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[1131]八百万神の起源説

20万年前にアフリカにいたホモサピエンス・イヴという一人の女性がユーラシア大陸に拡散した人類の母と言われているのが従来のミトコンドリア遺伝子解析でわかっているそうだが、最近では細胞核のY染色体を調べられるほど遺伝子分析が進んだ結果、日本人は中国人朝鮮人と遺伝子が異なるそーである!太古の昔、今から3万年前後の氷河期大陸と陸続きであり、バイカル湖周辺にいたブリヤート族がマンモスを追って日本列島に移動して来た。朝鮮半島からはツングース系のウラルアルタイ語族、南方の海からは黒潮に乗ってポリネシア系の種族が混合したのが縄文人というわけじゃ。縄文人は北海道から沖縄まで生息しておって2300年前に弥生人(中国人)が渡来して南北に追われたのがアイヌ人になるわけじゃ。そりゃぁ2300年前の中国は、春秋戦国時代でそこから来た弥生人なら戦闘的だろうよ、以前にNHK特集かなんかで縄文人と弥生人の弓の威力を比べておったが分厚い板へ縄文人の矢を射るとしっかり刺さって「さすが狩猟民族ですね」と言っておったが弥生人の矢は板を真っ二つに破壊してしまい絶句、解説では農耕民は土地を占拠するために戦争しますから殺傷力が高いんですよ。それじゃぁ戦国時代の弥生人には、1万年も平和ボケしてた縄文人は敵わんだろう。

弥生人が稲作文化を伝えたとは言うがじつは、縄文時代に既に稲作は伝わっており呉越同舟の春秋時代の呉・越人あたりは浙江省あたりから舟で稲を伝えておったようで2300年前の九州あたりの縄文人も既に稲作はやっておったらしく土地の収奪で競合して戦争になり平野部で稲作の普及が急進した。然し、当時の農作技術では水田に適した平野部での話で河内平野、濃尾平野までで山間部や、その先の中部から関東東北となると森林深さに阻まれて弥生人の進撃も停滞してしまったのが幸いして弥生人と縄文人の棲み分け状態が暫く続いたことで互いが交流して共存、混血が進む。このことは古代における異人種同士の接触としては稀有なことで5万年前にヨーロッパへ移動したホモサピエンスは、先住民のネアンダルタール人を絶滅に追いやっておる。

何が言いたいかというと冒頭に述べたY染色体(男系遺伝子)である。ミトコンドリアのX染色体(女系遺伝子)は、ホモサピエンス・イヴで一人の女性に連綿として辿り着くことができるが、Y染色体は途中、幾度も断絶を繰返しており、ホモサピエンス・アダムは系統が寸断されていて現代、生存するY染色体が生き残った種族ということになる。つまり縄文人である古モンゴロイド種は今のチベットの奥地かインド洋の島に残っていることから朝鮮、中国全域に分布していた縄文種である古モンゴロイドは漢民族によって男は皆殺し、女は強姦されて絶滅したということである。つまるところ、強姦されて生まれた混血はY染色体が継承されず、犯した方のY染色体になり種族が絶滅ということになる。従って今も中共が民族浄化策を実施しているチベットでの古モンゴロイドは風前の灯である。従って、日本人の遺伝子は、縄文人の遺伝子が継承されているということで一方的な殺戮はなく縄文人と弥生人の共存共栄混血ということになり、中国・朝鮮人とは遺伝子が相違することになったということである。

因みに、1世紀の日本列島の稲作状況から北部九州がもっとも人口が多く、3世紀には近畿の方が土地が肥えていたようで人口比が逆転している。有史以前の神話時代は、どうも時系列が逆の例もあるようだが全く否定しなければ神武東征が1世紀、邪馬台国が3世紀であることからある九州の勢力が近畿に移民して300年で国力が逆転したと思えるが、アメリカもイギリスから独立して200年で国力逆転した例もあるし。推論だが学説では熊襲も隼人も同種というけれどもありゃぁ九州に残存するアイヌが熊襲でポリネシアンが隼人だったんじゃないかと思う。

