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「硝煙の海」談話室

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[414] 少年海員の悲しい史実
From:菊池金雄 [/]

 戦時中の新聞広告には興味を引かれる。なかには「最新・除倦覚醒剤」としてのヒロポン(散剤・注射剤)が堂々と広告しているのなど、現在の人たちは驚くのではなかろうか。適応症として「過度の肉体及び精神活動時」「徹宵、夜間作業、その他睡気除去を必要とする時」「各種憂鬱症」などが挙げられている。戦場でも、銃後でも、ヒロポンは必要だったのである。かつての私も、今は犯罪とされる覚醒剤を服用した経験がある。

 話はそれた。戦時中の新聞にこのような広告が見られる。「急げ、一億戦闘配置につけ、船を送れ、木造船を造れ、老も若きも造船報国に挺身応募せよ」。これは造船労働者募集の広告である。ところが船舶には乗組員が必要である。官立・私立普通海員養成所の生徒を大量に採用しなければならない。たとえば毎日新聞の1943年11月13日の朝刊掲載の広告の大要を記そう。「敵は船員をドシドシ作ってる。十月廿七日夜、大本営海軍報道部 富永少佐は其放送に『あらゆる戦力の前提条件は海運力つまり船と船員の増強にある』と叫んだ。今その船員が足らぬ、後日ではない、今だ。国家は船員に論功行賞を行う。また船員掖済援護会も出来た。満十四歳以上の青少年は直ぐにこの恩恵を受けよ。父兄指導者殊に婦人方の理解を期待す」。

 横山氏は「僅かの教育で死闘の海に送り出された青少年たち」(第2章第1節)において、泉佐野の第一短期高等海員養成所と岸和田の官立普通海員養成所の実態を明らかにされた。このうち、普通海員養成所は小学校(国民学校)高等科終了以上だから、満14歳で応募資格がある。海軍特別年少兵、予科練、満蒙開拓青少年義勇軍、陸軍幼年学校など、そして日赤乙種救護看護婦養成に至るまで、14歳が狙い撃ちにされたといってよい。

 いかに普通海員=下級船員とはいえ、3ヵ月や2ヵ月の訓練で一人前の船乗りが養成出来るはずはない。甲板掃除、マスト登り、石炭撤き。殴られながら雑役を覚えさせられた。

 夜になると、部屋のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。着衣にはシラミがびっしり。岸和田で養成された少年海員は5139人。彼らは粗製乱造の船に乗せられ、戦場の海に投入された。ほとんどはアメリカ軍の攻撃で海に沈められた。横山氏は、辛うじて生き残った少年海員出身者を探し出し、悲しい史実を浮かび上がらせた。

2015年03月16日 (月) 18時57分


[413] 開戦時の海防艦
From:菊池金雄 [/]

開戦時存在した日本海軍四隻の海防艦諸元及び最後の態様

下記WEB参照
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/transport/kaibokan.htm

2015年03月15日 (日) 17時12分


[412] 船舶喪失と海上護衛参謀の回想
From:菊池金雄 [/]

開戦直前の船舶保護への海軍の認識 が全く欠けていたと戦史からくみ取れるが、実は大いに認識していたのである。内閣情報局『週報238号』昭和16年4月30日号。太平洋問題特集「通商破壊戦と船舶保護・海軍省」より摘出。

 まず、潜水艦は制空権,制海権に関係なく、敵の監視を潜り抜け自由に水中を横行独歩できる。続けて
 近代戦は長期持久戦となり、長期間に亘る通商破壊戦が展開される。長期持久戦を行うには、多量の戦時物資を確保することが肝要であり、通商保護の手段としてとられる方法は「集団護衛制度」であり、速力のほぼ同じような商船を一纏めにして商船団を組織し、その周囲を駆逐艦あるいは航空機等が護衛し海上を航行する。 一旦緩急の場合、わが海軍の統合的戦術の威力と全将兵の士気と訓練の旺盛、充実さに至っては正に(将にを使っていない)完璧の備えである・・・ 歯の浮くようなウソパチな文言であることか。驚くと云うよりは呆れ果てその批判する言葉さえ出てこない。統合的戦術の威力など、全く存在しなかったことがその後判明する。敵潜を発見する装備も潜水艦に打撃を与える数学的問題さえ解決出来ずに、ひたすら無謀な航海を船員に課した。
・・・・以下下記WEB参照

 http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/transport/kaijyo-goei.htm

