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「硝煙の海」談話室

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[1136] 北鮮清津沖、対ソ連機海戦秘話
From:菊池金雄 [/]

   出典;第82号海防艦艦長 森 武著「葉隠れに生きる」
          編著者 元向日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

ソ連参戦直後のS20年8月10日正午、北鮮城津基地の海防艦82号は「速やかに羅津に進出し、行動可能な船舶を護衛し元山に待避せよ」の指令を第一海防隊司令より受けた。当時同艦は被雷沈没の陸軍輸送船遭難者の捜索救助任務で出動中だったが、手がかりなく清津付近に仮泊していた。
 同艦は直ちに羅津に向け北上。被弾した二隻の南下中の商船に「後続船ありや」と手旗信号で尋ねると「まだある」との返答なので更に北上中、清津南東で最後の船を望見した。
 ところが該船に接近した途端・・・ソ連雷撃機24機が商船「2A型 向日丸(むかひまる)約七千トンと確認」を急襲。向日丸は果敢に搭載火器で応戦・・・敵弾はなかなか当たらず・・・海岸に激突して爆発するのが数回望見された。

敵機撃墜後、被弾〜轟沈
 間もなく単独勇戦奮闘した向日丸に接近「吾、貴船を護衛して元山に向かう」と信号を交わし護衛態勢に入った、と見る間に敵雷撃機18機が襲ってきた。3機編隊の六群である。敵機は低速、鈍重の双発機で、超低空で本艦に襲ってきたので向日丸を陸岸寄りに待避させ、本艦は25ミリ機銃で応戦、たちまち3機を撃墜したので森艦長は艦橋で「幾らでも来ゃがれ」と気おい立つっていた。ところが不運にも敵魚雷が自艦に命中したため一時気を失った・・・「艦長 艦長」と呼ぶ声で気がつき後部を見たら何も見えず、艦橋から前部だけ横に傾斜のまま辛うじて浮かんでいた・・・まごまごしていると艦とともに水没するので周辺の部下に「飛び込め」と号令をかけた。

向日丸が救出
沈没してから1時間半後、向日丸が我々を救出のため接近してきたので「やれやれ助かったーとホット」したが、向日丸が全速で大きく転舵するので空を見たら、またもや敵機18機が襲いかかっていて、同船は魚雷回避の転舵しながらも乗組員はハッチボード(木製の船倉用蓋)を海面に投下してくれた。この板に腹ばい・・・もう助かったも同然と、周辺を泳いでいる部下と雑談しながら浮いていた。
 午後8時10分ころ向日丸が再び接近してきた「今度こそ助かった」と思ったら船は50メートルくらい離れた地点を惰力でどんどん遠ざかって行く、間もなく日没・・・暗くなれば助からぬと緊張した。向日丸は機関を後進・・・行脚が止まったらしい。しかし五百メートルは充分にある・・・空は徐々に暗くなってきた、ここで助からなかったら俺は死ぬなー・・・と思った。 ハッチボードに腹ばいながら向日丸に向かって力泳 力泳、全身の力をふりしぼって泳ぐ・・・ボードを捨てればもっと楽に泳げるだろうが、板を捨てた途端痙攣でも起こしたらそれこそ最後と思って船の舷梯に着くまで板を捨てなかった。

  向日丸 野口甲板員(当時15歳)の証言
 私は伝馬船で一人ひとり救助していたが、その中に長髪者がいたので、てっきり敵兵と思って接近したら「おれは艦長だ・・・負傷した部下から先に救出してくれ」とのことで、非常に感銘をうけたと証言している。

  やっと舷梯にたどり着く
 上がろうとしても、自力ではどうしても上がれない・・・本船の乗組員に引っ張りあげてもらって、やっとタラップに立った・・・どうやら甲板まで上がったものの、もう一歩も足が動かない。甲板のあちこちに助かった部下が居るので、そちらに行こうと思っても全然歩けない・・・私はデッキに尻をついた。
 空も次第に暮れなずみ辺りが次第に見えなくなってきた・・・私が助かったことを知り、兵隊が迎えにきたので、彼らに両肩をかかえられながら、皆が集まって暖をとっている後部の缶室の上に行ったら、間もなく向日丸の船長から迎えが来たので私は船橋に赴き、船長に厚く礼を述べた。同船の船長は非常にご老体で(当時60歳)、首に巻いた包帯には血がにじんでいた。(向日丸の谷豊船長は9日ソ連機空爆下、弾片で頸部負傷のため入院中であったが、自船出港のため復船して指揮をとっていた)
 この老船長は私に向かって「艦長! 貴方は向日丸の犠牲になってやられたので、艦長の納得がゆくまで生存者の救助をします・・・見ていてください」と船員を督励し、伝馬船とカッターで懸命に救出作業を続行・・・やがて視界内に一人の生存者も見当たらなくなった・・・吾々一同向日丸幹部に感謝の意を表したのであった。
 午後8時半、先任将校の調査で、本艦乗組員215名中、生存者は98名で、戦死者は117名と確認された。

