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「硝煙の海」談話室

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[1124] 「硝煙の海」読後感
From:菊池金雄 [/]

平成14年6月6日  川崎 稔
 半生紀以上も前の記憶を呼び起こしての資料収集は大変な作業だったとお察し申しあげますとともに,小生も当事の記憶が蘇り興味深く読み進みました。
 第2章「緒戦の海」・・・・では偶然ですが高瑞丸が貨物船からタンカーに改造後の初航海時、佐世保からシンガポールまで私は同僚達と便乗していて、シンガポールのセレター軍港に入港した時の目の覚めるような風景・・・グリーンの芝生の丘にオレンジ色の屋根の白い家々が点在し、それを取り囲む朱色や藤色の花をつけた木々の美しさは日本では見たこともないものだったので・・・一同唖然としてその風景に見とれたのを思い出すます。
 ジョホールの王宮見学は小生と若い社員2名が貴方達とご一緒したのです。極彩色の伊万里焼の大壷が何個も有ったのが印象的でした。
 高瑞丸に便乗したのは,大同社員2名と作業員12名で「バリックパパン行きの社員2名が下船した・・・」は貴方の記憶違いで,彼ら2名は小生より1ヶ月位先にボルネオに向いました。
 高瑞丸の渡辺礼儀船長はこの航海の約半年後,ボルネオのバリックパパンの大同の子会社「大和航運」の社長として赴任したと思います。
 同社長や大和航運の社員達は終戦のときジャグルの中を死に物狂いでさまよって九死一生を得たのだそうです。
 その中の一人「野中」氏は、今も四国―松山でお元気のようで、多分87−8歳の筈です。
 また、第二大源丸も懐かしい船名です。小生が経理部整理課に勤務していたとき,航海収支計算書を船舶運営会に提出する係りをしていて、社員各自が何隻かの船を担当しました。近距離航路の船は一ヶ月に何航海もするのですが、第二大源丸もそんな船で、多分大連近くの秦皇島(しんのうとう)から石炭を積んできていたと思います。
 近海航路の船を担当すると,処理件数が多くなり皆嫌がるので、小生は進んで引き受けたので、あの頃は張り切っていたなー・・・と大源丸の名をみると思い出します。
 それから第六章「戦後の海」を加えられたのも、とても良かったと思います。それは戦時中の話だけでは、あまりにも暗すぎますから・・・・。
 カルカッタで革靴を値切って買った話などとても面白い挿話でした。
次ページで支払いを委託されたK航海士が、概靴店のインド商人に感謝された話を読むと、誰に対しても誠実な菊池さんのお人柄が良く分かり・・・ほほえましく・・・いい話だなあーと嬉しく思うと同時に、K航海士さんも菊池さんにおとらぬ誠実な人なんだなー・・・いかにも海員らしいなー・・・と思い、昔の日本人はみなこうだったんだぞー・・・と周りの人達に言ってやりたい気分になりました。
 以上「硝煙の海」の読後感を述べさせてもらいました。益々のご健勝を祈ります。

2018年11月28日 (水) 15時26分


[1123] 日本商船の悲劇
From:菊池金雄 [/]

https://hanyosirin.exblog.jp/20101094/

2018年10月15日 (月) 16時42分


[1120] 戦前・戦中 石油輸送追想録
From:菊池金雄 [/]

                 大同海運元船員  菊池金雄

○ドラム缶入り航空ガソリン輸送の恵昭丸(5800総トン)

太平洋戦争開戦前に、サンフランシスコから呉行きの海軍用ドラム缶入り航空ガソリンを輸送したことがある。
実際の荷揚げ先は九州の佐伯だった。当然開戦初期はこのガソリンで戦ったものと思う。
 参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0207.html

開戦直前には横須賀鎮守府徴傭船として、同様ドラム缶入り航空ガソリンを南洋委任統治の島々の海軍航空基地に輸送したが、大型船の荷役桟橋がないため揚げ荷に約一ヶ月を要したことは、兵站軽視の最たるものと思う。
 参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0213.html

 ○航空ガソリン缶満載の恵昭丸ラバウル港で果てる

 同船は私が下戦後のS18年10月 やはりドラム缶入り航空ガソリンを即時陸揚げしないままラバウルで米機に爆沈されている。何故 即時荷揚げしなかったのか?
   参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/03/0321.html

