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今、何故、「明治維新」に学ぶべきなのか?! (2811)
日時:2011年06月16日 (木) 15時16分
名前:破邪顕正

合掌 ありがとうございます。

尊師・谷口雅春先生の「教え」を如何にして護るか。
それを如何にして、後世に過たず伝え遺すことができるか。
そのことのみを「本気」で考えていると、維新の志士たちの思いが沸々と蘇ってくるから不思議です。

よく、「明治維新」は、薩長の倒幕藩だけの功でなったものではない。
そういう外の力ばかりではなく、勝海舟や小栗上野介のような「幕府に残った人々」の内なる活躍も相俟って成し遂げられた、ということを言う人があります。

なるほど、私もそれを認めるに決して吝かではありません。
ただ、より大事な視点は、どちら側が常にその時代をリードし、切り開いていったのか、そこなんだと思うんですね。
結論を言います。

倒幕側が常に時代をリードしていなければ、とてもあのような「明治維新」はあり得なかった!
そのことの重要性は如何に強調しても強調し過ぎることはない!
幕末の歴史を繙かれたら、それがよくわかります。

幕末史を見ていて、その時代の流れを顕著に表したのは土佐藩のように思いますね。
まず、最初は圧倒的に「佐幕派」なんですよ。
それに業を煮やして、坂本龍馬や中岡慎太郎は脱藩するわけです。
ところが、そうした脱藩志士の命がけの頑張りで、倒幕の機運が巻き起こるわけです。
そうすると、今度は俄に「公武合体論」が台頭するわけですよ。
(生長の家にもいますよね、安易な「大調和」派というのが)。

一見、両者が手を結べばいいかのように思われがちですけれど、そんな生ぬるい体制では、とても欧米列強に立ち向かえないというのが志士の目にははっきりと映っていた。
そんな「公武合体派」を押しのけて、倒幕へと更に時代の針を推し進めたのが、私は長州藩の「狂」の精神であったと思っています。
高杉晋作は「東行狂生」、木戸孝允(桂小五郎)は「松菊狂夫」、慎重居士の代表のように言われる山県有朋でさえ、幕末の青年時代には「狂介」と称していました。
「狂」でなければ、江戸幕藩体制に風穴をあけることなど、到底、出来なかったのですよ。

その気迫が、薩摩を動かしたのだと思います。
薩長同盟の締結により、倒幕がいよいよ時代の主流に上り詰めることになりました。
それを見て、焦ったのが土佐藩でありますよ。
もはや、佐幕は時代遅れ。
倒幕が時代の流れだ。
このままでは、薩長の後塵を拝する。
ここで、時代の主導権を一気に土佐が握るべく乾坤一擲の案が持ち出される。
それが言うところの「大政奉還」であります。

しかし、この「大政奉還」が曲者だったんですね。
これに安易に乗ってしまったら、徳川慶喜を頂点とした雄藩大名のヒエラルヒーはそのまま温存されかねない!
結局、まかり間違えば、「公武合体」の焼き直しでしかないのではないのか!
ここを見破ったところが、西郷さんの凄さなんでありますね。

江戸幕藩体制を徹底して壊さない限り、新しい時代を切り開くことはできない!
幕末から明治維新に到る時代の凄さは、安易な妥協を敢然として排除したことにあると私は見ています。
そのために、確かに、多くの若者の血が流されました。
多くの、といいましたけれども、世界の歴史から見たら、幕末期に流された若者の血は信じられないくらい少ないのです。
だから、明治維新は世界史から見たら「無血革命」とさえ言われるのです。
しかし、本当に有為な人財が亡くなっています。
西郷さんがのちに木戸孝允にこう言ったそうです。
「御国の久坂先生がいまごろ存生なれば、お互いに参議などといって威張ってはおられませぬな」
この尊い犠牲あらばこそ、日本は敢然として独立を勝ち得たのであります。
以て瞑すべし。

今回の投稿で言いたかったことはただ一つ。
体制を変えるには、外からの動き、働きかけが常にリードしなければ何も始まらないということです。
いつの時代にも、どっちつかずの、「鵺」みたいな、様子見気分の人はいます。
そういう人までが、「こっちだな」と思わせられるような時代の流れをつくる!
それは、結局、外の人ではないのか、外にいる人の使命はそこにこそあるのではないのかと申し上げたかったという次第です。

再拝


坂本龍馬の言葉 (3324)
日時:2011年07月13日 (水) 04時40分
名前:伝統

”破邪顕正 さま”ありがとうございます。

このスレッドをお借りして、明治維新の志士たちのエピソードを紹介させていただきます。

”破邪顕正 さま”のお許しをお願い申し上げます。

1.坂本龍馬の活躍 〜 坂本龍馬の言葉”
        
(1)疲れちょると思案がどうしても滅入る。
   よう寝足ると猛然と自信がわく。

(2)日本を 今一度せんたくいたし申候。

(3)何でも思い切ってやってみることですよ。
   どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様骨となって一生を終えるのだから。

(4)(高知藩主山内容堂に対して)本朝(日本)の国風、天子を除く外は、
   将軍といい、大名といい、家老というも、皆その時代の名目に過ぎぬ。
   物の数ともなすなかれ。

(5)人生は一場の芝居だと言うが、芝居と大きく違う点がある。
   芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。

   生の人生は、自分で、自分の柄に適う舞台をこつこつ作って、
   その上で芝居をするのだ。

   他人は舞台を作ってはくれぬ。

(6)相手を説得する場合、激しい言葉を使ってはならぬ。
   結局は恨まれるだけで物事が成就できない。

(7)仕事というものは全部をやってはいけない。八分まででいい。
   八分までが困難の道である。あとの二分は誰でも出来る。

   その二分を人にやらせて完成の功を譲ってしまう。
   それでなければ大事業というものはできない。

(8)人間は丸くて角があり、角があって丸いのが良い。

(9)おれは日本を生まれ変わらせたかっただけで、生まれ変わった日本で栄達するつもりはない。


(10)坂本竜馬(龍馬)の名言集・格言集動画
    http://www.youtube.com/watch?v=D4in6ViT34A

         <平成23年7月13日 記>

凄い言葉ですね (3326)
日時:2011年07月13日 (水) 10時33分
名前:コスモス

伝統さま

坂本竜馬の9番目の言葉、本当に凄いと思います。

どこかの誰かに、(国のトップを始め、うじゃうじゃいると思いますが、勿論誰かさんも)聞かせたい言葉ですね。

こういう人でなければ、とても大きな仕事は出来なかったでしょうね。有難うございました。

志の人、坂本竜馬(龍馬) (3340)
日時:2011年07月14日 (木) 08時09分
名前:伝統


”コスモス さま” いつもありがとうございます。

>坂本竜馬の9番目の言葉、本当に凄いと思います。
>こういう人でなければ、とても大きな仕事は出来なかったでしょうね。

本当に、日本国にとって、坂本竜馬(龍馬)は偉大な功績を残しました。、
そして、今は護国の英霊として、日の本の国を導いてくれているのではないでしょうか。

・・・

さて、
明治維新の志士は数多ですが、司馬遼太郎が坂本竜馬を取り上げる前までは、
マイナーな存在でした。

現代において、坂本竜馬が注目が浴びるようになったのは、
司馬遼太郎のベストセラー小説「竜馬がゆく」があればこそです。


その司馬遼太郎は、竜馬の生涯を次のように描いております。


  竜馬は十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから
  「坂本の寝小便たれ(よばあったれ)」とからかわれた。

  からかわれても竜馬は気が弱くて言いかえしもできず、すぐ泣いた。

  十二のとき、ひとなみに父は学塾に入れた。

  ところが、入塾するとほとんど毎日泣いて帰るし、文字を教えられても、
  竜馬のあたまでは容易におぼえられない様子なのである。

  ついにある雨の夜、師匠の楠山庄助がたずねてきて、
  「あの子は、拙者には教えかねます。お手もとでお教えなされたほうが、よろしかろう」

  見はなされたのである。

  もはや家門の恥辱といってよかった。
  このときだけは父の八平(はっぺい)も長嘆して、
  「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」


 このように、子供時代に、親を落胆させ、友人からバカにされておりましたが、
 33年間の短い生涯に、すこぶる大きな足跡を残しました。
 日本の歴史を変えるほどの働きであった。


 勝海舟は、
 「薩長連合、大政奉還、あれぁ、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ」と言ったくらいです。


 現在も竜馬の人気は高いです。
 「歴史上の好きな人物」を調査すると、必ずベスト5に入ると言われます。
 また、京都にある竜馬の墓には、年間7万人もが訪れております。


 地位も学問もなく、
 ただ「志」を高く持って、激動の時代を生き抜いた姿が感動を与えているのであろう
 と思われます。


 竜馬の語録に、上の (3324)で紹介した言葉以外で、次の光り輝く言葉があります。


(1)「世に生利を得るは事を成すに在り。人の跡を慕い、人の真似をする事なかれ」

   人間として、この世に生を得たのは、大事なことを成すためなのだ。
   ただ無批判に、周りの者に従い、真似をして生きてはならない。

   自分の人生は、何を成すためにあるのか、よく考えて行動せよ。
   一生はアッという間に過ぎていくのだ。


(2)「世の人は われをなにとも ゆわばいえ  わがなすことは われのみぞしる」

   世間の人間が、自分のことをどう非難しようがかまわない。
   好きなように言えばよろしかろう。

   自分が目指している目的の大きさは、自分だけが知っているのだ。
   たとえ一人であろうとも、自ら信ずる道を行く。


 竜馬の情熱が伝わってくるような言葉です。
 いつの時代であっても、志を持って生きる人は輝いております。

               <平成23年7月14日 記>

「尊皇の志士」としての坂本龍馬をこそ! (3347)
日時:2011年07月14日 (木) 10時27分
名前:破邪顕正

合掌、ありがとうございます。

「伝統」様、改めて、坂本龍馬に光をあてていただき、感謝申し上げます。

坂本龍馬を知るには、やはり「尊皇精神」を欠かしてはならないと思うのですね。
その点、NHKの「龍馬伝」はひどいものでした。

「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という言い方をもじるならば、「NHKの龍馬伝は俺の話かと龍馬いい」ということになりはしませんでしょうか。
龍馬を、何か、伝統や歴史にとらわれない平和主義者か、民主主義者の先駆けのような、その描き様には、坂本龍馬自身、泉下でさぞかし臍をかむような思いをしていたのではないでしょうか?

