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天皇・日本の使命と終戦の真相 (3856)
日時:2011年08月13日 (土) 07時04分
名前:伝統


このスレッドでは、大東亜戦争終戦の月(八月)に合わせて、

「古事記と現代の預言」の【第8章 天皇・日本の使命と終戦の真相」】 
について紹介して参ります。


なお、「古事記と現代の預言」の<序>については、スレッド『谷口雅春先生の捉えた「古事記」』
にて紹介しております。
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=732&submitlog=732


                  <平成23年8月13日 記>

マッカーサー元帥が語る天皇の犠牲精神 (3860)
日時:2011年08月13日 (土) 07時08分
名前:伝統


   「古事記」に、「故各(かれおのもおのも)依(よ)さし賜(たま)える命(みこと)の
   隨(まにまに)、知(しろ)し看(め)す中に、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、
   命(よ)さしたまえる国を知(しら)さずて、八拳須心前(やつかひげむなさき)に至る
   まで、啼(な)きいさちき。

   其の泣きたまう状(さま)は、青山(あおやま)を枯山如(からやまな)す泣き枯らし、
   河海(うみかわ)は悉(ことごと)に泣き乾(ほ)しき。是(ここ)を以(も)て
   悪神(あらぶるかみ)の音(おとない)、狭蠅如(さばえな)す皆涌(みなわ)き、
   萬物(よろずのもの)の妖悉(わざわいことごと)に発(おこ)りき」と、

   住吉大神の御出現後、宇宙浄化の自壊作用(じかいさよう)として終戦前後の
   暗澹(あんたん)たる状態が描写されています。


   マッカーサー元帥が最初に天皇陛下の御訪問を受けたとき、天皇がどのように仰せられた
   かということは、秘密にされていたので、今まで傳(つた)えられていたことは、
   側近の人の憶測か、あの時の通訳だった人から不用意に漏らされたことを、
   つなぎ合わせて想像上に再生されたものであったのですが、

   衆議院で西武鉄道会長であった故堤康次郎氏が(同席者堤夫人、ホイットニ少将)
   アメリカを訪問した際、マッカーサー元帥と会談する機会を得ましたが、そのとき
   マ元帥は次のように、天皇との会見の模様を堤氏に語られたというのであります。

   それによると元帥はこう言っています。──

   「天皇は侍従をつれていなかった。私も副官をつれていなかった。天皇と私が他人を
   交えないで、ただ通訳一人をはさんで会見した内容は、これまで互いに秘密にして、
   どこにも公表しなかったが…

   天皇は私に会うと『今回の戦争は誠に申し訳ないことした。しかしながら、これは
   私一身の責任であるから、国民が個々に戦犯として罰せられたり、国家が賠償の責任を
   負うたりするということは、私には忍びないことであるからどうか私一身を処刑して
   お許し願いたい』と語った。

   …この時、
   私は、日本の天皇は国民に対する愛情と責任感をもった立派な人だと思った。」


   このように述懐して、またマ元帥は、

   「ソ連はまっ先に天皇を戦犯にすべし、と主張したあとがその後に、不思議なことに
   イギリスも賛成した。又、豪州も賛成した。しかも、ソ連は、北海道に駐兵させろ
   ということまで、執拗に要求した。

   しかし、アメリカはこれに強く反対した。もし、あの時、ソ連の駐兵を認めていたら、
   日本は今頃ドイツのようになっていたかも知れない」と言ったというのであります。


   堤康次郎氏は、
   「私はこれらの話を元帥からきいて、人間一人の責任感が、国家に対するアメリカの
   信用となり、現在の日本の繁栄を招いたのだと思って、まったく感激した」
   と言っていられる。


   このマッカーサー元帥の談話によって、今まで憶測されていた天皇陛下は開戦には
   責任がないに拘(かかわ)らず、

   陛下が「この戦争には自分は重大な責任を感じている。随って絞首刑も覚悟している。
   国民に罪はないのである。
   自分に全責任があるのだから私一身を處刑して国民を救けて貰いたい」

