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「硝煙の海」談話室

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[1170] 向日丸護衛海防艦轟沈
From:菊池金雄 [/]

那和少尉の証言
 本船は敵潜の魚雷回避のため、之字運動しながら極力接岸コースをとった。
十日十二時半頃、朝食抜きで腹ぺこ。もう敵機も来ないと見て昼食とる。平素高粱入りのご飯だが今日は白米にする。午後一時頃になって機関故障のため船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。碇を降ろしてこれ以上岸の方へ流されない様にして、機関部員が必死に修理に当る。海防艦一隻が沖を南下しているのを見て救難信号を送るも、そのまま通過して、やがて地平線の彼方に消える。甲板に家財道具らしき物を積んでいるのが見えた。
次に来た第八十二号海防艦が近寄り、ロープで向日丸(むかひまる)を引っ張ったが動かず満潮を待つ。午後三時頃船が少しじつ動き出し、やっと沖の方へ海防艦が曳航して航行が可能となり、同艦が本船を護衛して南方への沿岸航行を再開した。
○ ソ連雷撃機と交戦ー護衛海防艦轟沈
同四時頃ソ連雷撃機九機の空襲があり,私はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので今でもはっきり脳裏に焼きついている

2019年05月31日 (金) 14時24分


[1169] 日号作戦と商船隊の悲劇
From:菊池金雄 [/]

                    元向日丸通信長 菊池金雄
昭和二十年六月には南方ルートによる諸物資輸送が途絶したため国内の糧食不足が懸念され
たので、これを補完するため同月二十八日、急遽日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・
穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令された。このため残存の大型輸送船が北朝鮮の羅津港、雄基港に動員された。私の乗船、向日丸(むかひまる)も急遽、門司から羅津港に派遣された。
以下に日号作戦の実態と商船隊の苦闘について記述する。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機  第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊

陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食糧事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを
輸送するために日号作戦が発動され、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧食登載中だった。
 ところが8月9日未明から、突然羅津在港船舶がソ連機編隊から波状空襲されたが、味方部隊からの反撃は散発的で、在港商船隊が貧弱な火器で応戦するも、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。
しかるに当時軍側から即時、離岸〜港外への脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万で、上記の陸海軍動員兵力に疑問大であった。
 下記は羅津港でソ連機に爆沈された商船隊の貴重な見取図である
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2019年05月26日 (日) 15時13分


[1168] 初乗船向日丸(むかひまる)の追憶
From:菊池金雄 [/]

 平成十五年九月

                  元甲板員 野口留三(当時十五歳)

  機雷源突破の**航海
 新造戦標船向日丸は昭和二十年五月下旬玉野を出港して若松に向け**航海の途に就きました。
途中、米軍機による機雷投下の情報があり仮泊ー航行許可を繰り返し、六月七日頃に若松に入港。バンカー(燃料石炭)を補給して釜山に向け出港しました。
 記憶では船団ではなく単船にて潜水艦の見張りを続けながらの航海だったと思いますが、幸い途中敵の潜水艦にも遇わず無事釜山に入港しました。

  釜山ー門司
 釜山ではコウリャンと大豆を積み込み門司に向かいました。入港前、関門海峡に米軍機から多数の機雷投下があったため入港禁止となり、日本海側の青海湾に仮泊して門司に入港の許可を待ちました。
 此処には五〜六隻の船が錨を下ろして居ました。二〜三日仮泊の後入港許可があり門司へ回港することになりました。
しかしその前日湾の入口に機雷が投下され、海軍の掃海艇が機雷処理を行い、一応安全ということだったのですが、各船とも触雷を恐れて一番に動く船が無く、それを見た西船長が「それでは本船が一番に出て行こう。機雷は音響か磁気機雷だから必ず触雷ということは無い・・・運を天にまかせて出よう。機関が動き出したら全員船首に集まるように」と指示して本船は動き出しました。
 向日丸が無事湾外へ出るのを見た他船も動き出したのですが、二番船ー三番船が触雷するのを見て「本船は幸運だったなぁ」と皆で話したことを覚えて居ります。
 そして向日丸はそのまま門司に入港。当時の港内二番ブイに係留すべく微速にてブイに近づいて居りました。時を同じくして左舷側に郵船の千曲丸(改A型九千トン)が七番ブイに係留のため、やはり微速にてブイに近づいて居りました。その時突然千曲丸が触雷・・・船首でブイ係留のため、錨に乗って作業をしていた甲板部員一名が錨と共に海中に投げ出されました。このため本船はブイ係留を取り止め、急遽門司の岸壁に接岸しました。
(戦記参照=千曲丸は昭和二十年七月十日門司港で触雷沈没と記録されている・・菊池)


