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「硝煙の海」談話室

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[1190] 在留民苦難の逃避行
From:菊池金雄 [/]

  雄基市民の記録から
 八月八日の夜、家々の灯が消え寝静まった深夜、突如大砲の轟音でまどろみが破られた。
起きあがって耳をすますと、張鼓峰のあたりのようで、国境で戦がはじまったような感じ
である。早速関係方面に連絡しても、誰もソ連参戦の情報を得ていない。にもかかわらず
刻々と砲撃が激しくなるばかりだ。二十数キロ遠くと思えないほど砲撃音が強まってきた。
 B29の空爆か、または米空母艦載機の空爆と思ったりしていた市民も、張鼓峰方面の
砲撃戦と気づいては、まさに腹背の敵から攻められる重大な事態に、背筋が寒くなった。
 夜が明けると、待ちかまえたようにソ連機が超低空で、編隊を交替しながら、終日執拗
に在泊船や市街の銃爆撃を繰り返し、火炎のなかを逃げまどう市民をば、無差別に機銃掃
射を行った。
 一転して戦禍に巻き込まれた市民は、先を争って裏の「かささぎ山」へ逃げた。また、
港内にいた船舶も、港の外に避難したが、撃沈される船も少なくない。
 むろん味方高射砲も盛んに応戦したが、ソ連機を撃退できなかった。夜間は羅津要塞か
ら幾条もの探照灯が照射され、一斉に砲門を開いたので、それっとばかり、かささぎ山の
市民はかたずをのんで敵機の撃退を念じた・・・・しかし、夜の十二時過ぎには火の消え
たようにピタリと味方の攻撃が途絶えたてしまった・・・・・・日本軍はすでに退却しは
じめていたのだと後で分かった。

 羅津要塞司令部の特使は、全市民に「緊急避難をせよ」と言ってきた。警防団長、憲兵
隊長、軍留守隊長、郡守、巴長、警察署長などが協議を重ねた結果、全市民を鉄柱洞から
鹿野へ避難させることに決定した。
 十日未明急遽、黙々と市民は大移動をはじめた。携行品は一〜二日分の食料と二〜三の
食器。着衣はふだん着のままが大半だった。
 やがて市内の各所に火災が発生。またたくまに全市が火の海と化してしまった。それで
も市民たちは、やがて日本軍が救援にくると固く信じていたのだった。
 消防司令(吉田伊蔵)は強い責任感から二〜三の市民と市内の巡回や警察との連絡に当
たっていたが、十一日夕方、二隻の小型軍艦の入港を遠望「日本の軍艦がきた」と、こお
どりして海岸へ走った。ところがぞろぞろ岸壁に上がってくるのはソ連軍で、出迎えた朝
鮮人たちと、にこやかに握手して勝利を喜び合っている様子だった。
 翌十二日になると、張鼓峰方面を突破したソ連軍戦車が次から次へと市中に侵入。死の
街となった雄基全市は、完全にソ連軍の掌中に陥った。

 雄基、羅津、清津は、北鮮の代表的な良港で、相互の距離も近く、それぞれが同じよう
な運命をたどりつつ、いずれ日本軍の反撃で各自、わが家へふたたび戻れるものと思い込
んでいたのであった。
 しかし、避難先の町々は皆ソ連機の空爆で火の海と化し、残っているのは茂山だけで、
ここには咸鏡北道庁の幹部が疎開し、道の防衛本部があった。
 雄基、羅津、清津、阿吾地、会寧、冨寧など北鮮最北の町々から、茂山をめざす避難民
の群れが、野に山に延々とつづくのであった。
 十二日未明に雄基を出たわれわれが、会寧を経て茂山に着くまでに九日間を費やしたの
である。このため老人、女、子供たちは息もたえだえに重い足をひ引きずって歩るかなく
てはならなかった。

 やっと、ソ連機の襲撃を逃れてホッと息つく間もなく、携行した食糧はとっくに食べつ
くしたので、はげしい飢えと、のどの渇きにあえぎだした。水で、のどをうるおしても、
胃の腑を充たす食べ物がないので、枝豆、トウキビをみつけると、もぎとって皆で分け合
い、いわば一粒の豆に命をつないだのである。
 しかし、はるばるたどりついた茂山も、身をかくす場所ではなかった。ここに、各地か
ら集まった避難民数は、約三万人だったが、次第にソ連軍が茂山に迫ってくるので、また
どこかへ移動しなければならなかった。
 そこで、次は延社がえらばれた。しかし、この避難民が移動を終えない先に、ソ連軍の
先遣隊がトラックで避難民を追い抜いて延社にはいってしまったのである。

