「硝煙の海」談話室
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本日、このホームページを拝見しました。私は、昭恵丸機関長であった辻川貞一の孫です。あまり知らなかった祖父の戦争時のことが書かれてあり、大変嬉しかったです。また、祖父を知っている人がいたってことが本当に嬉しいです。私の父も二年前に亡くなりましたが、この話を、聞かせてあげたかったです。
2014年08月14日 (木) 19時23分
辻川機関長のお孫さんとは驚きです。 いろいろ情報を交換したいと思いますので別途メール願います。
下記WEB参照http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/gunji/syusen-fune.htm
2014年08月19日 (火) 08時32分
日本の戦時標準船関係WEBhttp://wau.private.coocan.jp/document/marine/workhorse.pdf
2014年06月07日 (土) 09時19分
平成26年2月8日(土)2300からでNHK EテレでETV特集「戦時徴用船〜知られざる民間商船の悲劇〜」が放送されます。 再放送は2月15日(土)午前0時45分から(放送日が変更になる場合がありますので、新聞等でご確認ください)関連WEBETV特集「戦時徴用船〜知られざる民間商船の悲劇〜http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=501&date=2014-02-14&ch=31&eid=6336&f=etchttp://manyoarakaruto.web.fc2.com/gaka-ookuboitiro.html
2014年01月30日 (木) 16時17分
お蔭様で何とか迎春できました。今年も戦時秘録の発掘に努めたい所存ですので、引き続き「硝煙の海」をご愛顧のほどお願いいたします。
2014年01月04日 (土) 16時35分
武村琢生 様 ご連絡ありがとうございます。 あなたのお住まいは仙台市ですか?私の戦時体験は戦渦に巻き込まれた商船の悲劇物語ですが、よろしければ何時でもお会いします。
昭和19年11月31日に竣工した【酒匂】は、帝国海軍が最後に竣工させた巡洋艦であり終戦時無傷で残った唯一隻の軍艦であった。竣工日を見ればお分かりかと思うが、【酒匂】が誕生した時戦局はすでに逼迫しており、出撃する作戦どころか搭載する燃料すらままならない状態であった。竣工したままの状態で舞鶴に停泊していた【酒匂】は、軍艦としての仕事に一度も携わることなく終戦を迎えた。損傷の無い【酒匂】はそのまま特別輸送艦となり復員任務に従事、昭和21年2月に任を解かれた。その後【酒匂】は米軍に接収され、運命のビキニ環礁へと回航されたのである。(長門の項参照)まるで君主に仕える家臣のように【長門】に従いビキニ環礁へと引き立てられた【酒匂】は、空中爆発のA実験時に大火災を起こし、艦全体がひび割れながら転覆沈没していった。アメリカの非道なる原爆により命を断たれたのは人間だけではない。それを忘れてはならない。
2013年11月23日 (土) 19時33分
大同海運梶@向日丸通信連絡将校 名和陸軍少尉の手記を下記WEBでお知らせします。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0318.html
2013年07月22日 (月) 15時10分
船名 共同丸(C油槽船 船主 鍵冨正作) 該船はS16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3,5浬に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。(出展;横須賀鎮守府戦時日誌) 補足;この共同丸はS19 10 25 小型タンカー昭豊丸がスルー海で米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に感無量である。 関連WEBhttp://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm
2013年02月20日 (水) 09時41分
私は当時横須賀鎮守府所属徴用船恵昭丸(大同海運貨物船5800総トン)の通信士として乗り組み、南洋委任統治の島々の海軍航空基地にドラム缶入り航空ガソリン輸送任務を終え横須賀軍港向け帰航中のS16.12.7夜間、東京湾口で日本貨物船(船名失念)が触雷のため国際遭難電波(500KC)でSOSを一回だけ発信したが、以後尻切れトンボで後続情報の発信がなかった。 通常なら付近船舶や最寄り陸上海岸局がこれが救助のための様々な情報交換通信が殺到するのであるが何故か宰領介入通信が無かった。 私は、この情報を即時船橋に伝達したが、船長から特段の指示もなく、船内でもまさか翌日開戦するとは知るはずもなく「日本海軍どうなってるの?」と疑問を投げかけていた。 本船は翌朝横須賀軍港に進入しようとしたら海軍の小艦艇が航路を指示し先導したことは、前夜に湾の要所に機雷柵を敷設したものと推定された。間もなくラジオで開戦のニュースが報じられたので不測の触雷ではなかったかと推測された。 この事案に関し真相を追跡の結果、一部確認された点は下記のとおりです。(1)出典; 船舶無線の歴史Web1940年: 昭和15年7月: 電報の発信制限(重要通信以外一般電報は発信禁止)された。(銚子無線局) 1941年: 昭和16年8月: 内国無線電報検閲局に指定され、横須賀海軍鎮守府から検閲将校が常駐。このころから電波管制が実施された。(銚子無線局) 1944年: 昭和19年5月: 潜水艦情報、防空警報を1日3回,長,中波で同時放送。(銚子無線局) (2)官立無線電信講習所実習生O氏の証言昭和19年1月、私が長崎無線(JOS)に実習生として勤務 していた時には、佐世保鎮守府から派遣された通信関係の海軍特務中尉が監督武官として駐在、業務を監視していました。(3)出展;銚子無線局OB会誌戦時中は横須賀鎮守府から検閲将校が派遣されていた。
2007年03月31日 (土) 20時58分
鳥ヶ崎防備衛所11月28日〜12月19日にかけて九二式機雷を三線敷設「防備衛所」とは、敷設した機雷原を監視、指令爆破する施設です。「鳥ヶ崎」は現在の横須賀市鴨居のかもめ団地付近です。ですので現在の東京湾フェリーの航路沿いに機雷を敷設したと思われます。
(3) O氏と同じ頃、潮岬海岸局で実習のS氏からの情報お訪ねの海軍派遣武官は特務中尉の白髪の方が紺の制服で日勤されていました。電信あがりの方らしく、室内でのモールスから、串本郵便局と三局接続のテカテカと鳴りっぱなしの有線の受信機も暗記受信ができる方で、一度、お前のところに母さんから電報が来ていたよといわれて、返事したとたんに電報配達が来たことを覚えています。あのテカテカは最初は苦手でこれを機に懸命に受信練習をしました。 でも温厚な方で、ほとんど発言もなく、通信物のチェックなどは気づきませんでした。当時の逓信省の職員は結核療養中の方が多く、窓を開けたり、締めたり、でも、頭のいい職員ばかりでしたが、さすが戦争の批判はなかったです。
拙著「硝煙の海」へのアクセスが13万件に達し、愛読者各位に厚く御礼申し上げます。 今年も引き続き、戦時商船の悲惨な記録発掘に努める所存ですので、よろしくお願いいたします。
2013年01月01日 (火) 11時07分