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「硝煙の海」談話室

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[1180] 戦時船員たちの墓場
From:菊池金雄 [/]

  土井全二郎著 光人社NF文庫
副題に「海を墓場に…戦時船員の記録」とある。
全編が戦争継続を底辺で支えてきた輸送船(戦時徴用船)の悲劇の記録集となっている。いずれもドラマティックな物語で、それぞれがドキュメンタリー小説の素材になりうるほどのものである。船の雄姿と元船員の写真(『戦時船員の記録』)が掲載されている。関係者には涙なくしては読むことができない本であろうと思う。
日本の敗戦は兵站力の貧弱さにあったといわれる。先の戦争では太平洋の全域に兵力を展開せざるを得なかった。それを維持していくための兵と食料、資材、武器などの消耗品を目的地に届けねばならない。さらに日本国内での需要を満足するための資源を外地から確保搬送しなくてはならない。それがどんなにか難しくまた危険な課題であったかをこの本は物語っている。
海は危険に満ちていた。敵側の潜水艦からの魚雷攻撃、飛行機からの空襲に輸送船は無防備で対抗できなかった。
船員は危険な海に出ていくのも隠密行動をとらされた。軍隊と同じである。家族も憲兵や特高の絶え間ない監視を受けていた。
軍艦なら話題になるが、漁船が襲撃されてもニュースにもならない。
開戦の日(昭和16年12月8日)の太平洋上は、どこもかしこも、一触即発の緊張状態であった。2隻の漁船が敵機により滅多撃ちにされている。漁船は沈み、早くも10名の漁民が戦死したのだが、報道はされていない。
章立ては1 暗雲、2 開戦、3 敢闘、4 苦闘、5全滅、6 落日 となっており、開戦前夜から全滅までの輸送船、徴用船の歴史と運命が描かれている。
『敢闘』の中の「敵潜水艦撃沈」という章では、敵潜水艦を2隻も撃沈した松本丸という老朽船の話に胸すく思いがする。「戦火の中の交情」では船員一人の命を守るため、駆逐艦・秋雲を停止して盲腸炎の手術をした話が語られている。
貴重な重油を搬送するタンカー6隻にたいし、護衛艦はたった一隻で、これには海防艦・対馬があたった。日東汽船のタンカー・旭栄丸は潜水艦攻撃で沈没、洋上に脱出した乗組員に銃撃を加えようとする敵潜水艦に対して、護衛艦は戦略上、軍律違反にあたるかもしれないところ、これを救助した。
 このあたりは日本側にまだわずかに余裕が認められる。しかし、貧弱な護衛では限界がある。日本側はしだいに全滅への道へと追い込まれていく。敵側の攻撃は潜水艦攻撃と飛行機による空襲によるものであるが、その物量に圧倒される。
 それでも戦地におもむくには、船に乗って海路を行くしかない。
船員も兵隊も死を覚悟して乗船する。陸路行軍の方がまだましだと思ったに違いない。小国民であった少年の私は、敵の攻撃によって船が沈没する状況を想像した。私は泳げなかったので海で水泳の練習にはげんだものである。
 海で果てた人たちの遺骨は永遠にかえることがない。
 補給線をたたれ、兵站力がなくなると、軍隊は、戦力を失う。兵隊は飢えと戦う結末となっていった。
米軍側は標的に事欠いたのか、非武装の病院船にまで無差別に攻撃をしかけてきた。国際規定どおりに夜間照明により煙突や船腹に赤十字を照らしていた。これは「明らかに国際法違反であった。かりに日本軍が連合軍側の病院船を一隻でも撃沈していたら、戦後、どれほど責任を追及されたことだろうか」と書かれている。
『全滅』にいたる章は読むことすら重いが、最終章の『落日』には味方陸軍潜水艦に突っ込んだ伊豆丸の話や大剛丸のたった一人の生き残りの船員の話が書かれており、まるで冒険活劇のようでわずかに読者に救いを与えてくれている。

2019年06月17日 (月) 19時25分


[1179] 輸送船に派遣の海軍警戒隊について
From:菊池金雄 [/]

戦時中の各輸送船には海軍から若干名の警戒隊員が派遣され、搭載火器(対潜・対空)で船舶保護任務に挺身していたが、派遣元等が不詳のため追跡調査の結果、下記の事例をはあくすることができた。