因みに、坂本龍馬の二つの手紙をここに紹介させていただきます。

@文久三年(1863)六月二九日 坂本乙女宛(一部抜粋)

「然に誠になげくべきことはながとの国に軍初り、後月より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事は、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふくいたし又長州でたゝかい申候。是皆 吏の夷人と内通いたし侯ものにて候。右の 吏などはよほど勢もこれあり、大勢にて侯へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ神州をたもつの大本をたて、それより江戸の同志、はたもと大名其余段々と心を合せ、右申所の 吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候。」

…江戸の悪い幕府役人が長州藩と戦をしていた外國軍と内通して、外國軍艦を修理するなどして我が國を危機に陥れているから、朝廷(天皇・皇室)を中心として我が國(神州)護るための基本政策を発表し、何名か同志の大名と結束し、これら幕府役人共を排除して、今一度我が國を洗濯したい、と神にお願いをしています。

A文久三年(1863)六月十六日、池内蔵太の母宛(一部抜粋)

「此かずならぬ我々なりと、何とぞして今上様の御心をやすめたてまつらんとの事、御案内の通り朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり。」

…この数ならぬ我々なりと、何とぞして今上様(孝明天皇)の御心を安めていただく事、御案内の通り朝廷というものは國(土佐藩)よりも父母よりも大事にしないといけないという事は、当然の事なのです。

この手紙を読んだだけでも、龍馬は紛れもない「尊皇攘夷」の精神の持ち主であることがわかります。
その観点から、如何にして、我が国を欧米列強から護ることができるか?
その一念で疾風の如く時代を駆け抜けたのが坂本龍馬であったのです。

「画龍点睛を欠く」という言葉があります。
ほとんど完成しているが、肝心なところが抜けているために、全体がだめになっているという意味で使われますが、まさしく、龍馬を画いていながら、「尊皇」の一点がないために、真の龍馬像が見えない!
結局、今の手垢に満ちた平和ボケの観点で、坂本龍馬を描こうとするから、こんなお粗末な仕儀になってしまうのでしょうね。

坂本龍馬をもう一度、「尊皇」という視点から光を当てるべきだというのが私の思いであります。

再拝


坂本龍馬は「救国の志士」 (3359)
日時:2011年07月15日 (金) 09時00分
名前:伝統

”破邪顕正 さま” ありがとうございます。

>やはり「尊皇精神」を欠かしてはならないと

>如何にして、我が国を欧米列強から護ることができるか?
>その一念で疾風の如く時代を駆け抜けたのが坂本龍馬であったのです。


”破邪顕正 さま”のお話のとおり、坂本龍馬は「尊王精神」に溢れた志士でした。

しかし、注目すべきことは、幕末の志士の多くも「尊王精神」を持っておられましたが、
坂本龍馬は、すでに世界を観て、日本のあるべき道を考えております。

坂本龍馬は、「尊皇攘夷」では、列強のひしめく世界では、日本が生き残れないことを
見抜いており、いかにして国力を増やし、世界の中で日本を生き残れるようにするかを
考え抜き、提言をしております。

多くの幕末の志士たちが唱えた「尊皇攘夷」のままであったなら、
明治以降の日本は列強の植民地と化していたでありましょう。

それを防ぐために多くの力を発揮したのが坂本龍馬でありました。
護国の英霊の働きもあり、「尊王開国」へと維新が実行されていきました。

そういう意味で、坂本龍馬は、日本救国の志士であります。

その辺のところを、次回以降紹介して参りたいと思っております。

         <平成23年7月15日 記>

ジョン万次郎から学ぶ (3391)
日時:2011年07月17日 (日) 06時40分
名前:伝統

〜ジョン万次郎の語ったアメリカ

  アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻ってきたジョン万次郎について、
  坂本龍馬が初めて知ったのは嘉永5年(1852)年の末頃であったと言われている。

  友人に勧められて、河田小龍へ、万次郎によってもたらされた話を聞きに行ったのである。
  龍馬18歳の時であった。

  万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)という町には何百隻もの
  巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の砲台には大砲が20門ほど置かれている。

  大きなものは口径8寸(24センチ)もある。
  お城の石垣程度のものなら、弾丸一発で打ち砕いてしまう。
  蔵にはその砲弾を何千発とも知れないほど収めているという。

  軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。
  1隻に500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1500人も乗り込むそうである。

  龍馬はさらに航海の術について尋ねた。

  万次郎は、アメリカで一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、
  地図とオクタント(六分儀)と磁石さえあれば、
  陸の影も見えない大洋に船を乗り出しても迷わないという。

  龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。
  胸が躍ってならなかった。

  ジョン万次郎がもたらした話で、坂本龍馬は、世界へと目が向いていくことになります。

                  <平成23年7月17日 記>

黒船来航 (3430)
日時:2011年07月18日 (月) 21時01分
名前:伝統


今回は、坂本龍馬19歳時の時代背景を知るために、次の動画を紹介致します。

"日本人のスピリッツ" 
  →  http://www.youtube.com/watch?v=Z6-FS6Q8Q30&feature=related


明朝は、坂本龍馬が19歳時、江戸滞在でのエピソードへとつなげていく予定です。

              <平成23年7月18日 記>

江戸での剣術修行 (3436)
日時:2011年07月19日 (火) 07時07分
名前:伝統

(1)黒船来る

  嘉永6(1853)年、龍馬(龍馬19歳)は剣術修行のために江戸に出た。
  江戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。

  ジョン万次郎の語ったアメリカの軍艦を直接目にすることになったのである。

  旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、
  数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見える。
  そんな黒船が4隻も現れた。

  龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、土手を築き、垣を結んだ。
  やがて幕府がペリーから受け取ったアメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。


  蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡って
  18日間で日本に達することができる。

  カリフォルニアは毎年金6千万ドルを産し、
  日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。

  また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、食料を
  補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結びたいというのだ。


  日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、
  黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵を驚かせた。

  アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含む領地のおおかたをとって
  しまったが、その理由はメキシコがアメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めた
  ためであるという。


(2)「外国と通商することがなぜいけないのか」

  龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山は、こう主張していた。


    今戦えば我らに勝ち目はない。
    ひとたび敗れたときは皇国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

    江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を捕らえ、
    米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は10日ももたない。
    廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶことは不可能である、と言う。


  確かにそのとおりであると龍馬は思った。

  今はアメリカの要求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、
  国防力を充実させるのが、日本の生きのびる道である。

  一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、
  アメリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。


    カリフォルニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を
    仕掛けることもあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。

    軍艦を何十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを
    分けて貰うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。


  龍馬はこれもまたその通りだと思った。

  龍馬が幼い頃によく遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを
  運ぶ千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。


  外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。

         <平成23年7月19日 記>

「自由な大海に漕ぎ出したい」  (3496)
日時:2011年07月21日 (木) 06時51分
名前:伝統


  およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、
  安政元(1854)年(龍馬20歳)6月下旬のことであった。

  翌年正月に龍馬は河田小龍を訪れた。
  河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、聞き書きを行なっていた人物である。

  河田は「このような非常のときに一つの商業を興してはどうじゃ」と龍馬に薦めた。
  そして万次郎から聞いた話をもとに、こう語った。


    アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、
    株仲間のような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。

    お前(ま)んらぁがそこのところを工夫して、
    株仲間を何とかしてこしらえて一隻の蒸気船を買うてみい。

    同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産物を運んだら、
    蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の給金を払うことができるろうが。

    そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身につくというもんぜよ。
    盗人を捕まえて縄をなうというような有り様で始めても、一日でも早う蒸気船の
    運用を始めざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。


  小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、
  高度な蒸気船を動かせる秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。


    日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃせん。

    志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。
    そがな下等人民の秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。
    働かせりゃ工夫するぜよ。


  大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な世界であった。

  龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。

              <平成23年7月21日 記>

坂本龍馬の生い立ち  (3562)
日時:2011年07月24日 (日) 08時42分
名前:伝統


(1)坂本龍馬は天保6年(1835年)11月15日、
   高知城下本丁筋1丁目(現在高知市上町1丁目)に生まれました。

(2)実家は豪商「才谷屋」。 しかし、身分は「武士」です。

   それで龍馬は、武士でありながら経済的視点から物事をみることができたのです。

(3)しかし、武士とはいえ、当時の土佐藩には、二つの階級がありました。

   すなわち上士と下士です。
   龍馬は、身分の低いほうの下士の中で、郷士でした。

   *参考Web:郷士の差別
     http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/other/post-111.php

(4)そして、土佐藩には当時、厳しい身分差別があった。

   *参考Web:土佐藩の階級制度
    http://www.ryoma-den.com/shiryou/seido.html

   龍馬は差別を受ける立場にあったため、「弱者」の気持ちがよくわかりました。
   それが将来、「自由」「平等」を求める思想につながっていきます。

(5)嘉永5年(1852)年の末頃、ジョン万次郎に会い、アメリカを知る(龍馬18歳)。

(6)嘉永6(1853)年3月、龍馬(龍馬19歳)は江戸へ剣術修行に行くことを許されました。
   そのわずか3ヶ月後、ペリーが黒船艦隊を率いて浦賀に来航。

   日本中が大騒ぎになります。

   翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーが再び来航。
   圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。
   200年以上つづいた鎖国体制は崩壊にむかいます。

   龍馬は、この歴史的事件のときも、江戸にいました。

(6)この歴史的事件で、
   いまだ幕府体制は強固に見えましたが、
   異国にあっさり屈した幕府への不満は高まっていきます。


   <その他の社会背景として>

   *嘉永7年4月には、京都の大火で、皇居が炎上。
    http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2010/04/post_806.html

   *安政東海地震
    嘉永7年11月4日(1854年12月23日)

    安政南海地震・・・安政東海地震の32時間後に発生。


    嘉永7年11月27日 元号を嘉永から安政へ改号。

   *安政江戸地震
    翌安政2年10月2日(1855年11月11日)発生。


(7)「尊王攘夷」 沸騰

  @「天皇陛下を尊び、外国人を追い払え!」
   日本全国でこの運動が活発になっていきました。

  A土佐でも、龍馬の親友・武市半平太を中心に
   文久元年(1861年)「土佐勤皇党」が結成されます。

   龍馬も参加しました。(龍馬26歳)

   しかし、龍馬は「尊王攘夷」運動に、大きな疑問を抱いていました。
   それは、「サムライの刀では、黒船を持つ異国には勝てんぜよ!」という疑問。

   「日本を命がけで守るという志はよい。
   しかし、どうせやるからには、勝たなきゃ意味がないぜよ・・・」

(8)勤皇党結成の翌年 文久2年(1862年)(龍馬27歳)、
   龍馬は道を求めて土佐を脱藩します。

              <平成23年7月24日 記>

坂本龍馬と武市半平太の違い (3575)
日時:2011年07月25日 (月) 08時44分
名前:伝統

(1)「日本を守りたい!」という強烈な情熱をもちながら、志半ばで倒れた 武市半平太、

   「薩長同盟」「大政奉還」をなしとげ、日本の新時代を切り開いた 坂本龍馬、


(2)現実主義と理想主義 〜幕府の立場・半平太の立場

  @嘉永6(1853)年、ペリーの黒船艦隊がやってきました。
   さらに、翌嘉永7年1月(1854年2月)、ペリーが再び来航。
   圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。