名前:時の番人 / 自宅にて / 私信 / HP
2017年07月30日 (日) 18時21分


[1133]邪馬台国近畿説〜日本誕生

京大が近畿説で東大が九州説だそうであるが、有史以前の日本は神話時代で口伝のみでは甚だ、時系列として心もとない。太古の昔では征服した部族の言い伝えが物語として娯楽にもなったのだろう。それを征服者がわが言い伝えの如く組み入れるとして新しい時代では記憶が定かで入れる余地がないから新しい話を古い話にしてしまったりするようなことはありそうじゃ。多神教の神話ではよくある話。

それなら政治的意図もあるが信用できる部分として年代的に記録としては中国の史書と日本側の古事記、日本書紀を照合するとして、旧唐書・新唐書を読み解くと「いにしえの倭奴国である」がこれは漢書東夷伝の引用が紀元1世紀の光武帝に朝貢した奴国で授与されたという金印「漢委奴国王」というのが本物かどうか知らぬが福岡の志賀島で発掘されておる。この時点で漢の倭の奴国王であるからどうやら倭国は複数で構成されているというのが漢帝国の認識だったようである。そこから飛んで6〜7世紀の情報しか旧唐書・新唐書にはなく、いきなり隋書の裴世清の復命書と唐・新羅連合軍と倭国の白村江の戦いからの知識でしかなく、そこに遣唐使が倭国ではなく国名は”日本”だと申し立てる。困った旧唐書・新唐書では日本の使者の言い分は疑わしいと言いながらなんとか辻褄を合わせようと記述する「倭と日本は別種なり」旧唐書では「古くは小さかった日本が倭国を併合した」新唐書は、「小国日本が倭国に併合された」と意味は違うが中国側から見れば倭=日本であるから新唐書の方は、現在が日本であるから倭国が日本を征服して国名を奪ったと言うけれどヤマトタケルじゃあるまいし、タケルは勇者の意味でローマでも征服地を個人名として称号した者はいたが、滅ぼした国名を名乗るというのはどうか?または、倭の漢字の意味が卑しいと嫌って日本にした。地理的に山東〜近畿地方だから日出国だから日の本にしたとも記述してある。この辺は遣隋使の小野妹子の国書から参考にしたんだろう。

つまるところ、旧唐書・新唐書も古事記、日本書紀も7〜8世紀の同時期の編纂ではあるが、3世紀の魏志倭人伝を無視しておるから推測的で解釈の余地ができてしまう。後世史観では自分たちが知っているから7,8世紀の旧唐書・新唐書も古事記、日本書紀も3世紀の魏志倭人伝知っているに違いないという固定観念で見るのが要らぬ憶測を生む。日本書紀では知っていて邪馬台国と卑弥呼を何かしら不都合な理由があって隠蔽し、神功皇后を卑弥呼に見せかけようとしたと勘繰る。然し3世紀と4世紀で100年違いの卑弥呼と神功皇后では辻褄が合わない。辻褄が合っているのは、神功皇后の実在は別にして新羅を攻めた〜(好太王の碑文)倭が大挙して海を渡り百済、新羅を服属させて襲来す高句麗の好太王が倭軍を大いに破る。つまり、江戸時代の国学者なら魏志倭人伝を知っているから古事記、日本書紀の編纂者筆者も知っていたというのは思い込み。

従って、新唐書が遣唐使からの証言か日本書紀の受け売りを書いているが何故、日本かという不明な部分を白村江で負けた倭に政変があり倭国から日本に政権交代したと推論したわけである。確かに天智帝から天武帝の間に壬申の変があり天武朝から国名を日本、大王が天皇と氏族連合王国から帝国という国体の変更はあった。ただ魏志倭人伝を旧唐書・新唐書に加えれば倭→邪馬台→日本と明確になって来る。中国読みで邪馬台「ヤマードゥ」だし、大和「ターハァ」だから使者が「ヤマト」と発音するから魏で邪馬台国と当て字にしただけで大和は後に漢字の意味を知り、大和にしたんだろう。因みに沖縄では本土人を「ヤマトンチュー」ということから中国でも通商を営む民間では国名は日本でも民族的には日本族と言わずヤマト族と言ってたはずであるが唐のインテリ役人にはその辺が欠如していたのか?

