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本流宣言掲示板


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寺田繁三先生 (5554)
日時:2011年12月04日 (日) 07時14分
名前:伝統


生長の家「今昔物語」で連載されてました、平岡初枝先生著『しあわせを見つめて』が昨日完了
したようです。

その中から、一昨日と昨日と連載された「寺田繁三先生の思い出」を、
この掲示板においても転載し、紹介して参りたいと思います。
(”生長の家「今昔物語」さま”のお許しをお願い申し上げます)


・・・(以下、生長の家「今昔物語」より)

私(著者・平岡初枝)は寺田繁三先生に導かれて、生長の家の教えにふれた。
そして、寺田先生を通じて、この教えに導かれたことを、限りなく嬉しく光栄に思っている。
ここで2、3の思い出話を書き添えて、感謝したいと思う。


<ハイ、有難うございます>

私が教えにふれて「病気なし」を知らせていただいてから間もなくの頃、
寺田先生を富山へお招きしたことがある。

そこかしこへお伴をして、講演してもらったが、
魚津市の日は、どうしても私がお伴することが出来ず、立田正子夫人にお願いした。

その日、朝はよく晴れていたのに、
魚津駅で電車を降りると、雨がパラパラ降ってきたというのである。

二人とも傘の用意はなかった。

「寺田先生、雨が降って来ました」

途端に、寺田先生が言われたそうである。

「ハイ、ありがとうございます」

立田さんはハツとした。

なるほど、

「ありがとうございます」は、一切をそのまま、無条件に受け入れる態度だったんだ、

と教えられたのである。

この曰から、立田さんの御主人に対する態度が、変わったという。

ご主人が何をおっしゃっても、

「ハイ、ありがとうございます」

の一点ばり。

一切の審き心がなくなったのである。

そしたら、2日目に、4歳になる立田さんの次女の左利きが完全に治ったのであった。


<どこも高天原>

寺田先生には、東大を優秀な成績で出られた、良一さんという一人息子さんがあった。

大東亜戦争も末期の昭和18、9年の頃、日本の輸送船が五隻のうち三隻までは、
目的地につかない先に撃ち沈められていた頃に、良一さんは南方派遣軍として宇品港から発たれた。

その報せは、ちょうど4、5人の白嶋たちが寺田先生をとりかこんで話し合っているところへ届いた。

みんな顔見合わせて、色をかえた。

そして、一人が言った。

「寺田先生、御心配でしょう」

「何も心配なことはない。港を出た時は、目的地へ着いた時だと思えばよい」

それから1時間あまりの後、また2、3人の誌友たちが来て、
良一さんの出発の話を聞くと、再び同じことを言ったのである。

「寺田先生へ御心配でしょう」

寺田先生のお答えも、 同じであった。

「何も心配なことはない。どこも、高天原だ」

どんな時でも、寺田先生は真理を生活していられたのである。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

松の木のまっすぐ (5555)
日時:2011年12月04日 (日) 07時17分
名前:伝統

<松の木のまっすぐ>

寺田先生が高岡市の伏木で講演して下さった時は、
壇上から、一番前に坐っていた青年に、呼びかけられた。

「君、君!」

「僕ですか?」

青年が目をあげると、寺田先生は窓外の大きな松の木を指さしながら尋ねられた。

「あの松は、曲がっているかね? それとも真直ぐか?」

「曲がっています」

「違う。あれは、松の木の真直ぐだ!」

眼に見える松の木は、曲がっていたのである。

だが、寺田先生は、一人一人の立場に立って見ることを教えていられるのである。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

親身の父と思えばこそ (5556)
日時:2011年12月04日 (日) 07時18分
名前:伝統

<親身の父と思えばこそ>

一人息子の良一さんが良縁を得られて、結婚1ヵ月とたたない頃のことである。

良一さんが、東京へ出張されたことがあった。

その留守に、若い奥さんが夫の良一さんに手紙を書いていられた様子を、
寺田先生の言葉通りに言うと、こういうことになる。

「太い二本の足を机の下に投げ出して、『ラララ、ラララ』と歌を口ずさみながら
手紙の封をしているんだ。

僕はうれしくてナ……、そうだろう?