2015年03月14日 (土) 18時22分


[411] わが遭難記
From:菊池金雄 [/]

 下記WEB参照
http://www.ymf.or.jp/image/topics0708-sengo62/zaidan-topics0708-shusen62-3-wagasonanki.pdf

2015年03月14日 (土) 15時47分


[410] 戦時船員の回想
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2015年03月14日 (土) 09時40分


[409] 海防艦とは
From:菊池金雄 [/]

太平洋戦中、日本の商船隊が断末魔に喘ぎながら決死の航海するに当たり、その護衛任務を担い戦いの中で多くが海の藻屑に消えていった防人「海防艦」

下記WEB参照

http://www.gearpress.jp/blog/?p=6500

2015年03月12日 (木) 11時01分


[408] 船団輸送に見る完敗の日本海軍
From:菊池金雄 [/]

遠く南の空に、ひたすら無事を祈る母や父,妻や子の祈りは届かなかった ・・・以下・・下記WEB参照

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/transport/h-86.htm

2015年03月07日 (土) 18時27分


[407] 日本と英国の戦没船員顕彰慰霊碑
From:菊池金雄 [/]

日本
http://www.kenshoukai.jp/index.htm

英国
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00476/contents/021.htm

2015年03月07日 (土) 16時26分


[406] 輸送船に派遣の海軍警戒隊
From:菊池金雄 [/]

戦時中の各輸送船には海軍から若干名の警戒隊員が派遣され、搭載火器(対潜・対空)で船舶保護任務に挺身していたが、派遣元等が不詳のため追跡調査の結果、下記の事例をはあくすることができた。

 海軍予備学生出身者の「輸送船警戒隊指揮官」の例
昭和十八年十二月、学徒出陣の約四千人の大学生が入団、二等水兵に任命された。翌十九年二月に他の海兵団からも含め、三千三百五十四名が予備学生に合格、七月に約一割が落後、最終的には二千九百七十八名が巣立ち、各術科学校へ進んだ。
 入団直後は出身大学別の編成で、グループは五十音順で『チ』中央大『ト』は東大のように分類された。
 予備学生になってからは各班(十一人ずつ)官立、私大がほぼ半々で、現役の有資格者あがりがー、二人いた。
 学生隊の編成は三千人が十二の分隊に分かれ、一コ分隊は五つの区隊、一コ区隊は五つの班から成り立っていた。
 分隊監事(分隊長)が階級は大尉、区隊長は中尉で、一種の自治組織をとり、全学生の長、伍長補がおり、教員は別組織で優秀な下士官、高等科のマーク持ちが当たっていた。 卒業後、館山砲術学校を経て十九年十二月に少尉に任官し、横浜の船舶警戒部に勤務。二十年五月、長崎港で武装商船「大椎丸」(約ー万d)に乗船し、警戒隊指揮官として活躍中に終戦となった。
参照Web  http://www.ic-y.jp/furusato/furusato_p200.html
武山海兵団 C 『修了後術科学校へ』

2015年03月04日 (水) 16時38分


[405] 日本の商船隊の潰滅
From:菊池金雄 [/]

