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明恵上人 (6200)
日時:2012年01月18日 (水) 17時37分
名前:伝統

”山ちゃん1952 さま”のブログ(2012年01月16日)に、
「文覚上人と神護寺」という記事が掲載されております。

⇒ http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201201160001/

この記事を読んで、文覚上人の功績が理解できるようになりました。
今までは、荒法師程度の理解でした。

”山ちゃん1952 さま”のいつも素晴らしい記事には、多くのことを教えられており、
心より、感謝申し上げます。

・・・

さて、明日1月19日は、文覚上人のお弟子さんである”明恵上人”の命日でもあるので、
このスレッドでは、明恵上人を紹介して参りたいと思います。

(1)明恵上人は、鎌倉前期の華厳宗の僧でありますが、華厳宗に捉われず、
   真言宗、禅宗などにも精通しております。

(2)明恵上人は別名「月の歌人」とも呼ばれ、西行法師も、明恵さんの能力を見抜き、
   幾度となく、神護寺を訪れ、歌の面で、良い影響を与えており、

   明恵さんも西行法師との交流で、歌に親しんでおりましたが、
   西行法師が亡くなられてからは、歌への興味が薄れたようようです。

(3)文覚上人の弟子である上覚上人と明恵上人は、叔父・甥の関係(上覚上人は、
   明恵上人の母親の兄)で、平家の家柄です。

   文覚上人は政治的感覚に鋭く、政治力をバックに活躍した僧でした。

(4)明恵上人は、そのような政治的な駆け引きを嫌い、僧としての本来の姿である、
   修行を最重視し、非常に自分に厳しい試練を与えております。

   (肉体を否定し、自分に火鉢を当てたり、右耳を削いだりしております)

(5)己の修行を重要視しておりましたので、当時の法然上人らによる浄土諸宗の
   他力による救済を否定しております。

(6)谷口雅春先生も、いずれかの著書の中で、
   明恵上人のことを触れておられたように記憶しております。

・・・

なお、明恵上人を理解するには、次の動画がお役に立ちます。

(1)明恵上人その生涯と足跡(1/3)
   http://www.youtube.com/watch?v=KkM5ovnNpvU&feature=related

(2)明恵上人その生涯と足跡(2/3)
   http://www.youtube.com/watch?v=RI70PfJuOKo&NR=1

(3)明恵上人その生涯と足跡(3/3)
   http://www.youtube.com/watch?v=7hvKjG60K80&NR=1

           <感謝合掌 平成24年1月18日 頓首再拝>

明恵上人、幼少期 (6280)
日時:2012年01月24日 (火) 06時26分
名前:伝統

華厳宗(けごんしゅう)中興の祖といわれるの明恵上人(みょうえ・しょうにん)は、
1173年に和歌山県有田郡有田川町(ありだがわちょう)で生まれました。


その19年後の1192年には源頼朝が鎌倉幕府を開いているから、
平安時代末期の生まれということになります。

明恵上人の両親は、ともに紀州では勢力のある豪族の出で、
父は領主の平重国、母は湯浅宗重の四女であちました。

母は彼を懐妊した時から、将来は神護寺の薬師仏へ捧げようと決心していたので、
名も薬師丸とつけ、そういう雰囲気の中で育った上人は、極く自然に、法師になると
きめていたようです。

幸福な幼年時代をすごしておりましたが、それも長くは続きません。
8歳になったばかりの正月に母が亡くなり、同年9月に父が亡くなりました。
父は挙兵した源頼朝と戦って戦死したのであります。

上人は9歳で京都市高尾の神護寺(じんごじ)に入山し、
出家するための勉強をはじめます。

神護寺へ馬で向かっていた時、さすがに家族や故郷との別れが悲しく
上人は馬の上で泣いていた。

たまたま川を渡るとき馬が立ちどまって水を飲もうとしたので、
少し手綱を引くと馬は歩きながら水を飲みはじめた。

それを見て、馬でさえ自分のつとめをきちんと果たしているのに、
人間の自分が故郷が恋しいからと泣いているのは馬にも劣ることだと反省し、
一筋に貴き僧となって親をもすべての衆生をも救おうという願を起こしたという。
武士の生まれだけに思いきりのいい子供であった。