横に坐っているとの僕が、舅(しゅうと)じじいだなんて思ったら、
そんなことは出来ないじゃないか。

親身の親と思えばこそ、と思うと、僕はうれしくてナ……」

壇上で、目を真赤にして喜んでいられたのであった。


この話は、あとでお嫁さんにも報告されたらしい。

「そしたら、嫁がねえ『あれ、恥ずかしや……」と、耳元から真赤になっていたよ。
アッハッハッハツ……」

寺田先生の笑顔は、とろけるようであった。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

タテの真理一本槍 (5557)
日時:2011年12月04日 (日) 07時22分
名前:伝統

<タテの真理一本槍>

業、因縁の現象を説かず、
縦の真理一本を心の底深くたたみ込むことに専念して下さる寺田先生のご指導は、
私はとても好きであった。

どんな病気をもって行っても、

「神の子病気なし、認めたものだけが存在に入る」

と、目を赤くして導いて下さる。

あれは
雄弁というタイプではなく、信念の強さに迫られる、 のだと思うのである。


三角関係が来ても、ビッコが来ても、

「人間神の子、不完全はない」

の一点ばり。

それで、ビッコが治り、三角関係がとけるのだから、大したものであった。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

四十五年間のビッコ消える (5558)
日時:2011年12月04日 (日) 07時23分
名前:伝統

<四十五年間のビッコ消える>

ここで、45年間のビッコが治った話を思い出す。

それは、大東亜戦争の真最中であった。

防空幕をめぐらした薄暗い四ッ橋道場で、福島区大開町の稲垣よりさんが
次のような体験談をされたのである。

「私は、大開町の稲垣よりです。
○○さんに連れられてきて、お話をきいたのは、今日で四度目であります。
私は不完全な身体をもっていました。

二つの時に兄に負われて遊んでいた時、砂利原で兄が転んで、
私は右股関節の脱臼を起こしたのですが、発見されないままに肉が廻って、私はビッコになりました。
45年前のことでした。

私は今年46歳であります。
もうここまで来たものが、治るとも思わず、治してほしいと思って来たわけでもなかったのです。

はじめの日、寺田先生は大きな声で、おっしゃいました。

『人間は神の子で、不完全はない。ビッコもなければ、メッカチもないのじゃ』

しかしその時のビッコというのは、私のことだとは思っても見ないことでした。

ところが、3回目に来た時、夫婦のあり方について、お話をして下さいました。

『ハイが夫婦の道である。
妻は、あくまで夫にハイとついて行きなさい。
そしたら、子供が善くなり、商売はうまく行き、不幸災難は必ずのがれることが出来るのだ』

一所懸命話してくださる寺田先生のお話を聞きながら、私は『こんないいお話を、これで三度も
きいていながら、昨夜も主人に口応えをしたりして、す**とだった。 
帰ったらお詫びしましょう』と、思ったのでした。