@海軍予備学生出身者の「輸送船警戒隊指揮官」の例
昭和十八年十二月、学徒出陣の約四千人の大学生が入団、二等水兵に任命された。翌十九年二月に他の海兵団からも含め、三千三百五十四名が予備学生に合格、七月に約一割が落後、最終的には二千九百七十八名が巣立ち、各術科学校へ進んだ。
 入団直後は出身大学別の編成で、グループは五十音順で『チ』中央大『ト』は東大のように分類された。
 予備学生になってからは各班(十一人ずつ)官立、私大がほぼ半々で、現役の有資格者あがりがー、二人いた。
 学生隊の編成は三千人が十二の分隊に分かれ、一コ分隊は五つの区隊、一コ区隊は五つの班から成り立っていた。
 分隊監事(分隊長)が階級は大尉、区隊長は中尉で、一種の自治組織をとり、全学生の長、伍長補がおり、教員は別組織で優秀な下士官、高等科のマーク持ちが当たっていた。 卒業後、館山砲術学校を経て十九年十二月に少尉に任官し、横浜の船舶警戒部に勤務。二十年五月、長崎港で武装商船「大椎丸」(約ー万d)に乗船し、警戒隊指揮官として活躍中に終戦となった。
参照Web  http://www.ic-y.jp/furusato/furusato_p200.html
武山海兵団 C 『修了後術科学校へ』
大椎(だいすい)丸船歴
ཨ/11/21:3TL型2番船大椎丸(大阪商船)として三菱重工長崎にて起工。
ཀྵ/1/20:大本営命令により石炭焚き貨物船に変更。3/5進水。6/15竣工。総トン数9,957t。
ཬ/5/21:極洋捕鯨に売却。原案設計図に基づき油槽船に復元改造。主機を蒸気タービンからディーゼルに換装。
 以後、第3〜?南氷洋捕鯨に中積油槽船として参加。
 漁閑期にペルシャ湾航路に就航、原油輸送に従事。
཯/2/19:極洋捕鯨から分離独立した太平洋海運に売却。
 〜ླྀ/8:ペルシャ湾航路に就航、原油輸送に従事。
ླྀ/10:定置油槽船に改造完成、ེ/3までクウェートのカフジに繋留。のちアラビア石油に売却。
ཻ/2/21:解体のためシンガポールのマラヤン社に売却、シンガポールに到着。




有明書房 船舶百年史刊行会 船舶百年史後編 上野喜一郎 16項より

Aある輸送船警戒隊員の手記から
 大正十二年生まれ 昭和十九年二月一日 佐世保第一海兵団に入団。十日後に博多港か
ら病院船で釜山に入港、列車で羅津特別根拠地隊に入隊。ここで約十日間初歩軍隊教育を
受け、二百人ぐらいが大型船で新潟に移動。陸路、横須賀海兵団船舶警戒隊に入隊。
 四月十五日命により三十二名引率して横浜港に向かう。われわれを待っていたK兵長の
指揮下で泰国丸(朝鮮郵船、約九千トン)の警戒隊員として乗船。デッキには上陸用舟艇
が足の踏み場もないくらいロープがけして搭載。十三ミリ機関砲二門が装備され、K兵長
が射手、私が距離測定、他の一、二、三番は弾薬手を下命された。五月一日二〜三隻船団
に駆逐艦「水無月」と駆潜艇約十隻が護衛して無事サイパン到着したが、当時同島は物資
欠乏のため艦船の兵は上陸禁止であった。五月十日サイパンからパラオ向け航行中の夜間泰国丸に米潜の魚雷一発が船首に、二発目は船尾に命中。沈没までの数分間、真っ暗闇での脱出は生死の分かれ目で、私は船が沈む反対側の舷から海に飛び込んだので助かったが、他の舷側の同年兵たちは船と共に海中に巻き込まれ助からなかった。私らは幸い駆潜艇に救出された後、「水無月」に移乗した。
 当時パラオ向けの陸軍の輸送船の被害が甚大で船団が崩壊したため「水無月」は我われ
を救助したまま、元のサイパンに戻ったので、私たちはサイパン警備隊に仮入隊することになった。
 サイパンでは疎開家屋解体作業に従事していたが、やがて最後の引揚げ船で沢山の邦人
とともに我われ生き残り機関砲兵員も便乗して奇跡的に無事横浜に入港することができた。 転属先は横浜市にある船舶警戒隊で、六月になって私たち三人は大型船で門司まで便乗し「長平丸」(大連汽船)の船舶警戒隊員に任命された。この船は朝鮮の元山、仁川や北支の秦皇島(しんのうとう)方面からの物資輸送で、われわれの任務は対潜、対空が主任務で、最低二時間交代で警戒勤務に従事し、次の隊員に現在の状況を確実に把握させることが本船の生死にかかわる大な責務であった。
 その後、台湾や香港へも回航したが、台湾大空襲後の現地では、焼けた砂糖がべったりとアスファルト状に溶けて、甘い香りを発散していた。
 昭和十九年五月、私は水兵長に進級、引き続き船舶警戒隊員として八名くらいのグループで任務に従事していたが、台湾沖航空戦や、比島沖海戦等徐々に状況険悪となり、本土は勿論、支那大陸沿岸、台湾海峡、東支那海等の敵機の空襲、敵潜水艦の跳梁、さらには艦砲射撃等、日に日に敗勢を肌で感じられたが、幸い我われは空襲や雷撃を免れていた。
 六月になると、サイパン・テニアン島砲撃や、海兵隊の上陸。サイパン守備隊の苦戦、玉砕の情報を船の無線で傍受して、若し我われが残っていたら玉砕だったろうと複雑な思いだった。その後パラオ諸島にも米軍が上陸と知り、運の良さと、先に沈没〜戦死した戦友に対し、哀悼切なるものがあった。
 その後「長平丸」が上海から帰国の際、黄海で米軍機から執拗な銃爆撃に遭い、人員の殺傷は無かったが、船体に損傷を受けたので、大連のドックで修理中に終戦の報に接するも信ずることができなかった・・・しかし事実と知り一挙に力が抜けてしまった。
 ここは中国領でも海軍の我われはソ連軍管理下の抑留(捕虜)で、食事はロシアパンなどで質が悪かった。ソ連兵は掛け算、割り算ができないので人員点呼などには時間の浪費が目立った。我われの労働は大連以外の中国奥地にも移動していた。そのうち、アンペラを積んだ貨車が来て、実は明日シベリアへ連行の予定が何故か中止となり、昭和二十三年に、海軍軍人だけ三十人位で大連から長崎県南風崎海兵団に無事帰国した。
 復員は遠方の者からで、福岡県の私は最後となり、外地勤務では自宅(母子二人家庭)に音信もできなかったので、母は私の顔を見るなり涙をポロポロ・・・私も一緒にもらい泣きしたのであった。