   幕府は、アメリカの武力をおそれ、鎖国をとき、開国しました。

  A「なんだ!幕府は外国のいいなりか!」
   全国で外国人追放を目指す「攘夷運動」が盛り上がっていきます。

   これは仕方ないのです。
   なぜなら、欧米列強は、世界を植民地にしていたのですから。
   ほっておいたら、日本だって植民地化されてしまいます。

  Bその攘夷運動は、「幕府はダメだ!これからは京のミカドを中心に」と
   いう「尊王」運動とセットになっていきました。

   それで、「尊王攘夷」運動というのです。

  Cさて、坂本龍馬の親友・武市半平太は、土佐藩・攘夷派の中心になっていました。
   天皇陛下の使いとして江戸にのぼり、幕府に「攘夷決行を急ぐように」と催促します。

  Dこれに対し幕府の本音は、
   「攘夷を決行すれば欧米と戦になる。 戦になれば日本に勝ち目はない・・・」
   というものでした。

   日本の軍事力は当時、欧米列強に劣っていました。
   そもそも黒船がない。

   幕府の判断は「現実主義的」といえるでしょう。

  E幕府の煮え切らない態度に激怒した半平太は、軍艦操練所の代表・勝海舟のところに行きます。
   勝海舟は、地球儀を見せながら、イギリスやアメリカがいかに強大かを説明しようとします。

   半平太は、勝をさえぎり言います。
   「相手が誰やち、神州・日本の土を汚す者は許しませんき」

   つまり、「相手がアメリカだろうがイギリスだろうが、外国人がくると
   神の国日本の土が汚れるので許さない!」といっている。

   半平太の頭には、「勝てるだろうか?」「負けるだろうか?」という計算がいっさいない。

   真正の「理想主義者だった」といえるでしょう。

(3)坂本龍馬の洞察力

  @幕府は現実主義、半平太=理想主義。

  A坂本龍馬は、理想を目指す現実主義者でした。

   幕府の現実主義でも、半平太の理想主義でも、その先には、欧米列強の植民地化は
   避けられないことを、龍馬は感じ、道を求めて脱藩へとつながりました。

              <平成23年7月25日 記>

志〜龍馬脱藩の道 (3583)
日時:2011年07月26日 (火) 04時25分
名前:伝統

志を立ててわが道を進むとき、超えなければならない壁が待っています。
まず、自分の考えをまわりの人間が理解してくれるかどうかであります。

なるべく、波風立てずにすんなりとスタートを切りたいものだが、反対されるケースも多い。

そのときに、理解してもらえるまで根気よく話し合うことができるか。
話は平行線をたどり、しまいには強引に突き進むこともあるだろう。


坂本龍馬はじめ幕末の志士たちも、志を立て、ある者は家族を棄て、ある者は国を棄てて
東奔西走するが、身分的には脱藩者で、一介の浪人に過ぎなかったのです。

しかし、浪人の自由な発想と広い視野によって、世の中は維新されていったのでした。



今回は、坂本龍馬27歳時の脱藩に関する次の動画を紹介致します。

”坂本龍馬のスピリッツ” 
 → http://www.youtube.com/watch?v=z35fvZkxYcg
 
(文久2年<1862年>3月、坂本龍馬<27歳>、土佐藩脱藩)

次回以降は、坂本龍馬の脱藩以降の活躍のエピソードへとつなげていく予定です。

              <平成23年7月26日 記>

坂本龍馬と勝海舟 (3603)
日時:2011年07月27日 (水) 07時55分
名前:伝統



(1)脱藩後、長州を経て、九州諸国を巡り薩摩を目指したが、薩摩藩への入国が
   かなわず、そのため、京都を経て、江戸へと向かった。(江戸には8月着)

   京都から江戸への途中で路銀が尽きてしまい刀の柄頭を売って旅費を工面した。
   柄頭は刀の柄を押さえている金具で、刀装具のひとつである。
   これを売ってしまったために柄を手ぬぐいで巻いて江戸まで旅をしたという。

(2)坂本龍馬、勝海舟を斬りに行く

   文久2年(1862年)10月、坂本龍馬は桶町千葉道場師範代で友人でもある千葉重太郎を
   連れ、赤坂氷川にある軍艦奉行並勝海舟の屋敷を訪問した。

   海舟はもとは低禄の幕臣であったが、黒船来港後に海防意見書を提出したことをきっかけに
   頭角をあらわし、この閏8月に軍艦奉行並にまでのぼった傑物であった。

   2年前の万延元年(1860年)には、遣米使節の一員として咸臨丸で太平洋を横断し
   アメリカに渡ったことのある時代の先覚者であった。

   海外情勢を実地に見聞してきた海舟は単純な攘夷論を強く批判し、欧米列強に対抗するため
   には海軍創設と開国が必要であると説いていたので、龍馬は西洋に心酔する奸物だから
   議論を吹っかけて、場合によっては、斬ってしまおうと考えていたのであった。

(3)勝海舟、龍馬らと会う

   2人が会談を申し込むと家人に奥の部屋へと案内され、海舟と対面を果たした。
   この時、海舟40歳。

   海舟は龍馬たちを見ると開口一番、
   「そなたら、俺を斬りに来たのだろう。隠してもわかる。顔に殺気がみえる」
   といきなり図星をついた。

   龍馬が驚いて沈黙していると、海舟は世界情勢と攘夷論の愚かしさを説明し、
   海軍の創設とその費用を生み出す貿易の必要性を論じた。

(4)海舟と龍馬の問答

   龍馬は勝に質問します。
   龍馬「勝様は、日本が戦になったら勝てるとお思いですろうか?」

   龍馬は、勝海舟が半平太のような「非現実的理想主義者」かどうかはかったのです。

   これに対し勝は、
   勝「思わねえ。異人には勝てねえ」 と答えます。

   とりあえず、「非現実的理想主義者」ではないことがわかりました。


   龍馬はさらに聞きます。
   龍馬「そんなら、日本は異国の属国になっても仕方がないと」

   龍馬は、勝が「敗北的現実主義者」なのか聞いたのです。

   勝は、
   「冗談じゃあねえ、奴ら(異人)の勝手にはさせねえ」 と答えます。


   勝海舟は、大部分の幕府のお偉いさんとは違い、
   「日本の『属国化』を容認しないだけの「気概」はあるらしい。

   
   龍馬はさらに聞きます。
   龍馬「ほんなら、どうしたらええとお思いですろうか?」

   実は、龍馬自身もこの質問の答えがわかっていなかった。
   彼の長年の煩悶は、ここにあったのです。

   龍馬は、「刀では黒船に勝てんぜよ」と思っていた。
   しかし、「ではどうすれば日本を異国の侵略から守ることができるか?」
   という現実的方策が見当たらなかった。

   勝はすぐ答えを与えず、龍馬に問いかけます。
   勝「おまえさん、どう思うね?」


   ここから、勝と龍馬の長い問答がはじまります。
   勝は、自分で答えを出して欲しかった。

   龍馬「日本は島国ですろう。四方を海に囲まれちゅう。
   異人らは海から来るわけですき、やっぱり一番大事なのは軍艦ですろう。
   強い海軍が必要ですろう」

   勝「ほんじゃあ、海軍をもってどうするね?」

   龍馬「今日本が異国のいいなりになっちょるがは、戦をしたち、
   負けることがわかっちゅうからじゃ。

   けんど海軍が、強い海軍があれば、誰ちゃあに負けん剣の腕があれば、戦にはならんぜよ。
   そうじゃ、日本はもう開国しちゅうき、異国の技術を学んで、どんどんどんどん日本の軍艦
   をつくったらええがじゃ。

   ほんで、他のもんもどんどんどんどん取り入れて、異国にはりあえるほどの、
   文明を手に入れることができたら・・・。日本は安泰となるがじゃ。
   そうじゃ、戦をせんでも、攘夷をなしとげることができるがじゃ!」


   龍馬開眼の瞬間でした。

   勝と龍馬、この二人の出会いが日本の歴史を変えていきます。

   この二人の出会いにより、日本は欧米列強の植民地になることを防ぐことができたのです。

(5)海舟に心服し、弟子入り

   龍馬は海舟の話を聞いているうちに見識の広さ、人物の大きさに感服し、

   「実はお察しのように場合によっては先生を討ち果たすつもりでしたが、
   ただいま先生のご高説をうけたまわり、自分の未熟を恥じています。
   願わくば今日から先生の弟子にして下さい」 と切望した。

   海舟はこれを快諾し、弟子入りを認めた。
   この日を境に龍馬は日夜、屋敷の外に立って刺客を警戒し、海舟の身辺警護につとめて
   いたという。

   後年、海舟はこの時の様子を「坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、
   なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていて、なんとなく
   冒しがたい威厳があって、よい男だったよ」(『氷川清話』)と回想している。

              <平成23年7月27日 記>

肝胆相照らす(龍馬・海舟) (3630)
日時:2011年07月29日 (金) 08時53分
名前:伝統


(1)海舟は山内容堂に取り成して、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、
   さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認もした。


   <脱藩の赦免>

   文久3年(1863年)1月13日、勝海舟をのせた順動丸は兵庫を出港して江戸に向かう途上、
   伊豆下田港に寄港した。海舟は上京の途にある前土佐藩主山内容堂がこの伊豆に滞在して
   いることを知り、16日に容堂をたずねて龍馬脱藩の赦免を求めた。

   容堂はこれを承諾したが、酒席の場であったため海舟は念のため後日の証拠となるものが
   欲しいと希望した。容堂は笑って一本の扇を開くとそこにひょうたんの絵を描き、
   その中に「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と書き入れて海舟に手渡した。

   また、政治総裁職をつとめていた松平春嶽も龍馬が脱藩罪を追われる身であることを案じ、
   同月25日に上京した容堂のもとを訪れ、龍馬の赦免を要請した。

   これは前年(1862年)12月5日、龍馬が間崎哲馬・近藤長次郎と共に江戸越前藩邸に
   春嶽をたずね海防策を具申した際、春嶽は龍馬の人物を気に入り、帰藩の口添えを約束
   してくれたからであった。