ところが、そのうちに腰の辺が何か変になって来ました。

むずがゆいような、何か落ち着かない気持がするのです。

その時、つい最近に、17歳になる息子が、銭湯でシラミをもらって来たのを思い出して、
私にもついたのでなかろうかと、とても嫌な気持になりました。

気持をほぐすつもりで便所へ行きました。

そして、元の席にかえってきたのですが、その時、私の身体は変わっていたのです。

先にも言いましたように、私は右股関節脱臼になっていたので
坐ると右膝が左膝より3センチほど短めにさがっていたのが、シャンと揃っているのです。

『ああ、お蔭をいただいた』と思うと、感激で涙が出そうになりました。

でも、それを周りの人に言えないのです。

この現象は、ほんの瞬間的なもので、すぐ元の不完全な身体になるのかもしれないと思うと、
誰にも言えなかったのです。

幸い帰りの道は薄暗いので、誰にもだまって帰りました。
家に帰ると、もう11時をすぎており、主人と息子とは床に就いていました。

私は、お仏壇を拝んでから、夫の寝床の横に坐りました。

『お父さん、お蔭をいただきました』と言うと『どうしだ、どうした』と、目を輝かしなさる。

ことの次第を話すと、主人も大喜び、隣室に寝ていた息子も起き出してきて、
『お母さん、歩いてごらん』というのです。

3人で、六畳の室を何べん歩いたことか。

ああ、45年間のビッコが消えたのでございました。

それは昨日のこと、もう大丈夫まちがいないことがはっきり分りましたので、
今日は先生に是非申し上げたくて、飛んで来ました。ありがとうございました」


人間の信念というものは、大したものである。

寺田先生の「人間神の子、不完全はない」の信念で、
20数年のビッコ、30年になるというビッコなど、当時数人も治ったと聞いている。

稲垣よりさんの体験発表があった時は、私もその席にいて、この耳で聞いたのである。

この稲垣さんの奇蹟的な体験を通じて大開町一帯に、生長の家の信仰が広まり、
3日後には地元の求めで、私も講演に行ったので、思い出深い体験談である。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