参照文献 平和の礎(軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦)
 

2019年06月15日 (土) 15時53分


[1178] 身近にあった戦場(1) 永江 勝朗
From:菊池金雄 [/]

http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/nagae1.html

2019年06月11日 (火) 19時11分


[1177] 開戦前夜 東京湾触雷事件
From:菊池金雄 [/]

Vol.25-1CHOFU Network5253members’ voice
 この秘話は半世紀前、太平洋戦争開戦前夜の奇妙な事件であった。それは、日本の貨物船(船名失念)が昭和16年12月7日の深夜、東京湾の入り口で触雷したため、国際遭難電波である500キロサイクルでSOSを発信したことである。誰も翌日に開戦することなど感知するはずもなく全く不思議なSOSであり、普通なら最寄り海岸局や付近船舶に救助のための情報交換通信が殺到するのであるが、なぜか後続情報がなく尻切れトンボになった。当時、私が乗っていた恵昭丸(大同海運貨物船5800総トン)は横須賀鎮守府所属徴用船で、南洋委任統治の島々にドラム缶入り航空ガソリンの輸送任務を終え横須賀軍港に向け帰航中であった。本船内でも一体日本海軍はどうなっているのか、と不信の声がでた。翌8日朝、開戦のラジオニュースがあり、本船が横須賀軍港に入港しようとしたら、海軍の内火艇が航路を先導したことは、前夜のうちに機雷による防潜柵が敷設されたものと推測された。思うに、このSOS電波は米国など外局の無線局でもキャッチされた可能性があり、機密保持上からも遺憾な事件ではなかったろうかと、鮮明に当時のことが想起される。このことについては自分史「硝煙の海」のホームページ http://www.geocities.jp/kaneojp/ 第一部の恵昭丸の章で触れているので、どこからか同SOSをキャッチした情報を期待していたが、いまだ何らの関連通報も得られないので、先般JCS(銚子海岸局)と、JGC(横浜港務部無線局)の当事のOBの方に問い合わせたところ、JCSにはそのころ海軍の情報将校が派遣されており、この種の機密に属する無線情報はただちに封印されたためかこのSOSに関し耳にしたことが無いこと。またJGCのOBの方は、たまたま12月8日の朝、通信当直の引継ぎを受けたが本件のことは引継ぎ事項に含まれていなかったとのことであった。もしこの事件に関し何か情報をお持ちの方がおられるなら是非下記宛ご一報方お願いしたい。※連絡先〒983−0045宮城県仙台市宮城野区宮城野二丁目9−12電話・FAX:022−293−0324
 この旨を目黒会報(電気通信大学同窓会機関誌)等で依頼中のところ、今般下記の情報を入手することができ、永年の懸案が落着したことは感無量である。
 触雷船の船名判明(平成25年1月19日)情報提供者:五十嵐温彦氏(戦没船事績調査研究者)出展:林幹司著「大東亜戦争 日本艦船戦時日誌」(源出:横須賀鎮守府SN戦時日誌)横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長宛通信文船名 共同丸(C油槽船 船主/鍵冨正作)当該船は昭和16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3.5浬に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。members’ voice菊池金雄(昭和14年11月特科)開戦前夜東京湾口の触雷事件顛末補足情報この共同丸は昭和19年10月25日スルー海で私が乗り組んだ昭豊丸が米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に驚愕するとともに、往時を彷彿させられる...とにかく共同丸に移乗...すぐ入浴、同時に衣類を水洗いして、私は無線局長室で休息させていただいた恩義が去来するばかりである。関連URL:http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm共同丸はその後マニラ経由で昭和20年1月6日リンガエン湾において、アメリカ第38任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し船員10名が死亡、とのことで、切に戦没者各位のご冥福を念ずる。情報提供者への謝辞本事案については永年情報収集につとめ、船名不詳の船が機雷堰で推進器に絡網の件だけはキャッチしていたが、今回、具体的に船名までも把握できたことは長生き冥利で、五十嵐様に厚く御礼申し上げます。共同丸写真出展:柏崎市立図書館所蔵小竹コレクション沈没寸前の昭豊丸と同型船の写真出展:平

