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「硝煙の海」談話室

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[1158] 能の発声法
From:菊池金雄 [/]

謡曲発声法  (出典;「世阿弥を読む」 観世寿夫著)



「鼻と口を使って静かにしかも充分に息をひきこむことによって、正しい複式呼吸が始めて可能になる。能の発声には当然ながら腹式呼吸が主体となり、胸式呼吸が補助的に併用される。





発声の基本
 「下顎をひいて、口を左右に開いて謡え」音ははっきり明瞭に出さねばならない、ただ音が外へ出すぎてうるさくならないために声をこめる、しかし口の中でこめるのでなく体で声がこめられるべきであって、また声が口を開いたときなるべく下顎にそって発せられる感じになるために、下顎を引き、左右に口を開くわけで、その際 口腔に声が反響して 謡い独特の音声を自覚できます

2019年03月25日 (月) 15時13分


[1157] 漁師たちの戦争 徴用船の悲劇(3) 特攻隊並みの厚遇
From:菊池金雄 [/]

https://www.kanaloco.jp/article/entry-50534.html

2019年03月19日 (火) 16時33分


[1156] 海上保安庁 観閲式に安倍首相出席
From:菊池金雄 [/]

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30742200Q8A520C1000000/?n_cid=SPTMG002

2019年02月25日 (月) 15時58分


[1155] 北鮮清津沖、対ソ連機海戦秘話
From:菊池金雄 [/]


         出典;第82号海防艦艦長 森 武著「葉隠れに生きる」
          編著者 元向日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

ソ連参戦直後のS20年8月10日正午、北鮮城津基地の海防艦82号は「速やかに羅津に進出し、行動可能な船舶を護衛し元山に待避せよ」の指令を第一海防隊司令より受けた。当時同艦は被雷沈没の陸軍輸送船遭難者の捜索救助任務で出動中だったが、手がかりなく清津付近に仮泊していた。
 同艦は直ちに羅津に向け北上。被弾した二隻の南下中の商船に「後続船ありや」と手旗信号で尋ねると「まだある」との返答なので更に北上中、清津南東で最後の船を望見した。
 ところが該船に接近した途端・・・ソ連雷撃機24機が商船「2A型 向日丸(むかひまる)約七千トンと確認」を急襲。向日丸は果敢に搭載火器で応戦・・・敵弾はなかなか当たらず・・・海岸に激突して爆発するのが数回望見された。

敵機撃墜後、被弾〜轟沈
 間もなく単独勇戦奮闘した向日丸に接近「吾、貴船を護衛して元山に向かう」と信号を交わし護衛態勢に入った、と見る間に敵雷撃機18機が襲ってきた。3機編隊の六群である。敵機は低速、鈍重の双発機で、超低空で本艦に襲ってきたので向日丸を陸岸寄りに待避させ、本艦は25ミリ機銃で応戦、たちまち3機を撃墜したので森艦長は艦橋で「幾らでも来ゃがれ」と気おい立つっていた。ところが不運にも敵魚雷が自艦に命中したため一時気を失った・・・「艦長 艦長」と呼ぶ声で気がつき後部を見たら何も見えず、艦橋から前部だけ横に傾斜のまま辛うじて浮かんでいた・・・まごまごしていると艦とともに水没するので周辺の部下に「飛び込め」と号令をかけた。

向日丸が救出
沈没してから1時間半後、向日丸が我々を救出のため接近してきたので「やれやれ助かった、とホット」したが、向日丸が全速で大きく転舵するので空を見たら、またもや敵機18機が襲いかかっていて、同船は魚雷回避の転舵しながらも乗組員はハッチボード(木製の船倉用蓋)を海面に投下してくれた。この板に腹ばい・・・もう助かったも同然と、周辺を泳いでいる部下と雑談しながら浮いていた。
 午後8時10分ころ向日丸が再び接近してきた「今度こそ助かった」と思ったら船は50メートルくらい離れた地点を惰力でどんどん遠ざかって行く、間もなく日没・・・暗くなれば助からぬと緊張した。向日丸は機関を後進・・・行脚が止まったらしい。しかし五百メートルは充分にある・・・空は徐々に暗くなってきた、ここで助からなかったら俺は死ぬなー・・・と思った。 ハッチボードに腹ばいながら向日丸に向かって力泳 力泳、全身の力をふりしぼって泳ぐ・・・ボードを捨てればもっと楽に泳げるだろうが、板を捨てた途端痙攣でも起こしたらそれこそ最後と思って船の舷梯に着くまで板を捨てなかった。