   という意味のことを言われて一身を犠牲にして国民を救おうとせられたということが
   本当だったと判明したのであります。


   ソ連等の要求に応じないで天皇制が護持され、北海道へのソ連の進駐もなかったのも、
   マッカーサーが天皇に面謁(めんえつ)してその人格に打たれて日本に好意をもって
   くれた結果だとわかるのであります。


   天皇陛下は大東亜戦争には責任がないと言いましたが、
   陛下がどんなに戦争に対して反対であったかと言いますと、
   時の外務次官(後、内閣情報局総裁、欧亜協会会長)だった
   天羽英二氏が次のように語っています。

                  <平成23年8月13日 記>

天皇 杉山大將を叱咤し給う (3861)
日時:2011年08月13日 (土) 07時09分
名前:伝統

   ”九月五日――天皇は永野と杉山陸軍参謀總長とを呼んで、
   「一に戰爭、二に外交という様子だが、日米が開戰したら、どのくらいで片づくか?」
   と、杉山にたずねた。杉山が、「南洋方面だけで、3か月ぐらいです」と答えると、

   天皇は、「お前は支那事変勃發のときの陸相で、そのときも1か月ぐらいで片づくといった。
   が、4か月たっても片づかないでは な い か」と詰問。

   恐れいった杉山が、「何分、支那は奥地が廣いので」と釈明明すると、
   天皇は、「大平洋はなお廣いではないか」と、杉山を叱った――

   というようなことがあったにもかかわらず、東條たちは開戰論をとって譲らなかった。

   ……十月十二日近衛首相の私邸――荻外荘に、東條、及川、豊田、鈴木氏が集まった。
   東條は「支那からの撤兵は譲れない、陸軍の生命だ」という意見だった。

   及川海相は、陸軍と正面衝突を避けるために、「總理一任」といって、反對といわなかった。

   豊田外相は「交渉が決裂しても武力行動は不可」と考えていた。

   この會議のあとで、豊田氏は「東條によく話してこい」というので、たしか十四日の
   夜だったと思うが、折からの仲秋の名月、夜おそく、私は東條をたずねた。

   「撤兵したっていいじゃないか」というと、東條は、「支那駐兵は一番大事なものだ。
   男子のキンタマ」と言って譲らなかった……こうして、ついに十月十四日の閣議で、
   豊田外相と東條陸相とが衝突し、収拾がつかなくて近衛は内閣を投げ出してしまった。

   そして十月十八日東條内閣が誕生した。”


   それは天羽英二氏の回顧談でありますが、恰度、この直前のことだったのだろう。
   近衛公の内命を受けて、民間外交の平和工作を行うために紫雲荘の橋本徹馬氏と久保久治氏
   とがアメリカに旅立ってアメリカの有力者と話し合って、

   相互に平和を維持するために、これ以上、アメリカが日本を刺戟しないように愼重に行動して
   貰うように懇談して廻ったのであった。

   そして日本へ帰って來ると、東條内閣の憲兵隊につかまって橋本氏は監禁され、当時、
   平和運動工作者は國策に反くものとして、厳重に拘束されたのであります。

   毎日毎日橋本氏は憲兵から拷問同様にして色々と苦痛を與えられ訊問をつづけられた
   のであります。


   橋本徹馬さんは、生長の家の誌友でありましたから、憲兵隊にいじめられている時に
   「汝ら天地一切のものと和解せよ」の神示を想い出されて、その趣旨によって
   神想観をして憲兵隊長と心の中で和解をせられたのであります。

   そしたらその翌日から憲兵隊長が出てきて訊問する時に、尋問の態度がクラリと変わって
   しまったのであります。

   それまでの有罪になるような誘導尋問のような調子が、逆に、無罪になるような誘導尋問
   に変わってしまいました。

   それで、戰爭中は紫雲莊を解散するという條件だけで、無事に釈放されたのでした。



   ともかく、そういう状態で、東條内閣の出現と共に、急角度で、
   戰爭せねばならぬように情勢が展開して往ったのであります。だから、

   天皇陛下だけが、

     よもの海みなはらからと思ふ世に
           など波風のたちさわぐらむ


   と、明治天皇の御歌を朗詠なさって戰爭は嫌いだと言われても、アメリカから
   「日本軍は支那全土から撤兵すべし。満州からも軍隊と警察をひけ」という
   ハル・ノートが來るに及んで、