  両艦船幹部で事後のことを協議
 私は向日丸船長に「多数の負傷者を一刻も早く最寄りの港で手当てを受けさせたい」と述べたら、船長は「本船は船速も遅いし、明日になれば又もや敵機に襲われるだろう。昼間の航海はとても無理だから、一応城津に寄港して貴艦生存者を揚陸させ、夜間航海で元山に行きたい」と、意見が一致した。
 また、臨席した向日丸側士官の証言によれば、森艦長から「何か要望でもあれば申し出てほしい」と提案があったので「本船は敵機3機撃墜したので証明を求めた」ら、すぐ応諾したとのことである。
かくして向日丸は11日未明城津に寄港し、本艦の生存者は下船することができた。

合同葬
 城津の町では吾々生存将兵の宿舎に「魚津」という大きな料理屋を当ててくれたが、この店は何と前日出港前に散財して「又来るよ」と世辞を言って出た料亭であったとは・・・
けれども何様褌ひとつの敗残将兵に、幸い、おかみも、ご女中連も気がつかなかった。
 吾々の遭難はすでに城津町長も聞きつけ、ねぎらいの挨拶にわざわざ出向き、衣服の調達等いろいろ世話をしてもらったものの、ドンゴロスの作業衣、ワラ草履、麦藁帽のいでたちで、隊伍を整えての行進は珍風景ではあった。
 戦死者百十七名(機関部は機関長以下全員戦死)の合同葬が、町長の配慮で当料亭において仏式で行われ、九ヶ月間寝食を共にした戦友の霊安らかに眠り給えと祈り、屍を超えて死を無駄にはしないと誓った。

司令への報告
 葬儀を終えホットする暇もなく、私は主計科下士官一名を帯同、元山の海防隊司令へ戦況報告に出向くため、残りの部下は暦先任将校指揮で、翌14日城津から京城に向かうよう指示したが、町長はじめ、変わり果てた吾々に気ずき、いたく同情をよせてくれた料亭の皆んなに送られて城津駅へ向かった。
 私は元山で下車して、第一海防隊司令に面会した。司令は「ごくろうであった」まではよかったが、その次に「君の艦がやられたことは羅南師団司令部からの電報で知っていたよ。助けに行こうと思ったが、行けば俺もやられるから行かなかった」と、付言。
 内心・・・これが海兵出の海軍大佐の言うことかと、足げにしたい激怒をやっと抑えて、暦先任将校の率いる本隊に合流すべく元山駅に急ぎ、京城へ向かった。

付記
 この海戦で、なぜ向日丸が被弾しなかったか疑問であったが、羅津港で積荷を中断して脱出したため喫水が浅く、魚雷が船底を素通りしたと同船乗組員の証言がある。
 また、本船は羅津港での対空戦でソ連機1機撃墜。清津沖でのソ連雷撃機との攻防戦では機銃弾を撃ち尽くしたが2機を撃墜したので、船橋前に「3機撃墜マーク」を表示するも、元山〜舞鶴避航中に終戦となり、何らの恩賞も無かったことは無念であった。
 実は護衛してくれた海防艦名不詳のため、いろいろ探索の結果「第82号海防艦」と分かり、私はH14.8.9広島市で同艦の生き残り隊員5名と劇的対面し、双方で攻守の謝意を交換。翌日は呉海軍墓地の同艦慰霊碑を一緒に参拝したが、中国新聞の取材記事は下記サイト参照。 http://www.geoc
目次
目次項目が見つかりません。
ities.jp/kaneojp/02/0286a.html