  命がけの善後策
 延社のソ連軍は、ただちに道知事や道庁の最高幹部を拉致し、すべての警官を武装解除
した。幸い赴任後、日の浅い木野鉱工部長が残ったので、同部長を中心に各地区から代表
者を出し、今後の前後策を協議した。
 一番は食糧の問題で「一万人以上の日本人が延社に居ては、ここの朝鮮人が食糧に困る
ことになる」ということで、そこの治安維持会は「すみやかに立ち退いてもらいたい」と
要求するので、ここで今後の食糧補給は望めなくなった。
 長時間、命がけの協議がなされ、死中に活をいかに求めるか、誰も断定できる確証を持
たなかった。
 日本の敗戦を信じ切れない人も多く、もう今頃は元の住家に帰れるのではと主張するグ
ループと。その望みを捨てたグループは、懸命に南下することを主張。人数的に大半を占
めた。
 この、はっきり二分した意見では、もはや同一行動はできなく、それぞれ信ずる道を選
択するほかはなかった。かくしてお互い再会を祈り、延社を後にしたが、誰も行く先を確
定することはできなかった。
 日本の敗戦を知った朝鮮人たちは、もはや宿を貸す好意をもたなかった。それは共産党
員からにらまれるのが恐ろしいからであった。一夜の宿はおろか、一升の米を売ることも
ためらった。
  いばらのみち・雄基ユーターン
 雄基帰還組の一部は、山林鉄道で茂山で下車すると、ソ連人と朝鮮人から、時計・指輪
はもちろん、身につけためぼしいものを略奪されてしまった。
 八月三十日、茂山から清津に着くと、ソ連軍から「十八〜四十五歳の男を出せ」と意外
な要求があり、後に残った老人と女子供たちだけに通行証明書を発行「雄基へ行って生業
につけ」と指示。肉親を拉致された切々たる悲しみも、雄基で待てば、また会う日もある
と、互いに励まし合いながら、六百三十人ほどの群れが、北へ北へと歩きだした。
 「また、歩くのか」と、泣きじゃくる子供をなだめ、一ヵ月近い逃避行の疲労と、ろく
に食事もとらないための栄養失調から、途中でむなしく異境に屍をさらすものが次第に増
えた。人々は素手で土まんじゅうを作り、名もない草花を供え、追われるように北へと歩
いた。途中でソ連軍に連行される日本軍将兵の一行ともすれ違って、目と目で別離を交わ
した。「この捕虜たちはどうなるのだろうか」と、後ろ姿を見送ったのであった。

 さて、この老幼避難民に対し、雄基で待っていたものは、一わんのカユでも、一杯のお
茶でもなかった。九月九日午後、やっと戻った雄基の街は、一面の焼け野原で、焼け残っ
た物は、すべて略奪され無惨な有り様だった。
 一行は一夜、旧都旅館に仮寝して、翌日から白鶴洞の砲厰に押し込まれ「生業につく」
どころか、百メートル以上の移動を禁じられ、何一つ食物を与えず。皆、地べたの草でも
見つければ口へ入れた。世界のどこの国の監獄でも、食事なしの監禁は聞かない。という
ことは「われわれを殺す考えに違えない」と、不安感がつのった。
 やがて六名の委員が選ばれ、ロシア語のうまいT氏の通訳でソ連軍と交渉しても、いつ
も煮え切らぬ返答ばかりだった。
 病人の衰弱。一滴の乳もでない母親の乳房にすがり、かぼそい泣き声が止んだら亡くな
る・・・・・・人びとは、この生き地獄・・・・・絶望の断崖にたたされたままの二十日
後、さすがソ連軍も見かねたのか、一同を満鉄の社宅へ移した。六畳に十人くらいの割当
で、何とか足腰をのばすことができた。
 ところが、飢えよりも悲しい、卑劣なソ連兵の魔の手が、夜毎婦人たちを襲い、一同は
全身の血を逆流させて怒りに燃えても、年寄りと子供では腕をふるうすべもなく、弱みに
つけいるソ連兵の残忍さに、わが力のおよばぬくやしさを皆いくたびか相擁して悲憤の涙
にくれるばかりだった。

 二月になって、はじめて外出労働が許され、皆、きそって雑役で低賃金を手にした。さ
らに三月から、ソ連軍から白米が配給された。
 四月には一同で仮墓地をつくり、死者の火葬をソ連軍に具申したが聞き入れられず、や
むなく、遺髪をこの墓地に葬った。
 七月にはいってソ連軍から「外で自由に働いてよい」との許可がでた。ふりかえると、
一年間、惨憺たる生き地獄に身をおき、祖国からはいまだ何らの救援もなく、再度酷列な
北鮮の冬を迎えることは到底耐えられないことであった。
 しかも一行は、昨年夏の空襲下の脱出で、身につけているものは薄い夏衣だけだった。

  ひそかに脱出を画策
 母国から救援の手がのびないのであれば、自分たちから脱出する手段を模索しょうと、
有志で内密に協議することになった。
 それには、各地残留の日本人グループとも接触して、脱出策を研究して、その準備をす
すめる必要があった。
 そこで、ソ連軍から代表二人の咸鏡北道内の旅行許可うけ、まず清津に行ったところ日
本人は既に引き揚げていたので、次に城津に廻った。幸い此処には高周波工業の人びとが
居残っていて、私たちを心からねぎらってくれた。
 そこへ首尾よく咸興からM氏も来あわせ、いろいろ周辺の様子を尋ねてみたところ、羅
津、阿吾地にも、まだ若干の日本人が残留しているが、どこの日本人も惨憺たる境遇下に
あることが分かった。
 それでこの人達とも共に脱出する決心をして、帆船五隻を雄基に、二隻を羅津に配船す
る手配をすることになった。
 船賃三十五万円余りの調達は容易でなかったが、帰国のためにはと、元気百倍して皆、
夢中で働きだした。
 雄基の日本人は百余人の死者を出し、その後、西水羅と古乾原などから身を寄せた組も
あり、合計五百六十五名に達し、その全員が脱出しようというのである。