 B29機雷投下〜特攻機体当たり
 そして積み荷陸揚げ中に空襲があり、又々関門海峡に機雷が投下され、その一発が向日丸の後ろに接岸していた商船の大拓丸の機関室に落下。又一発は岸壁に突きささる様に落下しました。
 この空襲機ーB29に向かって特攻機一機が体当たりを敢行ー火煙とバラバラに落ちる特攻機ーこの後をゆっくり墜落するB29ーその時落下傘で脱出した搭乗員が海上で捕まり、岸壁にある門司海軍武官府に護送されるのを見ました。(目隠しされた敵搭乗員の乗ったトラックを菊池も目撃した。)
 又向日丸の荷役作業員の中に外人捕虜も使われ居りました。

  米軍投下機雷とは?
 文中の機雷・触雷と言っても一般の方は、テレビや映画の戦記物で見る丸形で触覚のある敷設機雷を想像されるかも知れません。西船長の「一番だからー必ず触雷することは限らない」と言う言葉や。二番船・三番船が触雷したことに疑問を感じる方もいるかと思いますので私の聞き覚えと、門司で見た現物に就いて追記します。

 当時米軍の投下機雷は落下傘で海中に落とされー海底に沈みーその上を通過する船のスクリュー音、又は船体の磁気を感知して自動爆発する・・・特に水深の浅い所ほど通行船の被害が大きいと言う訳です。又、その上を通過しても即ー爆発と言うものでなく、ゲージの様なものが付属していたと思います。

2019年05月24日 (金) 19時49分


[1167] [戦争] 太平洋戦争と潜水艦(ニミッツの太平洋海戦
From:菊池金雄 [/]