  向日丸 野口甲板員(当時15歳)の証言
 私は伝馬船で一人ひとり救助していたが、その中に長髪者がいたので、てっきり敵兵と思って接近したら「おれは艦長だ・・・負傷した部下から先に救出してくれ」とのことで、非常に感銘をうけたと証言している。

  やっと舷梯にたどり着く
 上がろうとしても、自力ではどうしても上がれない・・・本船の乗組員に引っ張りあげてもらって、やっとタラップに立った・・・どうやら甲板まで上がったものの、もう一歩も足が動かない。甲板のあちこちに助かった部下が居るので、そちらに行こうと思っても全然歩けない・・・私はデッキに尻をついた。
 空も次第に暮れなずみ辺りが次第に見えなくなってきた・・・私が助かったことを知り、兵隊が迎えにきたので、彼らに両肩をかかえられながら、皆が集まって暖をとっている後部の缶室の上に行ったら、間もなく向日丸の船長から迎えが来たので私は船橋に赴き、船長に厚く礼を述べた。同船の船長は非常にご老体で(当時60歳)、首に巻いた包帯には血がにじんでいた。(向日丸の谷豊船長は9日ソ連機空爆下、弾片で頸部負傷のため入院中であったが、自船出港のため復船して指揮をとっていた)
 この老船長は私に向かって「艦長! 貴方は向日丸の犠牲になってやられたので、艦長の納得がゆくまで生存者の救助をします・・・見ていてください」と船員を督励し、伝馬船とカッターで懸命に救出作業を続行・・・やがて視界内に一人の生存者も見当たらなくなった・・・吾々一同向日丸幹部に感謝の意を表したのであった。
 午後8時半、先任将校の調査で、本艦乗組員215名中、生存者は98名で、戦死者は117名と確認された。

  両艦船幹部で事後のことを協議
 私は向日丸船長に「多数の負傷者を一刻も早く最寄りの港で手当てを受けさせたい」と述べたら、船長は「本船は船速も遅いし、明日になれば又もや敵機に襲われるだろう。昼間の航海はとても無理だから、一応城津に寄港して貴艦生存者を揚陸させ、夜間航海で元山に行きたい」と、意見が一致した。
 また、臨席した向日丸側士官の証言によれば、森艦長から「何か要望でもあれば申し出てほしい」と提案があったので「本船は敵機3機撃墜したので証明書を求めた」ら、すぐ応諾したとのことである。
かくして向日丸は11日未明城津に寄港し、本艦の生存者は下船することができた。

合同葬
 城津の町では吾々生存将兵の宿舎に「魚津」という大きな料理屋を当ててくれたが、この店は何と前日出港前に散財して「又来るよ」と世辞を言って出た料亭であったとは・・・
けれども何様褌ひとつの敗残将兵に、幸い、おかみも、ご女中連も気がつかなかった。
 吾々の遭難はすでに城津町長も聞きつけ、ねぎらいの挨拶にわざわざ出向き、衣服の調達等いろいろ世話をしてもらったものの、ドンゴロスの作業衣、ワラ草履、麦藁帽のいでたちで、隊伍を整えての行進は珍風景ではあった。
 戦死者百十七名(機関部は機関長以下全員戦死)の合同葬が、町長の配慮で当料亭において仏式で行われ、九ヶ月間寝食を共にした戦友の霊安らかに眠り給えと祈り、屍を超えて死を無駄にはしないと誓った。

海防隊司令への報告
 葬儀を終えホットする暇もなく、私は主計科下士官一名を帯同、元山の海防隊司令へ戦況報告に出向くため、残りの部下は暦先任将校指揮で、翌14日城津から京城に向かうよう指示したが、町長はじめ、変わり果てた吾々に気ずき、いたく同情をよせてくれた料亭の皆んなに送られて城津駅へ向かった。
 私は元山で下車して、第一海防隊司令に面会した。司令は「ごくろうであった」まではよかったが、その次に「君の艦がやられたことは羅南師団司令部からの電報で知っていたよ。助けに行こうと思ったが、行けば俺もやられるから行かなかった」と、付言。
 内心・・・これが海兵出の海軍大佐の言うことかと、足げにもしたい激怒をやっと抑えて、暦先任将校の率いる本隊に合流すべく元山駅に急ぎ、京城へ向かった。

