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輸送船に派遣の海軍警戒隊について |
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From:菊池金雄 [/]
戦時中の各輸送船には海軍から若干名の警戒隊員が派遣され、搭載火器(対潜・対空)で船舶保護任務に挺身していたが、派遣元等が不詳のため追跡調査の結果、下記の事例をはあくすることができた。
@海軍予備学生出身者の「輸送船警戒隊指揮官」の例 昭和十八年十二月、学徒出陣の約四千人の大学生が入団、二等水兵に任命された。翌十九年二月に他の海兵団からも含め、三千三百五十四名が予備学生に合格、七月に約一割が落後、最終的には二千九百七十八名が巣立ち、各術科学校へ進んだ。 入団直後は出身大学別の編成で、グループは五十音順で『チ』中央大『ト』は東大のように分類された。 予備学生になってからは各班(十一人ずつ)官立、私大がほぼ半々で、現役の有資格者あがりがー、二人いた。 学生隊の編成は三千人が十二の分隊に分かれ、一コ分隊は五つの区隊、一コ区隊は五つの班から成り立っていた。 分隊監事(分隊長)が階級は大尉、区隊長は中尉で、一種の自治組織をとり、全学生の長、伍長補がおり、教員は別組織で優秀な下士官、高等科のマーク持ちが当たっていた。 卒業後、館山砲術学校を経て十九年十二月に少尉に任官し、横浜の船舶警戒部に勤務。二十年五月、長崎港で武装商船「大椎丸」(約ー万d)に乗船し、警戒隊指揮官として活躍中に終戦となった。 参照Web http://www.ic-y.jp/furusato/furusato_p200.html 武山海兵団 C 『修了後術科学校へ』 大椎(だいすい)丸船歴 ཨ/11/21:3TL型2番船大椎丸(大阪商船)として三菱重工長崎にて起工。 ཀྵ/1/20:大本営命令により石炭焚き貨物船に変更。3/5進水。6/15竣工。総トン数9,957t。 ཬ/5/21:極洋捕鯨に売却。原案設計図に基づき油槽船に復元改造。主機を蒸気タービンからディーゼルに換装。 以後、第3〜?南氷洋捕鯨に中積油槽船として参加。 漁閑期にペルシャ湾航路に就航、原油輸送に従事。 /2/19:極洋捕鯨から分離独立した太平洋海運に売却。 〜ླྀ/8:ペルシャ湾航路に就航、原油輸送に従事。 ླྀ/10:定置油槽船に改造完成、ེ/3までクウェートのカフジに繋留。のちアラビア石油に売却。 ཻ/2/21:解体のためシンガポールのマラヤン社に売却、シンガポールに到着。
有明書房 船舶百年史刊行会 船舶百年史後編 上野喜一郎 16項より
Aある輸送船警戒隊員の手記から 大正十二年生まれ 昭和十九年二月一日 佐世保第一海兵団に入団。十日後に博多港か ら病院船で釜山に入港、列車で羅津特別根拠地隊に入隊。ここで約十日間初歩軍隊教育を 受け、二百人ぐらいが大型船で新潟に移動。陸路、横須賀海兵団船舶警戒隊に入隊。 四月十五日命により三十二名引率して横浜港に向かう。われわれを待っていたK兵長の 指揮下で泰国丸(朝鮮郵船、約九千トン)の警戒隊員として乗船。デッキには上陸用舟艇 が足の踏み場もないくらいロープがけして搭載。十三ミリ機関砲二門が装備され、K兵長 が射手、私が距離測定、他の一、二、三番は弾薬手を下命された。五月一日二〜三隻船団 に駆逐艦「水無月」と駆潜艇約十隻が護衛して無事サイパン到着したが、当時同島は物資 欠乏のため艦船の兵は上陸禁止であった。五月十日サイパンからパラオ向け航行中の夜間泰国丸に米潜の魚雷一発が船首に、二発目は船尾に命中。沈没までの数分間、真っ暗闇での脱出は生死の分かれ目で、私は船が沈む反対側の舷から海に飛び込んだので助かったが、他の舷側の同年兵たちは船と共に海中に巻き込まれ助からなかった。私らは幸い駆潜艇に救出された後、「水無月」に移乗した。 当時パラオ向けの陸軍の輸送船の被害が甚大で船団が崩壊したため「水無月」は我われ を救助したまま、元のサイパンに戻ったので、私たちはサイパン警備隊に仮入隊することになった。 サイパンでは疎開家屋解体作業に従事していたが、やがて最後の引揚げ船で沢山の邦人 とともに我われ生き残り機関砲兵員も便乗して奇跡的に無事横浜に入港することができた。 転属先は横浜市にある船舶警戒隊で、六月になって私たち三人は大型船で門司まで便乗し「長平丸」(大連汽船)の船舶警戒隊員に任命された。この船は朝鮮の元山、仁川や北支の秦皇島(しんのうとう)方面からの物資輸送で、われわれの任務は対潜、対空が主任務で、最低二時間交代で警戒勤務に従事し、次の隊員に現在の状況を確実に把握させることが本船の生死にかかわる大な責務であった。 その後、台湾や香港へも回航したが、台湾大空襲後の現地では、焼けた砂糖がべったりとアスファルト状に溶けて、甘い香りを発散していた。 昭和十九年五月、私は水兵長に進級、引き続き船舶警戒隊員として八名くらいのグループで任務に従事していたが、台湾沖航空戦や、比島沖海戦等徐々に状況険悪となり、本土は勿論、支那大陸沿岸、台湾海峡、東支那海等の敵機の空襲、敵潜水艦の跳梁、さらには艦砲射撃等、日に日に敗勢を肌で感じられたが、幸い我われは空襲や雷撃を免れていた。 六月になると、サイパン・テニアン島砲撃や、海兵隊の上陸。サイパン守備隊の苦戦、玉砕の情報を船の無線で傍受して、若し我われが残っていたら玉砕だったろうと複雑な思いだった。その後パラオ諸島にも米軍が上陸と知り、運の良さと、先に沈没〜戦死した戦友に対し、哀悼切なるものがあった。 その後「長平丸」が上海から帰国の際、黄海で米軍機から執拗な銃爆撃に遭い、人員の殺傷は無かったが、船体に損傷を受けたので、大連のドックで修理中に終戦の報に接するも信ずることができなかった・・・しかし事実と知り一挙に力が抜けてしまった。 ここは中国領でも海軍の我われはソ連軍管理下の抑留(捕虜)で、食事はロシアパンなどで質が悪かった。ソ連兵は掛け算、割り算ができないので人員点呼などには時間の浪費が目立った。我われの労働は大連以外の中国奥地にも移動していた。そのうち、アンペラを積んだ貨車が来て、実は明日シベリアへ連行の予定が何故か中止となり、昭和二十三年に、海軍軍人だけ三十人位で大連から長崎県南風崎海兵団に無事帰国した。 復員は遠方の者からで、福岡県の私は最後となり、外地勤務では自宅(母子二人家庭)に音信もできなかったので、母は私の顔を見るなり涙をポロポロ・・・私も一緒にもらい泣きしたのであった。
参照文献 平和の礎(軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦)
2019年06月15日 (土) 15時53分
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