   満州國をやめて後退することのできない日本は、アメリカをたたくより他に、
   日本を救う血路はないのだと結論するより仕方のないような、もうギリギリの
   線に來てしまったのであります。

   併し、今から考えて見ると、それはアメリカが悪いのでも、日本の軍閥が悪い
   という訳にもゆかんのであります。

     *内容は要約・省略しているところがあります。
    
                  <平成23年8月13日 記>

既に預言されたる大東亜戦争 (3862)
日時:2011年08月13日 (土) 07時54分
名前:伝統


   このようにしてはじまった大東亜戦争には、
   天皇陛下は責任がないことは明らかなのであります。

   また当時の国際情勢と、日露戦争に於ける我々の明治時代の祖先の努力を基礎に
   して築き上げた日本民族子孫の生命を護持するための、最後の線、である満州国、
   をも解散して、日本は小さい島だけに還ってしまえというアメリカの要求に対しては

   随(したが)うことができないというので、ついにアメリカを叩いて、
   蒋介石政府への武器の補給路を絶つよりほかに道ははない、
   と衆議が一決したのも亦、無理がない。

   そして衆議が一決したものに対しては専制君主でないところ天皇は私意をさしはさまず、
   衆議の一決したものには御璽(ぎょじ)を捺す制度に従われましたことも無理はない
   譯(わけ)であります。

   こうして天皇の御心に反する戦争に、
   天皇の名に於いて英米に対する宣戦布告の詔勅がが出るに至ったのであります。


   それではこの大東亜戦争は誰の責任であるかと言いますと、
   それは天皇の責任でも軍閥(ぐんばつ)の責任でもない。

   あるべきものが人類進化の過程として、
   あるべきようにあらわれて来たというほかはなかったのであります。

   第一次世界戦争の預言からズーッと続いて、アジアの民族が独立して続いて
   其の独立の精神がアフリカに及ぶという預言がチャンと書かれてあります。

   このアジア及びアフリカの民族が独立するためには、何らかの契機(けいき)を
   興(あた)える出来事が起こらなければならないのであります。

   このように、預言された事実というものが、どうしてその通り起こってくるので
   あるかという事を考えてみますと、現象界の事件というものは、現実に起こる
   までに、念の世界、にチャンとそういう事件のフィルムというものができておって、
   それが現実世界に、映画のスクリーンみたいに映ってくるものだからであります。

                  <平成23年8月13日 記>

日本民族の歴史的使命 (3879)
日時:2011年08月14日 (日) 04時26分
名前:伝統


   ところでそういうふうに、アジアの民族が独立し、アフリカの民族が独立する、
   その預言が実現するためには、その独立精神に火をつける役目をする者がなければならない。

   その使命を承ったのは誰であるかというと、それは日本民族であるのであります。

   今まで、有色民族は、白色人種にはかなわないのであると、
   大体信じられておったのであります。

   西暦1497年バスコ・ダ・ガマという人が喜望峰を回航してインドの方に視察にやって
   来て、アジアには無限の資源がある、そして其処にいるところの人間は科学精神がなくて、
   醇朴(じゅんぼく)である。

   彼らを科学的武器で嚇して、領土を植民地としたら、白色人種がいくらでも儲けることが
   できるのであるということを視察して帰り、その事を報告した。

   その後、白色人種が次から次へと、侵略しにやってきて、
   アジアの諸国を植民地や属国にしてしまった譯であります。

                  <平成23年8月14日 記>

白色人種のアジア侵略 (3880)
日時:2011年08月14日 (日) 04時28分
名前:伝統

   このようにしてインド、ビルマ、マレー等はイギリスの勢力圏に入り、インドのちょっと
   東の方にあたるインドシナはフランスの領土になってしまい、
   インドネシアはオランダが侵略して、オランダの領土になってしまい、
   フィリピンはアメリカの領土になるという具合に、

   有色人種である原住民は科学が発達せず、どうせ何も抵抗する力はないのであるというので、
   白色人種は、有色人種を科学兵器をもって脅かして侵略したわけであります。