   容堂はただちに藩庁の者に命じて龍馬の脱藩赦免の手続きをとらせた。
   こうして文久3年(1863年)2月、龍馬は京都土佐藩邸に7日間の謹慎を命じられ、
   25日に「御叱りの上別儀なくこれを仰せつける」と赦免された。

   謹慎の間、龍馬は帰藩に周旋した同志の望月清平らに「君らが呼び戻したから、
   俺はこんな窮屈な目にあっている」と愚痴をこぼしていた。

   そして3月6日には安岡金馬と共に藩から航海修行を命じられ、勝海舟のもとで正式に
   海軍術の伝習を始めることになった。


(2)龍馬は勝海舟から航海術・運用術・機関術・算術など海軍技術の原則を学ぶと共に、
   海防に必要な軍艦・乗組員の数、軍艦の維持にかかる費用は海外貿易と関税による
   収益でまかない、人員は諸藩から石高に応じて供出させるといった具体的な海軍構想に
   ついても学んでいた。


(3)さらに海舟は幕臣でありながらその立場を超え、
   「この危機の時代にあっては、朝廷、幕府や雄藩といった狭い国家論ではなく、
   一段上の日本という国家論を考えよ」と教えていた。


(4)日本第一の人物

   龍馬は勝海舟を深く敬愛し、故郷の姉乙女に宛てた手紙の中で「日本第一の人物」
   と紹介している。


   『文久三年三月二十日 坂本乙女宛』

   扨も扨も人間の一世ハがてんの行ぬハ元よりの事、
   うんのわるいものハふろよりいでんとして、 をつめわりて死ぬるものもあり。

   夫とくらべてハ私などハ、うんがつよくなにほど死ぬるバへででもしなれず、
   じぶんでしのふと思ふても又いきねバならん事ニなり、今にてハ
   日本第一の人物勝憐太郎殿という人にでしになり、
   日々兼而思付所をせいといたしおり申候。

   其故に私年四十歳にるころまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて、
   あにさんにもそふだんいたし候所、このごろハおおきに御きげんよろしくなり、
   そのおゆるしがいで申候。

   国のため天下のためちからおつくしおり申候。
   どふぞおんよろこびねがいあげ、かしこ。

    三月廿日
     龍
     乙様

              <平成23年7月29日 記>

龍馬開眼 (3647)
日時:2011年07月30日 (土) 06時55分
名前:伝統


(1)当時「脱藩」は重罪。
   未来の英雄は、国を守るために「犯罪者」になる道を選んだのです。

(2)1862年秋、龍馬の人生に大きな転機が訪れました。
   それは、幕府の大物、勝海舟と知り合ったことです。

(3)勝海舟は1860年、ジョン万次郎や福沢諭吉などと共に、
   咸臨丸でアメリカを視察しています。
   そして、幕府の中枢にいたことから、世界情勢にも精通していました。

   勝は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地となっている状況を龍馬に話します。

   そして、欧米列強に対抗するためには、開国し、貿易により富を蓄積すること。
   その上で、どんどん黒船を購入(あるいは生産)し、
   欧米に対抗できる海軍をつくることが必要だと説きます。

(4)一文無しの脱藩浪人・坂本龍馬は、勝海舟との出会いで開眼したのです。

   龍馬の「非現実的・尊王攘夷運動」への疑問が、す〜と解決されました。

   「日本の独立を守る」夢にむかって進む龍馬。
   龍馬は勝に弟子入りし、海軍づくりに奔走します。

(5)当時、

  @現実主義者の幕府は、「異国には勝てんから服従するしかない」と考えていた。
   (そして、そうした)

  A多くの志士は、理想主義者の半平太ように、「神州日本を汚す異人は許せんぜよ!」と
   勝てる見込みのない戦にすすんでいった。

(6)勝と龍馬のアプローチは、これらすべてと違います。

  @異国と戦をしたら勝てんぜよ。

  Aなぜ勝てんかというと、異国には黒船があり、日本には黒船がない。

  Bそれなら、日本もじゃんじゃん黒船をつくり、海軍をつくればいいぜよ。

  C日本が強くなれば、異国は日本を侵略できなくなるぜよ。


   異国には「今は勝てない」という「現実」を受け入れ、「ではどうするか?」
   と考えて行動していったのです。

   現実主義者としてあきらめ従属するのではなく、
   理想主義者として猪突猛進で討死するのではなく、

   理想を目指しつつ、現実主義者になって、着実に行動していったのです。

              <平成23年7月30日 記>

神戸海軍塾と湊川神社 (3658)
日時:2011年07月31日 (日) 04時54分
名前:伝統


神戸海軍操練所

(1)文久3年(1863年)、黒船の襲来以降、海岸防備の必要が高まっていた大坂湾沿岸に、
   将軍徳川家茂が海軍奉行並の勝海舟を伴い、視察にやって来ました。

   咸臨丸の艦長として渡米した海舟は、家茂に海軍の必要性を説き、
   船が上陸した神戸村の小野浜に海軍操練所の建設の許可を得ました。

(2)1864年(元治1年)5月に、完成した海軍操練所は海軍兵学校・機関学校・造船所を
   備えた敷地約1.7万坪の大規模なもので、幕臣たちが学ぶ場でした。

(3)これに隣接して諸藩の青年を集めた「神戸海軍塾」(勝塾)が設けられ、
   その塾頭が坂本龍馬(29歳)でした。(1863年10月、「神戸海軍塾」が設立)

   1864年5月から反幕府派の藩も含め、全国から生徒を募集し約200人がここで
   学びました。

(4)しかし、前年8月18日の政変で失脚した長州藩が京都へ進攻した禁門の変の後、
   勝は軍艦奉行を罷免される。

   龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。(龍馬30歳)

   さらに土佐脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、
   幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌年1865年に閉鎖された。

・・・・

湊川神社と坂本龍馬
   
(1)湊川神社は楠木正成を祭った神社で、神戸では「楠公さん」と呼ばれて親しまれている。
   龍馬が生きた時代、正成が後醍醐天皇に忠誠を尽した話は、正成と同じく天皇中心の
   政治を志した勤王志士たちの注目を集めていた。

   多くの勤王志士たちが正成の墓碑を訪れ、天皇への忠節を誓ったと言われている。

(2)龍馬も海軍操練所から徒歩で30分程のこの神社を訪れたようで、「湊川にて」と題した
   この和歌を詠んだ。

   湊川にて
     月と日の むかしをしのぶ 湊川 流れて清き 菊の下水

   (大意)

    湊川にいると、日月の紋章がはためいていた時代がしのばれる。
    月日はながれても菊水の故事のごとく常しえに清い楠木正成の忠誠心よ。

    *月と日
     正成生きた当時、日月紋が天皇家の紋として使用されていた。
     年月・歳月・光陰を意味すると同時に、
     日月の紋章をもつ官軍の象徴「錦の御旗」を暗示する。

    *菊の紋章
     古くは「日月紋」が皇室の紋章でしたが、現在では、御大喪や即位礼で
     日像纛旛(にっしょうとうばん)、月像纛旛(げっしょうとうばん)と呼ばれる幟に
     用いるくらいで、皇室の紋という意識は薄れています。

     今では、天皇の紋章としては菊花紋となっております。
     これは、鎌倉時代(初期)に後鳥羽上皇が好んで菊花紋を用いられ、
     それが後代の天皇に引き継がれたために皇室の紋章として定着していきました。

    *菊の下水
     菊水は、我が国古典でも長命や長寿をもたらす延命水を意味すると共に、
     楠木家の家紋を暗示する。
     後醍醐天皇から菊紋の使用をゆるされた楠木正成は、
     そのままでは畏れおおいとして菊水紋を用いた。


   <参考スレッド:坂本龍馬と楠木正成 (2733)>
     http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=532

              <平成23年7月31日 記>

倒幕運動 (3678)
日時:2011年08月01日 (月) 07時32分
名前:伝統


(1)海軍塾はわずか2年で閉鎖されてしまいました。
   理由は、海軍塾の中に、反幕府運動に参加している塾生が多くいたこと。

   龍馬は、ふたたび「タダの脱藩浪人」に逆戻り。

(2)このため、勝海舟と坂本龍馬は、これより先、別々の行動へと移っていきます。

   しかし、龍馬は勝の紹介で、薩摩の大物・西郷隆盛と知り合いになっていました。

(3)西郷隆盛曰く

   「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、
   未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

(4)龍馬は、西郷を説得し、主に薩摩藩の出資で、日本初の株式会社といわれる亀山社中
   (後の海援隊)を設立します。

   そして、亀山社中を通し、長州藩に最新兵器を手配します。
   このことが、後(1866年6月)の幕府軍により第二次長州征伐での勝敗を長州藩に
   もたらすことにつながります。

(5)さらに、土佐脱藩・中岡慎太郎と共に、薩摩藩と長州藩を同盟させるべく奔走し、
   1866年1月、薩長同盟が成立。

   時代は倒幕にむけて大きく前進します。

(6)第二次長州征伐で、幕府軍が敗れ、長州が勝利したことにより、
   幕府の権威は完全に失墜してしまいました。

   薩摩と長州は、念願の「武力倒幕」にむけて準備を開始します。

   しかし、龍馬は「武力倒幕」に反対でした。

(7)龍馬も「倒幕」には大賛成。
   しかし、幕府と薩長軍の全面戦争になればどうなるかと考えてます。

  @300の藩は、幕府につくか薩長につくか決断を迫られる。

   日本全国が「幕府軍」と「薩長軍」にわかれ、日本史上空前絶後の
   大内戦に突入することでしょう。

   戦争は長期にわたり、幕府軍も薩長軍も疲弊する。
   日本は国力を落とし、衰退していきます。


  Aそれを喜ぶのは誰か?
   そう、日本植民地化を狙うイギリスとフランスです。

   当時、フランスは幕府を、イギリスは薩長を支援していました。
   しかし、支援していたのは「善意」や「愛」からではありません。
   英仏は当然、日本も植民地にしようと狙っていたのです。
   

  B龍馬は考えます。

   「大規模な内戦になれば、日本は衰退する。
   衰退すれば、日本はイギリスかフランスの植民地になる。

   だから内戦はいかんぜよ。

   どうすれば内戦を回避できる?