  雄基脱出
 十月まもなく、M氏らの一行が雄基を訪問、ソ連軍に「江原道の襄陽へ移住方要請」し
てくれて、十五日夜半から十八日にかけて、逐次船に乗って脱出したのであった。
 暁闇の海上から、雄基のあたりを遠望。皆、万感胸に迫るものがあった。しかし、平穏
な船旅ではなかった。
 二日後に、船員たちの居住地、泗浦に寄港すると「船頭が抑留」され、一同、肝を冷や
した。理由は「選挙前にヤミ船かせぎ」は、けしからんと、船頭が追求され、「選挙前に
必ず戻る」と約束。保証金五十円で出帆が許可され、胸を撫でおろしたのであった。
 ところが翌日は大暴風になり、船は木の葉のように波にほんろうされ、帆が裂けて、前
進ができなくなったので、新浦の島陰で帆の修理をしょうとしたら、ここの海上保安隊に
船頭と日本人代表者が留置され、いろいろ追求されたので、「南下の特別許可をうけた」
と答えたら、「その許可証を出せ」と迫り、許可証が無いとみると「全員下船して、元の
居住地に陸路歩いて帰れ」と厳命。「全員が病人でね動けない」と二日間拒みつづけたら
「そのまま雄基へ帰れ」と三千円渡して、何とか許された。
 しかし、やっとのことで此処まで来て再度雄基に戻るなら、もはや「生きて祖国の土を
踏む日はない」であろうと、一同は心のうちを船頭に訴え、へさきを南に向けてもらった。
 用意した一週間の水と食糧は三日前になくなり、空腹の苦しさも、船の針路をみて霧散
し、一刻も早く北緯三十八度線越えを「まだかまだか」と、地形確認のため岸に寄ったら
保安隊員に怪しまれ、船員二人が重軽傷を負った。
 波浪で船が、陸岸三十メートルに圧流されたため、保安隊の疑念がたかまり、射撃が一
層はげしくなり、全員が船底にへばりつき、責任者三人がしゃにむに帆をゆさぶり、舵を
動かしたら、船は次第に沖合に走りだし、まさに天佑で、保安隊の射撃もついに止んだ。
「助かった、助かった」と相抱いて喜びをわかち合った。
 おりから、中天の月が、みがきすましたように輝きわたり、一人が天を仰ぎ、謡曲「船
弁慶」を朗々とうたいだしたのであった。
 かくして、十一月二日、三十八度線を突破して注文津に入港し、半月間の苦闘の幕を閉
じた。
 ただちに、当地の米軍から温かいスープが全員に配られ。病人はすぐ病院に収容された
のであった。
 それから一週間後、はるか海上から日本の引揚船が、船尾に「日の丸の国旗」をはためはためはため
かして入港してきた。・・・みな、我を忘れ・・・涙にむせぶばかりだった。

2019年07月04日 (木) 15時58分


[1189] 浜邊の歌
From:菊池金雄 [/]

http://j-lyric.net/artist/a00126c/l013294.html

2019年07月02日 (火) 16時57分


[1188] 青春の航跡十万海里
From:菊池金雄 [/]

       平成23年   菊池金雄
表題は小著「硝煙の海」の副題で、戦前戦中戦後乗組んだ不定期貨物船の概略総行程であるが、この距離は地球を46周したことに匹敵する。
 今日、往時を回顧すると、職場そのものが異動するので距離感よりも航海日数だけが頭にあったように思う。
乗船した各船は大同海運鰍フ不定期船で、国内の大半の港に出入りしたが、ほとんどが沖荷役のため、上陸はサンパン(通船)を利用しなければならなかった。
 戦前は北米航路にも就航し、北太平洋の荒波を肌で感じ、畳の感触が恋しくなったものである。
アメリカでは何処の港もバースに着岸できたのは、港湾設備が完備していたからであったろう。一番驚いたのは荷役人夫全員がマイカー出勤だったことで、ことほど左様に生活レベルの格差を肌で実感させられたのであった。
街に出ると・・・米国人は平気で日本人? 中国人?と尋ね・・・日本人と応えると何か一目おくような感じだった。仲間が素敵な日本女性だと思って路を尋ねたら・・・ノーコメント・・・多分中国女性だったのだろう。
オレゴン州ポートランド港の製材工場バースに着岸したとき、中国人風労働者がうろうろしてから・・・私達はこの工場の日本人だが、最近の日本の様子を伺いたいので、すぐ傍の宿舎にきてほしいとのこと、おやすいご用とばかり殺風景な木造宿舎にお邪魔し・・・なぜうろうろしたのかと聞いたら、日本船だから日本人船員と思ったが、中国人のように感じたとのことで、お互いに苦笑したのだった。
私設ラジオ局から日本の歌謡曲が流れ・・・郷愁に浸っていたようで、開口一番・・・日米関係を懸念したので「万一、開戦しても日本には神風が吹くから心配無用」と応じた記憶があるが、今日、往時を顧みるとき・・・在米の日本人は米国の国力を知悉していただろうから、自身の不明に恥じ入るばかりである。(このポートランドの想い出は2010年仙台経済界誌11−12月号に掲載された)
入港と同時に税関吏員が来るが、用務が済むと、マイカーでラジオを聴いて、部外者の乗り降りなどは無頓着・・・一般市民が気軽に船を見学にきていた。日本や後進国の税関のように、船内に居座って接待に応ずることは無かった。
しかし、開戦直前には身分証明書無しでは上陸ができなくなってきたのは当然の成り行きであったのだろう。
余談だが、私は戦後海上保安庁に転職。釜石保安部在勤時に、大同海運の新造船高長丸が入港したので、旧知の西山通信長を表敬・・・彼の好意で家族に船を見学させてくれることになり、改めて友人家族も誘って税関ゲートに入ったら制止されたので、事情を説明したところ、意外にも乗船を拒否され・・・遂に海上保安官の面子もあって口論になってしまった。私達の来船が遅いので西山通信長が出迎えにきて、別ルートからやっと船を見学することができた苦々しい裏話があった。税関側の見学拒否の理由は「荷役中で危険」とのこと・・・子供でもあるまいし馬鹿げたこじつけであった。
 話が前段に戻るが、当時アメリカの電信電話事業は民営で、各社のセールスマンが○○ルートは当社がベターなどと勧誘。他方船舶無線設備監督官憲が、予備電源である蓄電池の電圧をチエックしたのには苦笑させられた。この電池保守は私の担当で自信をもっていたのであった。
 一隻の乗船期間は長くて二年くらい。当然乗下船地も不特定で、北海道から九州の港々だった。したがってこの間の鉄道旅程も相当の距離になるが新天地に行く気分でのんびりと沿線風景を満喫できたように思う。
 下船後は自宅で待機し、乗船指令電報で赴任するため、会社に出向いたのは数回のみ。かつ、関西弁が苦手のため配乗係りとの面識もゼロに等しかった。