付記
 この海戦で、なぜ向日丸が被弾しなかったか疑問であったが、羅津港で積荷を中断して脱出したため喫水が浅く、魚雷が船底を素通りしたと同船乗組員の証言がある。
 また、本船は羅津港での対空戦でソ連機1機撃墜。清津沖でのソ連雷撃機との攻防戦では機銃弾を撃ち尽くしたが2機を撃墜したので、船橋前に「3機撃墜マーク」を表示するも、元山〜舞鶴避航中に終戦となり、何らの恩賞も無かったことは無念であった。
 実は護衛してくれた海防艦名不詳のため、いろいろ探索の結果「第82号海防艦」と分かり、私はH14.8.9広島市で同艦の生き残り隊員5名と劇的対面し、双方で攻守の謝意を交換。翌日は呉海軍墓地の同艦慰霊碑を一緒に参拝したが、中国新聞の取材記事は下記サイト参照。 http://www.geocities.jp/kaneojp/02/0286a.html
彼らは救出してくれた向日丸乗組員にお礼をしたい意向であるが、私が接触した元向日丸乗員4名は病気、または鬼籍に入った現状から実現できないこと。同友会(大同海運OB会)が隔年物故者法要のことを伝えたら、世話人の一人から、下記のコメントが寄せられた。
<老齢の向日丸船長の救助指示は一生忘れることができません>海防艦生存者 横務 務

2019年02月19日 (火) 18時48分


[1154] 身近にあった戦場(1)
From:菊池金雄 [/]

http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/nagae1.html

2019年02月07日 (木) 16時10分


[1153] 第二次世界大戦の船舶喪失
From:菊池金雄 [/]

https://blog.goo.ne.jp/imbanojunin/e/2d7338f51db73233aa7d464548d5d5a8

2019年01月20日 (日) 16時08分


[1152] 商船の戦時記録僅少の事由  対遭難船員;陸海軍の処遇事例
From:菊池金雄 [/]

 海軍側の戦記が多いのに商船側のものが極めて少ないのはなぜであろうか?
言うまでもなく商船は民間会社で運航するもので、軍艦のように参謀等のスタッフは不在で、所定要員のみの配置のため、これが記録に余裕がなかったためと思慮される。

対遭難船員;陸海軍の処遇事例
 レイテ作戦当時、マニラに一万人くらいの遭難船員がホテルやンションに収容され、中にはダンスホールで空き室待ちを余儀なくした。これが管理は陸軍の停泊場司令部で最小限の衣服も支給された。海軍徴用船の場合は、軍の雑務にかりだされたとのこと。
 なぜこんなに大勢の遭難船員が集まったのかは、敵に制空権をうばわれたのにしゃにむにレイテ作戦に増援部隊を投入したため戦没船が続発したことと、日本への帰還させる便船が僅少であったからである。
 一例だが散散苦労して門司に帰還したら、暁部隊から一流料亭を宿所にあてられ、長袖衣服(当時流行のカーキ色の国民服)が支給された。翌日の軍属解雇式で暁第2940部隊長が全帰還船員に木盃を配って謝辞を述べ、自宅までの切符も渡された。
他方、海軍徴用船の場合・・・徴用船の戦没は軍秘とて小人数ごとに分宿させられたとのこと。
 これらのマニラで待機遭難船員中、各船の船長・機関長は軍の輸送機で空路帰国し、門司で自社船員を出迎えたケースもあるが、出迎えなかった例が多いのは会社側に帰還情報が無かったのではないかと思う。それは、私が帰郷途次、真っ黒な顔で会社に出向いても、誰一人から「ご苦労さん」の言葉が無かったとのことからも首肯できる。

2019年01月19日 (土) 15時25分


[1151] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2019年01月18日 (金) 16時04分


[1149] 米寿の関西行脚余談
From:菊池金雄 [/]