   シナ(当時は清国)は割合に文化が発達していたけれども、それも侵略せねばならぬという
   譯で、イギリスはシナに阿片(あへん)を大量に売り込んで、大儲けをすると同時に
   シナの国民を阿片に酔わしてふらふらにし、阿片の中毒患者にし夢遊病者のような
   無能力者しなければならないというので、広東(かんとん)を拠点として阿片を沢山
   密輸入したのであります。

   そしたら、清国政府が怒って、林則徐(りんそくじょ)を遣わして阿片の密輸入の拠点を
   押さえて、イギリス商人のもっていた阿片を全部押収してしまったのです。
   こうして所謂、阿片戦争、というのが起こることになったのです。

   すなわちイギリスの財産権を清国が侵したというので、1840年6月イギリスの遠征軍は
   広東湾に侵入して攻撃を開始した。

   イギリスの兵力は軍艦25隻、武装汽船14隻、陸兵1万余でしたが、清国よりも
   すぐれた科学兵器を沢山もってやって来たので、清国は敵することができず、イギリス兵
   は揚子江をやくして南北の交通路を遮断してシナの経済生活に大打撃を与えたので、

   交戦三年、ついに清国は屈服して、1842年8月、南京で講和条約が結ばれ、香港島の
   イギリスへ割譲、広東、上海等の5港の開港、治外法権、関税協定などで、

   事実上、シナ大陸の有力な拠点をイギリスに押さえられるような事となり、結局、
   シナ大陸も白色人種に分割支配され続々と植民地となり、属国になる形勢が顕著になって
   きたのです。

   1856年にはイギリスの船アロー号が、広東で清国の官憲に突如臨検されて
   イギリスの国旗が侮辱されたというのを口実に、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア
   の四国連合で圧迫が加えられ、天津条約が結ばれた。

   その頃(1856年5月)ロシアは清国と愛軍条約(あいぐん)を結んで黒龍江以北の
   土地をロシア領に編入したが、時あたかも、天津条約の批准書交換のために英仏の
   使節が艦隊に護られて白河(はっこう)に入ろうとした時ターク砲台が過って
   それを砲撃したのを口実に英仏連合軍がターク砲台を占領し、北京に殺到した。

   その時ロシアは英仏両国への斡旋をしてやるというのを口実に、露清条約を結んで、
   ウスリー江以東の沿海州を自国の領土とし、そこにウラジオストックの軍港をつくった。

   このようにしてアジア大陸は分割されつつあったにも関わらず、こんな島国の日本だけが、
   何処の国にも取られないで、そしてさらに白色人種を撃破して、そして有色民族の
   気を吐いたということは、これはまた素晴らしいことであるあると考えられるわけで、

   それは日本民族の優秀性にもよるけれども、時の日本の科学の発達の程度や、
   物量の比較から考えると、この日本の国が何処の国の侵略をも受けなかったのは
   単に人間だけの力によるとは考えられない、

   特に日本の国を、その将来の使命を思って守っておられるところの神さまの御心による
   ものと考えるより仕方がないのであります。

                  <平成23年8月14日 記>

有色民族独立の基礎工事なる (3881)
日時:2011年08月14日 (日) 04時36分
名前:伝統


   まことにこんな小さな国でありながら、アジアの諸民族の中で侵略を受けなかった民族は、
   日本しかないのであります。

   それが、アメリカを叩くより仕方がない国際情勢立ち到って、いよいよ大東亜戦争が
   はじまったのであります。

   そして日本軍は南方にむかって1年間は連戦連勝で殺到して行ったのでした。

   そして今までアジアの南方諸国を侵略し、其処を植民地とし、属国としていた白色人種の
   軍隊を駆逐したのであります。

   それでアジアの南方における有色民族は、今までは有色民族は白色民族に絶対にかなわん
   と思っていたのであるけれども、「日本は有色民族でもやりよるぞ」と思ったのであります。

   そして「われわれ有色民族も白色民族よりも下等につくられているのではないのだ。
   みんな人類は平等だから白色人種に屈服している必要はない。

   我々有色民族も起ち上がろう」という民族精神が、
   それによって喚起されることになったのであります。

   それですから、大東亜戦争の目的というものが、

   「大東亜民族の解放戦である」

   という旗印が戦争中にかかげられることになったのも、「天に口なし人をして言わしむ」
   であったのであります。

   実際第二次世界大戦に日本が参戦して大東亜戦争を分担したことは、実際にそれによって、
   大東亜の民族の解放という役目を果たしたわけであります。


   霊界の本に、ヴェッテリニという高級霊がレイヌという霊媒を通して霊視せしめている
   ところの預言「アジア民族及びアフリカ民族が独立する」ということが現象界に起こって
   くるためには、