■) No.1531 http://d.hatena.ne.jp/wanbi/touch/20120626/1340666179
太平洋戦争で、日本から戦地に向けて食料や軍事物資を運ぶ商船が、米潜水艦に何隻も沈没されたことはよく知られている。以下は太平洋艦隊司令長官ニミッツの「ニミッツの太平洋海戦史」から、潜水艦に関する文章である。
●アメリカの合理性
真珠湾攻撃以来、日本に反撃を加える米海軍兵力は、潜水艦が残っているだけであった。12月7日、米国海軍作戦部長は、日本に対し無制限潜水艦戦の実施を命じた。それは「潜水艦部隊は、休息のない消耗作戦に挺身し、日本の補給線である動脈を切断し、日本を飢えさせて降伏にまで追いつめる」ものだった。
米潜水艦部隊は、初期の数カ月間は粗悪な装備であったが、勝利への貢献は、他のいかなる部門にもひけを取らなかった。(353p)
●日本軍の潜水艦に対する考え方
真珠湾攻撃は、空母の艦上戦闘機ではなく、特殊潜航艇による湾内への突破侵入で始まった。その一隻は最初の基地攻撃の前に、米駆逐艦によって撃沈された。5隻で編成されたこの特別攻撃隊は、27隻からなる部隊の一部で、改装された伊号型潜水艦に分載されて現場近くまで運ばれた。この強力な潜水艦部隊は、偵察、空母部隊に対する情報通報ならびに港内脱出艦の襲撃が任務であった。日本豆潜隊の戦果は皆無に近いが、その攻撃の不首尾は日本の潜水艦用法の思想を示している。
第一次大戦でドイツのUボートがあげた戦果や、第二次大戦の大西洋戦における連合軍船舶の大損害にもかかわらず、日本は通商破壊兵力としての潜水艦の価値を認めなかった。日本は連合国の船舶攻撃に対する潜水艦の使用計画をもたなかったばかりでなく、自国の商船隊を護送する計画も持っていなかった。
日本の潜水艦用法の第一義は、もっぱら艦隊作戦の支援にその兵力を注ぎこむことにあった。さらに、日本海軍は米潜水艦の潜在力を軽視していたため、真珠湾攻撃でも、潜水艦基地には見向きもしなかった。(354p)
●日本潜水艦のまずい用法
日本は潜水艦を、戦略的に無価値な妨害的奇襲用に使った。またその攻撃半径を延ばすための、水上機の燃料補給艦として潜水艦を利用したこともある。
ドイツ側が、貨物輸送船に対する武器として有効なものは潜水艦を措いてないことを指摘し、日本の水中艦隊を連合軍の商船隊攻撃に使用するよう再三再四促したとき、日本側は、「日本潜水艦は敵の軍艦攻撃にしか使わない」とはねつけた。そこで、米潜水艦が日本の貨物船に対する攻撃によって、その戦争潜在力を枯渇させつつあったが、日本は米艦隊が依存していた油送船や貨物船には目もくれず、潜水艦はもっぱら警戒厳重な艦隊ばかりを狙った。(384p)
●判断力停止に陥る
連合軍が飛び石戦法をはじめるや、絶望的になった日本は、次善の策である艦隊攻撃という目的さえ放棄してわき道にそれた。孤立した守備隊に補給するため、陸軍の主張により、日本の首脳部は潜水艦を貨物運搬鑑として使用しはじめた。日本の優秀な潜水艦もとんでもない不当な任務を無理やり押しつけられるようになった。
 連合軍部隊は本国基地から増大する距離を行動し、より日本基地に近く作戦しつつあったが、日本潜水艦の活躍は向上するどころか確実に低下の一途を辿っていった。
 古今の戦史において、主要な武器が真の潜在威力を理解されずに使用されたという稀有の例をあげれば、まさに第二次大戦における日本潜水艦の場合である。(385p)
●日本商船隊への攻撃
日本潜水艦の活動が不振を重ねた間に、米潜水艦はますます多くの日本艦隊を片つ端から撃沈していった。しかし、戦争の経過でもっと注目すべきことは、日本が生き延びるための生命の糧を運ぶ貨物船に対する米潜水艦の偉業であった。(385p)
日本の荷積船は、南方資源地帯から日本に積荷を卸した後、南太平洋向けの軍需資材を荷積みをして戦地で引き渡し、それから資源地帯で資源を受け取るという三角形路線を確立しなかった。このやり方をすれば、全航程の3分の1だけが空船になるわけだが、現実には、航海時間の約半分は空船であった。(386p)
●日本商船隊撃沈の数値
米潜水艦部隊は500トン以上の日本商船1113隻(確実)および65隻(不確実〉を沈め、その総トン数は532万グロストンに達している。その上、海軍艦艇201隻(確実〉および13隻(不確実)を仕止め、その総排水量トン数は57.7万トンにのぼった。以上の戦果をあげた米海軍の損失は、52隻の潜水艦を失っただけで、戦闘行為による損失は45隻であった。(392p)
出典 ニミッツ「ニミッツの太平洋海戦史」(恒文社1962)

2019年05月21日 (火) 16時26分


[1166] 太平洋戦争と民間船・船員の犠牲
From:菊池金雄 [/]

 太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年〜1945年)に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発したことから端を発したと言われています。
 石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
 南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
  
日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
 こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
 南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43%と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15〜16歳といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
 以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
     太平洋戦争で失われた船(除・軍用船): 7,240隻
内  官・民一般汽船 :  3,575隻
機帆船 (機械と帆で走る船) : 2,070隻  
漁 船 : 1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員) :  60,608名

(「戦没した船と海員の資料館」 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html 及び「日本殉職船員顕彰会」 http://www.kenshoukai.jp/より引用)

〔注〕
 1. 太平洋戦争:第二次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
  アジア地域を舞台にした戦争も含めたということを明確化するため、「アジア・太平洋戦争」或いは「大東亜戦争」という呼称もあります。
 2. ロジスティクス:元々「兵站」(へいたん)と訳される戦争用語で、軍隊の後方にあって、武器・食糧・燃料・生活物資・医療などの後方支援・後方補給などの労務全般をさす言葉ですが、今日ではビジネス用語として転用され、モノの流れを、調達・生産・輸送・保管・流通・販売までの全体的な流れとして統合し、効率化するための戦略として捉える場合の概念になっています。

2019年05月16日 (木) 15時15分


[1165] 命の洗濯(H19年)
From:菊池金雄 [/]

