間は欲しかったところですが、戦況が許さなかったのですね。
 結局、海防艦は戦時中、アメリカの潜水艦を8隻沈めています。
 これを多いと見るか、たったこれだけ? と見るかは分かれるところでしょう。
 本書では、その多い? 少ない? 撃沈の場面が報告されています。これは確かに読む価値がありました。
 たとえば、第1次ソロモン海戦の成功で意気揚々と帰ってきた重巡加古を地獄に突き落としたS44を、北方水域で撃沈したのは海防艦「石垣」です。これが海防艦による初の潜水艦撃沈でした。昭和18年10月8日です。
 そして、海防艦「22号」は、駆逐艦雷、水無月など日本艦艇16隻を撃沈した米潜水艦のエース格「ハーダー」を、昭和19年8月24日、マニラ沖で撃沈。
 昭和19年11月7日には、マニラ湾で、海防艦「千振」と「19号」が駆逐艦霰など日本艦艇10隻を沈めた米潜「グローラー」を撃沈。昭和19年11月11日、海防艦「4号」は八丈島北方で、伊168などを撃沈した米潜水艦「スキャンプ」を撃沈しました。
 戦闘機の撃墜マークならぬ、“撃沈マーク”を艦橋に描いた海防艦もありました。

 商船団護衛に伴う対潜戦闘。確かにこれが海防艦の主任務ですが、これだけではありませんでした。
 受け身の対潜だけでなく、数隻でチームを組んだ海防隊による積極的対潜掃討作戦、そして機雷掃海、機雷敷設など、使い回しのよい海防艦はまさに縁の下の力持ち的な雑役をこなしたのです。
 それは戦争が終ってからも続きました。
 生き残った海防艦のうち61隻が特別輸送艦として日本人の戦後引き揚げに尽力したのをはじめ、豊後水道や対馬海峡に日本軍が敷設した5万5347個にもおよぶ93式繋留・触発機雷の掃海には21隻があたりました。
 そして昭和22年、すべての戦後業務を終えた75隻の海防艦は特別保管艦として次の運命を待ちました。
 戦時賠償として、67隻がアメリカ、イギリス、ソ連、中国に引き取られたのです。防波堤になった艦もあります。海防艦戦史」木俣滋郎
 地味な割には苦労ばかりの商船護衛。
 “陽の当たらぬ海軍”、縁の下の力持ちだった海防艦の戦記をまとめたものが本書。
 まあ、マニアックといいますか、好きな人以外には何が面白いのかわからないような本でしたね。
 著者の木俣滋郎は戦史研究家で、私は初めて読みましたが、ちょっと文章にクセがあります。