ツポにはまった唯一言 (5559)
日時:2011年12月04日 (日) 07時30分
名前:伝統

<ツポにはまった唯一言>

寺田先生が高岡市の伏木で話して下さった時は、玉川町の松吉さん宅でお宿を願った。

夏のあつい晩であった。
松吉さんは、かねて寺田先生がお酒をお好きなことを知っていられた。

「先生、お酒にしましょうか、ビールにしましょうか?」

松吉さんの問いに、寺田先生は、澄まして答えられたそうである。

「両方とも……」

これには、松吉さんは困ったというのである。

寺田先生は、酒はたしなまれるが、強くはない。
精精コップに一杯で 話に油がのって、調子よくなられる。

ちょっとすぎると、話がまとまり難くなる。

松吉さんは、困ったと思ったが、仕方がない。
両方もって来いと言われて、ビールを半分というわけにも行かない。
両方もって行ったというのである。

すると、案の定、夜の講話がまとまりが悪くなってきて、
松吉さんは内心ハラハラしていたというのである。

それでも、ともかくも2時間の講演が終わった。

松吉さんが、やれやれと思った時、質問を願い出た婦人があったのである。

「寺田先生、私の夫はお酒が好きなのです。毎晩外でお酒を飲んで帰っても、家に帰ると、
また酒がほしいのです。どうしたらよいでしょう?」

酒好きで、今晩はちょっと飯みすぎたお酒のせいで、話がいささか、
ぐるぐる廻りをしている寺田先生には、ちょっと皮肉な質問なのである。

おかしくもあり、興味をもって寺田先生のお返事をまっていると……

「フーン、酒か、のませ、のませ!」

これで、終わりだったそうである。

松吉さんは、驚いて「これでは苦情が出るだろう」と、気が気でなかったという。

ところが、もう一人、中年の男の人が立ち上がった。

「寺田先生、私は、生長の家の教えに導かれて5年になりますが、なかなか悟れません。
どうしたらよいでしょうか?」

「もっと『生命の實相』を読みなさい!」

こんども、これで終わりだった。

松吉さんは、いよいよ困った。
これでは、必ず苦情が出るに違いない。

家でお宿をさせてもらった時に、こんなことが起こったのは、何という災難なことだ、
と限りなく悔まれた、と言われたのであった。


ところが、その翌朝である。

松吉さんは4時頃に目をさまして、寺田先生のお寝みになっている部屋の廊下を通ると、
いつ頃目を覚まされたのか、もう机の前で読書していられた。

寺田先生は、なかなかの読書家ときいていたが、「やっぱり偉い方なのだなあ!」と思った、
と言われた。

それから、朝の食事のお給仕をしていたところへ、
前の晩に酒の問題を質問された奥さんが、やって来られだ。

そして、何とも言えない丁寧な態度で、言われたそうである。

「寺田先生、昨夜は、本当にありがとうございました。
私は主人のお酒が苦になり、これまで何人かの先生にお尋ねしましたが、
昨夜ほど身に応えたことはありません。

先生は『のませ、のませ』とおっしやいました。

本当に、そうだった。

これまでも『だった一人の主人に、好きなお酒ぐらいは気持よく飲ませてあげましょう
という気持になれ』と、何度きかせてもらったことであろう。

それなのに、私の業つくばりが……と、何ともいえぬ気持で懺悔させていただきました。

主人は、私が帰った時はまだ帰ってはいませんでしたが、
今日こそ気持よく飲ませてあげましょうと、待っていました。

それで、主人の足音がした時は、身も心も軽がると迎えることができました。

そして『お父さん、一本つけましょうか』と言うと、
けげんそうな顔をした主人は『ウン、酒か。今夜は、やめておく』と申しました。

私の、いげつなぐ夫の飲酒を審く心が、夫の深酒の原因だったのだと解りました。
先生、ありがとうございました。ありがとうございました……」


そばで見ていた松吉さんは、恥ずかしいやら申しわけないやら、
穴があったら入りたい気持だったと言われたのである。


ところが、寺田先生のお食事が終わり、食後のお茶になった頃に、
昨夜の第二の質問者がお礼に来られだというのである。

「寺田先生、昨夜は本当にありがとうございました。
先生は、もっと『生命の實相』を読みなさいと導いて下さいました。
私は帰ると『生命の實相』全40巻の前に、静坐し合掌いたしました。

『そうだ。生長の家では、この“生命の實相”40巻が神殿なのだ。
この40巻の中に、一切の悩みも解かれてあるし、一切の幸福の道も説かれているのだ。
私はこの神殿にぬかずくことを怠っていた。

どうも済みませんでした。 どうぞ、お導き下さいませ』

と、20分ほど神想観をしてから、ヒョイと手にふれた一巻を取り出して、
4、5ページ読みますと、そこに、私が日頃悩んでいた問題に対する解決が与えられていた
のであります。ありがとうございました」


正直な松吉さんは、前夜の自分の取り越し苦労が恥ずかしくて、
それこそ居たたまれない思いだったそうである。


ところで、「フーム酒か。飲ませ、のませ」という寺田先生のお答えは、
すべての質問者には通用しないであろう。

悪くしたら、「生長の家は、無茶をいう」と言われても、仕方がない。

しかし、あの時質問した夫人には、全く的を得た答えだったというわけであろう。

あとの質問者の場合も、同じことである。
「もっと『生命の實相』を読みなさい」という答えが、あの時の質問者の心境には、
1分のすきもなくピタリとはまるものであったに違いない。


寺田先生の指導は、たとえば陰電気のあるところ、陽電気の発生を見るが如く、
全くツボにはまっているのだ……と、深く感動させられたことであった。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

極 楽 大 往 生 (5560)
日時:2011年12月04日 (日) 07時31分
名前:伝統

<極 楽 大 往 生>

寺田先生の昇天は、昭和39年、12月22日であった。

大阪阿倍野道場の主管をしていられる大崎小松先生が、電話で知らせて下さった。
私はとるものも取りあえず、大阪へ馳せつけ、お宅の葬儀ならびに道場葬に参列して、
告別させていただいた。

「寺田先生! 平岡初枝でございます……」
弔辞を読みあげるのに、涙がとめどもなく流れて声にならなかった。

愛深く、限りなく導いていただいた偉大なる魂の先達に、
今生の告別を余儀なくされた名残りは、尽きなかった。

きき及んだ寺田先生の臨終は、全くの大往生であった。

22日の午前10時頃、先生は魚屋へ行かれて、新しい魚を見つくろわせられたという。
正午になったら、最後の昼食に、お好きだったお酒の一杯を楽しくお飲みになって、
一時近くに御不浄に立たれたが、そこでドスンと倒れられた。