上人はずいぶん早熟な人だったようで、13歳にして次のような事を考えた。

「今は、はや13になりぬ。すでに年老いたり。死なんこと近づきぬらん。
老少不定(ろうしょうふじょう)の習いに、今まで生きたるこそ不思議なれ。
古人も学道は火を鑚る(きる。木をこすり合わせて火をおこす)が如くなれとこそ言うに、
悠々として過ぐべきに非ず」

そして自らを鞭打ち、昼夜不退に道行に励んだという。

また、「この体があるから煩いや苦しみがある。いっそ狼や山犬にでも食われて死んで
しまおう」と考えて、死体を処分する原っぱへ行って横になったこともあった。

夜中に犬がたくさん集まってきて、死体を食う音がすぐ近くでも聞こえ、
ついには横たわっていた上人の体も嗅ぎまわしたので、怖ろしいこと限りなかったが、
犬は上人を食わずに行ってしまった。

そのため、死にたくても定業(じょうごう)でなければ死ぬこともできないと納得し、
大人になってから「その時の見解にて死にたらましかば、浅ましき事にて有りなまし。
はかなかりけること哉」と言って笑ったという。


それから19歳の年まで7年間、明恵は本尊の薬師仏に祈りをこめました。

『願ふ所は永く世間の栄華を捨てて、名刹のきづなにほだされず、必ず文殊の威神に依って』
仏法の奥儀を極めんと。(伝記)

明恵は身命を賭して仏に祈ったものの、修行の方は中々はかどらない、
『然るに世間に正しき知識も誰に問ひ何れにか尋ねん』(伝記)と、次第に絶望を深めて
行くのですが、その間にも夢の中で、自問自答したり、弘法大師などに会っています。

その時の夢は象徴的で、大師が寝ている部屋へ行くと、枕元に、水晶のような眼が二つ
置いてあり、それを給わって、大事に持って帰る所で覚めている。

      *「明恵上人」(白洲正子・著、講談社・刊)より

           <感謝合掌 平成24年1月24日 頓首再拝>

法のために身をやつす (6336)
日時:2012年01月26日 (木) 06時07分
名前:伝統

24歳のころ、上人は東の峰の草庵で右耳を切り落とした。
そしてその翌日、文殊菩薩を感得したという。

「こうでもしなければ心弱き身だから、人の尊敬を受けたり、
出世をしたりして道を誤るかも知れない。
身をやつせば人の目にとまることもなく、自分でも人目をはばかって
人前に出ることもないだろう」

「形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来のあとを踏**とを思う」

と決意したのが、耳を切った理由であった。

耳を選んだのは、
「目をつぶすと聖教が見れなくなる。鼻をきると鼻水が落ちて聖教を汚すおそれがある。
手を切ると印が結べなくなる。
その点、耳は切っても聞こえなくなる訳ではないし、ただ見ばえが悪くなるだけだ」と
考えたからで、

それからは自分のことを「耳無し法師」とか「耳切り法師」と呼ぶようになった。

このような傾向は子供の頃からすでにあった。
4歳の時、父親がたわむれに烏帽子(えぼし)を着せて、
「立派な男だ。大きくなったら御所へ連れて行こう」というのを聞いて、

「自分は出家するつもりでいるのに、そんなことになったら大変だ」と、
わざと縁から落ちて体を傷つけようとしたことがあった。

上人はかなりの美男子だったらしく、女難の相があるのを自覚していたのかもしれないが、
こうした身をやつす行為が功を奏したのか、一生不犯(いっしょうふぼん)で通している。

伝記に次の言葉が残っている。

「幼少の時より貴き僧にならん事をこいねがい、一生不犯にて清浄ならんことを思いき。
しかるに、いかなる魔の託するにかありけん、たびたび婬事を犯さんとする便りありしに、
不思議の妨げありて、打ちさまし打ちさましして、ついに志を遂げざりき」

           <感謝合掌 平成24年1月26日 頓首再拝>

インドへのあこがれ (6383)
日時:2012年01月28日 (土) 07時11分
名前:伝統

明恵上人ほどインドにあこがれた日本人はいない。
和歌山に住んでいた三十歳と三十三歳のころの2回、インド旅行を計画している。
2回目の時には旅支度まで調えたが、
病気と周囲の反対と春日明神のご神託などの理由によって中止になった。

このころ大陸では蒙古が急速に勢力を拡大しており、
インドへ旅をするような状況ではなかった。
出発していたらおそらく生きて帰れなかったであろうし、
インドにたどり着くのも難しかったと思う。