                    08年10月  菊池 金雄

去る10月26日神戸の旧船会社(大同海運梶jのOB会である同友会から3年毎の物故者追悼法要も行う旨の案内があり、あの戦争の末期、ソ連機の空爆に曝された北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した私の船(向日丸=むかひまる)が必死に南鮮向け避航中、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機に襲われたとき、首尾よく第八十二号海防艦と合流。両艦船と敵雷撃機と激烈な
攻防戦を展開。向日丸は敵機2機撃墜するも、該海防艦は敵機3機撃墜後、不運にも被雷〜轟沈したため、向日丸が生存者を懸命に救出して城津まで送り届けた秘話があったのであるが、今回の法要にその生き残り代表者が、すでに亡くなった当時の向日丸船長以下乗組員各位へ、往時のお礼の追悼文を奉納する手はずで、今日参集するOBはすべて戦後派のためと、会社側には自社船の戦没一覧表だけで、生存船の戦時記録も見当たらないので、私が6年前に上梓した拙著「硝煙の海」が唯一の記録のため、証人として老骨に鞭打って西下したのであった。
 往路は25日1030発の 仙台―伊丹 ANA1836便で 久々でフライトを楽しみ、幸い徐々に晴れ間となり 一時間ほどで「渥美半島上空 中部国際空港が見えます」とアナウンスがあり 眼下にはっきり望見しながら、間もなく伊丹空港着。三宮までバスに乗り継ぎ 一年ぶりで活気に満ちた ミナト神戸の土を踏む。
物故者追悼法要は神戸市の八王寺で翌26日午前10時から催されるので、広島市から参列する海防艦側代表の横見氏とホテル パレス神戸で同泊を約束していたので、三宮で所用後、在神戸の姪のクルマでホテルまで送ってもらい、六年ぶりで同氏と再会することができた。ということは、私はかつて呉の海軍墓地にある同艦の慰霊碑に参拝したことがあったからである。
 翌日、二人で八王寺に行き、大同海運外B25名が参集して物故者の追悼法要が執り行われ、横見氏の追悼文、並びに私も、故小川次席通信士へのお詫びと、スルー海で爆沈した昭豊丸戦死者への追悼及び、故中村清三郎船長の的確な指揮に対する謝辞を奉納した。
 この「商船が沈没海防艦将兵救出」は当然海軍サイドから会社へ謝辞があって然るべきなのに、当時すぐ終戦という混乱期のため今日まで公式記録も見当たらず、膝もとのOB会は、元の会社が合併を重ね、今日、商船三井に吸収された関係もあり往時の記録もあいまいなので、今回、救助された側の代表者が参列下さったことは、私の記録の証言ともなり、有意義な法要となったことと、加えて、当日、作家の土井全二郎先生がわざわざ東京から取材に駆けつけ、何れ、次回の作品に載せてくださるものと期待されるところである。
 正午、席を改め三宮の第一楼で更に15名加わって40名が懇談し、盛会裏に閉幕した。
翌朝、横見氏と新神戸駅で東西に別れを惜しみ、それぞれ新幹線で帰途に就いたのであった。

2019年01月16日 (水) 15時09分


[1148] 戦時日本商船の動向
From:菊池金雄 [/]

 太平洋戦争が激化する最中、危険な海域を必死の思いで物資を内地へ運び、兵士を戦地へ運んだ日本の商船は稀に見る夥しい人員と物資の亡失を厭わず終戦まで働き続けた。
終戦後も生き残った船員と船には、復員者の輸送という任務が課せられ、戦闘行為が終結してからも働き続けねば成らなかった。

商船乗員の損耗率は、軍人たちのそれを上回り、その中でも19歳以下の少年たちの占める割合が30%にも達するという異常なものである。
陸海軍軍人の闘いの様子は多くを語り継がれているが、その陰で商船の悲劇と犠牲は余り語られることがなかった。
今、多くの仲間たちの死を目前にしながらも過酷な現実を生き残った方々は、仲間たちの冥福を祈りつつ、自らが生き残ってしまったという重苦しい想いに苦しんで居られる。

その方たちの中には忘れられている仲間のことを知って欲しい、犠牲者の声を聞いて欲しいとの想いから活動されている元商船乗組員の方々がいらっしゃる。
海洋船舶画家の方は、自らも商船の高射砲担当として出征された。この方は北はアリューシャン列島のキスカ島、南はラングーンやジャワ、ソロモン諸島まで転戦したという。最後にはマニラ湾で負傷し、内地へ送還されて生き残ったそうです。
後に画家となり輸送船や軍艦のプラモデルの箱絵などを描いてこられた。

また或る方は、現在でも国内外で戦没船の調査を続けていらっしゃる。船の沈没場所は概ね掴んだが、その航海の目的や乗船していた人々のなど不明な点が多いのだという。
埋もれた資料を探しまわる地道な調査も、当時の船や軍の動きが判明するかも知れないという想いに突き動かされてのことであろう。

最近、拙ブログを訪問して下さった菊池金雄氏も、商船乗組員としての体験を著書『硝煙の海』として発表されている。
http://www.excite.co.jp/relocate3/?co=jp/top_2010/top_mylink/url/591735;http://www.geocities.jp/kaneojp/04/0401.html

知られざる日本商船の悲劇を、後の世の我々が少しでも知ることで、輸送船と供に沈んだ方々の無念の想いが僅かでも癒される様にとの願いを込めて・・・合掌。

2019年01月13日 (日) 14時59分







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