紀元前1世紀の倭奴国が金印を授与されたことにも意味があり、倭の中で最有力というだけで金印。皇帝が象牙で授与する国の格で金、銀、銅となる。属国の朝鮮はず〜と、銅印『コリアン哀号ー!』3世紀の親魏倭王の金印にしても三国時代のライバル国の呉を牽制する意味でも呉の海上の沖合に大国の同盟国があると邪馬台国を南に位置して過大評価したのも政治面の考慮でもあるが元々、こうあるべき!こうすべき!というのが儒教史観でもある。実際に3世紀の時点では邪馬台国が九州の奴国を大和連合の傘下にしていたから外交権を握って朝貢した。結局、紀元前1世紀に奴国が中心だった南朝鮮、北九州の倭国勢力圏から近畿地方に東遷したヤマト族が出藍の誉れで次第に大きくなり3世紀には九州の倭国本国を圧倒したということじゃ。

名前:時の番人 / 自宅にて / 私信 / HP
2017年08月06日 (日) 19時06分


[1135]愛国の語源

663年「白村江の戦い」朝鮮半島の新羅が中華帝国の唐と連合して同じく朝鮮にあった百済と高句麗を滅ぼす。大和朝廷の天智帝は百済救援のために派兵し大敗する、有史以来の日本の初めての対外戦争。日本としては3〜4万の兵力を動員したらしく当時の西日本の風土記によると成年男子のほとんどがいなくなったとか。唐水軍の将、劉仁軌は「倭人は勇猛なれど策なし」と復命していて要するに小舟の倭軍は先着順に突撃を繰返し各個撃破、包囲殲滅されたということであろう。

その倭人兵の中の大伴部博麻(名前から大伴氏所属の平民と思料す)は捕虜になり唐に連行されたが当地で釈放されて、唐軍が日本を攻撃するという情報を知り、本国になんとか伝えたいと思ったが帰国する旅費がない、悩んだ末に捕虜仲間の4人に頼んでわが身を奴隷に売ってそれを旅費に帰国して本国に伝えてくれるように頼んだ。4人は対馬に到着し役所にその旨を申し出ると直ぐに朝廷に報告されて天智帝は防人軍団を編成して太宰府に駐屯させて、瀬戸内からの唐水軍の襲撃に備えて各地に水城を築城するとともに近江遷都を実施した。実際に唐軍2000名が捕虜の一部を返還名目に博多に上陸して防人軍団と対峙した。情勢的には朝鮮を統一した新羅が対唐戦争状態になり地政学的に唐は日本に友好を求めたとも言えるが同じく地政学的に日本に備えなければ隙を突いて北部九州を占領して新羅を包囲牽制できたわけである。

大伴部博麻は奴隷の年季明けて自由民になっていたところ、交易商人から日本へ一緒に連れて行ってやると誘われて、30年ぶりに故国日本に帰国した。朝廷では持統女帝の御代になっており詔勅を発して「尊朝愛国 売身輪忠」と大伴部博麻を称賛した。7世紀の一般庶民に愛国心があったこともさることながら朝廷も天智帝没後、天武帝(大海人皇子)と大友皇子(弘文帝)との壬申の乱があり、中国の旧唐書でも「古くは小さかった日本が倭国を併合した」と記述して、唐では白村江の戦いで倭国と認識していたが遣唐使は日本と国名を名乗ることから政権交代があったと推測したようである。確かに政権交代はあったが天智→天武→持統と三代の間に朝廷が情報を共通しており「売身輪忠」と詳細まで知っていたのは驚きである。朝廷が継続して国がしっかりしているとはこういうことかと感心させられる。

名前:北輝次郎 / 自宅にて / 私信 / HP
2017年08月27日 (日) 17時46分




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