 昭和十九年十月戦時標準船2ET型タンカー、昭豊丸(八百八十トン)が南方で米軍機に爆沈され、マニラ〜高雄経由で奇跡的に無事門司に帰還。帰郷途次神戸本社に真っ黒な顔で出頭したところ、偶然、久木原大先輩に出合い、元町で乾杯した想い出がある。
 当時適齢の男性が戦場にかりだされ、会社の女子社員も配偶者難だったようで、久木原氏の事後談・・・○○子に菊池がどうか? と打診したら「あんな真っ黒な人はきらい」とのこと・・・まあ七ヶ月も南方焼けではさもありなん・・・
 ところが運命とは摩訶不思議を実感するなど夢にも思わなかった・・・久木原氏と元町で飲酒後、会社の無線監督、簗瀬氏宅に伺うことになり、のこのこ同道して初顔合わせしたのだった。簗瀬氏は青森出身の先輩で、朴訥な人柄に魅せられ、若輩にもめげず、前線で責務を果たした自負心で両先輩と対等に懇談していたら、丁度、奥さんの妹(OL)さんが一寸顔を出した折・・・久木原氏曰く・・君・・このお嬢さんと出会うのが遅かったね・・・もうK君と婚約済みなのだ・・・とのこと。 飲むほどに睡魔に襲われ遂に私は簗瀬氏宅に一泊させてもらうことになったのだった。ともあれ布団にもぐったら足元に湯たんぽが入れてあり奥様の気遣いにズーンとした。
 翌朝、はるばる岩手の古里に向かったのだが、沿線の戦禍の印象薄弱は南方ボケか?
戦時下の船員は軍属扱いなるも、一端下船すると単なる予備員となり、次に乗る船が決まるまで自宅待機するのだった。そんな訳で、会社の船の動静など皆目不祥で、どの船が戦没したか否かなど知るすべもなかった。 当時、国内は砂糖不足で、台湾土産の金平糖は珍重され、親戚の幼児も喜んでくれたのは幸いだった。
 戦禍船員の場合四ヶ月も自宅待機したので適齢男子が目立ち、仲人から結婚話しがあり、吉日に挙式内定の途端、乗船命令がきたので仲人に結婚中止を申し出たところ、何とかならないのかとのこと・・・結婚は人生の節目でもあるので、会社に事由を付して乗船不可と打電し、早めに挙式したものの、一週間後に再度乗船指令電報がきたので後ろ髪を惹かれる思いではるばる神戸本社に出頭したのだった。
 前日、前記の簗瀬宅に一泊したら、件のK君と簗瀬夫人の妹さんも結婚ほやほやで近所に住んでいるから立ち寄ってみたらのアドバイスがあり、翌日会社に行く前に新婚宅を表敬したのだった・・・お互い名前は知悉しているが対面ははじめてで、彼はこれから横須賀での海軍電探講習に参加するとのことで、私は早々に辞去して会社に行ったら「K氏は爆死したようだ」・・・とのこと。私はさっき彼に会ったばかりだから信じられないと答え・・・玉野ドックで艤装中の向日丸(むかひまる)に向かったのだった。
 この船は2A型戦時標準船(6800トン)で若輩の通信長配置は解せないが、戦時特例だったのだろう。小川次席通信士と小野三席通信士は私より先に着任していた。小川通信士は戦没経験があったのか、戦没時の応急食として鰹節携行と語り、感服した。この両名はじめ、船長以下の各士官全員が初対面だった。事後耳にしたが本船の乗組員は、さきに戦没した天日丸や春天丸組みとのことで、おそらく大半が戦禍体験者だったようであるが誰一人戦没体験を口にしなかった。
 本船には若干の対空・対潜武装もあり海軍警戒隊が乗組み、隊長は学卒の海軍少尉で、更に釜山で那和陸軍見習士官(その後少尉に任官)が通信連絡将校として乗り込んだ。
当時瀬戸内海はじめ主要港湾は米軍の機雷投下作戦のため触雷する船が続発して薄氷の海そのものであった。
 船長は老練な西豊船長(60歳、前春天丸船長)で不思議に機雷源を無事突破して  
日号作戦(太平洋戦争末期に日本が陸海軍合同で行った、日本海における戦略物資の海上輸送作戦のことである。食糧事情が悪化する中、本土決戦に備え、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮半島から日本本土へ可能な限りの食糧などを輸送)に参加。北鮮の羅津港でソ連参戦となり駄目かと観念していたが、追撃のソ連雷撃機を振りきり、終戦二日後に無事舞鶴に帰還できた。
