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偶像崇拝も偶像崇拝禁止も根っこは同じで物理的な偶像を崇める・物理的に壊す行為を信仰する。つまり両者ともに目に見える物理的行為を基本にしてしまうことである。つまるところ神は、物理的な偶像を神と錯誤して崇拝しないように説いたが人が唯物論的に目に見える物に信仰心を高揚させる唯物的作用に流されるものである。また偶像崇拝禁止で偶像を破壊するのも目に見える行為で人が陥りやすい錯誤。
神は偶像破壊を命じたのでなく偶像を神と崇めると事実行為としてそれを神と信じ込むことを禁じたのであり、人が事実行為を原則と思い込むのを戒めたのである。
中央アジアでの文明の起源はイスラム教の布教とアラブ人による偶像破壊行為で現代ではわからなくなっている。モンゴル人はもう誰も住んでいないような遺跡を破壊する行為はしなかったがアラブ人はわざわざ中央アジアに散在する遺跡に小隊を駐屯派遣して破壊してまわった。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教は共通して元々から偶像崇拝禁止であるがキリスト教は、ギリシャ人、ローマ人、ゲルマン人等の多神教世界へ布教浸透する過程で偶像崇拝を受け入れざる得なくなり、イスラム教は当初から「コーランか!さもなくば剣か!」と武力で布教制覇したために偶像崇拝禁止を押し通した。ユダヤ教は選民思想である。
もっとわかりやすく比喩すれば戦前、昭和天皇が閲兵式で連隊旗に敬礼するよう要請されて「朕が何で連隊旗に敬礼をするんだ?」「みんなやってます、いつもしてます、前からやっております」と説得されて渋々と頭を傾げながら敬礼したという、つまり学校行事に臨席した昭和天皇に御真影に拝礼して下さいと頼まれて「朕が何で自分の写真を拝礼するんだ?」というようなことである。多神教の日本では八百万も神がおり式神のように人の家来になる神もいることから昭和天皇も「ま、いいかっ」とまわりの空気に従ったけれども。
一神教世界ではこれを絶対に許さなかった。 アラーの神が出現したとして人々はアラーの神としてこの偶像を崇拝しておりますからアラーの神もこの偶像に礼拝して下さいと言ったところ神の逆鱗に触れ偶像崇拝禁止になったのである。つまるところ偶像崇拝という事実行為を原則にしてしまう人の愚かさを戒めたのであって偶像破壊という物理的行為を事実行為としてしまうことではないはずであるが人は箇条書きされた言葉の枝葉部分を基本にする教条主義に陥りやすく教条主義は本来は、応用であるものを基本と思い込むために自分たちは原理主義と主張する。然しながら応用とは基本を学んで行うものであり応用を基本すれば応用することができなくなり原則主義のように勘違いするものである。
「賢者は歴史に学び・愚者は経験に学ぶ」 |
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名前:観念行者 / どこかで / 私信 / HP
2015年02月28日 (土) 08時04分
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