ちょうどその時、寺田先生が日頃から「要るものはあるもの」と言っておられた通り、
親戚に当たるお医者さんが来ていられて、飛んでいかれたそうである。

「寺田先生、どうしました」

「ここが、ちょうどいいのや……」

これが、寺田先生の最後の言葉だったという。

何とも寺田先生らしい大往生、79歳であった。


寺田先生の御指導は、いつも真剣。

大きな声で、

「駄目だ! 亭主を拝め! 女房を拝め!」

と、力がはいるので、

「寺田先生は、こわい」とか、「先生に叱られた」と言う人が少なくなかったものであるが、
亡くなられてみると、

「叱ってくれる人がなくなって、淋しい」とか、
「おこって下さる人が、なくなって頼りない」と、口々に別れを惜しんだことである。

寺田先生は、一つでも良い体験が出ると、限りなく喜んで下さった。

目を真赤にして、喜んで下さった。

忘れられない姿である。

私が「病気なし」をわからせてもらった時、
あそこにも、ここにも、と連れまわって、体験談をさせられるのであった。

「これは、平岡初枝さんって女子はんだっせ!」

当時は、私のような断髪の洋服姿は少なかったので、いつもこうした紹介ぶりであった。

そんなことから、私はとうとう生長の家の本部につとめる日をもつようになったのである。

地上に寺田先生はなくなられても、
私の心の中には永遠の太陽として輝き、導いて下さっているのである。

             <感謝合掌 平成23年12月4日 頓首再拝>

「病気はない」~寺田繁三先生の指導 (11076)
日時:2012年07月09日 (月) 07時33分
名前:伝統


     *平岡初枝先生・著『しあわせを見つめて』(P220~P231)より

<病院を経営しながら>

私は、若い頃に背椎カリエスということで、3年間ほとんど床についていたことがある。

当時、私は大阪で友人と大衆病院を経営していたのであった。
小さいながらも、歯科まである総合病院で、医師が7人に看護婦が15人、
事務員と炊事婦を加えると約30人の従業員が働いていた。

しかし、病院を経営していながら、私の病気は治らなかった。
若い頃から身体が弱くて、薬ばかり飲んでいた私であるが、
いつとはなしに病気は薬では治らない、
特効薬のような薬には、副作用があるからかえって身体をいためると思っていた。

それでいて、病院を経営していたのだから哀れである。

その私が、神戸の衛生病院に入院したのは、
そこでは、一切投薬しないで水治療法を行なっていたからである。

熱い毛布で全身を蒸し罨法して、身体の毒素を発汗させること日に2回。
あとは1日に水を2升以上飲むのが、治療法であったが、
半年余りも続けたが結局は全治しなかった。

あとは絶対安静一つをたよりに3年間の病床生活をおくったのであった。
病院の近くに小さな家を借りて、藤吉という友人母娘に同居してもらって、
世話になっていたのであった。


忘れもしない昭和16年の春2月23日のことであった。
病院の婦人科に新任された医師が訪ねてみえた。

事務長に万事頼んでおいたのにと思ったが、まだ若い女医さんだったので、
1時間ばかりも話し合った。

ところが、1時間近くも床の上に坐っていた疲れが出て、
その晩にひどい脳貧血を起こし、一晩もつか、もたないかという騒ぎになった。

郷里の富山へ電話する相談をしたり、時々息をしているかと、
友人たちが寝息をうかがっているのであった。

それが、私にはよくわかるので、心配は無いと言いたいのだが、それが言えない。
一言喋ったら、嘔吐神経のあたりがくずれてしまって、
それこそ、もう駄目になりそうなのである。
それでも、朝日の昇る頃には、やっと平静をとり戻すことができたのであった。

何しろ、医者や薬をはじめ、一切の治療法を信ずることができないで、
絶対安静一つに依存していた私であった。

朝の洗顔と、二度の食事の箸をとること、それに用便のほかは、
何もしないで一日中じっと天井を見て寝ている生活を3年近くも続けていたのだから、
たまらない。身体中の機能が衰えて、生ける屍(しかばね)同然であった。

床の上に1時間坐っていただけで、生死の間をさまようような脳貧血をおこしたわけである。


<生まれて初めての合掌>

それから2、3日後のことである。
友人の藤吉、大浜、下川の三氏が、奈良沿線の石切神社にまでいって、
お百度をふんで私の病気平癒を祈ってくださったということを聞いた。

この時の私の感激は、名状しがたいものであった。
思わず床の上に坐って、合掌していた。

「ありがとうございます。藤吉さん、ありがとう。大浜さん、ありがとう。
下川さん、ありがとう……」と言いながら、私の一生を通じて最初の合掌だったかもしれない。

涙が溢れ出て止まらなかった。

「ありがとう、ありがとう」と、止めどもなく感謝の言葉が続いた。
それまでの私は、神仏に祈るどころか、神や仏があるなどと考えたこともない。
唯物論にこり固まっていて、目に見えない世界など思ったことはない。

