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在留民苦難の逃避行 |
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From:菊池金雄 [/]
雄基市民の記録から 八月八日の夜、家々の灯が消え寝静まった深夜、突如大砲の轟音でまどろみが破られた。 起きあがって耳をすますと、張鼓峰のあたりのようで、国境で戦がはじまったような感じ である。早速関係方面に連絡しても、誰もソ連参戦の情報を得ていない。にもかかわらず 刻々と砲撃が激しくなるばかりだ。二十数キロ遠くと思えないほど砲撃音が強まってきた。 B29の空爆か、または米空母艦載機の空爆と思ったりしていた市民も、張鼓峰方面の 砲撃戦と気づいては、まさに腹背の敵から攻められる重大な事態に、背筋が寒くなった。 夜が明けると、待ちかまえたようにソ連機が超低空で、編隊を交替しながら、終日執拗 に在泊船や市街の銃爆撃を繰り返し、火炎のなかを逃げまどう市民をば、無差別に機銃掃 射を行った。 一転して戦禍に巻き込まれた市民は、先を争って裏の「かささぎ山」へ逃げた。また、 港内にいた船舶も、港の外に避難したが、撃沈される船も少なくない。 むろん味方高射砲も盛んに応戦したが、ソ連機を撃退できなかった。夜間は羅津要塞か ら幾条もの探照灯が照射され、一斉に砲門を開いたので、それっとばかり、かささぎ山の 市民はかたずをのんで敵機の撃退を念じた・・・・しかし、夜の十二時過ぎには火の消え たようにピタリと味方の攻撃が途絶えたてしまった・・・・・・日本軍はすでに退却しは じめていたのだと後で分かった。
羅津要塞司令部の特使は、全市民に「緊急避難をせよ」と言ってきた。警防団長、憲兵 隊長、軍留守隊長、郡守、巴長、警察署長などが協議を重ねた結果、全市民を鉄柱洞から 鹿野へ避難させることに決定した。 十日未明急遽、黙々と市民は大移動をはじめた。携行品は一〜二日分の食料と二〜三の 食器。着衣はふだん着のままが大半だった。 やがて市内の各所に火災が発生。またたくまに全市が火の海と化してしまった。それで も市民たちは、やがて日本軍が救援にくると固く信じていたのだった。 消防司令(吉田伊蔵)は強い責任感から二〜三の市民と市内の巡回や警察との連絡に当 たっていたが、十一日夕方、二隻の小型軍艦の入港を遠望「日本の軍艦がきた」と、こお どりして海岸へ走った。ところがぞろぞろ岸壁に上がってくるのはソ連軍で、出迎えた朝 鮮人たちと、にこやかに握手して勝利を喜び合っている様子だった。 翌十二日になると、張鼓峰方面を突破したソ連軍戦車が次から次へと市中に侵入。死の 街となった雄基全市は、完全にソ連軍の掌中に陥った。
雄基、羅津、清津は、北鮮の代表的な良港で、相互の距離も近く、それぞれが同じよう な運命をたどりつつ、いずれ日本軍の反撃で各自、わが家へふたたび戻れるものと思い込 んでいたのであった。 しかし、避難先の町々は皆ソ連機の空爆で火の海と化し、残っているのは茂山だけで、 ここには咸鏡北道庁の幹部が疎開し、道の防衛本部があった。 雄基、羅津、清津、阿吾地、会寧、冨寧など北鮮最北の町々から、茂山をめざす避難民 の群れが、野に山に延々とつづくのであった。 十二日未明に雄基を出たわれわれが、会寧を経て茂山に着くまでに九日間を費やしたの である。このため老人、女、子供たちは息もたえだえに重い足をひ引きずって歩るかなく てはならなかった。
やっと、ソ連機の襲撃を逃れてホッと息つく間もなく、携行した食糧はとっくに食べつ くしたので、はげしい飢えと、のどの渇きにあえぎだした。水で、のどをうるおしても、 胃の腑を充たす食べ物がないので、枝豆、トウキビをみつけると、もぎとって皆で分け合 い、いわば一粒の豆に命をつないだのである。 しかし、はるばるたどりついた茂山も、身をかくす場所ではなかった。ここに、各地か ら集まった避難民数は、約三万人だったが、次第にソ連軍が茂山に迫ってくるので、また どこかへ移動しなければならなかった。 そこで、次は延社がえらばれた。しかし、この避難民が移動を終えない先に、ソ連軍の 先遣隊がトラックで避難民を追い抜いて延社にはいってしまったのである。