                                       菊池金雄
 去る5月11日 塩釜のホテル・グランドパレスで東北海保クラブ(OB会)春の懇親会が開催されたので、久しぶりでOB仲間と一同に会した。
 この催しは毎年行われているが、たまたま私は他の行事とかち合うので今回が初参加となったことについて敷衍しておきたい。
 私は海上保安庁に入る前に神戸の大同海運鰍フ貨物船に乗り組み、あの戦争中は陸海軍徴用船の軍属船員として、戦火の海をからくもくぐりぬけ生き残った一人であり、終戦間際には戦時急造の2A型戦時標準船向日丸(むかひまる 6800トン)が北鮮の羅津港でソ連雷爆撃機編隊に急襲され、大型在港商船隊17隻中脱出できたのは3隻だけであった。
 当時O次席通信士が肺結核のため船内で静養中であったが、空爆下の自船が危機に瀕したので、近傍の満鉄病院に緊急入院させたのであるが、駄目かと思った自船が奇跡的に舞鶴に帰還するも、彼の消息が不明のためいろいろ各方面を探索の末、最後に日本殉職船員顕彰会に問い合わせたところ、昭和20年8月10日、現地で戦没していたことが平成11年にやっと確認され、誠に慙愧に堪えないものがあった。
 同顕彰会では毎年5月に、横須賀市の観音崎公園内にある戦没船員の碑で、今次大戦で戦没した商船乗組員6万余名の御霊の慰霊祭を挙行していることも把握し、以後毎年参列して彼のご冥福を祈念していたが、丁度開催日が前記OB会と同日のため今まで不参のやむなき次第であった。
 しかるところ昨年9月仙台市メデァテークで上記顕彰会主催の「戦時徴用船遭難の記録画展」が開催され、有志各位の見学をいただきましたが、たまたま前記の羅津満鉄病院で当時看護師であったKさんが多賀城にお住まいの情報が舞い込み、顕彰会側の協力を得て当会場で対面して、空爆下の満鉄病院内の状況を親しく拝聴することができた。
 私の長年の疑問である病院内での戦死場面の有無については、敵機は主として埠頭の商船隊を襲い、病院では戦死するような事態はなかったこと。当時商船隊の兵士や船員の負傷者が続々と搬入され、地元の入院患者は極力退院させていたこと。推察ではあるがOさんは船内で喀血された由では、あるいは再喀血などで病死なされたのでは、との非常に貴重な証言をいただいた。
 この証言は、私にとっては長年の謎を解く鍵でもあり、例え彼を船に連れ戻しても、船内で容態悪化の際は、船医不在のため何らの処置もできなかったことであろうし、今日までの肩の重荷が多少減った心境でもあったので、今回OB会のほうに交わった次第である。
 さて30年間在職し、海陸の部署で共に勤めた仲間との久しぶりの対面は感動の一語に
に尽きる。お互い年輪を重ね、ただただ懐かしく和気藹々にテーブルを囲み語らいの場に花が咲き、これこそ命の洗濯であろう。

2019年04月28日 (日) 19時33分


[1164] 日本商船隊壊滅の背景と要因
From:菊池金雄 [/]

 予想をはるかに上回り、わが国の商船を中心とする輸送船団が崩壊していった背景と要因には、米国とわが国(海軍)の海上輸送の護衛に対する、180度異なる考えと対応があったと言われている。
 米国は、勝利への道が日本の海上輸送路を破壊することだと考え、開戦前からそのための対策を十分に整えていた。
 これに対しわが国海軍は、日露戦争以来、伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、輸送船の護衛には殆ど目を向けていなかった。

1 米国は開戦に備え、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備していた。
また、日本商船攻撃のための潜水艦も備え、真珠湾奇襲攻撃の3時間後には、51隻の潜水艦を西太平洋全域に配備し、民間商船も総べて攻撃の対象とする 「無制限潜水艦作戦」 の実施を大統領は命令している。
なお、これ等潜水艦はその後200隻に増え、西南太平洋全域で思うままにわが国商船や漁船、機帆船を攻撃し撃沈している。
2 これに対してわが国海軍は、開戦時輸送船を護衛する海防艦は僅か4隻という、無きに等しい実態であった。
このような中で、陸海軍の作戦行動に参加した徴用船は海軍の艦船によって護衛されたが、資源の輸送に当たった輸送船は護衛のない単独輸送を強いられた。
その後、輸送は船団方式を取り入れ、護衛船を付けることにしたが、護衛船は緊急建造の海防艦か水雷艇程度で、これは米国潜水艦の敵ではなかった。
3 米国潜水艦の攻撃戦法に 「狼群作戦」 と言うのがある。
この戦法は、数隻の潜水艦が同時に船団を襲撃するというものである。敵は先ず護衛艦を標的にし、これを撃沈し船団の行動が乱れて輸送船がバラバラになった後、敵潜は次々に無防備の輸送船を攻撃し撃沈する、という戦法である。
ミッドウェー海戦の敗北で、制海・制空権を敵に奪われ、航空機から敵潜を発見し攻撃するという 「電波兵器」 の開発が遅れた日本軍は、敵潜を攻撃撃沈することが殆どできず、無残にもわが国輸送船団は敵潜の思うがままに次々と撃沈されていった。
また、戦争の半ばからは、空母や奪還された南方基地から発進する敵航空機によって、商船はもとより機帆船や漁船が攻撃され、撃沈されていった