 海防艦という艦種は、だいたい艦隊駆逐艦の3分の1程度の大きさの、航洋性のある輸送船団護衛艦です。
 敵艦隊との交戦を任務としたものではなく、あくまでもその敵は商船を狙う潜水艦でした。
 昭和20年の終戦時までに、建造中の19隻を含めて189隻の海防艦が造られました。
 戦時中78隻が沈没。損傷のため行動不能になったままなのが16隻。戦後海難(掃海中など)で7隻が沈没。
 頭数は駆逐艦並みに造られた海防艦ですが、その大部分は昭和19年になってからの就役です。
 アメリカの主に潜水艦による海上交通線破壊によって、こりゃヤバイとなってから慌てて造り始めたのですが、だいぶ遅かったのですね。海防艦は島の名前が艦名になりましたが、数が増えすぎてそのうち番号制になりました。
 開戦時にも実は海防艦はありました。占守、国後、八丈、そして石垣の4隻です。
 しかしこの時は、北洋漁業の警備が目的で造られた艦種でした。ロシアがソ連になってからオホーツク海で操業する日本漁船が、ソ連の砲艦にいじめられていたのです。当時の日本は今の日本ではなく強面ですから、こんなときは駆逐艦が急行すると、ソ連の砲艦はおっかなびっくり逃げていたのです。今では信じられないことですがね。
 ところがロンドン条約によって軍縮が決まり、貴重な駆逐艦を辺鄙な北方で使うのはもったいない、ということになりました。それで海防艦ができたのです。駆逐艦の3分の1程度の大きさ、馬力、20ノットを切る速力。もちろん建造費、維持費の安さも魅力でした。
 ちなみにこの4隻は小さくても菊の御紋章をつけた立派な軍艦であり、北洋ですれ違った駆逐艦が小艦艇と舐めて「挨拶は?」と信号を送ったところ、海防艦が軍艦(駆逐艦は軍艦ではない)で艦長は駆逐艦の艦長より上位である中佐であることがわかり、慌てて駆逐艦の艦長が内火艇で謝りにいったという実話も残っているそうです。
 その海防艦が、戦況の変化によって大量に建造されることになったわけです。菊の御紋はなくなりました。
 沿岸用の警備艦は駆潜艇や掃海艇がありますが、航洋性はない。かといって速度の遅い輸送船に高速の駆逐艦を使うのはもったいない、そこで燃費も良い海防艦の出番となったわけですね。
 艦長には、神戸と東京にあった高等商船学校を卒業して商船の船長や一等運転士の経験のある者が就きました。兵学校出では間に合わないわけです。操船の腕は抜群ですが、編隊航行や戦闘には素人だった商船乗り。それを新造艦が竣工するたびに、九州の佐伯にあった特設対潜訓練部隊で2週間程度の猛訓練を施して戦場に送り込んでいました。本当ならもっと訓練時間は欲しかったところですが、戦況が許さなかったのですね。
 結局、海防艦は戦時中、アメリカの潜水艦を8隻沈めています。
 これを多いと見るか、たったこれだけ? と見るかは分かれるところでしょう。
 本書では、その多い? 少ない? 撃沈の場面が報告されています。これは確かに読む価値がありました。
 たとえば、第1次ソロモン海戦の成功で意気揚々と帰ってきた重巡加古を地獄に突き落としたS44を、北方水域で撃沈したのは海防艦「石垣」です。これが海防艦による初の潜水艦撃沈でした。昭和18年10月8日です。
 そして、海防艦「22号」は、駆逐艦雷、水無月など日本艦艇16隻を撃沈した米潜水艦のエース格「ハーダー」を、昭和19年8月24日、マニラ沖で撃沈。
 昭和19年11月7日には、マニラ湾で、海防艦「千振」と「19号」が駆逐艦霰など日本艦艇10隻を沈めた米潜「グローラー」を撃沈。昭和19年11月11日、海防艦「4号」は八丈島北方で、伊168などを撃沈した米潜水艦「スキャンプ」を撃沈しました。
 戦闘機の撃墜マークならぬ、“撃沈マーク”を艦橋に描いた海防艦もありました。

 商船団護衛に伴う対潜戦闘。確かにこれが海防艦の主任務ですが、これだけではありませんでした。
 受け身の対潜だけでなく、数隻でチームを組んだ海防隊による積極的対潜掃討作戦、そして機雷掃海、機雷敷設など、使い回しのよい海防艦はまさに縁の下の力持ち的な雑役をこなしたのです。
 それは戦争が終ってからも続きました。
 生き残った海防艦のうち61隻が特別輸送艦として日本人の戦後引き揚げに尽力したのをはじめ、豊後水道や対馬海峡に日本軍が敷設した5万5347個にもおよぶ93式繋留・触発機雷の掃海には21隻があたりました。
 そして昭和22年、すべての戦後業務を終えた75隻の海防艦は特別保管艦として次の運命を待ちました。
 戦時賠償として、67隻がアメリカ、イギリス、ソ連、中国に引き取られたのです。防波堤になった艦もあります。
 アメリカやイギリスは「海防艦に価値なし」と大半はスクラップにされましたが、ドイツに軍艦をたくさん沈められたソ連やろくな海軍のない中国には喜ばれました。なかには中国に引き取られた海防艦「隠岐」のように、昭和57年時点で現役という艦もあるのです。
 日本には、「竹生」「生名」「鵜来」「新南」「志賀」の5隻が残りました。
 これらは後に海上保安庁の巡視船として、昭和37年から42年に解役されるまで日本の海を再び守ることになったのです。
 アメリカやイギリスは「海防艦に価値なし」と大半はスクラップにされましたが、ドイツに軍艦をたくさん沈められたソ連やろくな海軍のない中国には喜ばれました。なかには中国に引き取られた海防艦「隠岐」のように、昭和57年時点で現役という艦もあるのです。
 日本には、「竹生」「生名」「鵜来」「新南」「志賀」の5隻が残りました。
 これらは後に海上保安庁の巡視船として、昭和37年から42年に解役されるまで日本の海を再び守ることになったのです。