   今、実権は徳川家がもっているが、それは天皇陛下から統治を委任されたからじゃ。

   徳川家が天皇陛下に政権(大政)をかえして(奉還)しまえば、薩長には、
   戦う相手がいなくなるぜよ。

   すると、内戦は起こらず、日本の独立は保たれる」

(8)龍馬は、土佐藩の幹部・後藤象二郎にこの案を伝えます。
   土佐藩は当時、薩長に後れをとっていることに危機感をもっていたのです。

  @後藤は、藩主・山内豊範を通じ、徳川慶喜に「大政奉還の建白書」を提出。
   (1867年10月3日)

  A10月15日、大政奉還が実現しました。

  Bこれにより、大規模な内戦は回避され、日本は独立を保つことができたのです。

              <平成23年8月1日 記>

大政奉還への流れ (3689)
日時:2011年08月01日 (月) 22時26分
名前:伝統


今回は、大政奉還への流れなどを理解するために、次の動画を紹介致します。

大政奉還〜龍馬暗殺.flv
http://www.youtube.com/watch?v=5yLxi49kyqg&feature=related


次回以降は、坂本龍馬の夢、”おりょう”との新婚旅行、そして暗殺までのエピソードへと
つなげていく予定です。

              <平成23年8月1日 記>

龍馬の夢 (3692)
日時:2011年08月02日 (火) 06時27分
名前:伝統

(1)日本の独立を守る。

  @黒船艦隊をつくれば日本の独立を守れると思ったので、海軍塾つくりに奔走した。
  Aフランスの影響下にあった幕府では日本の独立は守れないと判断したため、
   薩長同盟をすすめた。
  B大規模な内戦になると日本は衰退し、独立は守れないと判断したため、大政奉還をすすめた。

(2)世界の海援隊で、国際貿易に力を尽くす。


・・・

   龍馬の夢は「日本の独立を守ること」だけではありませんでした。
   日本を「自由で平等な国」にしたかったのです。

   龍馬の夢は、1867年6月の「船中八策」に記されています。 (龍馬33歳)


「船中八策」

(1)一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事

   (意味=大政奉還します)

(2)二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事

   (意味=議会政治を行います)

(3)三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、
      官ヲ除クベキ事

   (意味=身分にかかわらず、実力主義にします)

(4)四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事

   (意味=外国との交流を進めます。不平等条約を改定します)

(5)五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事

   (意味=新しい憲法を制定します)

(6)六策 海軍宜シク拡張スベキ事

   (意味=海軍力を増強します)

(7)七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事

   (意味=御親兵を設置します)

(8)八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

   (意味=金銀の交換レートを変更します)


   特に二策、三策については、龍馬の強い思いが反映されています。

   それは、

  @土佐藩の中で、下士という身分で虐げられた龍馬。
   「士農工商」の身分制度を撤廃し、万民平等の日本をつくりたかった。
   誰でもがんばって実力をつけた人が報われる日本にしたかったのです。

  A当時の日本には移動の自由がなかった。
   龍馬は、誰でも日本国内ばかりでなく、外国まで自由に行ける国がつくりたかった。



   この「船中八策」は、儒学者・横井小楠の『国是七条』を原案としたもので、
   後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となりました。

    *参考Web:http://www8.ocn.ne.jp/~s-yokoi/2.bakumatsu/kokuze7kara.htm

              <平成23年8月2日 記>

坂本龍馬と小松帯刀  (3703)
日時:2011年08月03日 (水) 04時19分
名前:伝統


(1)坂本龍馬の貿易商社「亀山社中」

  @薩摩藩家老の小松帯刀の支援を受けて、国際貿易に乗り出したのが、坂本龍馬だった。
   龍馬が帯刀と会ったのは、元治元(1864)年だった。

   幕府海軍奉行・勝海舟が運営していた神戸軍艦操練所が、尊王攘夷派との関わりで
   閉鎖され、行き場を失った坂本龍馬以下約30名は、海舟から西郷隆盛に依頼して、
   大坂の薩摩屋敷に匿われることになった。

  Aここで龍馬は帯刀に初めて会った翌慶応元(1865)年4月、
   帯刀は龍馬らを薩摩に連れて行った。 (龍馬30歳)

   様々な近代工場が稼働し、また広範囲の貿易を行っている様子は、
   これこそ富国強兵・殖産興業の策と、龍馬を興奮させただろう。

  B6月には帯刀は長崎の亀山に家を借り、龍馬らに海運業を営む会社を起こさせた。
   これが日本最初の株式会社「亀山社中」、後の海援隊(慶応3年<1867年>)である。

  C亀山社中は、貿易商社として活動した。
   薩摩藩が資金を出し、亀山社中の社員が薩摩藩の交易船に乗り込み、
   西洋の銃器などを輸入して藩に卸したのである。

(2)武器斡旋をきっかけに薩長同盟成立

  @亀山社中結成の一月前に、龍馬は長州に赴いて、薩長連合のための遊説を行なった。
   もちろん帯刀との相談の上でのことで、
   浪人という自由な身分は、こうした動きに好都合だった。

  A龍馬の遊説を受けて、7月21日、長州の伊藤俊介(後の伊藤博文)と井上聞多が
   亀山社中の上杉宗次郎を訪ねてきて、
   「武器や艦船を買いたいが、長州名義では購入できないので薩摩の名義を貸してほしい」
   と依頼した。

   当時、幕府は第二次長州征伐を決定しており、長州はその備えとして近代兵器を
   必要としていたが、外国の商人は幕府の圧力を受けて、長州藩には武器を売って
   くれなかったのである。

  B上杉宗次郎は二人を長崎の薩摩屋敷に連れて行き、帯刀と会わせた。
   帯刀は即座に承知して、グラバーと交渉し、銃4千3百挺を薩摩名義で購入して、
   下関に届けさせた。

   10月には、再び、長州側から艦船を薩摩名義で買って欲しい、という依頼が
   寄せられ、それも帯刀は承知して、実行した。

   こうした武器の斡旋により、薩摩と長州の関係が深まっていった。
   そして、その商取引の仲介をしたのが、亀山社中だった。

  C慶応2(1866)年、龍馬に説得された桂小五郎が京都に赴き、
   薩摩屋敷で帯刀、西郷、大久保らと会って、薩長同盟が成立した。 (龍馬32歳)

   龍馬自身は維新が終われば、いずれ上海、広東、ルソンなどに行き来して、
   国際貿易に従事したいと考えていたが、それを実現することなく、
   慶応3(1867)年11月、京都で何者かに暗殺されてしまった。 (龍馬33歳)

  D小松帯刀も維新後、新政府で要職を歴任し、手腕を発揮したが、
   明治2(1869)年に病気で引退し、翌年世を去った。享年36歳。

   帯刀と龍馬が長生きしていたら、明治日本の国際貿易はどれほど発展して
   いただろうか、と惜しまれている。

              <平成23年8月3日 記>

明治維新の前に日本各地で巨大震災があった! (3707)
日時:2011年08月03日 (水) 09時32分
名前:語る人

江戸幕府を打倒した明治維新もその前に安政大震災 安政東海大震災 安政南海大震災と巨大震災が日本各地を襲い多くの人命や損壊に明け暮れた時代でもあったのです。

おそらく当時も幕府の対応は後手後手で被害は拡大し人心の不安や不満は鬱積した状況だったのでしょう。

東日本大震災はいまだ余震が続いており、学者の中には東海・南海地震を危惧する者もいます。

歴史は繰り返すといいますが明治維新ならぬ平成維新の世紀に世は動く可能性もあります。


”語る人 さま” ありがとうございます (3712)
日時:2011年08月03日 (水) 17時50分
名前:伝統

”語る人 さま” ありがとうございます。

>おそらく当時も幕府の対応は後手後手で被害は拡大し
>人心の不安や不満は鬱積した状況だったのでしょう。


 ”語る人 さま”のおっしゃる通りではないかと、以前、私も思っておりましたが、
 事実は、これらの天災対応では、幕府の危機管理はしっかりしていたようです。
 (大地震ですので、地震発生時には、人心の動揺は当然ありました)

 もう少し時間が経て、維新前夜になると、この幕府の危機管理が機能しなくなったようです。


  *安政東海・南海地震 1854年
   安政江戸地震    1855年


   大政奉還      1867年11月9日
   王政復古      1868年 1月3日
   明治元年      1868年 1月25日

 しかし、折角、”語る人 さま”から「危機管理」について、問題提起されましたので、
 別のスレッドを設け、当時の危機管理、そして今の政府の危機管理について、
 少し紹介していけれればと考えております。


>歴史は繰り返すといいますが明治維新ならぬ平成維新の世紀に世は動く可能性もあります。

 確かに、平成維新が必要になってくるのかも知れません。

 ただ、「陰極は陽転する」という言葉がありますが、今の世情をみていると、
 もう少し陰が極まってから、陽への転換へとつながっていくような気がいたします。

              <平成23年8月3日 記>

人災も天災も (3716)
日時:2011年08月03日 (水) 23時22分
名前:語る人

>安政東海・南海地震 1854年
   安政江戸地震    1855年


   大政奉還      1867年11月9日
   王政復古      1868年 1月3日
   明治元年      1868年 1月25日


その前に1853年にペリーの艦隊が浦賀へ襲来し開国を迫ってきましたね。人災と天災が一挙に押し寄せました。

今もその時代に似た状況で、金融・貿易の自由化 産業空洞化 TPPによる農産物の自由化とグローバル掲載は人心の不安と不満は広がるばかり。政治も乱れに乱れ。1000年に一度の大津波に史上最悪の集中豪雨と水害が収まりません。

環境と愛国の両面が求められる激動の時代です。坂本竜馬や西郷隆盛のような英雄が現れる土壌はできつつあると言えます。

日本で最初の新婚旅行へ (3725)
日時:2011年08月04日 (木) 08時14分
名前:伝統

”語る人 さま” ありがとうございます。

>金融・貿易の自由化 産業空洞化 TPPによる農産物の自由化と、人心の不安と不満は広がるばかり。
>政治も乱れに乱れ。1000年に一度の大津波に史上最悪の集中豪雨と水害が収まりません。

 素晴らしいですね。
 ”語る人 さま”の問題意識の高さが表現されております。



>環境と愛国の両面が求められる激動の時代です。

 本当にそうですね。
 世界金融資産家たちによる、まやかしの環境運動ではなく、
 神意に導かれた「環境への取り組み」が必要になっております。

 そして、真の人類光明化運動に沿った「大日本真理国家顕現」への愛国運動が
 重要になってきております。


>坂本竜馬や西郷隆盛のような英雄が現れる土壌はできつつあると言えます。

 ”語る人 さま”はもしかしたら、平成維新の志士の一人ではと、期待感が溢れております。
 是非、本流復活そして「大日本真理国家顕現」へ向けたご活躍を期待致しております。

・・・

 以下は、龍馬のエピソードの紹介へと戻ってまいりたいと思います。
 今回の、エピソードは、”語る人 さま”がお名前を出している、西郷隆盛が
 仲人をした、「龍馬とおりょう」の結婚と新婚旅行に関する話題です。