   どうしても何処かの有色民族が白色民族を一度たたきつけて、有色民族の奮起する精神を
   喚起する契機をつくらなければならない。

   つまり有色民族の劣等感を取り除いて民族独立の精神を培養しなければ、
   アジア民族の独立、アフリカ民族の独立というものは起こるはずがない。

   だから「有色民族も同じく、人間、であっていつまでも白色人種には負けてはおらんぞ」
   という自主独立の精神を有色民族が得るために有色民族はどうしても一度はアジアの
   南方に殺到して白色民族を駆逐する必要があり、

   日本民族はあの際そういう役割を使命づけられておったのであります。

                  <平成23年8月14日 記>

日本は何故敗戦して後退したか  (3887)
日時:2011年08月14日 (日) 11時41分
名前:伝統


   だけども、あの大東亜戦争に於いて、緒戦と同様その後もあの儘(まま)、勝って勝って
   勝ち通しておったらどうなるかといいますと、

   インドからイギリスを追い出し、インドシナからフランスを追い出し、フィリピンから
   アメリカを追い出しインドネシアからオランダを追い出してそのまま勝ち通しておったら
   勝った軍隊が引き返して来る譯にも行かない。

   勝ち通していたら、やっぱり傲りたかふった気持ちになり、其処に総督なり、
   日本の司政官をおいて永久支配したくなる。

   勝っているのに、負けたかの如くに本国に帰還して南方の土着の民族に
   「お前たち勝手に自治せよ」という譯にもゆかないのであります。


   そしたら今までアジアを侵略していた白色人種の侵略者の後継者になってしまいます。
   ところが日本民族はそのような侵略者の後継者になるような民族ではない。

   本来侵略民族ではなく、救世主的使命をもつ民族だから、ともかく、一辺、白色人種を
   追い出して南方民族に民族精神勃興の種子を播いてしまたっら、あとは、もう既に日本民族の
   役目終われりという譯で「敗戦」という形をとって還ってくるということになったのでありま
   す。

   そして日本民族はアジア、アフリカの民族独立のために、十字架を背負ってキリストのように、
   他の民族を救って自分が敗戦したのであります。


   キリストが磔刑(はりつけ)になった時にユダヤ人の誰彼が、十字架上のキリストを指さして
   「あれを見よ、あれを見よ。人を救い得て己を救い得ざるものよ」と言った。

   キリストはいろいろと奇跡を現して、人の病気を治したりしたのに、自分自身は救われないで
   磔刑になったではないかと嘲笑ったのでありますが、それと同じように、日本民族は他の民族
   に独立の機縁を与えながら、自分は敗戦という惨めなる状態において、

   暫くキリストのように磔刑にかかておったのであるけれども、キリストが三日後に復活して
   天に昇って「神の右に座した」と傳(つた)えられているように、

   日本も今や復活して、アジアの盟主となり、やがては
   全世界の平和の指導者になるという時期が近づきつつあるのであります。

                  <平成23年8月14日 記>

キーナン検事の天皇観 (3890)
日時:2011年08月14日 (日) 15時47分
名前:伝統

   ところで話をもどして、
   天皇陛下が、戦争に対して、どういう考えを持っておられたかということに還りますが、
   「文藝春秋」の昭和34年10月号に、当時キーナン検事の秘書兼通訳をしておられた
   山崎晴一氏が、キーナン検事から、生きている間は発表してくれるなと頼まれた

   キーナン自署の手紙の内容その他を発表して、題して、「鬼検事キーナン行状記」
   という記事を載せているのでありますが、

   その記事の中で、私の注目をひいたのはキーナン検事が裁判終了後、
   天皇と会見したときの述懐を次の様にしていることであります。

   即ちキーナン検事は、「天皇はまったくウソのない正直なお方だと思った。
   日本人は天皇を紳士であり学者であるとだけ思っているが、私はよく知っている、
   天皇は非常に強い性格の持主だ。