2019年06月11日 (火) 16時19分


[1176] 戦後の職歴
From:菊池金雄 [/]

船舶運営会〜大同海運

 廣久丸 第七日の丸 大宙丸 白光丸 大天丸 大日丸 高和丸の7隻に乗り組む。

転職歴
 昭和二十六年八月海上保安庁に転じ、同五十六年四月退職。

退職後歴
 昭和五十九年に保護司を委嘱され保護観察対象者の処遇に携わり、平成十二年退任。
その間に、国政、宮城県政、仙台市政、各モニターをそれぞれ一期委嘱。

賞罰
 平成十八年仙台市市政功労者章授章

2019年06月10日 (月) 16時21分


[1175] 触雷船の船名判明
From:菊池金雄 [/]

                  H25年1月19日
情報提供者:五十嵐温彦氏(戦没船事績調査研究家)
 出展;横須賀鎮守府戦時日誌
横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長あて通信文
  船名 共同丸(C油槽船  船主 鍵冨正作)
   該船はS16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3,5浬に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。
補足情報
  この共同丸はS19年10月25日スルー海で私が乗り組んだ昭豊丸が米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に驚愕するとともに、往時を彷彿させられる・・・とにかく共同丸に移乗・・・すぐ入浴、同時に衣類を水洗いして、私は無線局長室で休息させていただいた恩義が去来するばかりである。
  関連UEB;http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm
共同丸はその後マニラ経由でS20年1月6日リンガエン湾において、アメリカ第38任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し船員10名が死亡.とのことで、切に戦没者各位のご冥福を念ずる。
情報提供者への謝辞
  本事案については
永年情報収集につとめ、船名不詳の船が機雷堰で推進器に絡網の件だけはキャッチしたが、今回、具体的に船名までも把握できたことは長生き冥利で、五十嵐様に厚く御礼申し上げます。

2019年06月09日 (日) 18時31分


[1174] 太平洋戦争開戦前夜のSOSの謎
From:菊池金雄 [/]

菊池金雄

概要は、開戦前夜(S16年12月7日)東京湾口で触雷した日本貨物船からSOSが発信されたミステリーがあるという。
問題提起者は、「部外者は翌日開戦とは知るはずも無く、なぜこんなところで触雷するのか全く奇異な事件で、該SOSは一回だけで後続情報がなかった。おそらく翌日開戦に備え海軍が付近海面に機雷柵敷設作業中の偶発事故と思われるので関連情報を収集中。残念ながら慨船の船名を失念。」という。

しかし、この文章中に、事実関係そのものを示すものは無い。
すべては、元事象に対する判断が介在している。
開戦前夜(S16年12月7日)は事実として、「東京湾口」「触雷」「日本貨物船」はどこから来たものだろうか。
目の前で起きた事象を見たわけでもなく、現在のような報道体制も無い。
すなわち、通信を傍受しただけである。

