「南京大虐殺」の創作者たち (7280) |
- 日時:2012年03月03日 (土) 19時33分
名前:歴史
<「Japan On the Globe(H18.07.23)国際派日本人養成講座」より>
「南京大虐殺」の創作者たち ~ 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち
(1)中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち
1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズに次のような記事が載った。
南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻発し、大規模な略奪、 婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・南京は恐怖の町と化した。 ・・・恐れや興奮から走るものは誰もが即座に殺されたようだ。 多くの殺人が外国人たちに目撃された。[1,p106]
日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが12月13日未明。 その2日後、15日に南京を脱出したアメリカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した 記事である。
事件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、誰でもが事実だと 信じてしまうだろう。
実際に、現在の日本の中学校歴史教科書でも次のように書かれている。
1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本軍と中国軍との衝突が おこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。 年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や 民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際的非難を あびた(南京事件) [日本書籍、平成13年版]
しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじめとする、当時の南京にいた 欧米人のジャーナリストの一部は、実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが 明らかにされたのである。
亜細亜大学教授・東中野修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が 明かした事実を追ってみよう。
(2)2人のプロ編集者
東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝処工作概要 1938年~1941年4月』 という資料を見つける。蒋介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前から 宣伝戦に総力を挙げていた。
そのための機関が「中央宣伝部」であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していた のが「国際宣伝処」である。この「国際宣伝処」が、南京陥落前後の3年間に行ってきた 工作を記録したのが、この資料なのである。
冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象として何度も登場する。
中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副部長の薫顕光と、国際宣伝処 の処長・曽虚白の二人であった。
薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留学し、 『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経験した後、中国に戻って 『北京英文日報』などの編集長を長らく務めた。
薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南京大学教授を経て、 上海の『大晩報』の編集長に転じた。
2人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者であった。 欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好の人材であった。
(3)「国際友人」による「われわれの代弁者」
薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要だ」と考え、 1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強化して、曽虚白を処長とする 国際宣伝処を発足させた。
曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝においては中国人みずから 決して前面にでるべきではなく、われわれの抗戦の真相と政策を理解してくれる 国際友人を探し出して、われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と 述べている。
「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であった。 特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ多くの人々の目に触れる。
上述の資料では「各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、 われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果があるが、 しかしそのためには彼らの信頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。 この工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。
ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが発表した宣伝文書」を そのまま自分の記事であるかのように発信したりはしないだろう。 逆に、国際宣伝処の存在やその工作自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。
薫顕光と曽虚白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者が、 「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重に見極める点にあったのだろう。
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