彼らは救出してくれた向日丸乗組員にお礼をしたい意向であるが、私が接触した元向日丸乗員4名は病気、または鬼籍に入った現状から実現できないこと。同友会(大同海運OB会)が隔年物故者法要のことを伝えたら、世話人の一人から、下記のコメントが寄せられた。
老齢の向日丸船長の救助指示は一生忘れることできません。 横見 務

2018年12月20日 (木) 19時23分


[1135] 『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記【書評】
From:菊池金雄 [/]

大阪哲学学校通信 No.33 Osaka Independent School of Philosophy
         木村 倫幸(参与)
 「広大な西太平洋海域に戦線の拡がった太平洋戦争の本質は海上補給戦であった。/大量の軍隊を送り込んで東南アジア地域を占領し、その資源をもって国力を補充しながら戦争を遂行しようという戦略を支える根幹はすべて海上輸送態勢に依存していた。/(中略)/しかし、実際に輸送を遂行する中で、軍部のとった海上輸送に関する対応は、この時期における世界の海洋国家の近代的な輸送戦への戦略常識とは著しくかけ離れたものであり、それが結果して本書に記録されたような『輸送船の悲劇』を生む母体となったのである」(本書解説)。
 このように本書は、「第二次大戦への参加を余儀なくされた(いま風にいえば『業務従事命令に従った』)船員の体験手記である」(復刻版あとがき)。
 もともと本書は、産別労組、全日本海員組合の創立40周年事業のひとつとして1986年に編まれた(発売・新人物往来社)。そして20年後の今、再び海員組合と日本海員福祉センターの記念事業として本書が復刊されることになった。これが海の平和を願い、船員受難の姿を伝える本書の背景となっている。
 太平洋戦争において日本の商船隊(百総トン以上)は、2568隻、843万総トン余、保有船腹の88%を海底に沈められ、船員は総数6万人余が戦死したとされる。しかしこの事実は、戦闘艦艇による激烈な海戦の陰に隠れてしまってあまり知られていないのが実情である。
 それにしても就航船の88%が撃沈させられるという事態がどうして生じたのか。本書解説は次の3点を指摘する。「全般的な戦時輸送態勢への見通しを決定的に誤っていたこと」、「近代戦では常識とされた海上交通破壊戦略への認識を著しく欠いていたこと」──すなわち極端な戦闘主体・補給従属思想が軍部の戦時輸送に対する考え方であった、「軍部の傲慢な特権意識による商船軽視の思想が支配的であったこと」である。
 このような状況からもたらされた結果を受け止めて、本書は、「戦時中に船員が、軍事主義下での非人間的、消耗品なみの扱いを受けた屈辱は忘れることはできない。こんな暗黒時代は二度とあってはならない」(序)と主張する。
 本書の構成は、1941年(昭16)の開戦時より戦後の遺族の手記まで経年的にまとめられている。「第1章 緒戦の海」「第2章 制海権なき帝国シーレーン」「第3章 戦火の海の標的となって」「第4章 特攻船団の壊滅」「第5章 受難の傷あと」「第6章 残された者の戦記」と続くが、戦争が長期化するにつれ、制空権も制海権も失われて、護衛艦すら満足にない状態で、丸腰同様の輸送船団が次々と沈没していく姿が痛々しい。その実態を本書で読んでいただきたい。
 このような中で追い詰められた船員たちのさまざまな声が聞こえてくる。
 「船員は軍属とされていたが、実態は船員たち自身が『軍犬、軍馬、軍鳩、その下に船員』と自嘲したほど、まるで軍人の召使いか戦争の道具のように扱かわれた話は枚挙にいとまがない」(解説)。
 「皆お互いに黙して語らなかったが、身に寸鉄もおびずに敵中を往来する、やられっ放しの船員と、及ばずといえども一矢むくいる弓矢を持った軍人との差は、まさに雲泥のそれであった」(第- 11 - 大阪哲学学校通信  No.33
5章)。
 「正直いって輸送船船員としては死にたくはなかった。『どうせ死ぬのなら、俺も海軍艦艇に乗って鉄砲の一発も撃った上で名誉の戦死とやらにしてもらいたいものだ』と何度思ったことだろう」(第2章)。
 「第二次大戦では、海上輸送に従事した商船の、いわゆる武器なき戦いの中で多くの船員が死亡したが、これらの人々が靖国に祀られたとも、勲章を授けられたとも聞かない。観音崎に建てられた顕彰碑が、その唯一のものではなかろうか」(第1章)等々。
 これらの思いについては、軍人とは異なる視点からさまざまな評価が可能であろう。最後の文は、現在議論の渦中にある靖国神社の性格の一面を言い当てている。
 また1942年(昭17)後半より、大型商船の撃沈が増加するにつれて、その不足を補うために多数の漁船・機帆船が徴用された。船足が遅く、何の武器も持たないこれらの船が多大の被害を受けたことは言を待たない(第5章)。しかし本書ではそのごく一端が見えたに過ぎず、33万9千総トン程度とされている戦時喪失機帆船(平均百総トンとして約3400隻が沈没したことになる)の実態は依然として不明のままである。
 このように戦時下の船員の状況は、危険極まりない上に悲惨なものであったにもかかわらず、その活動の全貌は、戦後60年の今日まだ見えていない。そして本書に寄せられた手記の幾百倍もの人々が、声をあげることのできぬままに死んでいったという事実を忘れることはできない。シーレーン問題が論議され、あるいは有事立法によって民間施設等の軍事的使用が探られている現在、過去に直接戦争に関わらざるを得なかった船員たちの経験を伝えていくことは、ひときわ大きな意味を持つようになってきている。本書がこのことを考えていく大きな手がかりとなると確信している。本書の解説は、最後にこう語る。
 「敗戦の後に多くの戦史や戦記の類が著され後世に残されてゆく中で、輸送船の記録はきわめて少なく、稀にあっても、それは『戦力』としての側面からの歴史であり、数字であることが多かった。/(中略)/私たちの海の先輩たちが生きた戦時下の海がそうであったと同じように、歴史までもが強者の論理に覆いつくされてしまっていいはずがない。商船船腹量の88%を壊滅的に失い、商船船員の推定死亡率が陸海軍軍人のそれの1.4倍もの高率であったという史実は、明確に歴史の中にとどめて世に伝えるべきことであるはずだ」。
『海なお深く──太平洋戦争 船員の体験手記』
(全日本海員組合編、2004.8.15.発行、中央公論事業出版)