 実は羅津で小川次席通信士が突然喀血したため自室で安静させていたが、在港商船隊が次々と被弾〜沈没の修羅場となったため船長以下幹部で協議して最寄りの満鉄病院に入院させることになり、本人の同意も得て、小野三席通信士が付き添え入院させ、彼の身の安全を図った。その後船長も弾片で頸部を負傷したため担架で同病院に搬送された。実は船長が負傷したとき私は船長の傍らにいたので危機一髪で難を遁れたのだった。
着岸のままではむざむざ被弾するばかりにもかかわらず、軍側から港外への避難指令も無かったが、やっと翌朝に南鮮への脱出指令があり、幸い船長も軽傷で復船したので急遽港外に出た途端、ソ連機から爆撃されたが、本船警戒隊が必至に反撃して撃退。幸い、途中から救援にかけつけた第82号海防艦と合流した途端にソ連雷撃に襲われ、該海防艦が敵機3機撃墜後、不運にも被雷・・・轟沈。向日丸は必至に生存海兵を救助して城津に揚陸させ、単船で元山まで避難。ここから船団で舞鶴に向かって終戦二日後に無事帰還できたのであった。
 私は早速、船長に交代を申し出たら「君・・・こんなときはもう少し先行きを確かめてから行動すべき」と諭され、やむなく船務がてら神戸本社に出向き、直接交代者の根回しを図り、その際も神戸の簗瀬氏宅に一泊。
奥様から「菊池さんは運の良い方」とのお話しがあった。それは、妹さんがK君と結婚早々神戸の空襲時、避難した防空壕が直撃弾をうけ、ご両人とも爆死なされた由で、私は心中・・・もし彼が私の代わりに向日丸に乗れば、あるいは無事でなかったろうかとも・・・また、彼を訪問時に長話ししていたら私も爆死したかもと運命の機微を回顧するばかりだった。
 終戦の混乱下、運航指示もなく無為に舞鶴に係留、十一月後任の久木原先輩が着任。事務引継ぎ後私は帰郷途次、栃木県小山の小川通信士留守宅に立ち寄り、彼の入院経緯を縷々説明・・・向日丸は到底無事帰還できるような状況でなかったことを報告し、職務上の責務を果たし、事後の小川氏の動向は会社で把握して、彼の留守宅に伝えるものと信じていた。しかしその後、自身の戦記を編むに当り、彼の動向を把握すべく合併先の会社や神戸の同友会(大同海運外B会)に問い合わせても、当時の記録無しとのことであった。更に各図書館で情報収集に努め、偶然に宮城県図書館で「戦時徴用船の最後」という画集に注目、企画元の(財)日本殉職船員顕彰会に彼の情報の有無を問い合わせたところ、彼は昭和20年8月10日羅津で戦没と確認。毎年5月に横須賀市観音崎にある戦没船員の碑で追悼式があることを知り、以後、毎年参列して彼のご冥福を念じた。
 因みに昭豊丸と向日丸の戦記は平成二十一年七月「別冊正論Extra.11」71頁に「戦火の海を挺身」のタイトルで掲載された。
 他方、向日丸が第82号海防艦生存者救出について海軍側や大同海運に何等の記録が無かったが、平成二十一年光人社NF文庫「戦時船員達の墓場」第六章「ソ連機との戦い」に収録された。
 私が戦時中乗り組んだ商船は5隻で、生き残ったのは最後の向日丸だけとは正に強運だったと思う。
 戦後余話
 自宅待機四ヵ月後の昭和21年4月に、船舶運営会(戦時海運管理令により、昭和十七年四月に設立された。 陸海軍及び官庁船を除く百総トン以上の汽船と一五〇トン以上の機帆船を一元的運営・船舶と乗組員の国家管理機関)から広海汽船鰍フ広久丸(2200トン)に室蘭で乗船せよとの指令があった。青函連絡船より早く出港する貨物船に便乗して函館経由室蘭で広久丸に行ったところ、交代者の要求していないと言うので現地の船舶運営会に「私は自宅に戻る」と断ったところ、東京本部に確認すたるから一寸待て・・・とのこと。
結果は乗船すべしとなり、前任者は不承不承下船。自身としても居心地がよくないので一航海で下船したら、くだんの前任者がにこにこして再乗船とは、戦後の粗雑な配乗事務に由来するものであろう。当時、系列会社単位で配乗し、必ずしも自社船に乗る訳ではなかった。以来7隻に乗船。高和丸で、満30歳になったので転職を決意し、昭和26年8月海上保安庁に転職したのだった。 その際、会社に根回ししないで退職届を提出したため、会社から・・・何か不満があれば相談に応ずるとの書状が舞い込み、あわてて一身上・・・と釈明して円満退職するという後日談もあった。
 付記  自分史「硝煙の海」は目下在庫がありませんが図書館ルートで閲覧できます。また、http://www.geocities.jp/kaneojp/ でも公開しています。(現在のアクセス12万)