上人が書いた大唐天竺里程書というインド旅行の計画書が残っている。

玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)の旅行記などを参考に作成したもので、
長安の都からインドの王舎城(おうしゃじょう)まで八千三百三十三里十二丁と
計算されている。

途中で寄り道したくなったらどうするのかと心配になるような緻密さである。

のちに京都の高山寺に住職すると、
上人はその周囲の山々にインドの仏教聖地に関係する山の名を付けている。

こうしたことからも分かるように、明恵上人の目は常に釈尊に向けられていた。
常に釈迦牟尼世尊に随順し、清純無私、真の仏弟子として修行に励んだとされている。

釈尊にあこがれ、釈尊にかえることを願っていたので、
戒を守ることと禅定を修することを重視し、宗派の違いにはこだわらなかった。

明恵上人は神護寺で出家したのだから宗派は真言宗。

さらに、夢の中で、弘法大師が寝ている部屋へ行くと、枕元に、
水晶のような眼が二つ置いてあり、それを給わって、大事に持って帰って覚めており、
真言密教に精通しておりました。

また、栄西禅師からも自分の後継者とも期待されておりました。

高山寺は宝亀5年(774年)に光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院として開創されましたが、
平安初期には、天台宗の寺院となり、その後、一時荒廃したようであるが、
平安時代末期には文覚によって再興されたといいいます。

明恵上人は、建永元年(1206年)に後鳥羽上皇の院宣により、高山寺を華厳宗復興の道場
としてに与えられ、華厳宗の中興の祖として崇められております。

・・・

<参考Web:明恵上人と春日明神のご神託>
 @http://eigo.be/cultures/nihon7-myojin-gongen2.htm

 Ahttp://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-46.html

  *個人的には、AのWeb資料では、次の神託が目にとまりました

   「神明は皆御房を守護しています。
   なかでも、私(春日明神)と住吉大明神は殊に惰従してお守りしているから、・・・」

・・・

(「華厳」の教えについては、
 谷口雅春先生は、「生命の實相」や他の著書で詳しく紐解いております)

           <感謝合掌 平成24年1月28日 頓首再拝>

一切を礼拝しきる (6410)
日時:2012年01月29日 (日) 07時14分
名前:伝統


明恵上人は、相手がどんなに賤しい人であろうと、犬やカラスやアリやオケラであろうと、
すべて仏性をそなえた甚深の法を行ずる者であるとして軽んずることはなかった。

そのため牛馬や犬の前を通る時にも人に対するように合掌して腰をかがめ、
物をになう天秤棒(てんびんぼう)は人の肩に置くものだから、
笠は首にかぶるものだから、と決してまたがなかった。

「悪人なお隠れたる徳あり。いわんや一善の人においてや」と言って、
相手の貴賎にかかわらず、たとえ壁を隔てていても、
人が寝ている方へ足をのばすことをしなかった。

また人が善いことをした話を聞くと、たいそう喜び語り広めるようにした。

仏像が祀られているお堂の前では決して馬や輿(こし)に乗らず、
道端のみすぼらしいお堂に入る時も生きている仏さまに対するごとく敬意を払い、
経本はきちんと整理して重ねて置き、袈裟をかけずにこれを手に取ることはなく、
机などの上でなければ開くこともなかった。

           <感謝合掌 平成24年1月29日 頓首再拝>

坐禅三昧の日々 (6419)
日時:2012年01月30日 (月) 07時01分
名前:伝統

明恵上人は三十四歳のとき、後鳥羽上皇から高山寺を賜り再興した。
高山寺に入寺しても生活に変化はなく、上人が好んだのは坐禅だけであった。

小さな桶に数日分の食料を用意して裏山に登り、
石の上・木の下・洞窟の中などで昼も夜も坐禅をした。
「この山の面(おもて)が一尺以上ある石で、私が坐ったことのない石はない」
と言うほどであった。


明恵上人は常に釈迦を深く慕い、憧れていた。心の中心にいたのは釈迦。
彼は釈迦を敬慕するあまり、仏陀伝を聞いている途中で失神したという。
そして釈迦の言葉を理解する為にも、学問、戒律、行を重視していた。