 日本商船隊は戦場の軍隊の兵站支援をする不可欠な繋ぎであるばかりでなく、経済構造の重要な繋ぎでもあった。それは戦争の 日本商船隊は戦場の軍隊の兵站支援をする不可欠な繋ぎであるばかりでなく、経済構造の重要な繋ぎでもあった。それは戦争の大部分を通じて直接攻撃に弱かったこの基本的構造の唯一の要素だった。
 日本は500トン以上の商船、約6000000トンで戦争に突入した。戦争中4100000トンが建造、捕獲および徴用され加えられた。日本における調査団により、この1010000トンの船舶の、a船名とトン数、b沈没・被害の日付、場所と理由、c残存船舶の現状と所在に関する船毎の一覧表にするのに十分な情報が確保された。証拠が得られた情報源はいくつかの点で矛盾していた。可能な限りこれらの矛盾は解決された。陸海軍統合査定委員会は、仮に同様の結果に達し、証拠を検討するいっそうの努力を継続している。調査団は以下の内訳の中の数値は陸海軍統合査定委員会の最終評価とさほど異ならないものと信じている。
 この船舶の内8900000トンが沈没あるいは深刻な損害を受け、終戦時行動不能になっていた。この合計の十分の七、54%は潜水艦に、16.3%が艦載機、10.2%が陸軍機そして4.3%が海軍・海兵隊の地上配備機、9.3%が機雷(大部分はB29によって投下された)、1%弱が水上艦砲撃、残りの4%が海難事故に基因した。
 敵の制海水域に深く潜入するその能力のため、潜水艦は終戦の月までに沈没総量の約60%を占めた。1944年中、空母機動部隊は多数の船舶を仕留めた浸透掃蕩を行った。日本の船舶が朝鮮および満州航路と浅い内海に限定された1945年4月以降、日本の港湾、内海水域にB29によって投下された機雷は、全ての沈没・被害船舶の50%を占めた。船舶による増援から孤立していた戦闘地域で、陸上配備機も調査団によって用意された一覧表に含まれない多数のハシケと500総トン以下の舟艇を沈めた。
 調査団の意見では、その第一任務として対船舶攻撃を行い、必要な特別の技術、装備と訓練を使用したこれらの航空部隊は、費やされた努力のために船舶に対して最良の結果を成し遂げた。
 日本は当初、戦場の軍隊の兵站支援にその商船隊の三分の二を割り当てた。最初の進軍が完了した後、彼等は基本経済のための原料の移動に多数の船腹を転用できるものと思っていた。しかしながら、ガダルカナル作戦の開始以降、彼等は一定で、思いもよらない軍事圧力下におかれ、目論まれた転用は、その日以後決して可能とならなかった。
 1942年末までに、船舶沈没は新造船をやや上回った。それ以来、沈没トン数の総計は日本の造船計画の拡張によって匹敵しようとするより、より急速にいっそう増加した。したがって使用可能な船隊の規模は連続的に減り、終戦時最初のトン数の10%にも達しなかった。日本は遅れ馳せながら護送船団システムの構築、海上貨物輸送の鉄道転換、遠距離の補給源の放棄を試みたが、これらの手段は痛み止めに過ぎず、治療とはならなかった。さらに、護送と航路転換は、戦争の最後の数ヶ月間に船1隻毎の貨物移動を、43%に減少させる要因となった。1944年、タンカー損失は特に激しくなり、それ以来日本の海運当局の第一の関心事だった。
 沈没船舶の基本経済への重要性は、後章で検討されるであろう。戦場の日本軍の見地から、日本から航送された陸軍補給品のうち、1943年に17%が、1944年には30%が、そして1945年には50%が海没したことは注目すべきである。艦隊油槽船の不足は、日本艦隊の機動性に対する制限として継続し、フィリピン海域での2つの重大な戦闘の敗北の一因となった。大部分が船舶不足のためである、不十分な兵站支援は、日本空軍の主要なハンディーキャップの一つであった。
 潜水艦、長距離偵察攻撃機、機雷、艦載機と地上機による攻撃は、相互に支援されており、日本の防衛を複雑にした。長距離航空偵察機は潜水艦のための目標を見つけ、潜水艦に対し僅かばかりの防御を提供していた護送船団は航空攻撃への脆弱性を増し、潜水艦を恐れて込み合った港に移動した船は艦載機攻撃の容易な餌食となり、機雷は、潜水艦が行動できない浅海外に船舶を追い出すのに助力した。我々が更に潜水艦を建造したなら、より早くにタンカーに指向し、潜水艦作戦を伴なった長距離偵察攻撃機任務をよりいっそう調整していたなら、船舶撃沈計画はより効果的であったかもしれない。
         出典WEB;http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/ussbs12.html

2015年03月03日 (火) 19時47分







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