・・・

日本で最初の新婚旅行へ


 日本で最初に新婚旅行をしたのは、坂本龍馬だった。
 龍馬は、幕末の動乱の中を走り抜けた人物である。

 32歳の時に、京都で負傷し、薩摩藩邸にかくまわれた。

 この時、竜馬を献身的に看病した女性が”おりょう”である。
 けがを縁として、二人の愛が深まり、西郷隆盛が仲人となって結婚する。

 傷の療養を兼ねて、二人を、九州の塩浸温泉や霧島温泉へ旅立たせたのも、西郷であった。
 一ヶ月間のハネムーンであったという。 (龍馬32歳)


 旅行の途中で、霧島山に登っている。
 高千穂峰にある「天の逆鉾」を見に行ったのであった。
 『竜馬がゆく』の中で、司馬遼太郎は次のように描いている。


   この鉾は、神代、天孫降臨のときに神が手にもつ鉾を逆さまに突きたてた、
   と信じられているが、竜馬は勤王の志士のくせにそういう神話は頭から信じなかった。

   「霧島明神の社僧が、世に吹聴するためにこしらえたものだろう」といった。

   「からかね(唐金)にてこしらえたものなり」と、
   竜馬は乙女への手紙にもそれが人間の製造になるものであることを註釈している。

   「その形は」と、竜馬は手紙にわざわざ絵を入れ、
   「これはたしかに天狗の面なり」  と、自分の目でつぶさに観察しようとした。

   おりょうも、近づいてそれを見た。
   鉾のツカの両面をよくよく見ると、なるほど天狗の面が両面にある。

   神代に天狗などという想像の怪物が創作されていなかったであろう。


   竜馬は大よろこびをして、
   「おりょうよ、世間のすべてはこうだ、遠きに居るときは神秘めかしく見えるが、
   近づいてみればこのたぐいだ。将軍、大名のたぐいもこれとかわらない」


   高千穂峰へ道案内してくれた人が、
   「それを抜けば火が降ると昔からいわれている」
   と言って止めるのも聴かず、二人はとうとう、力を合わせて引き抜いてしまった。

   案外と短かったので、拍子抜けしたと、姉への手紙に書いている。

   「来てみれば さほどでもなし 富士の山」
   という歌があるように、遠くから見れば美しく、皆が褒め称えているものであっても、
   近くへ行って見るとガッカリすることがある。


 幕末の混乱の中で、龍馬は、将軍や大名、日本のあり方を冷静に見つめていた。

 権威や伝統を鵜呑みにせず、流行や周囲の考えにとらわれず、
 すべて自分の目で確かめてから行動しようとしていた。

 この精神があったからこそ、一介の素浪人に、
 日本の歴史を動かすような活躍ができたのであろう。


 *参考Web(動画) 坂本龍馬とおりょう
  http://www.youtube.com/watch?v=wqCnMW3AX4Y&feature=related

              <平成23年8月4日 記>

平成の英雄は男とは限らないのでは (3730)
日時:2011年08月04日 (木) 11時34分
名前:語る人

>”語る人 さま”はもしかしたら、平成維新の志士の一人ではと、期待感が溢れております。
 是非、本流復活そして「大日本真理国家顕現」へ向けたご活躍を期待致しております。


明治維新とは時代が少し違いますね、今の時代、男は逆に不自由です。「仕事が〜」とか「家族が〜」とか言い訳してしまう。

現代は女性の活躍がめざましいわけで、「桜井よしこ」さんのような方が大勢出れば日本を変えるかもしれません。



坂本龍馬、人生最後の1日&中岡慎太郎 (3741)
日時:2011年08月05日 (金) 08時31分
名前:伝統

”語る人 さま” ありがとうございます。

>今の時代、男は逆に不自由です。
>「桜井よしこ」さんのような方が大勢出れば日本を変えるかもしれません。

 そうですか、”語る人 さま”は男性でしたか。

 「桜井よしこ」さんは、本当に素晴らしい方ですね。
 多くの方々も尊敬致しておられます。
 
 そして、女性からも、男性からも、平成維新の志士が大勢出てもらいたいものです。

 さらに、もし”語る人 さま”がお若いのなら、否、若くなくても、
 谷口雅春先生の教えの薫陶を受けた方であれば、勇猛心をもって、
 本流復活そして「大日本真理国家顕現」へ向けたご活躍をお願いいたします。

・・・

 以下は、龍馬のエピソードの紹介へと戻ってまいりたいと思います。
 今回は、友を気遣いながら、死を迎えた、龍馬最後の1日についてのエピソードです。

・・・

坂本龍馬、人生最後の1日&中岡慎太郎


 その日の夜五ツ半。午後9時過ぎのこと。

 近江屋の2階の一室で数日来風邪気味だった坂本龍馬は
 同士の中岡慎太郎と話をしてました。

 龍馬は真綿の胴着をつけ、その上に舶来品である絹入れを着込み、
 さらに黒羽二重の羽織をつけて火鉢にあたっていました。

 そこに
 「十津川の者だが、坂本先生に御意を得たい」と訪ねてきた者がいた。

 下僕の藤吉が名刺を取り次いで階段をのぼる。
 帰ってきた藤吉は突然、斬りつけられ倒れた。


 そのとき2階にいた龍馬は、藤吉がたおれこんだ音を、
 店の前で若者が戯れてるものだと思い、

 「ホタエナ」と一言叱責したといいます。
 (ホタエナ、静かにしろの意味です)

 その直後です!

 突然、龍馬たちのいる部屋に
 七人の刺客が押し入り、慎太郎の後頭部を斬った。

 もう一人が、龍馬の額を横に払った。

 床の間に置いてあった刀を取ろうと振り返った時、
 龍馬は右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られる。

 それでも龍馬は刀をとって立ち上がり、
 刀を抜く暇がなかったので、三の太刀を鞘のまま受けた。


 この部屋の天井は斜めになっており低いので、
 龍馬の刀の鞘の末端が天井を突き破った。

 刺客の刀は龍馬の刀の鞘を削り、流れて、龍馬の額を斬った。

 最初の太刀によって、龍馬は
 脳漿(のうしょう)が白く噴き出すほどの深い傷をおった。


 堪えきれずに
 「石川、刀はないか。石川、刀はないか」と叫びながら倒れ
 た。(石川とは、中岡慎太郎の変名)

 慎太郎の刀は、屏風の後ろにあったが、それを取ることができず、
 短刀をもって立ち上がったが抜く暇がなく、斬りつけられた。


 剣客が立ち去った後、龍馬は正気に戻り、刀を抜いて燈火の前ににじりより、

 「残念、残念」と言った。

 さらに慎太郎を振り返り、
 「慎太、慎太、どうした、手が利くか」と聞いた。

 「手は利く」と慎太郎は答える。

 龍馬は次の六畳間へ行き、手すりのところから、
 「新助、医者を呼べ」と声を出した。

 「慎太、僕は脳をやられた。もうだめだ」とかすかな声で言って倒れ、

 龍馬は
 息絶えた。


 これが日本を変えた男
 坂本龍馬、人生最後の1日です。


 慎太郎はこの2日後に亡くなりました。


 脳漿が白く噴き出し
 自分自身がまさに息絶えようとしているときに、

 龍馬は……

 龍馬は……

 友達の慎太郎の身を案じていたのです。

  *「幕末武士道、若きサムライ達 」著(ダイヤモンド社)からの編集。
     <メルマガ「名言セラピー (090107)」より>

 *参考Web:龍馬暗殺!(ドキュメンタリー坂本龍馬 青春幕末群像より)
        http://www.youtube.com/watch?v=pw5-WXjAAlQ&feature=related
 

 *参考Web:中岡慎太郎伝
        http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/nakashin/nakashin.htm 

        笑顔を浮かべた写真は当時としては非常に珍しい。
        中岡慎太郎、普段から気さくな笑顔を絶やさなかった。

        他藩との会合の後も即座に立ち去る事はせず
        「お互いに大変だなぁ」と肩を叩いて労った。

        その人徳は厚く、「中岡は信用に足る」と評判で、
        明治維新、真の立役者は慎太郎であるという声も多い。

              <平成23年8月5日 記>

幕末の志士たちが評した「龍馬」 (3792)
日時:2011年08月08日 (月) 22時09分
名前:伝統


(1)板垣退助

   「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、
   恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と、とその早死を惜しんだ。

   桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり
   撰文は板垣が揮毫している。

   また高知の維新の代表である龍馬の銅像が無いのを惜しみ、
   親戚の彫刻家・本山白雲に依頼して桂浜に龍馬の銅像を建立した。

(2)住谷寅之介

   「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)

(3)平井収二郎

   「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」
                                (龍馬脱藩後)

(4)武市半平太

   「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)

   「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、
   ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)

(5)東久世通禧

   「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)

(6)勝海舟

   「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。
   その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があって
   よい男だったよ」(維新後)

(7)西郷隆盛

   「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、
   未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

(8)土方久元

   「その言行すこぶる意表に出で、時としては大いに馬鹿らしき事を演じたれど、
   また実に非凡の思想を有し、之を断行し得たり」

(9)三吉慎蔵

   「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、
   至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に
   事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」

(10)大江卓

   「坂本は広野の猛獣であった」

(11)関義臣

   「相手の話を黙って聴き、否とも応とも言わず、さんざん人にしゃべらせて
   おいた後で、「私の説は」とユーモアを交えて話し、自分が大笑いするという
   愛嬌家だった」

(12)陸奥宗光

   「その見識、議論の高さ、他人を説得する能力に関して彼の右に出る者はいない」

              <平成23年8月8日 記>

ジョン・万次郎 (3821)
日時:2011年08月10日 (水) 18時20分
名前:伝統


今回は、坂本龍馬の目を世界に向けさせた最初の日本人「ジョン・万次郎」についての
エピソードの紹介です。

・・・

天保12年(1841年)、 
14歳になった中濱万次郎(ナカハマ・マンジロウ)は漁師として初めて船に乗るのが許された。
(*この時、龍馬は、まだ 7歳)

土佐の宇佐浦(高知県)から出漁。その3日目、運命の大事件は起きる。

天気は急変し爆風雨に。

万次郎、ほか4名が乗った船は沖へ沖へと流された。
強風は翌日もその翌日も続き3日分の食料と飲料水が尽きた。
空腹と寒さの限界に耐えること7日目。

小さな島影を目にする。

万次郎たち5名はその島に上陸。砂浜に横たわり心から安堵した。
しかし、その島は八丈島よりさらに300キロも南に位置する絶海の孤島だった……。

脱出は不可能……。

漁師にもかかわらず釣具など全てを失っていたため魚を捕ることもできず、
みるみる5人はやせ衰えていった。

さらに、そんなときに大きな地震に見舞われ、棲家としていた洞窟の一部が崩れ落ちた。
そして、なんと、自分たち以前にその島に漂着した者たちの墓を発見することになる。

やはり、俺たちもここで死ぬのか……。

雨が降らず湧き水も枯れた……。

もうムリ……。
いよいよここで死ぬ……。


しかし、どん底に至って、ついに 光は現れた。

洋上遥かに船影が見えた。
3本マストの大きな帆船。

天保12年5月9日(1841年6月27日)、
漂流から150日目、無人島での生活143日目、
5人は米国籍の捕鯨船、「THE JOHN HOWLAND」に救助された。