2018年12月20日 (木) 18時22分


[1133] 商船戦記について
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その事由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2018年12月18日 (火) 16時27分


[1132] 身じかに合った戦場
From:菊池金雄 [/]

http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/nagae1.html#1

2018年12月17日 (月) 16時22分


[1131] 生涯の趣味の勧め;謡曲
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/ken_kikuchi3/kaneojp/bin3/040802.jpg

2018年12月15日 (土) 15時08分


[1130] 日本海軍史
From:菊池金雄 [/]

http://dougakan675.blog49.fc2.com/

2018年12月14日 (金) 19時58分


[1129] 第82号海防艦乗員を向日丸が救出
From:菊池金雄 [/]

艦歴
年月日履歴
1944年(昭和19年)9月6日起工。
1944年(昭和19年)11月18日進水。
1944年(昭和19年)12月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1945年(昭和20年)1月3日佐世保発。
1945年(昭和20年)1月4日佐伯着。 訓練開始。
1945年(昭和20年)2月1日佐伯発。 豊後水道南方行動。
1945年(昭和20年)2月15日第一護衛艦隊付属。
1945年(昭和20年)2月16日門司発。 モタ38船団と基隆に向かう。 泗礁山泊地に仮泊
1945年(昭和20年)2月21日泗礁山発。
1945年(昭和20年)2月23日基隆着。
1945年(昭和20年)3月3日基隆発。 タモ47船団と門司に向かう。
1945年(昭和20年)3月5日泗礁山着。
1945年(昭和20年)3月6日1435船団と泗礁山発。
1945年(昭和20年)3月11日六連着。
1945年(昭和20年)3月12日呉に回航。 整備修理、休養。
1945年(昭和20年)3月26日呉発。 門司に回航。 待機。
1945年(昭和20年)4月1日門司発。 済州島兄弟島を停泊地として対潜掃蕩に従事。
1945年(昭和20年)4月25日第百二戦隊に編入。
1945年(昭和20年)6月1日山東半島石島湾着。 待機。
1945年(昭和20年)6月11日石島湾発。 船団を護衛して門司に向かう。
1945年(昭和20年)6月17日船団と六連着ののち、佐世保に回航、入渠修理。
1945年(昭和20年)7月5日第百二戦隊は解隊。 第二海防隊に編入。
1945年(昭和20年)7月15日佐世保発。 対馬・浅茅湾着、待機。
1945年(昭和20年)8月1日隠岐の島着。 仮泊待機。
1945年(昭和20年)8月5日隠岐の島発。 船団を護衛して元山に向かう。
1945年(昭和20年)8月6日元山着
1945年(昭和20年)8月8日元山発。 同日、城津着。
1945年(昭和20年)8月9日城津発。 陸軍船遭難者救助に向かう。 
1945年(昭和20年)8月10日清津南方の大良化仮泊地発。 羅津に進出。 命令により船団を護衛して元山に退避中、城津東北東でソ連機の雷撃を受け沈没。
1945年(昭和20年)8月11日向日丸に救助された生存者94名は、城津に上陸。 戦傷7名を残し、87名は陸路移動、14日京城着。
1945年(昭和20年)8月15日乗員87名は陸路南下、のちに呉帰着、復員。
1945年(昭和20年)9月15日除籍。