命がけの善後策 延社のソ連軍は、ただちに道知事や道庁の最高幹部を拉致し、すべての警官を武装解除 した。幸い赴任後、日の浅い木野鉱工部長が残ったので、同部長を中心に各地区から代表 者を出し、今後の前後策を協議した。 一番は食糧の問題で「一万人以上の日本人が延社に居ては、ここの朝鮮人が食糧に困る ことになる」ということで、そこの治安維持会は「すみやかに立ち退いてもらいたい」と 要求するので、ここで今後の食糧補給は望めなくなった。 長時間、命がけの協議がなされ、死中に活をいかに求めるか、誰も断定できる確証を持 たなかった。 日本の敗戦を信じ切れない人も多く、もう今頃は元の住家に帰れるのではと主張するグ ループと。その望みを捨てたグループは、懸命に南下することを主張。人数的に大半を占 めた。 この、はっきり二分した意見では、もはや同一行動はできなく、それぞれ信ずる道を選 択するほかはなかった。かくしてお互い再会を祈り、延社を後にしたが、誰も行く先を確 定することはできなかった。 日本の敗戦を知った朝鮮人たちは、もはや宿を貸す好意をもたなかった。それは共産党 員からにらまれるのが恐ろしいからであった。一夜の宿はおろか、一升の米を売ることも ためらった。 いばらのみち・雄基ユーターン 雄基帰還組の一部は、山林鉄道で茂山で下車すると、ソ連人と朝鮮人から、時計・指輪 はもちろん、身につけためぼしいものを略奪されてしまった。 八月三十日、茂山から清津に着くと、ソ連軍から「十八〜四十五歳の男を出せ」と意外 な要求があり、後に残った老人と女子供たちだけに通行証明書を発行「雄基へ行って生業 につけ」と指示。肉親を拉致された切々たる悲しみも、雄基で待てば、また会う日もある と、互いに励まし合いながら、六百三十人ほどの群れが、北へ北へと歩きだした。 「また、歩くのか」と、泣きじゃくる子供をなだめ、一ヵ月近い逃避行の疲労と、ろく に食事もとらないための栄養失調から、途中でむなしく異境に屍をさらすものが次第に増 えた。人々は素手で土まんじゅうを作り、名もない草花を供え、追われるように北へと歩 いた。途中でソ連軍に連行される日本軍将兵の一行ともすれ違って、目と目で別離を交わ した。「この捕虜たちはどうなるのだろうか」と、後ろ姿を見送ったのであった。
さて、この老幼避難民に対し、雄基で待っていたものは、一わんのカユでも、一杯のお 茶でもなかった。九月九日午後、やっと戻った雄基の街は、一面の焼け野原で、焼け残っ た物は、すべて略奪され無惨な有り様だった。 一行は一夜、旧都旅館に仮寝して、翌日から白鶴洞の砲厰に押し込まれ「生業につく」 どころか、百メートル以上の移動を禁じられ、何一つ食物を与えず。皆、地べたの草でも 見つければ口へ入れた。世界のどこの国の監獄でも、食事なしの監禁は聞かない。という ことは「われわれを殺す考えに違えない」と、不安感がつのった。 やがて六名の委員が選ばれ、ロシア語のうまいT氏の通訳でソ連軍と交渉しても、いつ も煮え切らぬ返答ばかりだった。 病人の衰弱。一滴の乳もでない母親の乳房にすがり、かぼそい泣き声が止んだら亡くな る・・・・・・人びとは、この生き地獄・・・・・絶望の断崖にたたされたままの二十日 後、さすがソ連軍も見かねたのか、一同を満鉄の社宅へ移した。六畳に十人くらいの割当 で、何とか足腰をのばすことができた。 ところが、飢えよりも悲しい、卑劣なソ連兵の魔の手が、夜毎婦人たちを襲い、一同は 全身の血を逆流させて怒りに燃えても、年寄りと子供では腕をふるうすべもなく、弱みに つけいるソ連兵の残忍さに、わが力のおよばぬくやしさを皆いくたびか相擁して悲憤の涙 にくれるばかりだった。
二月になって、はじめて外出労働が許され、皆、きそって雑役で低賃金を手にした。さ らに三月から、ソ連軍から白米が配給された。 四月には一同で仮墓地をつくり、死者の火葬をソ連軍に具申したが聞き入れられず、や むなく、遺髪をこの墓地に葬った。 七月にはいってソ連軍から「外で自由に働いてよい」との許可がでた。ふりかえると、 一年間、惨憺たる生き地獄に身をおき、祖国からはいまだ何らの救援もなく、再度酷列な 北鮮の冬を迎えることは到底耐えられないことであった。 しかも一行は、昨年夏の空襲下の脱出で、身につけているものは薄い夏衣だけだった。