船内に収容された万次郎たち5人に
気のよさそうな船員がさっそく大きな器に山盛りのイモをもってきてくれた。

そこに表れた船長は気のいい船員を厳しく叱りつけた。
すると船員は慌てて器ごとイモをすべて持って帰ってしまった。


英語のわからない5人は呆然とした。
代りにでてきたのはほんのわずかのパンと豚肉と野菜スープ。
これでは空腹を満たすには程遠い。

「船長はケチだ!」万次郎は船長を恨んだ。

しかし船長の真意が後にわかる。
飢えた状態にある者が大量の食物を摂ると危険で、
時には死につながることもあると船長は知っていたのである。

その船長の名はウィリアム・H・ホィットフィールド。当時37歳。



万次郎たちは日本に帰ることが許されなかった。

当時、日本は鎖国をしており、外国船はいかなる理由があっても日本に近づけなかったのである。
4年前にも、漂流していた7人の日本人を届けようと浦賀に入港した米国船は事実、砲撃を受けた。

万次郎たちは英語がわからないため日本に戻れない説明をいくらされてもわからない。
でも、この船長は信じていいと次第に感じはじめる。


万次郎はヒゲ面の巨体の厳しくもすこぶる優しい目をしたこの船長が何を言ってるか
心から知りたいと思った。
手のあいた船員を片っ端からつかまえては身振り手振りで英語を教えてくれと頼んだ。


万次郎は船のなかで自分にできる仕事は何でも進んで買ってでた。

時にはメインマストにのぼり、「シー・ブローズ!!」と鯨の発見を知らせた。
船員たちの洗濯を手伝い、給仕を手伝い、船長の身の回りの世話をした。


当時の日本では下の者に無礼があったら、
切り殺しても罪には問われないキリステゴメン」の時代。
しかし、アメリカは違った。

手伝えば、誰からも「サンキュー・マンジロー」と感謝された。
マンジローは感激した。

ついには他の船員たちと同じ帽子ももらえた。万次郎はその夜、うれしくて寝付けなかったという。

万次郎は船から名をもらい「ジョン・マン」の愛称で呼ばれるようになった。


万次郎たちが救助されてから半年、船はハワイのホノルルへ寄港。
5人の日本人は一人の宣教師に託され、この地で暮らし帰国の機会を探すことになる。

しかし、万次郎は船長とともにアメリカ本土へ行きたいと思っていた。

いきなり拾った自分たちをなんの偏見ももたず優しく迎えてくれた船長に深い尊敬の念を感じ、
未知の国、アメリカ本土にわたってみたいという抑えがたい興味と憧れが万次郎にはあった。


船長も同じ思いだった。
この男にアメリカを見せてあげたい。

「ジョン・マンをアメリカ本国へ連れていきたい。教育を受けさせてやりたいのだ」
と申し出があった。



アメリカ本国へ渡った万次郎は船長の家のすぐ近くの
オックスフォードスクールに入学することになる。
ある日、万次郎は何気なく町の公会堂をのぞいた。


ここで衝撃を受ける。

アメリカでは、住民たちが集まって、自由に意見を述べ多数決で町の行政を決めていたからだ。

国とは自分たちが動かしていくものなのだ。
このときの思いが万次郎の原点になる。

当時の日本は、『自由』という言葉すらない時代。
庶民の意見が反映されることなどありえない。


しかし、誰もが手放しで日本人・万次郎を受け入れてくれたわけではなかった。

船長は万次郎を連れて教会に礼拝に行った。
船長が万次郎を自分の家族席に着かせようとしたとき、関係者に
「白人以外の者はそこに座ってはいけない」と言われた。

すると、船長は長年通い続けてきたその教会との縁を切った。
そして万次郎を受け入れてくれる教会を求めていくつもたずね回った。


申し訳なく思った万次郎に対して船長はこう言った。

「私は約束したはずだジョン・マン。お前を育てると」

どこまでも信念をつらぬく船長に万次郎は圧倒された。



万次郎の母は当然、万次郎は死んだと思っていた。

近くの大覚寺の境内に30cm弱の丸い自然石を置き、
万次郎の空墓にして1日も欠かさずお墓参りを続けてきた。


そして、行方不明から11年10ヶ月後
万次郎は故郷、日本に戻れることになったのである。

万次郎は生きていたのだ。
再会の日、母は「ほんとうに、万次郎ですか、わたしのせがれの万次郎ですか……」
と幾度も問うた。


このとき、土佐藩で万次郎の事情聴取の記録係を担当したのが
河田小龍という絵師である。

河田は万次郎を自宅の家に寄宿させ10年以上のアメリカ体験談、
海外事情を筆記し画にした。

万次郎はアメリカの先端技術を伝えるのに相当苦心したようだ。
例えば「レイロー」。鉄道のことだが当時、日本には汽車を見たことのある者は誰もいない。

ジョン万次郎は何日も何日もアメリカという国の技術、文化、、
そして、自由という概念を河田小龍に語った。


後に、その河田小龍の元に出入りするようになる若い男がいる。
その男は河田小龍から伝え聞いた海外事情に驚愕し、新しい世界観をつかむ。

その男は……。

日本を変えた英雄・坂本龍馬です。


明治維新への突破口となった新しい世界観をもたらしたのは
絶対絶命の危機を乗り超え、アメリカで自由と、やさしさを学んだジョン万次郎の存在だった。

そして、坂本龍馬はじめ幕末の志士や幕府へ与えた影響を考えると、
そこに、日本の神々が周到に用意したシナリオを感ぜざるを得ません。


◎付録のエピソード

日本で一番最初にネクタイをした男・ジョン万次郎

日本で一番最初にブーツを履いた男・坂本龍馬

 どちらの志も、明治維新へと受け継がれていったのです。

<参考Web
 ジョン=万次郎について
 http://www.pockyboston.com/manjiro/history.html

 ジョン万次郎 伝
 http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/john/john.htm

 河田小龍 伝
 http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/kawada/kawada.htm

              <平成23年8月10日 記>

明治維新の影の功労者「小松帯刀」 (4060)
日時:2011年08月23日 (火) 08時36分
名前:伝統

明治維新の影の功労者「小松帯刀」
〜龍馬を超えた男、幻の名宰相「小松帯刀」

(1)小松帯刀(こまつ たてわき)
   1835(天保6)〜1870(明治3)年)。
   明治3年(1870年)に36歳の若さで大阪にて病死。

(2)坂本龍馬は、司馬遼太郎のベストセラー小説「竜馬がゆく」で、マイナーな存在から
   メジャーな存在へと躍り出ました。

   小松帯刀は、幕末の裏方で活躍したため、
   これまであまり取り上げられてきませんでしたが、
   大河ドラマ「篤姫」で準主役級となり、彼の功績が表に出るようになりました。

(3)小松帯刀を一言で語るなら、
   坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通を活躍させた人物であるという一言につきます。

   帯刀がいなければ、彼らの活躍はなく、
   したがって薩摩や長州が明治新政府の中心になることもなかったと言われております。

   下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通、一介の浪人であった坂本龍馬が
   幕末に存在感を持つ活動が出来たのも,薩摩藩家老という地位を持った小松帯刀の
   支援協力があったからで、

   明治政府樹立に向けて、小松帯刀の存在は大きかったのが、
   今、見直されている理由でもあるのです。

(4)小松帯刀は、喜入肝付家の三男、尚五郎として桜島や錦江湾を見ながら育ち、
   小松家に養子に入った。

   帯刀は漢学者、横山安容について儒学を学びました。
   昼は藩校・造士館に通い、目が覚めれば夜通し読書をするほどの勉強好き。

(5)帯刀と龍馬には、単に生年が同じという以外に、一個人としての共通点もあります。
   その最大のものは、過去にとらわれず客観的に物事を見て、自由に実行できるという気質。

(6)帯刀は、五代友厚、寺島宗則などの上に立つ薩摩藩の経済官僚であり、国際派外交官だった。
   「士魂商才」という言葉は、帯刀にぴったりです。

   薩摩藩の城代家老として藩政の最高位にありながら、
   帯刀は政治、経済、外交、教育とあらゆる分野に関わる一方、
   勝手掛として、予算と金繰りを直接担当しておりました。

(7)小松帯刀は、鎖国という状況のもとにあって、
   掟破りとも言える発想で,西洋の技術や文化を積極的に採りいれました。

   藩主島津斉彬の意をうけて1861年には長崎で洋水雷、砲術の知識を学ぶとともに、
   オランダ艦船に搭乗し軍艦の操縦術を習得。

   家老就任後には,生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年)でイギリスと戦火を交え、
   その科学技術力の高さを身をもって体験したことから、講和成立後は一転して
   英国との親交を深め、留学生を派遣するなどして先進技術の導入に取り組みました。

(8)小松帯刀の社交性

  @帯刀の社交性は、いうなれば「庶民性を持った貴族」とも言うべきもの。
   それは、身分の壁を超えて民意を聞く耳を持ち、宴会やパーティーなどの社交的空間に
   おいてふんだんに発揮されました。

  A社交の場で情報をキャッチするには、優れたアンテナを要し、収集した情報が信頼
   できるものか時間をかけて精査しなければならない。
   そうして初めて信じるに足る質のいい情報が得られます。

   帯刀はそうした一連の能力に長けておりました。

(9)徳川慶喜が諸大名を集めて京都・二条城で大政奉還を発表した際には
   小松帯刀が薩摩藩の代表として参上しています。

   明治維新後は、その交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務、
   明治政府の中央政治機構の重要な官職でした。

   そして大久保利通らと版籍奉還を画策し、藩政改革案を作成します。

   版籍奉還が断行される際に相当な反発が予想されましたが、
   小松帯刀は自身の領地を藩に始めに返還し、薩摩藩も朝廷に版籍を奉還し、
   諸藩もこれに従ったと言います。

(10)帯刀と龍馬については、本スレッド内「坂本龍馬と小松帯刀 (3703)」を参照できます。

   龍馬は、大政奉還を前にして、新政府の構想を練ったおり、
   政治の中心をなす参議の候補にあげたのが、筆頭第一から、

   小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵(利通)、木戸準一郎、広沢兵助(真臣)、
   後藤象二郎、横井小楠、長岡良之助(護美)、三岡八郎 を掲げており、