それなのに、私の友人は、この2月の寒空に裸足になって、
お百度をふんで私の回復を祈ってくれたのだと思うと、感激に身がふるえた。

そして、一切の理屈をのり越えて、私は思わず「神様!」と叫んでいた。

「神様、私はもう一度治りたいのです。神さま治してください。
神様、私にはまだなすべきことが残っているように思うのです。
なさねばならないことが、あるように思うのです」

そこに坐っている人に訴えかけるように、お願いしていた。
それが、祈りだということも思わなかった。
祈りは届くとか、届かないとかいうことを考える余裕もなかった。

「神様、治してください。私は治りたいのです……」

うずくまって、いつまでも何時までも、祈らずにはいられなかった。
同居している藤吉さんが、何度も傍へ来て、

「平岡さん、横にならなくちゃ駄目。あんたは23日の晩、1時間起きていただけて
物凄い脳貧血を起こしたばかりですよ。頼むから横になって!」

私の身体を抱えてでも横にしようとするのであった。

でも私は、どうしてもその気になれないで、うずくまったまま、合掌したまま
「神さま、神さま、治して下さい、治りたいのです」と、続けていたのである。

およそ2時間近くも、そんなふうにしていたが、急にスーツと、
まるでエレキにかかっていた力がぬけたような感じとともに、
私はくずれるように横になった。

そして、それっきり深い眠りにはいったのである。


<幻の看板に導かれて>

翌28日は、朝7時頃に目が覚めた。
見ると、私の目の前に「生長の家四ッ橋道場」と横に大きく書いた看板が見えるのであった。
四ッ橋の辺りを電車で通った時、よく見た看板である。

その看板が、目の前に大きく現われたのである。

何分間か、あるいは何秒の間だったかもわからない。
また、どうして見えたのか、不思議とも何とも思わなかった。

「あっ、四ッ橋に、あの看板が出ていた。あそこで話をきくと、病気が治るということを
聞いたことがある。あそこへ連れて行ってもらって、話をきこう」

こう思うばかりであった。

その幻覚か正覚かが、いつ消えたとも覚えはない。

ただ私は友人達に、
「四ッ橋道場で、お話をききたいから、連れて行って……」 と、せがんだのである。

だが、みんなは私の願いをきいてくれない。
「1時間起きていただけで、脳貧血を起こす人が、四ッ橋まで行けるものか、だめ、駄目」
というわけである。

でも、私は憑(つ)かれたもののように、是非連れて行って欲しいと頼んだ。

結局は、友人2人に医師一人の3人が付き添って、自動車は運転手さんに頼んで、
徐行運転で運んで貰うことに話がまとまった。

私の病院は東区木野町の市電停留所前にあり、私は近くの真田山公園前の住宅に住んでいた。
付き添ってくれた友人は、藤吉さんと大浜さん。
医師は、私の病院で耳鼻咽喉科主任の金田みや先生であった。

金田医師は、いざという時の注射器等を入れた鞄を持ち、身体の大きな大浜さんが、
私をしっかり抱きかかえて
「目を開けなさるなや、目まいを起こしたら困るから……」と言ってくれたのを覚えている。


<あの首もろたら、どないしよう>

どうにか四ッ橋道場へついて見ると、会場は3階上だというので、これにはまいった。
大浜さんに抱きかかえられるようにして、やっとこさ3階の広間に昇りついた。

会場には30人ほどの聴衆を前に、寺田繁三という40歳過ぎの講師が、大きな声で話していられた。

今から考えると「人間は物質ではない、肉体ではない」という話をしていられたらしいが、
私にはよくわからなかった。

ただ肉体はないんだと大声をはり上げ、
「もしそんなものがあったら、この首やる」と言われたのを覚えている。

私は思わず「あの首もろたら、どないしょう」と吹き出しそうになったものである。

あとは、若い頃に読んだことのあるドイツ哲学の祖といわれるデカルトの言葉を思い出していた。
デカルトは「我とは何ぞや」と思索したという。

まず、「このカラダが我であるか」と考えてみた。
しかし、カラダは、私のカラダである。

 手は、私の手。
 頭は私のあたま。
 足は私の足。
 すべてカラダは、私の所有物ではあるが、私それ自身ではない。

 心が私かとも考えてみたが、心も私の心である。
 私の所有物であって、私それ自身ではない。
 それでは、私というものは、ないのかというと、我はいる……というふうに思索を深めた末に、