2017年07月21日 (金) 18時47分


[899] 高瑞丸の最後
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/ken_kikuchi3/kaneojp/03/0323.html

2017年07月20日 (木) 15時45分


[898] 舞鶴鎮守府徴用船 高瑞丸戦記余禄 
From:菊池金雄 [/]

                  平成二十二年一月  菊池金雄          
私は昭和十五年一月太洋海運(その後大同海運に移籍)恵昭丸(五八〇〇トン)で、新米の通信士を満二年間修業してから、昭和十七年六月高瑞丸(七千トン)に舞鶴港で乗船した。
実はこの船の戦歴は何も関知していなかったが、普通船員が相当交代する様子を垣間見た。下船グループはオールウエーブラジオやシンガーミシンなど携行、こんな危険な船はごめんだと言っていた。
 しかし、士官グループからは戦争に参加云々は耳にしなかったが、実習で乗った員外通信士が戦闘中・・・気が狂ったように逃げ回ってもてあました・・・と言う話は耳にした。しかし林局長からは全然戦時談は聞かなかった・・・ところが拙著「硝煙の海」を平成十四年に上梓するにあたり、八方に会社の戦時資料収集過程で「ジャパンライン想出集」に出会い、その中に林局長が下記一文を投稿していたので、はじめて同船がラバウル攻略作戦に参加した事実を知ること
「昭和十七年一月二十三日未明、わが陸海軍の部隊は、高瑞丸を含め約三十隻の艦艇に分乗。 ラバウル攻略のため敵前上陸を敢行し、無血で占領した。
高瑞丸は、その後ラバウルを基地として同年 六月頃まで小作戦に協力。その間潜水艦攻撃やら、豪州空軍の爆撃に遭うなど、恐ろしい事ばかりで全く生きた心地がしない毎日だった。
特に、ニューブリテン島東南のスルミ攻略では、豪州空軍から爆撃を受け、七十キロ爆弾が三番船倉に五個命中。一個不発、他の一個は喫水線ぎりぎりのため浸水。右舷はみるみるうちに傾き、もはや沈むかと思った。
この爆撃機の攻撃戦法は、低空から船腹への水平爆撃だった。幸い、勇敢な村垣範通機関長の適切な応急措置で、左ウイングタンクに海水を張り、弾穴が喫水線上になるように船体を傾けた結果、沈没を免れた。
その数時間後。工作船「津軽」が穴を塞ぎ、無事ラバウル基地に帰港することができた。
 当時、ラバウルは一日数回の空爆に晒されていたが、高瑞丸は同年六月舞鶴軍港に無事帰還した。」
最近になって、前任の次席通信士が相良信夫氏だったことを知り、懐かしさ一入である。
とにかく私は恵昭丸で修業したので実務には自信があったが、林局長は物品をことさら大事にするタイプで、新型のスーパー受信機は壊れると修理が大変だからと、旧型受信機のみ使うよう厳命されたのには不満だった。
本来、船の装備機器は可能な限り乗組員が保守に当るべきものを、壊れると困る! という発想はいかがなものであろうか?
私が乗船中は主にジャワ方面占領地航路に就航し、前戦出動は無かったが、
昭和十七年十二月二十一日から佐世保海軍工廠に於いて十九日間でタンカーに改造。シンガポール経由、ボルネオのタラカンで原油搭載し徳山に輸送後、私は交代下船した。
それから三ヵ月半後の昭和十八年十月十四日沖縄北方で雷撃をうけ沈没。社史では戦死者ゼロなるも、他の資料には戦死三名と記録があり、目下関係方面に照会中なるも確認に至らない。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0323.html
(付記=そもそも貨物船を短期間でタンカーに改造した無謀によって、二十 隻の全改造船が戦没したようである)
林局長と二度目の鉢合わせ
私は戦後に乗り組んだ船は、ほとんど改E型戦標船ばかりだったが昭和二十五年三月高和丸http://www.geocities.jp/kaneojp/02/0273.htmlに乗船したら、何と林局長だった。彼は専ら無線監督代行で新造船の受け取りに従事し、間もなくヒゲの西山局長と交代したのでほっとした。
 噂によれば林局長は退職後、神戸で船舶無線関係の会社を設立とのこと。本来メカに弱い人がと怪訝に思ったが、船舶無線用部品扱いのようで納得の巻きであった。機会があれば相良氏とも旧交を温めたい思いがあるが、お互い高齢なので難しいようである。