2019年07月02日 (火) 15時55分


[1187] 第二回大同海運「高友会」
From:菊池金雄 [/]

初参加の弁
仙台市 菊池金雄(84歳)

 去る10月27日 第二回大同海運「高友会」有志懇親会(甲板部員主体、今回の参加者40名)が開催されたので、体調を整え遠路参加させていただいた。
 実はこの懇親会の発端は、私の拙い自分史「硝煙の海」のホームページから忽然と盛り上がった様子なので是非一回だけでも参加したいと思い、世話人の渡辺さんにかねて根回していたのであった。
 ところが日程が迫ったら、老体が不調気味となり急遽投薬し、辛うじて西下することができたのは幸いだった。
 田舎老人のひとり旅は不案内がつきまとい、都度、誰彼・彼女を問わず尋ねまわり、何とか会場の神戸市しあわせの村、たんぽぽの家に辿り着くことができた。
 ロビーの同会受付で名札をつけた途端、初対面の若手OBから声がけがあった。彼とはインターネットで接触があっても顔合わせは初めてで、戦後の向日丸がらみの興味ある話題や某通信長の写真など見せてくれた。
 割り当ての四人部屋には、戦時向日丸仲間の一人野口氏も同室で、すぐ往時の昔話に花が咲いた。開宴まで時間があったので、別棟のジャングル風呂温泉に同室の一人と出かけたが、この広大な福祉村には様々な個別棟が多数あり、尋ねながらやっと入浴することができた。
 いい気分で宿所に向かったものの 日は暮れて方角の見当がつかず 2〜3人に尋ねて
湯冷めの体で戻ったら 開会に遅刻し、一同が首を長くして待っていて 恐縮の巻。
 冒頭、この会の代表者で最長老(94歳)の浦本意気三氏の開会の挨拶。対、物故者黙祷のあと、突然私へ一言をと指名され「昔日の同船者の顔を忘れ ご無礼を謝す」など参会の背景をコメントした。
 席の右は浦本氏。左は向日丸OBの小島氏で 実に和やかな雰囲気で進行。初対面のOB
数人からホームページ見たとか。奥さんが、船の見学にきた会社の元OLとか、エピソードも披露・・・船乗りは皆正直だナーと、己の青春時代を回顧したことである。
 浦本氏とは初対面であるが、かねて長嶋氏から高栄丸が戦後、日本船の南米第一船就航時の甲板長で、いわゆる大同のスーパーボースンとして高名の方と伺っていたので、長嶋氏経由で拙著を謹呈させていただいた経緯があったが、その長嶋氏も昨年逝去されたので同席が叶わなかったことは大変残念であった。
 私は、今回のため拙著関係の新聞記事や、若干の資料などを携行。興味ある有志に閲覧してもらうつもりのところ、前記のとおり遅刻したため部屋から持出さなかのは失敗だったが、昔同じ釜の飯を食べた仲間との半生記余の再会は=命の洗濯効果大で体調も上向き、翌朝のバイキング朝食も美味しく、超満足な懇親会を設定してくれた渡辺世話人の熱意に感謝したいと思う。
 なお、岡山市在住の元向日丸三席通信士、小野明氏とは、同窓会名簿のお陰で昨年59年ぶりに再会。積年の旧交を温めたが、その後で入院加療して退院。日が浅いのに、この懇親会に距離が近いので参加意向のところ、再度不調となり再会できないのは残念だった。はるかに彼の快癒と、参加者各位の更なるご健勝を念じてレポートを結ぶ。

2019年07月01日 (月) 16時50分


[1186] 戦時商船運航の実態 
From:菊池金雄 [/]

                           
 私は昭和19年4月10日 石川島播磨造船所で、工期35日で建造の戦時標準2ET型タンカー昭豊丸(880トン)に乗船、近海に就航したら漏水するような粗製乱造の船だった。一応ドックで補修後、陸軍徴用船となり、単船でシンガポール(当時、昭南島と呼称していた)派遣が下命された。
 単船で台湾の台北経由、マニラに向かった。幸いバシー海峡も空船のためか敵潜に襲われず無事マニラに到着。当時、同港には大型商船隊が在泊していて兵站基地の威容があった。
 マニラの暁部隊から、シンガポールでなく、ボルネオのミリ〜マニラ間油送に変更指令を受け、またまた単船でミリに向かった。
 ミリでは沖がかりのまま油送管でC重油を搭載、老朽タンカー共同丸(1000トン)と二隻船団に陸軍の護衛船(中国の拿捕船)が同航してマニラに向かったが、スルー海で該護衛船から、昭南島でドック入りすると称して護衛を中断する旨通告されたので、両船側は護衛なしでは続行至難と抗議したら、航空機の間接護衛をさせる旨を返答したので、一夜パラワン島北辺で仮泊。翌朝抜錨〜朝食中に爆音がしたので味方航空機と思ったら敵の哨戒機が襲ってきたので、船橋楼の14、5ミリ機銃で必至に警乗の海軍兵が応戦したため敵機は高度から爆弾投下・・・ドカドカーンと船体が一瞬浮き上がり、エンジンストップ。二発目の至近弾で船体が亀裂・・・沈下のため、船長が「総員退船」を下命・・・甲板部員はすばやく救命艇を降下・・・沈没寸前に全員移乗したら、敵機は救命艇への機銃掃射態勢に入ったので・・・船長が「各自泳ぎながら散開せー」の指令がとぶ。
 同航の共同丸は船首楼に陸軍の野砲を装備していたので難を逃れ・・・敵機退散後我々を救助・・・近くのブスアンガ島コロン陸軍基地に揚陸してくれた。
 数日後、南洋鉱業の日南丸に便乗してマニラに移動。マニラ湾在泊の商船隊はすべて沈没・・・マストが林立していた。
 当時、レイテ作戦の最中で、マニラには多数の遭難船員が溢れて収容マンションが満杯のようだった。

 今日 往時を回顧してみる
@小型船の単独行動は敵側の戦火で沈没しても救助の手段が無く、陸軍は船舶の運航について無知であったと断じたい。
Aスルー海での護衛中断は当時の戦局から無謀であり、陸軍機での間接護衛の言質は欺瞞であったと思う。
B 当時の戦局を概観してみると、若し昭豊丸がこの地点を無事通過してマニラ方面に向かったと仮定してみると、共同丸同様の戦火を浴びたと思われるので、むしろ波穏やかなスルー海での爆沈は幸運ではなかったかと回想される。 

2019年06月29日 (土) 16時16分


[1185] 太平洋戦戦争開戦前夜の触雷事件解明
From:菊池金雄 [/]

  H25 1 19
                                     菊池金雄

 本件は、かねて目黒会報16−1誌上に投稿のうえ情報収集中でありましたが、このたび友人から、海軍の極秘資料により、触雷船の船名を確認できた旨の連絡がありましたので顛末を記します。
 当時、私の船、恵昭丸(大同海運貨物船5800総トン)は横須賀鎮守府所属徴用船で、南洋委任統治の島々にドラム缶入り航空ガソリンの輸送任務を終え横須賀軍港に向け帰航中の12月7日深夜、東京湾で触雷した日本船からSOSが発信されたが、不思議なことに何処からも応答がなか。まさか翌日に開戦など知るはずもなく、全く不可思議なSOSであった。