 ついにあの有名な、
 「我おもう、故に我あり」という句を残したのである。


私は寺田先生の講話をききながら、こんなことを思い出していたものである。
そのうちに定刻の4時になって、その曰の講話は終わった。

「個人的に聞きたいことのある方は、残りなさい」
と言われたので、私は友人とともに残った。



<病気はなかった>

2月28日の冷えびえとした寒い日であった。
唐金の大火鉢をはさんで、私は寺田先生にお尋ねした。

「先生、私は脊椎カリエスで3年間床についておりますが、どうしても治りません。
どうすれば、よろしゅうございましょうか?」

寺田先生は黒い大きな目で 私の腹の底までも見抜くように見つめながら、
右人差指をグイと前につき出された。

「あんた、素直になりなさいや。病気はないんですよ」

これが寺田先生の第一声であった。

 
その一言をきくと、私は何の抵抗もなく思った。

「はあ、病気はないのか」

本来理屈言いの私が、どうしてあんなふうに思わせてもらえたのか、
未だにわからないのである。

つぎに、寺田先生は、私に問われた。

「あんた、目の近くに、まつ毛のあるのが邪魔になるかね?」

「いいえ、邪魔になりません」

「そうだろう。目の一番近くに、まつ毛はある。しかし認めなかったら、邪魔にはならない。
ところが倉田百三という文士はね、ある時、目の近くにまつ毛があると気づいた。
それからというものは、目の近くにまつ毛があることが気になってたまらない。

まつ毛のことを思うまいと思えば思うほど気になった。
とうとう物凄い神経衰弱になり、目を閉じても開けても、目がまわる、家がまわるという
有様で、1年間生死の境を彷徨(ほうこう)したそうな。

これは、目の近くにまつ毛があると、認めたからですよ。

あんたも、脊椎カリエスだというから、どの骨が悪いと認めたのですよ。
認めた時に存在に入るのですよ」


ここまで言われた時、私は心の中で、「わかった」と横手を打ったものである。

「そうだ! この3年間、私は寝ても覚めても、第三第四胸椎のことばかり思い続けてきた。
絶対安静一つをたよりにしていた私は、ちょっと起き上がって食事をすると、すぐに、
骨はどうだろうと思い、便所へ行ってくると、大丈夫かしら、と骨のことばかり思いつめてきた。

認めたものが存在に入るのなら、もう骨のことは考えないことにしよう」と深く心に思い定めた。

「そうだ、骨のことは、生命の営みにまかせれば、良いのだ。
私が干渉しなくても良いのだ」と、わかったのである。

そして、骨のことはもう考えずにおこうと思いながら、ではどこのことを考えたらよいのかと、
愚かにも他愛ないことを思い、白隠禅師の「臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れて
万病治せずということなし」という言葉を思い出した。

お腹に力を入れるようにしていたら、しばらくしてお腹がグーグー音をたてた。

「ああ、これは困った。私は若い時に腹膜をわずらったことがある。
今、脊椎カリエスを克服して、かわりに腹膜を招待するということになってもつまらない」
などと考えているうちに、寺田先生の御指導が終わり、帰宅することになった。


ことばの力は、えらいものである。

「病気はない、病気はない」というお話を聞かされて、病気の骨のことを思わないで、
心を他に転じていただけで、帰りにはフラフラしながらも電車に乗ることができたのである。
まるで、朝のさわぎは夢のようであった。

『甘露の法雨』には「汝ら悪夢を見ること勿れ」と書いてあるがが全くその通り。
私は、長い長い悪夢を見ていたのであった。

「慢性病をやっている人は、時折下手に夢の続きを見たがるものである。
そんな時は下腹部に軽く力を入れ、『私は神の子だ、病気はない。私は神の子だ、病気はない』
と、断々乎として20回ぐらい唱えなさい。朝目をさました時は勿論のこと」