 ○貨物船改造タンカー高瑞丸(7072総トン)短命悲し

  タンカーの戦没補填のため貨物船高瑞丸(7072総トン)がS17年末佐世保海軍工廠でたった19日間でタンカーに改造。石油輸送に従事するも S18年10月沖縄近海で米潜に撃沈された。たまたま私は改造直後一航海だけで他船に転勤したので難を逃れた。
Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0221.html   ://www.geocities.jp/kaneojp/03/0323.html  

 注:この船の犠牲者は会社の記録ではゼロであるが、他の資料では船員三名戦死とあるので同船の生存者に確認したところ、海軍艦艇に救出され、沈没の件は軍極秘とて小人数毎に分宿させられたので犠牲者の有無は不祥とのことであった。念のため戦没船員顕彰会に問い合わせたところ「高瑞丸」関係の記録無しとのことなので、会社記録が正当かと思われる。

○陸軍徴用船、戦時標準船E型タンカー昭豊丸(835総トン・工期35日間) **航海成らず

 S19年4月私はこの船に乗組。単船でマニラ経由昭南島(シンガポール)に向かったが、途中マニラでボルネオのミリ〜マニラ間にルートが変更になり、ミリで重油を搭載。僚船共同丸とマニラ向け中にスルー海で昭豊丸が米機に爆沈されたが、幸い同航船共同丸に救助された。
当時、陸軍の護衛船がミリ〜スルー海のパラワン島北辺までは護衛したが、ここで護衛を打ち切ったことに疑問なきにしもあらず、あにはからんや米機の餌食とは解せないものがある。戦死者:海兵一名 船員一名の計二名である。 本船の沈没地点を南シナ海との説があるが米機側の誤認であることを証言する。
Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0232.html   ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0233.html
 回顧;そもそも単船で仕向地への派遣指令は、万一戦没の際は僚船不在のため救出の手段が無いため、陸軍側の無謀な指令と言わざるを得ない。

昭豊丸と同型船の空爆写真 
 出展;  http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t211.html

2018年08月06日 (月) 19時17分


[1121] 高瑞丸の軌跡 (1)について
From:宮原(旧姓村垣)万里子 [/]

0322記事にある村垣範通機関長弟正二郎の孫です。以前もメールさせて頂いたかもしれませんが、父の叔父の名前を発見し、このような体験があったこと初めて知りました。父や親戚も知りませんでした。範通は日米修好通商条約批准の為の遣米使節副使として1860年米国に赴いた村垣淡路守範正の孫です。(私は玄孫に当たります)範通の父(範正の四男)正通は海軍機関大尉でした。代々海に縁がありました。
父の叔父範通は昭和24年に京都で亡くなっていますが(戸籍からわかった)、戦後すぐの時、父正澄は偶然三木の飛行場近くでばったり会ったそうです。父は陸軍三木飛行場で偵察機の訓練中に終戦。
範通のことはあまり知っている親戚もいないので、この記事はとてもうれしい情報でした。有難うございました。

 コメント拝見・・・村垣範通機関長は海軍予備士官としてご立派な方でした。
横須賀軍港で上陸時 営門でのトラブルの際、衛兵を叱咤した武勇伝がありました。

2018年08月08日 (水) 23時08分

[1122] トラック島の存在
From:よっきandゆうき [/]

先日テレビを見ていて太平洋戦争で徴用船として使われた民間船の話が放送されていました。あまりにも悲惨で惨い状態を見て母と私は絶句しました。トラック島に物資を届け停泊中に撃沈されなすすべなく沈む日本の船を見て涙がこぼれました。民間船なので大した装備もなく海軍が助けてくれる事もなく沈んでいく間、乗組員の人達ほどんな苦しい無念な気持ちだったのだろうと思うと悼たまれない心境になりました。戦争に余り感心がありませんでしたが決して忘れてはいけない事なので子供にも話て伝えていきたいと思います。

2018年09月04日 (火) 00時30分


[1119] 日号作戦と日号作戦の実態
From:菊池金雄 [/]

          大同海運梶@向日丸通信長 菊池金雄 
              
昭和二十年六月には南方ルートによる諸物資輸送が途絶したため国内の糧食不足が懸念され、これを補完するため同月二十八日、急遽日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令されたので、残存の大型輸送船が北鮮の羅津港、雄基港に動員された。私の乗船、向日丸も急遽、門司から羅津港に派遣された。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機    第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊

陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食料事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを輸送するために日号作戦が発動され、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧秣を登載中だった。 ところが8月9日未明から、突然羅津在港船舶がソ連機編隊から波状空襲されたが、味方部隊からの反撃は散発的で、在港商船隊が貧弱な火器で応戦するも、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。しかるに当時軍側から即時、離岸〜港外への脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万で、上記の陸海軍動員兵力に疑問大であった。
 
下記は羅津港でソ連機に爆沈された商船隊の貴重な見取図である
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2018年08月02日 (木) 15時32分


[1118] 音痴が見つけた生涯の趣味
From:菊池金雄 [/]

 何時の間にか卆寿に達しましたので己の生き様などを回想してみます。
私は二管区本部在勤時、音痴向きの趣味を模索して謡曲班に入門して退職後も仙台のグループと交わり、現在も月一回の例会で朗吟を楽しんでいます。
謡曲は腹の底から大声で謡うと、気分爽快でストレスの発散効果もあるように思います。
グループの謡会は素謡、連吟、独吟、仕舞等で、素謡は謡本を見ながらの発声ですから初心者でも参加できるメリットがありますので、趣味を模索の向きは是非謡曲をはじめてほしいと念じています。能を劇としてみた場合の脚本にあたる能の全詞章を「謡=謡曲」と言います。謡には、劇のセリフに当たる「詞(ことば)」の部分と、大半を占める「歌い物」としてのメロディーがついている「節(ふし)」の部分があり、その全体をうたい味わうのが謡です。「謡曲を謡う」という言い方もします。
謡曲の多くは、源氏物語、平家物語、伊勢物語、などの古典に題材を求め、七五調の和歌形式をもとにして書かれていますから、謡うことにより、音楽的情緒を味わいながら、それら文学作品の世界に触れるというぜいたくな楽しみが得られるのです
小謡(こうたい)とは?
 素謡を一曲謡うと、平均して40分ほどかかります。その一曲の中の1分〜3分ほどで謡える詞章の文句の良い所を謡うことを、小謡と言います。謡本を見ると、小謡の部分が指定してあります。前記の高砂では5カ所あります。謡曲には小謡があるものとないものがありますが、普通1・2所あります。謡曲は約200曲ありますので小謡もそのくらいあることになります。
 素謡を中心に催す会を、普通、謡会(うたいかい)と言いますが、謡会と称しても、
下記の独謡、独吟、連吟、仕舞なども番組に入れます。
 小謡は短いので、いろんな場面で手軽に謡えます。一番身近なのは、結婚式や棟上げ式などお目出度い席で謡う祝言の小謡、逆に葬式や法事で謡う追悼の小謡、その他、お花見や同窓会、さまざまな宴会でも謡われます。酒宴の席で謡われる小謡を肴謡(さかなうたい)と言います。

2018年08月02日 (木) 14時21分


[1117] 米寿の関西行脚余談
From:菊池金雄 [/]

                               08年10月  菊池 金雄
去る10月26日神戸の旧船会社(大同海運梶jのOB会である同友会から3年毎の物故者追悼法要も行う旨の案内があり、あの戦争の末期、ソ連機の空爆に曝された北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した私の船(向日丸=むかひまる)が必死に南鮮向け避航中、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機に襲われたとき、首尾よく第八十二号海防艦と合流。両艦船と敵雷撃機と激烈の海空攻防戦を展開。向日丸は敵機2機撃墜するも、該海防艦は敵機3機撃墜後、不運にも被雷〜轟沈したため、向日丸が生存者を懸命に救出して城津まで送り届けた秘話があったのであるが、今回の法要にその生き残り代表者が、すでに亡くなった当時の向日丸船長以下乗組員各位へ、往時のお礼の追悼文を奉納する手はずで、今日参集するOBはすべて戦後派のためと、会社側には自社船の戦没一覧表だけで、生存船の戦時記録も見当たらないので、私が6年前に上梓した拙著「硝煙の海」が唯一の記録のため、証人として老骨に鞭打って西下したのであった。
 往路は25日1030発の 仙台―伊丹 ANA1836便で 久々でフライトを楽しみ、幸い徐々に晴れ間となり 一時間ほどで「渥美半島上空 中部国際空港が見えます」とアナウンスがあり 眼下にはっきり望見しながら、間もなく伊丹空港着。三宮までバスに乗り継ぎ 一年ぶりで活気に満ちた ミナト神戸の土を踏む。
物故者追悼法要は神戸市の八王寺で翌26日午前10時から催されるので、広島市から参列する海防艦側代表の横見氏とホテル パレス神戸で同泊を約束していたので、三宮で所用後、在神戸の姪のクルマでホテルまで送ってもらい、六年ぶりで同氏と再会することができた。ということは、私はかつて呉の海軍墓地にある同艦の慰霊碑に参拝したことがあったからである。
 翌日、二人で八王寺に行き、大同海運外B25名が参集して物故者の追悼法要が執り行われ、横見氏の追悼文、並びに私も、故小川次席通信士へのお詫びと、スルー海で爆沈した昭豊丸戦死者への追悼及び、故中村清三郎船長の的確な指揮に対する謝辞を奉納した。
 この「商船が沈没海防艦将兵救出」は当然海軍サイドから会社へ謝辞があって然るべきなのに、当時すぐ終戦という混乱期のため今日まで公式記録も見当たらず、膝もとのOB会は、元の会社が合併を重ね、今日、商船三井に吸収された関係もあり往時の記録もあいまいなので、今回、救助された側の代表者が参列下さったことは、私の記録の証言ともなり、有意義な法要となったことと、加えて、当日、作家の土井全二郎先生がわざわざ東京から取材に駆けつけ、何れ、次回の作品に載せてくださるものと期待されるところである。
 正午、席を改め三宮の第一楼で更に15名加わって40名が懇談し、盛会裏に閉幕した。
翌朝、横見氏と新神戸駅で東西に別れを惜しみ、それぞれ新幹線で帰途に就いたのであった。