2017年07月19日 (水) 19時25分


[897] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2017年07月18日 (火) 18時34分


[896] 音痴が見つけた生涯の趣味
From:菊池金雄 [/]

 何時の間にか卆寿に達しましたので己の生き様などを回想してみます。
東北は民謡の宝庫で、わが町内会でも皆さんのすばらしい唄声に接し、うらやましく思っています・・・と言うことは、私は生来音痴のため何一つ歌えないので、現職当時あれこれ趣味を物色して謡曲班に入門。退職後も同門グループと交わり、月一回の例会で朗吟を楽しんでいます。
グループの謡会は素謡、連吟、独吟、仕舞等ですが、素謡は謡本を見ながらの発声ですから初心者でも参加できるメリットがありますので、趣味を模索の向きは是非謡曲をはじめてみませんか。
謡曲は腹の底から大声で謡ので、気分爽快でストレスの発散効果もあるように思います。
 旧職場(第二管区海保)のOB謡曲グループは春秋に例会を塩竃市壱番館で開催していますが、京浜地区OBも参加し、レベルの高い発声はおおいに勉強になります。
謡曲は「能」の歌詞の一部分を謡本に収め、初版本から指導をうけ、四季ごとの発表会(お習い会)で、シテ ワキ ツレ等に役付けされ、日ごろの精進を披露して仲間の上達ぶりに刺激されることになります。
該して師匠は、腹から大声を出せ式の教え方で、なかなか朗吟会得に至らずのところ、最近、謡の基本発声法に接しましたので目下修練中ですが、徐々に効果があるようにおもいます。
 以下に「謡曲十徳」をご参考までに付記します。
現代病と云われる気を晴らし、ストレスを解消する。
肺機能を高め、咽喉を強める。
食欲を増進し、胃腸の働きを活発にする。
集中力を養い、脳の働きを増進する。(老化防止)
自ら礼節を身につけ良識を得る。
温故知新、文学、歴史を学び知識と新しき発想を得る。
孤独をも慰め、広く知己を得る。
美しき日本語に接すると共に発音は正確、美声となる。
芸術の深さを識り、感性に富んだ美を追求し表現する。
現実の世界を離れ、中世における演歌とも云える謡曲を吟ずる。

2017年07月16日 (日) 18時40分


[895] 戦時船員たちの墓場  土井全二郎著 光人社NF文庫
From:菊池金雄 [/]