「知識を学ぶ人は多いが定学を好む人はほとんどいない。
これでは道を証するための拠り所がない」と言って、上人は常に嘆いていた。


日本に禅宗を伝えた栄西(えいさい)禅師とは親しい間柄で、
栄西禅師は上人に禅宗の後を託そうとしたが上人は固辞して受けなかったという。

それで、栄西は「せめてこれだけでも」と、自分の大切な法衣を明恵に贈った。
栄西は弟子達に「分からないことがあれば明恵上人に聞け」と言い残したという。


ある僧が明恵上人に、坐禅修行の要点を質問した話が伝記に載っている。
上人はその質問に対して次のように答えた。

「禅定を修するに三つの大毒あり。
これを除かざれば、ただ身心を労して年をふるとも成就しがたし。
一に睡眠、二に雑念、三には坐相不正なり」

<参考Web:明恵上人樹上坐禅図
       http://blogs.yahoo.co.jp/hehualu2000jp/38040288.html >

           <感謝合掌 平成24年1月30日 頓首再拝>

大慈悲心 (6447)
日時:2012年01月31日 (火) 07時12分
名前:伝統


明恵上人はかなりの硬骨漢であった。

承久(じょうきゅう)の乱の時、落人(おちうど)をかくまったとして
幕府から目を付けられ、秋田城ノ介というさむらいが栂尾の山中を捜索したあげく、
明恵上人を捕らえて六波羅の北条泰時(ほうじょうやすとき)のもとへ連行した。

北条泰時は上人のことをよく聞き知っていたので、驚いて上人を上座へ移した。
そのとき上人は次のようなことを述べている。

「私は若い時に本寺を出てあちこちとさまよい、習い覚えた仏法のことばや理論さえ
思い出すのが嫌になった。まして世間のことは、最近は考えたこともない。
だから、どちらか一方の味方をするといった気持ちは全くない。

たとえ心の中にそのような念がきざしたとしても、二念と相続することはない。
だから、たとえ知っている人に祈祷をたのまれても引き受けたりはしない。

一切衆生の地獄の苦しみを救う事が急務であって、
特定の人だけを特別に祈祷するようなことはこれまでしなかったはずである。

とは言え、高山寺は三宝に寄進された殺生禁断の地である。
鷹に追われた鳥や、猟師から逃げてきた獣は、皆ここに隠れて命をつないでいる。

ましてや敵から逃れてきた軍士が木の下や岩のはざまに隠れているのを、
とがめられたら自分が難にあうからと無下に追い出すことが出来ようか。

釈尊はその過去世に、鳩の身代わりとなって全身を鷹の餌とされたり、
飢えたる虎に身を与えたりしたこともあったという。

それほどの大慈悲心には及ばなくとも、困っている人々を追い出すようなことはしないし、
出来ることなら袖の中にも袈裟の下にも隠してあげたいと思っている。
また今後もそうするつもりである。

もしもそれが政道のために難儀な事ならば、即時に愚僧の首をはねられよ」

北条泰時には返す言葉がなかった。
これが縁で泰時は明恵上人と親しくなり、
しばしば高山寺をおとずれて教えを請うようになった。

その際、明恵上人は、「欲心を失ひ給はば、天下自[おのず]から令せずして治るべし」・
「其身[そのみ]直[なお]くして影曲らず、其政正しくして国乱るること無し」などと、
為政者としての心得を、仏教ではなく老荘思想をもって、泰時に説いたといわれます。

後に泰時は執権となり、
武士のための初めての法律である貞永式目(じょうえいしきもく)を編纂したが、
その内容には上人の影響が大きいといわれる。

これは江戸期を通じて強い影響を与え続ける法となります。
上人の影響は近世の法律にまで及んでいたといえるでしょう。

・・・・・

なお、明恵と北条泰時に関しては、次のWebでさらに詳しく学ぶことができます。

Web:”山ちゃん1952 さま”のプログ「明恵上人と北条泰時(2012年01月29日)
    → http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201201290001/

           <感謝合掌 平成24年1月31日 頓首再拝>

明上人恵の思想「あるべきようわ」 (6536)
日時:2012年02月03日 (金) 07時07分
名前:伝統



(1)栂尾高山寺の上人、明恵高弁は、密教や念仏宗などの新仏教が盛んとなった鎌倉時代に、
   堕落し切っていた奈良旧仏教の立て直しを図り、華厳宗中興の祖といわれてました。

