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沢庵と良寛と生長の家 (670)
日時:2011年04月17日 (日) 11時28分
名前:童子

          『白鳩』誌22年9月号 入龍宮不可思議境界録



  『曉声』5月号で永井哲心君が『不幸はない』とか『悪はない』とか生長の家で云うのは、不幸や悪がなくなることではなく、不幸や悪に心がひっかからなくなることだと思うと云うような意見を述べているが、これは大いに違うのである。

  現実の不幸や悪を絶滅することなしにそんな単なる観念の遊戯で、不幸や悪をみとめないというような、そんな浅墓な思想が生長の家ではないのである。

  生長の家では現実に『病』を克服し、『不幸』を消滅せしめ、『悪』を絶滅するのである。現実から遊離でもなければ、真に『病』のなき世界、『不幸』のなき世界、『悪』のなき世界、『弾の中らぬ世界』を創造するのである。

  実際それが出来なければ、理論はどんなに巧妙であっても、それは理論の遊戯にすぎず、観念の世界に遊離して、現実の世界を逃避するに過ぎない『あきらめの思想』なのである。



                      

沢庵と良寛と生長の家 〔2〕 (671)
日時:2011年04月17日 (日) 12時19分
名前:童子

  或る時、沢庵和尚と柳生但馬守とが一室で宗教談を交えていた。其処へちょうど雨がザンザと降って来たのである。

  その時沢庵和尚は、柳生但馬に
   『尊公は、天下一の武芸者であるが、その武芸の極意をもって、この雨に濡れないようにこの庭を一まわりして来て見せて貰いたいものぢゃ』 と云った。

  柳生但馬は『やって見ましょう』と云うので早速刀の提げ緒で襷十字に綾どり、袴の股立ちたかくからげ、剣を抜いて庭におりると丁々発止と、電光石火の早業で斬りはらいつつ、庭を一周して戻って来た。

  『どうです。濡れておりますかな。』
  『さすがに天下一の剣客ぢゃ。どこも濡れておらぬが、』と沢庵は但馬の衣服をひとわたり見て、『ただほんの少し袂の裾に雫がかかっておりますな。では拙僧、少しも濡れないで庭へ出てお目にかけましょう』

  こう云うと沢庵は何の支度もしないで駒下駄を履いて庭に出ると、庭先の石の上に端坐瞑目した。坐禅の姿である。折から愈々雨は激しく降りかかる。沢庵はまるで濡れないかの如くじっと端坐している。やがて沢庵はその部屋に戻って来た。

  『どうでござる少しも濡れていないでござろう』
  見ると沢庵の法衣はびしょ濡れで雫がポトポト垂れている。

  『濡れていない』と云うのは、実は形は濡れても、心は濡れない、濡れることに心が引っかからない。心がそれで悲しみや憂えに濡れることがないと云うことであるのである。これは今までの宗教であり、あきらめの宗教である。

  生長の家で『不幸がない』と云うのは、それと同じく、不幸に実際ぬれていながら、心のみが不幸に引っかからないと云うような、そんな現実的力がないものではないのである。


                     

沢庵と良寛と生長の家 〔3〕 (672)
日時:2011年04月17日 (日) 12時38分
名前:童子

 イエスは現実に現象を支配したのである。

 ラザロに対して『死せるに非ず生けるなり』と云ったときに、彼は現実にラザロを復活せしめたのである。『汝の罪赦されたり、立ちて歩め』と云ったときに、現実に跛者は立って歩いたのである。

 イエスの宗教は跛者でありながら、その跛であることに心がひっかからなかったと云うような、そんな『あきらめ』的な宗教ではなかったのである。

 ここに沢庵の宗教と、イエスの宗教との相異が見出せるのである。その相異はアメリカの光明思想とあきらめ的小乗仏教との相異でもある。

 生長の家は、アメリカ的光明思想を日本の仏教にとり入れ、それを渾然一体化して現実を支配するイエス的仏教乃至仏教的キリスト教を創造したとも云える。

 そこに現実を支配する奇蹟があらわれ、病者が癒され、生活の不調和が心の力によって現実に克服されつつあるのである。

                 

沢庵と良寛と生長の家 〔4〕 (677)
日時:2011年04月17日 (日) 18時42分
名前:童子

 良寛和尚が、大阪の火事に遇った知人に災難よけの妙法として書き送った有名なる手紙がある。

  『災難に遇ふ時節になれば、災難に遇ふが宜しく候。
   病気になれば死ねばよろしく候。
   これが災難よけの妙法に御座候。』  と云うのである。

 淡々として現象にとらわれず、災難も不幸も自分の実相を一毫も傷け得ないと云う超越的な洒々落々たる境地はまことに掬すべきものがあるが、しかし、其処には病気の肯定があり、災難の肯定がある。

 災難と病気とはあるべきものである。それから避けようと思うから心が悩まねばならぬのである。それを避けようと思わなければ、災難が来ようとも焦ることも要らねば悩むことも要らぬのだと云う。そこにあるのは唯あきらめだけである。

 吾々が良寛和尚に代わって災難よけの手紙を書くならば、

  『神の創造りたまへる世界には災難など決してなきものに御座候。
   災難を受けるのは、災難を受けることが、自分の罪をつぐなふとか、
   自分の業の浄めになるとか云ふ潜在意識の災難をこひねがふ自分の
   心の具象化によつて災難があらはれて来るものに候。
   然らざれば人間に本来災難も病気もなきものに御座候』

 と書くであろうと自分では思っている。

                     (この項終り)
   



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