 情報提供者;五十嵐温彦氏(戦没船事跡研究家)
 出展;横須賀鎮守府戦時日誌
    横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長宛通信文
     船名;共同丸(C油槽船 船主;鍵冨正作)
    該船はS16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3,5浬において
機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水少量で、人員に異常なし。
  補足情報
    実は、この共同丸はS19年10月25日 私の乗船 小型タンカー昭豊丸がスルー海で米機に爆沈された際に救助してくれた船で、意外な接点に感無量である。

2019年06月27日 (木) 19時32分


[1184] 石油問題と海上護衛戦の失敗
From:菊池金雄 [/]

  、1941年7月28日、日本は南部仏印に進駐、8月1日 アメリカは、対日石油輸出を禁止した。イギリス、オランダが同調し、輸出禁止をしてない
南米諸国からの輸入も、アメリカがパナマ運河を封鎖したため不可能となる。       
*1941年度、日本の「原油および石油製品在庫量」は約4900万バーレル、「原油生産量」
は年間約190万バーレル、「人造石油地獄の海―レイテ多号作戦の悲劇(単行本)
生産量」は年間約120万バーレル、「石油消費量」 は年間約2300万バーレルであった。  (*1941.4月ー1942年3月)          
在庫からの取崩し量を計算すると、2300−(190+120)=年間約2000万バーレル 4900÷2000=約2.5年      石油輸入が途絶えたままでは、二年半後日本は「日米交渉決裂の場合は、蘭印を攻略し石油を確保しなければならない。当然米・英は、 蘭を支援し、日本に敵対するだろうから、対米英開戦もやむを得ず。」との方針を決める。
太平洋戦争は、「石油のための戦争」と言えるが、日本海軍は艦隊決戦の思想が強く、
海上交通線確保の重要性を認識してなかった。(例えば、海上護衛総司令部が新設
されたのは、1943年11月であった。) タンカーの喪失は、1942年度4千トン、1943年度
38万8千トン、1944年度75万4千トンと激増。逆に、南方から日本へ還送された
「原油・石油製品」は、1942年度1052万バーレル、1943年度1450万バーレル、
1944年度498万バーレル、1945年度ゼロと激減した。                
タンカー以外も含めた商船全体では、1937年7月7日から、1945年8月15日までの
間に、2741隻が沈没し、6万331名の船員が犠牲となった。(日本人5万6601名、
朝鮮人2614名、台湾人1019名、外国人11名、不明86名) 船員の損耗率は、
43%で、陸軍の20%、海軍の16%に比べ、はるかに多くなっている。 (なお、
アメリカの商船被害は、98隻であった。)                          商船喪失の原因は、潜水艦による攻撃50%、母艦機16%、陸軍機12%、機雷9%
であった。太平洋艦隊司令長官C・Wニミッツ大将は、戦後の回想録で日本の誤りを
指摘している。                                        
「日本軍は開戦当初、アメリカ潜水艦をなめていたため、輸送船の護衛体制を致命的
におろそかにした。もし日本軍が五、六隻の護衛艦をともなった30−50隻の大船団
を組んでいたら、日本の船団は安全であったろう。その上、強力な護衛艦群はアメリカ
潜水艦にとって大きな脅威であったはずだ。                       
日本軍は輸送船を単独で航行させたが、その撃沈率は船団に護衛艦のついた場合
の二倍半にものぼった。その上、アメリカ軍潜水艦をいちばん多く撃沈したのは、
航空機でも機雷でもなく護衛艦であった。もし日本軍がもっと効率的な護衛体制を
とっていたならば、アメリカ潜水艦の攻撃力は大いに減殺されたことであろう。」
(海洋国イギリスでは、商船をマーチャント・ネービーと呼び、戦没船員は陸海軍の
戦没者とともに同じ碑に名を刻まれ、大切にされているという。日本では、民間関係者
によって建立された「戦没船員の碑」が、神奈川県の県立観音崎公園内にある。
また、「戦没した船と船員の資料館」が、兵庫県神戸市中央区海岸通り3−1−6
全日本海員組合2階にある。)       地獄の海―レイテ多号作戦の悲劇(単行本)
岸見 勇美 (著)                     
 

2019年06月25日 (火) 19時35分


[1183] ○向日丸乗船ー羅津港空襲ー脱出
From:菊池金雄 [/]

  元陸軍少尉 那和正夫

 私は1945年8月(?)向日丸に釜山港で乗船。向日丸は一度関門地区空襲時、門司港に帰港後羅津に向い、同年8月6日同港に入港。ソ連機来襲第一波は9日午前6時頃と思う。当時の在港輸送船は20隻ぐらい、帝北丸以外の船名は不詳。該船には同期の若松少尉が乗っていたので7日訪船して会った。この船は元フランス国籍で時速22〜23ノットと聞く。同船は9日夜羅津から舞鶴直行中、日本海の中部で敵潜水艦に撃沈され、若松少尉は幸い通りかかった漁船に救助されている。
  9日夜...は警戒隊長○○海軍少尉と向日丸の甲板で会話中ソ連爆撃機来襲を目撃。サーチライトの中の豆粒のような爆弾がパラパラと落下。進行方向と仰角から向日丸に命中すると感じ、覚悟を決めて甲板に伏せた途端、ドカンという大音とともに火の粉がバラバラと落ち、船から約30メートルの岸壁倉庫に命中。倉庫内に積んである大豆が火の粉になって降りそいで来たが、すぐ消火して大事にならなかった。
  10日午前6時過ぎ、船長以下全員揃ったのを確認して出帆することになったが、周囲は被弾して動けなくなった船が邪魔で離岸に手間取り、午前7時半にやっと港の出口にさしかかった時、3機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下するや、本船の対空砲火を恐れ港外に飛び去った。敵機の爆弾投下地点は本船の40〜50メートル前方に集中したため直撃を免れた。何故か不思議だが、思うに向日丸は出港したばかりで速力が3ノット程度のため敵機が船の速力を誤算したものと考えられる。