   その教えは、ひたすら
   「釈迦の教えに戻れ」というものでした。

(2)明恵上人は、人間は、「あるべきようは(阿留辺幾夜宇和)」の七文字を
   心に刻むべきであると言います。

   すなわち、

   僧侶は僧侶としてふさわしい振る舞い、
   俗人は俗人としてふさわしい振る舞いを
   するということです。

   また、皇帝は皇帝の振る舞いを、
   臣下は臣下のあるべき姿があります。

   このあるべき姿に背いてしまうのが、
   諸悪の根源なのだと言っています。

        <明恵上人遺訓>

   あるべきとは、
   仏の本性、つまり仏性であると
   明恵上人は言っているのです。

   明恵上人は、こうも言っています。

   我は後世たすからんといふ者に非ず。
   ただ現世にまづあるべきやうにてあらんといふ者なり。

     この今の命が終わって、生まれ変わる次の未来の人生で
     救われようなどという来世主義ではありません。

     ただこの今現在においてまず「あるべきよう」
     にあろうとしていると言っています。


   己がなすべきことは何なのかを考え抜き、
   そしてそれを実践することで、今この時を、精一杯生き切ること、

   天然、自然に心身を任せ、
   時により事により、その場、その場の状況の中で、
   常に己の「あるべきようは何か」と問いかけ、

   その答えを見出し、あるべきように、
   素直に真摯に生きようとする姿勢が大切なのだと、

   明恵上人はその生き様で示しておられます。

(3)河合隼雄氏は、その著作「明恵夢を生きる」で次のように述べておられる。

  @高山寺に欅づくりの一枚の掛け板が現存している。
   これは明恵がその弟子たちと共に高山寺に住んでいた時、
   その生活の上で守らねばならぬ規律( 清規 ( しんぎ ) )を記したものであるが、

   その冒頭に「 阿留 ( ある ) 辺 ( べ ) 畿夜 ( きよ ) 宇和 ( うわ ) 」と
   書かれている。

   「 栂 ( とが ) 尾 ( のお ) 明恵上人遺訓(伝記)」に
   「我に一の明言あり。我は後生 資 ( たす ) からんと申さず。
   只現世に有るべき様にして有らんと申す也。

   聖教の中にも、行ずべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。
   現世に 左之右之 ( とてもかくても ) あれ、
   後生 計 ( はか ) り 資 ( たす ) かれと説かれたる聖教は無きなり。

   仏も、戒を破りて我を見て何か益かあると説き給へり。

   仍 ( よ ) りて、阿留辺畿夜宇和と云ふ七字を 持 ( たも ) つべし。
   是を 持 ( たも ) つを善とす。人のわろきは 態 ( わざ ) とわろき也。
   過ちにわろきには非ず。

   悪事をなす者も、善をなすと思はざれども、有るべき様にそむきて、まげて是をなす。
   此の七字を心に 持 ( たも ) たば、敢えて悪き事有るべからず」

   ここで、明恵は、
   「後生を助かろうとしているのでなく、この世に有るべきように有ろうとする」
   ことが大切であると明言している。

  A『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』とは

   人には、それぞれ生まれながらの境遇があり、そなわった性格や能力がある。
   人はもちろん努力し、精進して生まれながらの状態を向上させていくものである。
   その場合、人は人それぞれの、あるべき姿を認識して、それに徹して生きるべきである。

   明恵は、それを「あるべきようわ」と漢字七文字で示す。

   仏法の修行は死後の安楽を願って行なうものではなく、
   「ただ現世に、まずあるべきように、とあらん」と、現在の生き方をさらに
   充実させて、人としてのあるべき姿を求めて生活することである。

   それには、自分の分を知ることである、と明恵は説いている。

  B『「あるべきようわ」は、日本人好みの「あるがままに」というのでもなく、
   また「あるべきように」でもない。

   時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、
   その答えを生きようとする』ものであると述べている。

   何でも受け入れる母性的な「あるがままに」でもなく、
   肩肘張って物事を峻別しようとする父性的な「あるべきように」でもない。

   どちらかに偏するのではなく、中庸の心から発する智慧に基づき、考え行動して
   いくことが大事だという。

   これは、古代から連綿と続いている智慧と相通ずる思想である。

           <感謝合掌 平成24年2月3日 頓首再拝>

「夢記」 (6619)
日時:2012年02月07日 (火) 07時40分
名前:伝統


明恵上人で有名なのは、「夢の記録」です。
明恵上人は、19歳〜59歳まで「夢記」といわれる夢の記録を書き続けました。
毎日自分の見る夢、一つひとつを大切にして、書き記しています。