   小松帯刀を筆頭に掲げております。

   さらに龍馬は、帯刀を「天下一の人物也」と評しております。

(11)幕末維新期に活躍した、英国の辣腕外交官アーネスト・サトウは、
   薩摩藩家老として、西郷隆盛、大久保利通といった下級武士を登用・抜擢し、
   明治維新を裏方として支援した小松帯刀について、次のような人物評を残しております。

   「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、
   家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、
   態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」
                                   

   大隈重信は、
   「容貌、風采とも立派で、気品があり、薩摩人には珍しい雄弁家で、寛仁大度の人だった」
   と語っております。


<参考図書>

 @『龍馬を超えた男、小松帯刀』
 A『一外交官の見た明治維新』

<参考Web>

 @幻の名宰相 小松帯刀〜明治維新の影の功労者
  http://www.fukiage.co.jp/amuse/index.html

 A人物伝 小松帯刀
  http://www.rekishi.sagami.in/tatewaki.html

              <平成23年8月23日 記>

「坂本龍馬が目指したもの」 (4536)
日時:2011年09月19日 (月) 04時15分
名前:伝統


*『致知』2011年9月号「致知随想」
    森健志郎(高知県立坂本龍馬記念館館長) より


龍馬は天保6(1835)年、
土佐藩の下士(下級武士)だった坂本家の二男として生まれます。

坂本家は下士とはいえ、土佐有数の豪商「才谷屋」の分家で、
非常に裕福な家庭でした。

龍馬の人格や思想のベースとなったのは
「裕福でありながら身分が低かった」という、この生まれにあると私は考えています。

例えば、貧しかった岩崎弥太郎などは 日々の食い扶持を確保するのに必死で、
身分がどうのと考える時間的・精神的余裕はなかったでしょう。


しかし、龍馬は違いました。
なぜ同じ人間でありながら、士農工商と身分を分けるのか。
なぜ同じ武士でありながら、生まれによって 上士と下士に決められてしまうのか。

この葛藤が、龍馬の「平等」という理想へと繋がり、
後に師と仰ぐ人物との邂逅を引き寄せることになります。
それが勝海舟です。

勝海舟もまた、貧しい旗本の出身です。
民に対して公平であるべき役人が 生まれによって階級が決まる。

そうやって登用された役人たちが、
公平ではない対処や裁きを行っている現実を たくさん見てきました。

だからこそ、勝は「公平な世」を目指すようになったのです。

平等を理想とする龍馬と公平を目指す勝海舟――。
2人が出会ったのは文久2(1862)年、
土佐を脱藩した龍馬が幕府軍艦奉行並だった勝を訪ねました。

世界情勢や海軍の必要性を説かれた龍馬は
大いに感服してその場で弟子になったといわれ、
勝を「日本第一の人物」と賞賛するほど心服しました。

その勝の下、龍馬は神戸海軍操練所の設立のために奔走しますが、
当時、姉の乙女に宛てた手紙にこう記しています。


「国のため、天下のためちからおつくしおり申候。
 どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ」

 天下国家のために全力を尽しています。
 どうぞお喜びください――。
 

坂本龍馬という人物が、当時も、そしていまなお多くの人々から愛されるのは、
この「私心」のない生き方が感動を与えるからだと思います。

龍馬は土佐藩の脱藩浪人でした。
しかし勝海舟はもちろん、
福井藩主の松平春嶽や薩摩藩の実力者・小松帯刀らに信頼を置かれるとともに、
桂小五郎と西郷隆盛の間に立って 薩長同盟を成し遂げました。

日本を二分するほどの勢力を持っていた薩長が、
なぜ一浪人の龍馬の働きかけに応じたのか。

それは龍馬に「これによって自分の名を上げてやろう」とか
「権力を握ってやろう」という私心が なかったからだと思うのです。

こいつは本当に天下国家のために捨て身で生きている。
そう思わせるものがあったのでしょう。

強烈な身分社会の中にあって、多くの志士が
「自分は薩摩の西郷隆盛」「長州の桂小五郎」と名乗っていたところ、
「俺は日本の龍馬」と言ったのが 坂本龍馬でした。

国内で争っていたら外国にやられてしまう。
だから、薩摩も長州も幕府も 皆で一緒になって新しい国をつくろうと呼びかけ、
大政奉還まで漕ぎ着けました。

しかし、そのわずか一か月後の
慶応3(1867)年11月15日、何者かに暗殺され、33年の生涯を閉じました。


その後の日本は龍馬が目指したものとは
異なる道へと進んでいったのではないでしょうか。

新政府は討幕へ向けて戊辰戦争を始め、
その結果、薩長中心の「富国強兵」をスローガンにした 軍国主義体制が敷かれ、
そうして明治期に日清・日露戦争へと突き進んでいきました。

もしも、坂本龍馬が生きていたら……、
おそらく戊辰戦争は起きなかったと思います。

戊辰戦争がなければ、日清・日露もなかっただろうし、
日清・日露がなければ、太平洋戦争も起きなかったはずです。

そうしたら、日本はどんな国になっていたのでしょうか。

歴史に「もしも」はありませんが、
そんな壮大な夢物語を抱かせてくれるのも 龍馬の魅力の一つでしょう。


「日本を今一度せんたくいたし申候」

これもまた龍馬が乙女に宛てた手紙の中の一節です。

最近あちこちでこの言葉とともに
「平成の龍馬、出でよ」という声が聞かれます。

政治も経済も家庭のあり方も、あらゆる面で 筋が通らないことが多く見受けられます。
だからこそ龍馬のように日本を洗濯し直す 存在の出現が待ち望まれているのでしょう。

しかし、考えてみてください。

龍馬だってもともとは地方の一下級武士でした。

その彼が私心をなくし、天下国家のために命懸けで動いた時、
日本は大きく変わったのです。

日本を変えるのは政治家でも大企業の社長でもない。

いまを生きる誰もが平成の坂本龍馬になれることを感じていただけたらと思っています。

              <平成23年9月19日 記>

龍馬は行動の人、魅力一杯の人。 (5359)
日時:2011年11月15日 (火) 17時57分
名前:伝統

今日11月15日は、龍馬の誕生日でもあり、あの世への転出日でもあります。

<天保6年11月15日(1836年)- 慶応3年11月15日(1867)>

坂本龍馬が成し遂げたことの一つに薩長同盟の仲介があります。
薩摩藩と長州藩の手を結ばせることで、幕府を倒す勢力を初めて日本に生み出したのです。

言葉にすると簡単なのですが、当時両藩は、「蛤御門の変」で敵味方に分かれて戦った相手で、
お互い殺し合った仲ですから、親戚のひとりやふたり相手側に殺されているのです。
普通に考えたら、そんな相手と仲良くできるわけがないのです。

通常の仲介者では、両藩を仲直りさせることが非常に難しい状況でした。
しかも、龍馬は脱藩者であり、今で言えば、フリーターです。
しかし、龍馬はそれを成し遂げてしまいます。


では、龍馬はどうやってそんな奇跡を起こしたのか?

まず、相手が喉から手が出るほど望んでいるものを知ることから入りました。

長州藩が喉から手が出るほど欲しいもの何か?

この時期(1865年頃)、長州藩は幕府による第二次長州征伐に備えて、武器と軍艦が
欲しくてたまりませんでした。しかし、幕府がヨーロッパ諸国に対して、長州藩への武器の 
取引を全面的に禁止していたため、長州藩は武器を調達できずにいたのです。

一方、薩摩藩は、お米が不作で、兵糧米の調達に苦心していました。

この両藩の状態を見て、龍馬は思いついたのです。

外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売り、その見返りに、兵糧米を長州から
薩摩に届けるということを。

つまり、双方の利益になる取引をプロデュースすることで、
両藩の仲をとりもとうと考えたのです。
これなら、長州・薩摩、どちらの顔も立てることができます。

さらに、両藩の間を龍馬が率いるカンパニー・亀山社中がとりもち、
亀山社中にも利益があがるというちゃっかりぶり。

龍馬の発想は、みんながハッピーになる渦で周りの人々を巻き込んでいくのです。

あれだけお互いが手を結ぶことの必要性をを説かれても、首を縦に振らなかった
薩摩、長州両藩が、この龍馬のプロデュースには応じました。

・・・

龍馬が17歳で土佐を出て32歳で亡くなるまでの移動距離は、およそ3万キロ。
(地球一周が約4万キロ)
龍馬は、あの時代、誰よりも行動していたのです。

誰よりも動いて、いろいろな立場の人の思いを聞いた。
すると、どうなるかというと、人生において大切な人が増えるのです。

幕府には、勝海舟という師匠。
長州には、高杉晋作という友。
薩摩には、西郷隆盛という友。・・・
(さらに多くの女性にもモテました)

これらの大切な人がハッピーになるその一点を探すために、行動し、
周りの人をみんな幸せにしてしまう。

さらに、このことが、幕末の日本を諸外国の魔の手から護ることになり、
新たな日本へと導いていったのです。

  *以上は、「人生に悩んだら『日本史』に聞こう」からの紹介です。
    ひすいこうたろう/白駒姫登美(共著)

            <合掌 平成23年11月15日 頓首再拝>

坂本龍馬の死生観 (6421)
日時:2012年01月30日 (月) 07時11分
名前:伝統


(1)志士ハ溝壑ニアルヲ忘レズ
   勇士ハソノ元ヲウシナフヲ忘レズ

   天下を救おうとする者は、自分の死体が将来溝や堀に捨てられて顧みられぬことを
   つねに想像し、勇気ある者は自分の首(元)が斬りすてられることをいつも覚悟している。
   そういう人物でなければ大事を行うことはできない、ということだ。

(2)「生きるも死ぬも、物の一表現にすぎぬ。いちいちかかずらわっておれるものか。
   人間、事を成さぬかだけを考えておけばよいとおれは思うようになった」

(3)竜馬にいわせれば、
   自分の命にかかずらわっている男にろくな男はないというのである。

   「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて
   死をおそるるなかれ」
   と、竜馬はその語録を手帳に書きとめ、自戒の言葉にしている。

   「世に生を得るは、事をなすにあり」
   と、竜馬は人生の意義をそのように截断しきっていた。
   どうせは死ぬ。

   死生のことを考えず事業のみを考え、たまたまその途中で死がやってくれば
   事業推進の姿勢のままで死ぬというのが、竜馬の持論であった。

     (「竜馬がゆく」より)

            <感謝合掌 平成24年1月30日 頓首再拝>



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