寺田先生が帰り際に教えて下さった言葉一つをたよりに
「病気はない」を言い続けて、夜を迎えた。

その晩の7時頃であった。
私の家へ送り届けてから、病院へ行かれた金田先生が帰ってこられた。

私は、その顔をみるなり、尋ねた。
「金田先生は、自分の身体のなかで、どこのことを考えていますか?」

金田先生は、ガッカリした顔で言われた。
「まあ、この忙しいのに、自分の身体のことなど考えている暇ないわよ」

言われてみれば、その通り。
金田先生が主任の耳鼻咽喉科は、いつも患者が多く、
3人の看護婦の他に助手をふやそうと考えていた矢先きなのである。

金田先生の顔をみているうちに、私は寺田先生から訓えられてきた言葉を思い出していた。

「病気はないんですよ。働きなさい。働くということは、ハタをラクにするという愛行です」

寺田先生には、3年の病人もなければ5年の病人もない。
すぐに働けとおっしゃったのである。

「そうだ! 働きましょう」と思ったが、働くといっても、いま直ぐに何をしていいかわからない。
しかし、働く気になれば、働く仕事も出てくるものなのである。




<働けば働らくほど元気になった>

翌朝、目を覚ますと床の上に正坐して、教えられた「病気はない」を唱えていると、
藤吉さんがきて言われるのだった。

「平岡さん、起きていたの、よかった、よかった。実はね、先日石切神社へお百度参りしたとき、
『1週間の間に治してやって下さい。そしたら千本旗を作ってお礼詣りをいたします』と
約束してきたから、これからその千本旗を作ってちょうだい」

働こうと思ったら、早速ふさわしい仕事が出て来たのである。

半紙と割竹で作った小旗千本に「46歳卯年の女、満願成就」と書くのが、
私の初仕事になったわけである。

昨日まで、生ける屍だった私が、机の前にキチンと正坐して「46歳卯年の女、満願成就」と
午前中に5百枚を書きあげ、午後は友人1人についてもらって、四ッ橋道場へ行ったのである。

翌日も、午前中に5百枚を書きあげて、午後は1人で四ッ橋道場へ行くことができた。

翌3月3日は、3人の友人が石切神社へ願かけをしてくれてからちょうど1週間目である。
千本旗も出来上がり、お天気も上々だった。

数人の友人たちが集まって、お礼詣りに行くというので、私も是非連れて行って欲しいと頼んだ。

友人たちの強い反対を「人間神の子、病気なし」で押し切って、同行したのであった。

3月5日は日曜であった。

病気のないことを知った私は、嬉しくて、じっとしていられない気持である。
ちょうど、京都には友人の竹田直平氏が立命館大学の予科部長をしておられた。

郷里をともにしていたので、若い頃から親しくしていたが、
奥さんの悦子さんが結核性の腫物を三度も手術されたが快癒せず、
手術のたびに傷が大きくなるので悩んでおられたのである。

5日の朝、目がさめると、
「そうだ、悦子さんに病気のないことを知らせてあげねばならない」と思った。

金田先生の同行を願って、大阪から京都まで、大奮発で出かけたものである。

京都では、「青い顔をして、どうした。それ床を敷いて、それ寝なさい」と大騒ぎであった。
「もう治った、病気はない」といくら言っても、夫妻とも信じてくれないのである。

私も「人間神の子、病気はない」という言葉を知っているだけで、
この二人の唯物論者を説き伏せるすべもなかった。
ただ「何やら知らねど、病気はないワイ」で終わったことであった。

大阪へ帰ったら、故郷の母から「病気は、どうじや」という葉書がきていた。
「そうだ、故郷の母に病気のないことを知らせねばならぬ。手紙では、とても及ばぬこと。
この身体をもって行って、見てもらうほかはない」

と、明けの3月6日、富山行の急行に一人で乗った。

郷里では、4、5日の間、家族はもちろん、友人、親戚を訪ねて

「人間は神の子、病気はない」

と、嵐のように言い廻って大阪に帰ったのであった。

これが、私の病気なしを識った第一幕である。

まことにも、人間は物質でなく、肉体ではなかった。
肉体は、心の容れ物でしかなかったのである。

幸いにも、私は友人の愛によって神を知り、導かれて生長の家の教えにふれ
「われ神の子、本来罪なく病なく老なく死なし」の真理を知ることができた。

半年後には体重も4キロふえた。

そして、同じ年の10月には当時の内蒙古への旅をすることになったのであった。

             <感謝合掌 平成24年7月9日 頓首再拝>



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