2019年04月26日 (金) 15時28分


[1162] 元「向日丸」通信員の方と交信
From:菊池金雄 [/]

http://www.shipboard.info/blog/archives/2012/01/post_2546.html

2019年04月12日 (金) 11時00分


[1161] 定年後余話
From:菊池金雄 [/]

                  菊池金雄
定年退職して3年目の昭和59年に、地元町内会の知人から自分の仕事を手伝ってほしいとの話があり、多分町内会の雑事かと軽く応じていた3ヶ月後に「保護司内申書」に捺印を求められ仰天。強く辞退したところ、実は役所(保護観察所)側の了承を得るのに3ヶ月折衝してやっと手に入れた書類なので是非とも引き受けてほしいと懇望され、しぶしぶ捺印せざるを得なかった。その背景は一人で多数の保護観察対象者を担当しているため保護司適任者を推薦していたが、原則は60歳が上限のため当局が難色を示したもののようで、同年5月保護司に委嘱された。
 引き受けたからには「保護司」なるものの職責、知識を吸収しなければならないので当局主催の「保護司初任者研修」に参加し、退潮気味の五管の再生に励み真面目に受講しながら、道交法違反、窃盗犯、麻薬事犯、殺人犯等娑婆では想像できない犯歴の面々と対面しなければならなかった。とにかく所定の遵守事項励行確認が必須で、面接の概要は月頭報告書で行い、末尾にある「良好・普通・不良」の評価欄については主任官(保護観察専門職)より、普通人の尺度とは異なると予め謎めいた助言があった。
 ある酒気帯び事犯対象者に反省を求めたところ「あの道路を通ったのがまずかった」の返答に苦笑し、次回再回答を求め、前段の普通人の尺度云々を実感した。
 保護司を引きうけて間もなく、強引に保護司関連団体(社会を明るくする運動)の地区委員長に推されてしまい、二股かけての未知の奉仕活動にはまりこんでいった。
 当然保護司の任務は部外者に目立たないように処遇を行う静的であるのに対し、本運動は、のぼり旗やチラシ等の広報で、一転して動的活動に変身。防犯、福祉団体はもとより、事務局担当の地元自治体とも密接な連携が必要で、分かりにくい運動の趣旨説明に汗だくだったが、親しい海保OBからビデオ支援やテッシュペーパー等の協賛をいただき心強かった。
どうも保護司仲間は海保と海自を混同しているようなので、地区の保護司会で年一回移動研修(懇親も加味)があるので、二管区本部に依頼して巡視船展示訓練を見学させたところ海保業務に対し強烈な印象をうけPR効果覿面だった。
それから数年後に、区の委員長が急死しため、意外にもピンチヒッターで後任に推されたので地区委員長をバトンタッチして区委員長に専従したが、平成12年5月保護司を定年になり、法務大臣の感謝状をいただき、やっと重荷から解放された。
常々対象者には保護観察終了後は私との出会いは忘れて正業に就くよう諭したので、知る限りでは再犯は一件だけで、恩赦が一件あったのは保護司冥利かと思う。
省みると、定年後にこれほどのエネルギーがあったかと自問すると共に、種々ご配慮いただいた海保部局ならびに友人各位に深謝し、余禄を付して結びとする。それは地域に同年代の第二の親友を得たことと、思いがけず平成十八年に仙台市長より地域社会の健全育成関係で市政功労者章をいただいた。因みに保護司は法務大臣から委嘱され、身分は非常勤国家公務員である。

2019年04月10日 (水) 15時41分


[1159] 上有住駅
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9C%89%E4%BD%8F%E9%A7%85

2019年03月25日 (月) 16時46分







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