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国際海洋秩序と日本の歴史 |
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From:菊池金雄 [/]
〜古代から大日本帝国の滅亡まで〜 黄川田仁志/松下政経塾第27期生 大日本帝国崩壊までの日本の海に関する歴史を見てみると、鎖国時代は例外として、日本は国際秩序に参加しつつも、従属することなく独自の立場をとってきた。日本が覇権国となるより、覇権国がつくる国際秩序に参加しながらも、日本の個性を生かして、独立自尊の気概をもって歩んでいくのがよい。 国際海洋秩序と日本の歴史 〜古代から大日本帝国の滅亡まで〜 黄川田仁志/松下政経塾第27期生 夢の終わり〜大日本帝国崩壊 第一次世界大戦による欧州の混乱の隙をついて中国権益の強化・拡大を図るために、1915年、日本は中国に対して対華21カ条を要求した。1918年にはシベリア出兵がおこなわれた。シベリア出兵に参加した他の国は1920年に撤退したが、日本は1922年まで戦争を続けた。この対華21カ条とシベリア出兵延長により、諸外国は日本に対しての警戒心をさらに深めていった。列強諸国はこの日本の動きを牽制するために、1921年にワシントン会議が開かれ、日本は九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を結ぶ破目になってしまった(ワシントン体制)。九カ国条約によって列強による中国権益の保護が図られ、四カ国条約(米、英、仏、日により締結)により日英同盟を破棄することになった。これにより日本は覇権国イギリスの国際(海洋)秩序から離脱することになってしまった。またワシントン海軍軍縮条約によって英米対日本の海軍戦力比を5対3にすることとなり、日本海軍増強に対する制限がなされた。第一次大戦によって、大英帝国の力が後退し、アメリカが台頭してくるのがこの時期である。中国権益をめぐって日米衝突の状況が整いつつあった。 日本海軍はワシントン海軍軍縮条約に違反しないかたちで軍備を整えていき、1930年のロンドン海軍軍縮条約を迎えるころには、日本の海軍力は世界第3位になっていた。日本海軍増強に警戒心を抱く欧米諸国は、この条約により日本海軍力にさらなる制限を加えた。この条約をめぐって日本国内政治は混乱した(統帥権干犯の議論がおこる)。1935年に第2回会議が開かれたが、翌年に日本は会議から脱退した。そして海軍軍縮時代の幕が閉ざされた。このころすでに国際連盟を脱退しており、日本は国際政治の場で、完全に孤立することになった。そこからは箍が外れたように、日本は膨張していく。 1935年に南進政策が海軍によって唱えられ、大東亜共栄圏構想の柱となっていった。1939年に海南島、新南群島(インドシナ)、汕頭、福州などを次々に占領していった。同年に欧州で第二次世界大戦が始まると、東南アジアから英仏勢力が撤退し、それに乗じて日本はより南進政策を推し進めた。1940年に第2次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」の中で南方地域を自給圏と位置づけ、日本軍は南部仏印に進駐した。世界有数の海軍力をつけた日本は、ここに至ってアジアの国際秩序を打立てる野望をもったのであった。 しかし、この意欲的な日本の帝国膨張をアメリカは黙って見ているわけにはいかなかった。英国とオランダとともに日本に対して、対日資産凍結や対日石油輸出禁止措置など(ABCD包囲網)をおこなって、日本の膨張を抑えようとした。このアメリカの対日措置に対して日本は交渉による打開策を模索するものの、第二次大戦に参戦したいアメリカの術にはまり、アメリカとの戦争に突入したのであった。 1941年12月8日に、真珠湾攻撃により海戦の戦端が切られた。その後、日本海軍は太平洋において、バタビア海戦、セロイン海戦、珊瑚海海戦と戦線を拡大させていった。敗北への転機とされているミッドウェー海戦がおこなわれたのは1942年4月のことであった。しかし、これ以後日本海軍は負け続けたのではなく、第一次ソロモン海戦、南太平洋海戦、レンネル島沖海戦などで勝利した。しかし、戦争が長期化するにつれて、兵站が延び次第に疲弊していった。 1944年になると日本海軍は総崩れになる。マリアナ沖海戦で制海権を喪失、レイテ湾海戦で連合艦隊が事実上壊滅した。1945年4月7日に戦艦大和が沖縄へ海上特攻に向かう途中に撃沈され、日本軍が誇った連合艦隊は完全に消滅した。そして1945年8月15日に敗戦を迎え、大日本帝国は崩壊した。 日本は一見、大海洋国になったようであったが、実情は違っていた。明治以来、富国強兵を急ぎすぎたつけが回ってきたのであった。松村劭氏によると「制海権」とは「商圏を守る権力」と定義される。安定的な海上交通の利用を担保し、競争相手国(敵対国)の利用を排除する管制権力を備える必要がある。これを維持する手段は、「艦隊」と「基地」であるという。海軍力とは「艦隊+基地部隊の総和」なのである。しかしながら日本海軍はそのような設計がなされていなかった。日本海海戦圧勝の夢から覚めずに、大艦巨砲主義で、日本近海における艦隊決戦のために日本の艦隊は用意されていた。よって基地に対する考えや海上輸送に対する認識が乏しかった。日本の基地造営能力ははるかに劣っていたことが敗戦の原因の一つとされている。また海上輸送に対する重要性についても意識が低く、海上通商路に関する護衛思想がなかった。戦時中も商船隊に護衛をつけずに丸腰で航行させることもあった。その結果、陸軍20%や海軍16%という死亡率に比べて、戦争に借り出された船員の死亡率は2〜3倍の43%に昇り、海の藻屑と消えた。なんと約2人に1人という非常に高い割合で日本船員は命を落としたのであった。日本は急速に海軍を増強したが、海運・海軍思想が育っていなかった。アメリカやイギリスと比べると海洋国家としてあまりにも未熟であった。日本は国際(海洋)秩序をつくることができなった。
2017年06月19日 (月) 19時58分
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