ひそかに脱出を画策 母国から救援の手がのびないのであれば、自分たちから脱出する手段を模索しょうと、 有志で内密に協議することになった。 それには、各地残留の日本人グループとも接触して、脱出策を研究して、その準備をす すめる必要があった。 そこで、ソ連軍から代表二人の咸鏡北道内の旅行許可うけ、まず清津に行ったところ日 本人は既に引き揚げていたので、次に城津に廻った。幸い此処には高周波工業の人びとが 居残っていて、私たちを心からねぎらってくれた。 そこへ首尾よく咸興からM氏も来あわせ、いろいろ周辺の様子を尋ねてみたところ、羅 津、阿吾地にも、まだ若干の日本人が残留しているが、どこの日本人も惨憺たる境遇下に あることが分かった。 それでこの人達とも共に脱出する決心をして、帆船五隻を雄基に、二隻を羅津に配船す る手配をすることになった。 船賃三十五万円余りの調達は容易でなかったが、帰国のためにはと、元気百倍して皆、 夢中で働きだした。 雄基の日本人は百余人の死者を出し、その後、西水羅と古乾原などから身を寄せた組も あり、合計五百六十五名に達し、その全員が脱出しようというのである。
雄基脱出 十月まもなく、M氏らの一行が雄基を訪問、ソ連軍に「江原道の襄陽へ移住方要請」し てくれて、十五日夜半から十八日にかけて、逐次船に乗って脱出したのであった。 暁闇の海上から、雄基のあたりを遠望。皆、万感胸に迫るものがあった。しかし、平穏 な船旅ではなかった。 二日後に、船員たちの居住地、泗浦に寄港すると「船頭が抑留」され、一同、肝を冷や した。理由は「選挙前にヤミ船かせぎ」は、けしからんと、船頭が追求され、「選挙前に 必ず戻る」と約束。保証金五十円で出帆が許可され、胸を撫でおろしたのであった。 ところが翌日は大暴風になり、船は木の葉のように波にほんろうされ、帆が裂けて、前 進ができなくなったので、新浦の島陰で帆の修理をしょうとしたら、ここの海上保安隊に 船頭と日本人代表者が留置され、いろいろ追求されたので、「南下の特別許可をうけた」 と答えたら、「その許可証を出せ」と迫り、許可証が無いとみると「全員下船して、元の 居住地に陸路歩いて帰れ」と厳命。「全員が病人でね動けない」と二日間拒みつづけたら 「そのまま雄基へ帰れ」と三千円渡して、何とか許された。 しかし、やっとのことで此処まで来て再度雄基に戻るなら、もはや「生きて祖国の土を 踏む日はない」であろうと、一同は心のうちを船頭に訴え、へさきを南に向けてもらった。 用意した一週間の水と食糧は三日前になくなり、空腹の苦しさも、船の針路をみて霧散 し、一刻も早く北緯三十八度線越えを「まだかまだか」と、地形確認のため岸に寄ったら 保安隊員に怪しまれ、船員二人が重軽傷を負った。 波浪で船が、陸岸三十メートルに圧流されたため、保安隊の疑念がたかまり、射撃が一 層はげしくなり、全員が船底にへばりつき、責任者三人がしゃにむに帆をゆさぶり、舵を 動かしたら、船は次第に沖合に走りだし、まさに天佑で、保安隊の射撃もついに止んだ。 「助かった、助かった」と相抱いて喜びをわかち合った。 おりから、中天の月が、みがきすましたように輝きわたり、一人が天を仰ぎ、謡曲「船 弁慶」を朗々とうたいだしたのであった。 かくして、十一月二日、三十八度線を突破して注文津に入港し、半月間の苦闘の幕を閉 じた。 ただちに、当地の米軍から温かいスープが全員に配られ。病人はすぐ病院に収容された のであった。 それから一週間後、はるか海上から日本の引揚船が、船尾に「日の丸の国旗」をはためはためはため かして入港してきた。・・・みな、我を忘れ・・・涙にむせぶばかりだった。
2019年07月04日 (木) 15時58分
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