戦時船員たちの墓場  土井全二郎著 光人社NF文庫
副題に「海を墓場に…戦時船員の記録」とある。
全編が戦争継続を底辺で支えてきた輸送船(戦時徴用船)の悲劇の記録集となっている。いずれもドラマティックな物語で、それぞれがドキュメンタリー小説の素材になりうるほどのものである。船の雄姿と元船員の写真(『戦時船員の記録』)が掲載されている。関係者には涙なくしては読むことができない本であろうと思う。
日本の敗戦は兵站力の貧弱さにあったといわれる。先の戦争では太平洋の全域に兵力を展開せざるを得なかった。それを維持していくための兵と食料、資材、武器などの消耗品を目的地に届けねばならない。さらに日本国内での需要を満足するための資源を外地から確保搬送しなくてはならない。それがどんなにか難しくまた危険な課題であったかをこの本は物語っている。
海は危険に満ちていた。敵側の潜水艦からの魚雷攻撃、飛行機からの空襲に輸送船は無防備で対抗できなかった。
船員は危険な海に出ていくのも隠密行動をとらされた。軍隊と同じである。家族も憲兵や特高の絶え間ない監視を受けていた。
軍艦なら話題になるが、漁船が襲撃されてもニュースにもならない。
開戦の日(昭和16年12月8日)の太平洋上は、どこもかしこも、一触即発の緊張状態であった。2隻の漁船が敵機により滅多撃ちにされている。漁船は沈み、早くも10名の漁民が戦死したのだが、報道はされていない。
章立ては1 暗雲、2 開戦、3 敢闘、4 苦闘、5全滅、6 落日 となっており、開戦前夜から全滅までの輸送船、徴用船の歴史と運命が描かれている。
『敢闘』の中の「敵潜水艦撃沈」という章では、敵潜水艦を2隻も撃沈した松本丸という老朽船の話に胸すく思いがする。「戦火の中の交情」では船員一人の命を守るため、駆逐艦・秋雲を停止して盲腸炎の手術をした話が語られている。
貴重な重油を搬送するタンカー6隻にたいし、護衛艦はたった一隻で、これには海防艦・対馬があたった。日東汽船のタンカー・旭栄丸は潜水艦攻撃で沈没、洋上に脱出した乗組員に銃撃を加えようとする敵潜水艦に対して、護衛艦は戦略上、軍律違反にあたるかもしれないところ、これを救助した。
 このあたりは日本側にまだわずかに余裕が認められる。しかし、貧弱な護衛では限界がある。日本側はしだいに全滅への道へと追い込まれていく。敵側の攻撃は潜水艦攻撃と飛行機による空襲によるものであるが、その物量に圧倒される。
 それでも戦地におもむくには、船に乗って海路を行くしかない。
船員も兵隊も死を覚悟して乗船する。陸路行軍の方がまだましだと思ったに違いない。小国民であった少年の私は、敵の攻撃によって船が沈没する状況を想像した。私は泳げなかったので海で水泳の練習にはげんだものである。
 海で果てた人たちの遺骨は永遠にかえることがない。
 補給線をたたれ、兵站力がなくなると、軍隊は、戦力を失う。兵隊は飢えと戦う結末となっていった。
米軍側は標的に事欠いたのか、非武装の病院船にまで無差別に攻撃をしかけてきた。国際規定どおりに夜間照明により煙突や船腹に赤十字を照らしていた。これは「明らかに国際法違反であった。かりに日本軍が連合軍側の病院船を一隻でも撃沈していたら、戦後、どれほど責任を追及されたことだろうか」と書かれている。
『全滅』にいたる章は読むことすら重いが、最終章の『落日』には味方陸軍潜水艦に突っ込んだ伊豆丸の話や大剛丸のたった一人の生き残りの船員の話が書かれており、まるで冒険活劇のようでわずかに読者に救いを与えてくれている。