2018年07月28日 (土) 18時57分


[1116] 大同海運物故者追悼法要に第八十二号海防艦代表者参列の意義
From:菊池金雄 [/]

                    平成20年10月   菊池金雄
 拙著「硝煙の海」の資料収集過程で向日丸を護衛した海防艦が第82号海防艦で、森武艦長が、かつて海上保安庁に勤務していたことが判明したので様々追跡の結果、平成14年に物故されたが、同艦長の手記「葉隠れに生きる」があるとの情報が、元同艦隊員の横見氏から電話があった。色々情報交換して同艦長の手記を拝借のうえ、拙著の欠落文脈に参考にさせていただいた。また、毎年同艦の慰霊祭が、同艦沈没日の8月10日呉の海軍墓地内の同艦慰霊碑で挙行しているとのことなので、平成14年8月10日、同艦戦友とともに参列。幸い地元の中国新聞が取材して翌11日の記事に載ったこともあった。
 海防艦側から向日丸OBの集いがあったら是非当時のお礼を述べたい、との申し出があったが船会社には船単位の会合が無い旨を伝えたら、生き残り乗組員に会ってお礼したいとのことで、一度大阪在住の方を紹介したら重病で対面できなかった。(間もなく死去)
 しかるところ10月26日の大同海運物故者追悼法要のことを漏らしたら、是非参列して亡くなった西船長以下乗組員に救出謝意のことばを奉納したいとの申し出があった。
 大同海運は他社と合併を重ね、ジャパンライン〜ナビックスラインと変遷、現在は商船三井に吸収された。また、大同の社史には自社船の戦時喪失一覧表だけで個々の船の戦時記録が無いため、拙著の資料収集に難儀の末何とか上梓し、友人を介し大同OBに数冊配布しただけで大半の方の目に触れていないことと、参集するOBは向日丸とは無縁の方ばかりなので、生き証人のひとりとして配布資料を携行して馳せ参じ、自身の高齢柄、神戸の姪、京都の大学生の孫、熊本から次男のサポートを得て様々根回しのうえ歴史的な祭事を無事終えた訳である。
 ここに、横見氏のご参列、および大同海運OB各位並びに宮道幹事にお礼を申し上げるとともに、わざわざ東京から取材に駆けつけ、近刊「戦時船員たちの墓場」第六章に収録くださった土井全二郎先生にも感謝を申し上げたい。

          光人社NF文庫
戦時船員 たちの墓場―消耗品となった  補給路の旗手たち 土井 全二郎【著】
光人社 (2009/01/13 出版) 価格: ¥689

2018年07月23日 (月) 14時23分


[1115] イギリスのレーダーと八木アンテナ
From:菊池金雄 [/]

42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。

2018年07月12日 (木) 15時11分


[1114] 住田町(すみたちょう)
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%94%BA

2018年06月22日 (金) 16時34分


[1113] 五葉山
From:菊池金雄 [/]

http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/goyozan.html

2018年06月20日 (水) 15時57分







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