2018年12月12日 (水) 19時03分


[1128] [硝煙の海]書評
From:菊池金雄 [/]

某新聞社に拙著を寄贈したら 下記のコメントをいただいた。


[硝煙の海]書評 (東北の本棚 H14 6 24)
From:菊池金雄

 82歳になる著者(仙台市)は戦前、海外航路の貨物船に乗り込んでいた元通信士、現役時代の数々の航海を回想しており、船舶が輸送の主役だった時代の雰囲気がしのばれる内容となっている。
 1940年代に北米航路で訪れたサンフランシスコでは、物があふれる豊かな町を目の当たりににして驚く様子が、印象的に描かれている。
 第二次世界大戦では一転して、南方へ向けた軍需物資を運ぶ輸送船での任務に当たった。危険な海域を行き来した日々を克明に記している。
 戦後も国内航路を中心に多くの貨物船で通信業務に携わった。
戦前戦後を通じて航海を共にした船乗りたちの人間味豊かな姿も紹介されている。

2018年12月10日 (月) 06時45分


[1127] 回想;小型タンカー昭豊丸爆沈記
From:菊池金雄 [/]

                                 H26年 菊池金雄
この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦時標準船(2ET型タンカー 八三五総トン)で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送に、二ヵ年間派遣の指令を受け、昭和十九年四月十日門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で**航海に挑戦し 何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船で同年十月二十日頃ミリに到着。近海油槽船所属共同丸(1090総トン)と重油搭載し、二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした直後、昭豊丸は同月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜翌年一月八日門司に無事帰還することができた。
 共同丸はその後マニラ経由で帰国途次の翌年一月六日一三三〇リンガエン湾で、アメリカ第三八任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し、船員10名が戦死との記録を入手。切に、昭豊丸乗員を救出した恩人各位のご冥福を念ずる。

回想
 齢90途の今日、往時を回顧すると、**航海途次の戦没は遺憾ではあるが、若し、共同丸と同様マニラ方面に回航したなら何れ米機に襲撃されたかも知れず、むしろ波穏やかなスルー海での戦没は幸いのようにも思われる。
 反面、米潜水艦の跳梁する海域単独航海の陸軍指令は、万一戦没した場合には救出不可のため、まさに特攻的無謀な軍命だったと断じたい。


2018年12月09日 (日) 15時58分


[1125] 謡曲発声法
From:菊池金雄 [/]

  (出典;「世阿弥を読む」 観世寿夫著)

「鼻と口を使って静かにしかも充分に息をひきこむことによって、正しい複式呼吸が始めて可能になる。能の発声には当然ながら腹式呼吸が主体となり、胸式呼吸が補助的に併用される。





発声の基本

 「下顎をひいて、口を左右に開いて謡え」音ははっきり明瞭に出さねばならない、ただ音が外へ出すぎてうるさくならないために声をこめる、しかし口の中でこめるのでなく体で声がこめられるべきであって、また声が口を開いたときなるべく下顎にそって発せられる感じになるために、下顎を引き、左右に口を開くわけで、その際 口腔に声が反響して 謡い独特の音声を自覚できます。

2018年12月07日 (金) 13時39分







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