2017年07月16日 (日) 16時04分


[894] 戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員
From:菊池金雄 [/]

2005年10月23日

☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員 「ニュース(35400)」
[
 
毎日新聞の皇室記事に天皇、皇后両陛下:紀宮さまと「戦没船員の碑」に供花と掲載されていた。「ふーん、そんな石碑が観音崎にあったんか」と「戦没船員の碑」について調べてみた。その結果、皇室のメンバーは「慰霊」もお仕事、こんな細かい慰霊まで参加するのかと軽く考えていたワタクシが浅はかだったと痛恨。
 今まで「戦没船員」そのものについてほとんど知らなかった。戦時中、民間人が軍の徴用で犠牲になった話を知らないわけじゃない。航行中の民間船舶が米艦の攻撃で沈められた事件は書物やニュースで知っていたけれど「戦没船員」がこれほど多く犠牲になっていたとは・・・・今は胸が塞がれる想いだ。
 日本殉職船員顕彰会のホームページを開くと「わが国の海運・水産業は、太平洋戦争において軍人の損耗率( 戦争に参加した員数と戦死者の比率) を上回る6万余人の戦没船員と、膨大な船舶の喪失による日本商船隊の壊滅という大きな犠牲を払った。」と太平洋戦争の犠牲になった戦没船員のデーターが詳細に掲載されていた。

 もっとも気になったのは「軍人の損耗率を上回る」を証明するデーターだった。これによると、同時期の軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43%。 戦没船員の多くは軍に協力させられた輸送船団の乗組員、そのため兵士でもないのに多くの戦死者を出している。それがいかに苛酷な犠牲だったか「戦没船員の年次別戦死者数」の統計を見ると一目でわかる。と同時に、無謀な日本軍の戦略が多くの民間人を道連れに殺したかも。

 敗戦が目に見えていた昭和19年〜20年の戦死者が約4万7千人、全体の戦死者の8割に相当する。さらに「戦没船員の年齢別分布」を見ると、口では言い表せない怒りを感じる数字がある。14歳から19歳までの少年船員の死者数が全体の3割以上を占め、その数1万9千人余り。

 「戦史に残る船員と輸送船の悲劇」では民間船員たちが戦闘に巻き込まれ、挙げ句の果て、日本軍からもお荷物扱いされた残酷極まる史実が掲載されていた。
昭和17年8月から7ヶ月におよんだガダルカナル島の奪回作戦は、ソロモン群島方面の制空・制海権を確保するために彼我の死闘が展開された、まさに太平洋戦争の天王山であった。
この作戦もその中心は、上陸部隊への増援、補給であった。
そのため、この輸送作戦には、わが国が誇る高速輸送船で船団が編成され、2回にわたる強行輸送が実施された。しかし、敵の反攻は、とくに航空機によって熾烈を極め、その多くが目的を達することなく撃沈された。
なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。
 戦没船員は漢字でたった4文字だが、その4文字に戦争で奪われた6万人以上の船員の命が埋め込まれている。その埋め込まれた犠牲をワタシは今まで見過ごしていたのだ、知らなかったのだ。

 元、海上保安庁に勤務されていた菊池金雄氏は戦没船員の惨状を見てきた生き残りの一人だった。菊池さんも当時は民間海運会社の乗組員、軍に輸送船団として船事徴用され、敵艦の砲弾をくぐり抜け、奇跡的に生き延びた体験を持つ。
 その体験を私たちに知らしめるため、「陸・海軍徴用船乗組員の記録」として「硝煙の海」の著書に書き綴っている。あとがきにある菊池さんの慟哭の願いを継承したいと思う。この記録を読むと、靖国神社の戦没者を祀る傲慢さがより鮮明になる。真の慰霊よりポーズ優先、首相の参拝が薄っぺらく見える。
「硝煙の海/あとがき」より