問題提起者の説明では、「信号符字がJで始まったから日本船と判断」とか、「当直時間のシフトから19:00頃」などという情報は後出しで聞かれるのだが、それ以外の情報は出てこない。

「何十年も前の話で記憶もあいまいだろう」と片付けるつもりはないが、自分の主張は一点の間違いも無いから信じろと言わんばかりの前提を掲げても、何らかの食い違いがあるからこそミステリーになっているわけだ。

そもそも、当時の通信はトンツーだから、符号をすべて正確に聞き取って、正確にカナに変換し、漢字に正確に当てて、初めてパーフェクトだから、途中のあいまいさをどのように埋めるかがポイントになる。
会話の場合、多少いい加減な発言が混ざっても、相互に意味を理解していれば問題ないわけで、例えば、「昨日」と言う場合、前日と、前営業日の二通りがある。

情報分析に当たっては、考察情報(=事実を的確に伝えられない脚色情報)は必要としない。
原情報が大切であり、初期の段階で判断脚色されてしまうと、以降判断の余地は出てこない。
ホントに調査するつもりであれば、その元データを明示するほうが一番だ。


「即時電波管制が布かれたため後続情報が無かったものと考えられる」とも言うが、では、SOS発信元に、どのように電波封鎖を伝達するのだろうか。
地上局なら電話でもできるが、「聞くな」と発信するのも電波だ。
そして遭難船は、沈没するまでSOSを発信するだろう。

「触雷船付近には当然海軍の機雷敷設艦艇が居たでしょうから、該船に直接電波封止を命じたと思います。」というのは、一個人の推測であって、それを結論とするなら、すべて推測して結論して納得すればよいことだ。

そもそも、夜間、現場海域にいると思えるだろうか?
もし居たなら、危険海域へ近寄らない誘導こそあるだろう。


明確な情報源が明示できなければ、もはや「聞き間違い」と考えるほうが普通だろう。
半世紀も前のことなので、記憶もあいまいだろうし、その後数年間のうちに、聞き飽きるほどのSOSも受信したことだろう。

むしろ、ありもしない当局の情報操作をかもしだすなど、いかがわしい政治的意図も感じられる。

冷静に考えれば不可解だ。

「東京湾口で触雷しSOS」が事実だとして、翌日東京湾に入港する船舶の行動を考えて見よう。
まずは見張りが強化される。
これには、自船が触雷しないようにするとともに、遭難船の様子が気になるはずだ。
一日経過すればきれいにかたずいていたかもしれないが、油の一つも残っているはず。
勤務のシフトはともあれ、同業者の遭難を聞いたとして、まじかの確認がなかったことは考えられない。

こういった経緯が無いということは、SOS自体の存在がなかった、記憶違いか勘違いと考えるのがまっとうのようだ。

なにやら「海軍当局による抹殺」という事項を構築するための要素もぬぐいきれない。

2019年06月06日 (木) 16時12分


[1173] 高栄丸
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A0%84%E4%B8%B8

2019年06月03日 (月) 20時04分


[1172] 第二次世界大戦の船舶喪失
From:菊池金雄 [/]

https://blog.goo.ne.jp/imbanojunin/e/2d7338f51db73233aa7d464548d5d5a8

2019年06月02日 (日) 15時10分


[1171] 回想;小型タンカー昭豊丸爆沈記
From:菊池金雄 [/]

   H26年 菊池金雄

この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦時標準船(2ET型タンカー 八三五総トン)で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送に、二ヵ年間派遣の指令を受け、昭和十九年四月十日門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で**航海に挑戦し 何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船で同年十月二十日頃ミリに到着。近海油槽船所属共同丸(1090総トン)と重油搭載し、二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした直後、昭豊丸は同月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜翌年一月八日門司に無事帰還することができた。
 共同丸はその後マニラ経由で帰国途次の翌年一月六日一三三〇リンガエン湾で、アメリカ第三八任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し、船員10名が戦死との記録を入手。切に、昭豊丸乗員を救出した恩人各位のご冥福を念ずる。

回想
 齢90途の今日、往時を回顧すると、**航海途次の戦没は遺憾ではあるが、若し、共同丸と同様マニラ方面に回航したなら何れ米機に襲撃されたかも知れず、むしろ波穏やかなスルー海での戦没は幸いのようにも思われる。
 反面、米潜水艦の跳梁する海域単独航海の陸軍指令は、万一戦没した場合には救出不可のため、まさに特攻的無謀な軍命だったと断じたい。


2019年06月01日 (土) 19時48分







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