 ○向日丸座礁ー海防艦救援
  10日12時半頃には敵機の追撃がなくなったので昼食をとり、午後1時頃になって船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。その頃南下してきた海防艦1隻がが甲板に家財道具らしき物を積んで、こちらの救援信号を無視するように南の方に姿を消した。
  次に来た第82号海防艦が近寄り、ロープで向日丸を引っ張ったが動かず、満潮を待ち午後3時頃やっと離礁して航行可能となり、同海防艦の護衛で沿岸航行を再開した。

 ○ソ連雷撃機と交戦ー護衛海防艦轟沈
  同4時頃ソ連機9機の空襲があり、私はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので今でもはっきり脳裏に焼きついている。
  敵の指揮官機が海上に煙幕を張って、横一列並びの雷撃機群が一瞬見えなくなったと思うと、その煙幕の中から現れた雷撃機群は既に魚雷を発射した後で、向日丸のマストをかすめるように陸地の方向へ飛び去った。・・・・・間もなくドカンという大爆発音がして目の前の海防艦が轟沈した。その様は、70〜80メートルもあるかと思われる水柱が上がって、一瞬艦が見えなくなり、水柱が滝のように落下した後には艦首を上にして垂直に立った艦の姿が現れ、がくんがくんと海に没し・・・・艦影が見えなくなると同時に脳裏に「間もなく向日丸も同じ運命を辿る・・・・」との思いがはしった。
  ところが海岸の方で魚雷の爆発するのが3ケ所位見え、向日丸の船底をくぐり抜けたり、当たり外れた魚雷ではないかと思った。
  何故だらうと考えたとき、向日丸は8月6日羅津に入港、揚げ荷が終わった所でソ連の参戦に会い、積み荷を中断して脱出したため喫水部位が浅かったのが幸いしたのではないかと思う。普通ならあれだけ多くの魚雷を全部かわせるわけがない筈だ。
 「轟沈」という言葉は知っていたが、現実に目のあたり見た強烈な痛恨情景は永遠に忘れることは出来ない。

 ○舞鶴で下船
  向日丸下船時、なぜ(菊池)局長と連絡できるようにしておかなかったかと後日悔やんだことでした。半世紀過ぎた今、よく連絡して下さったと感激し、熱い思いで本を読ませていただきました。
  同級生の中には未だに連絡がとれず、消息不明の者が沢山居ります。それに比べて今まで生きてこられた幸運を感謝し、元気で長生きできればと考えて居ります。

2019年06月24日 (月) 19時09分


[1182] 開戦前夜東京湾の触雷事件
From:菊池金雄 [/]

http://torikai.starfree.jp/1941/mine.html

2019年06月22日 (土) 19時58分


[1181] あるボランティア始末記
From:菊池金雄 [/]

                   菊池金雄

 昭和56年定年退職後、地元町内会雑役員を終えた途端、知人から仕事を手伝ってほしいとの話があり、多分町内会の雑事かと軽く応じていた3ヶ月後に「保護司内申書」に捺印を求められ仰天。強く辞退したところ、実は役所(保護観察所)側の了承を得るのに3ヶ月折衝してやっと手に入れた書類なので是非とも引き受けてほしいと懇望されてしぶしぶ捺印せざるを得なかった。その背景は、一人で多数の保護観察対象者を担当しているため保護司適任者を推薦していたが、原則は60歳が上限で、当時私は64才であったため当局が難色を示したもののようであった。
 引き受けたからには「保護司」なるものの職責、知識を吸収しなければならないので当局主催の「保護司初任者研修」に参加し、退潮気味の五感の再生に励み真面目に受講しながら、道交法違反、窃盗犯、麻薬事犯、殺人犯等娑婆では想像できない犯歴の面々と対面しなければならなかった。とにかく所定の遵守事項励行確認が必須で、面接の概要は月頭報告書で行い、末尾にある「良好・普通・不良」の評価欄については主任官(保護観察専門職)より、普通人の尺度とは異なると予め謎めいた助言があった。
 ある酒気帯び事犯対象者に反省を求めたところ「あの道路を通ったのがまずかった」の返答に苦笑し、次回再回答を求め、前段の普通人の尺度云々を実感した。
 保護司を引きうけて間もなく、強引に保護司関連団体(社会を明るくする運動)の地区委員長に推されてしまい、二股かけての未知の奉仕活動にはまりこんでいった。
 当然保護司の任務は部外者に目立たないように処遇を行う静的であるのに対し、本運動は、のぼり旗やチラシ等での広報活動なので、一転して動的に変身。防犯、福祉団体はもとより、事務局担当の地元自治体とも密接な連携が必要で、分かりにくい運動の趣旨説明に汗だくだった。それから数年後に、区の委員長が急死しため、意外にもピンチヒッターで後任に推されたので地区委員長をバトンタッチして区委員長に専従したが、平成12年保護司を定年になり、法務大臣の感謝状をいただき、やっと重荷から解放された。
 常々対象者には保護観察終了後は私との出会いは忘れて正業に就くよう諭したので、知る限りでは再犯は1件だけで、恩赦がひとりあったのは保護司冥利かと思う。
 省みると余禄もあった。それは地域に同年代の第二の親友(保護司仲間)を得たことと、思いがけず昨年仙台市長より地域社会の健全育成関係で市政功労章をいただいたことである。因みに保護司は法務大臣から委嘱され、身分は非常勤国家公務員である。

2019年06月18日 (火) 18時49分







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