横須賀市の観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に祀られている、第二次大戦中に戦没した六万余人の船員仲間の無念を思うと、痛憤に堪えない。

この戦没者数は、陸海軍の戦死率より高率である。それは日本海軍が艦隊決戦一辺倒の偏った用兵思想から。シーレーン保護について極めて冷淡であったからで、このため裸同然の兵站輸送船が、敵の潜水艦や航空機の餌食となり、多くの船や船員がいたずらに犠牲を強いられたからである。その結果、逐次南方占領地からの戦略物資の還送が意のごとくならず、特に石油の枯渇が敗因のひとつであると、戦史でも指摘されている。

これら輸送船の苦難の真相は「慟哭の海」に詳しく叙べられているが、私の乗った輸送船二隻の臨戦体験からも、軍の船舶保護のずさんな対応を指摘しておいた。

しかし、陸、海軍の軍人一人ひとりが祖国のため勇敢にその本分を尽くしたことに対し敬意を表することは当然であり、武運拙く戦死された多くの軍人のご冥福を念じてやまない。

〜中略〜

したがって、わが国は輸出入国との友好関係と、シーレーンの安全確保を、最優先の国是としなければならないことを、国民一人ひとりが肝に銘じ、二十一世紀は二度と国家・国民を破滅させるような、過去の非民主的な政治があってならないことを子孫への遺言としたい。

2017年07月15日 (土) 16時52分


[893] 終戦60年の節目に思う(要約)
From:菊池金雄 [/]

日本船主協会 常任理事 鰹、船三井 代表取締役社長 芦田昭充氏述
                          2012年10月30日

戦没船員のこと
日中戦争〜太平洋戦争の商船被害は、約2,400〜2,500隻・800万総トンという。民間の船が強制的に徴用されて国家の各種輸送船となったためだ。
開戦前の保有船舶を超える船舶(戦時中に造られた戦時標準船を含めて)を戦争で失った。
 何より心痛むのは「3万人におよぶ商船員が、魚雷や砲撃/爆撃で亡くなった」という事実(漁船・機帆船を含めると7,000隻/6万人)だ。ほとんどの商船が何の護衛もなく、日本近海や南方の海を航海中に沈められ、兵士の死亡率を超える4割もの船員が命を落とされた。
 戦後の混乱の中、ゼロから再出発された先達の方々の奮闘努力を思うと涙を禁じえない。海運業はその甲斐あって蘇り、幾重の谷をくぐり大波を越えて今、隆盛のときを迎えている。そのようなときにこそ、後に続く私たちは海運にまつわる史実を、「墓標」というべき水底に眠る船たちを、決して忘れてはならない。太平洋戦争終結60年目の年の瀬に、改めて誓おう。

2017年07月14日 (金) 16時00分


[892] 第2次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]

増大する船舶被害に造船が追いつかなくなり、建造期間の短縮および資材の節約を目的として第2次戦時標準船が建造されることとなった。 ブロック工法も用いて約1ヶ月で建造が可能な2E型が東京造船所・播磨松の浦・三菱若松・川南深堀の 4造船所を中心に419隻生産された。 二重底や隔壁の廃止、簡略化のため抵抗が大きく速力や燃費の面で不利な船型、故障しやすい低出力の機関によりカタログスペック上でも7から8ノット程度しか出ない上に、燃料の粗悪によりそれ以下の低速しか発揮できないことも多く、潮流の早いところでは流されて座礁することすらあり、[2]、粗悪な鉄板など粗製濫造といわざるを得なかった。第2次以降に建造された戦時標準船の耐用年数は、すぐに撃沈されるだろうという想定から「機関1年・船体3年」とされ、鋼材の質の低下や舷側鋼板の薄肉化により強度が低下し、座礁しただけで大破沈没した船舶[3]や、ボイラーの爆発[4]など重大事故を起こした船舶もある。「轟沈型」とのあだ名さえあった。

2017年07月11日 (火) 18時51分







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