人は夢を見る。

その夢は彼の人生の中に重要な位置を占め、
覚醒時の生活と見事にまじり合って、一つの絵巻を織りなしていると考えました。


夢をも生き切るこの姿勢を、
臨床心理学者でありユング心理学の第一人者である河合隼雄氏は、
その著「明恵 夢を生きる」で、次のように述べております。

(1)あらためて明恵上人を紹介すると、彼の生きた時代は、平家から源氏へ、
   源氏から北条へとあわただしく権力の座が移り、その間にあって、
   法然、親鸞、道元、日蓮などが現れ、日本人の霊性が極まりなく
   活性化された時代であった。

   明恵はこれらの僧と共に名僧として崇められたが、
   他の僧のように「新しい」宗派を起こしたのでなく、
   彼の教えを守る人たちが現代に至るまで大きい宗派を維持してきたというのでもない。

   僧位、僧官を受けず、一宗一派に囚われずに仏教の「戒・定・慧」を守り通した高僧です。

   しかし、彼は世界の精神史においても稀有と言っていいほどの大きい遺産を
   われわれに残してくれた。

   それは、彼の生涯にわたる壮大な夢の記録である。

(2)彼は夢に記録を丹念につけているが、その夢は彼の人生の中に重要な位置を占め、
   覚醒時の生活と見事にまじり合って、一つの絵巻を織りなしているのである。

   彼の生涯は夢と現実とをそれぞれ縦糸横糸として織りあげた偉大な織物のようであり、
   分析心理学者のユングが個性化、あるいは、自己実現の過程と呼んだものの
   素晴らしい範例であるとさえ感じられる。

   このことが、仏教に全く素人である筆者をして、明恵について一書を書こうと
   思いつかせた強い動機なのである。

(3)明恵は、自分の夢を丹念に記録して自分なりの解釈も加えている。
   年齢を加え経験が増すとともに、夢の内容が変化していく。
  
   最後は、自分の中に菩薩が入ってくるという夢を見る。

   一人の人間の生き方として見ると実に潔いし、
   年々成長し、その思想の深まりが、
   如実に夢に反映される様子は「すごい」というしかない。

        <河合隼雄・著「明恵 夢を生きる」京都松柏社・刊>

           <感謝合掌 平成24年2月7日 頓首再拝>

最後の詞(ことば)、そして臨終 (6713)
日時:2012年02月11日 (土) 07時04分
名前:伝統


最後の詞(ことば)

明恵の最後の詞は、『我戒を護る中より来たる』でした。
この詞は、大変重く切ない意味を持っています。

『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著のあとがきには、次のように述べられています。

『明恵の少年時代は源氏と平家の相克する時代だった。
自分の意思で僧になったわけではない僧に対して、
汝、戒律を厳守して清僧であれ、と、
人は言うことができるだろうか。

それゆえ明恵とおなじ境遇をもつ法然は、
みずからは戒律を厳守する清僧であったにもかかわらず、
そのように言う人に対して、
今は、体裁上のうわべの戒律があるばかりで、
本当の生きた戒律はなく、だから破戒も持戒もないと断言する。

明恵はこの一世代年長の法然に、対立した。

明恵は六十歳で示寂(しじゃく)したが、その最後のときを、弟子喜海は記録に残した。

「その後、眼を閉じて又しずまる。喜海枕(まくら)に近くして
親(みずか)ら聞くに、ひそかに、『我戒を護る中より来たる』、これ最後の詞なり」


8歳で父母を亡くし、9歳で修行の道を歩みだした明恵は、
戒律を護り、僧として「あるべきやうは何か」と問いかけ、
「やさしき心使いもけだかき」人として、自分を律し生きたのです。

・・・・・・

     臨終

明恵上人は、1232年1月19日に高山寺で亡くなった。

伝記によると、「今日臨終すべし」と言って、衣と袈裟を着がえて弟子たちに説法し、
決して名利に迷わぬように戒めた。

それから短い行法をおこない、合掌して懺悔文をとなえ、
しばらく坐禅を行い、出定すると言った。

「その時が近づいた。右脇に臥(ふ)すべし」

上人は横になり、手を蓮華印にして胸の間におき、
右の足をまっすぐに伸ばし、左の足をすこし曲げてその上に重ねた。

「顔に歓喜の表情たちまちにあらわれ、微笑を含み、安然として寂滅し給う。
春秋六十歳なり」

と伝記は結んでいる。妙なる香りが漂っていたという。

           <感謝合掌 平成24年2月11日 頓首再拝>



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