   こういう天皇をあの裁判の最中に法廷に引き出したら、陛下は必ず被告席を指して、
   ここにいる者たちは全部自分の命令によって戦争を遂行したのである。

   責任は全部自分にあるのだから、
   直ちに全員を釈放して、自分を処刑してくれと言ったに違いない。

   こんな立派なことを言われたら。俺としても、まったく打つ手がなくなってしまい、
   わがアメリカの円満なる占領政策などどこかに吹っとんでしまっただろう。
   俺は天皇に直接会って、あのとき陛下を証人台に立たせなくてよかった、
   とつくづく思ったよ」


   このキーナンの言葉によって、かって某週刊誌に、
   「天皇を極東裁判に起訴したら、みんな朕の責任であると天皇だけが責任をかぶって、
   ほかの戦犯を裁判くことができなくなるから天皇を起訴しなかった」

   という内情が報ぜられていたが、この内情が、「文藝春秋」誌のこの
   山崎教授の記事によって側面から証明されたことになっているのであります。

                  <平成23年8月14日 記>

天皇は身を捨てて國民を救われた〜その1 (3895)
日時:2011年08月14日 (日) 17時19分
名前:伝統

(第1回目の聖断)

   天皇がどんなに、一身を犠牲にしてでも、日本國民をたすけたいと思われたかという
   ことについて、以前鈴木終戰内閣の書記官長だった迫水久常(さこみずひさつね)氏が、
   『終戰の眞相』と題する冊子をものして送って來られましたが、

   その中に、その席に参列した内閣書記官長の記録として、終戰直前の御前會議の模様
   が詳しく語られていますので、從來の第三者の復聴(またぎ)きの断片的な記録を
   もととして天皇の御徳につき話したこともありますので、

   その多少の誤聞を訂正する意味もあって、最も信憑し得るものとして
   次にそれを引用させて頂きます。

   この記録は、長崎に2發目の原子爆彈が投下され、原子研究の権威・仁科博士が
   廣島の原爆の現地視察の後、「残念ながら原子爆彈に間違いありません」と答申して、
   「原爆所有國に對してはとても抗戰できない」と
   驚天動地の脅威を専門家が感じていた直後の御前會議の記録であります。


   迫水氏はこう語っています。――「御前會議は8月9日夜11時から開かれました。
   列席者は、總理、外務、陸軍、海軍の四大臣、陸軍参謀總長、海軍軍令部總長、
   平沼枢密院議長の7名が正規の構成員でありまして、
   陪席員は、私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計各局長の4名、合計11名であります。

   正規構成員7名の中(うち)、現存者は豊田軍令部總長だけであります。
   會議場は宮中防空壕内の一室で約15坪程のお室でありました。
   地下10米(メートル)であります。一同席について陛下をお待ちしました。


   陛下は足取りも重く、お顔は上氣したるが如くにて入って來られました。
   今も深く印象に残っておりますのは髪の毛が数本額に垂れておられた事です。

   會議は總理が司會致しまして、先ず私がポツダム宣言を讀みました。
   日本に耐えがたい條件を讀むのでありますから全く堪まらないことでした。


   次に外相が指名されて發言しました。
   その論旨はこの際ポツダム宣言を受諾して戰爭を終わるべきであるということを
   言葉は静か乍ら断乎申されました。


   次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反對でありますと前提して、莊重に涙と共に
   今日までの軍の敗退をお詫びし、併し今日と雖(いえど)も、必勝は期し難しとするも
   必敗ときまってはいない。

   本土を最後の決戰場として戰うに於いては、地の利あり人の和あり死中に活を求め
   得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉碎し、その民族の名を青史に
   止むることこそ本懐であると存じます、と言われました。


   次の米内(よない)海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意で
   ありますと言われました。


   平沼枢密院議長は列席の大臣、總長にいろいろ質問されたのち、
   外相の意見に同意であると言われました。


   参謀總長・軍令部總長はほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。

   この間約2時間半。


   陛下は終始熱心に聞いて居られましたが、私はほんとうに至近の距離で
   陛下の御心配氣なお顔を拜して涙のにじみ出るのを禁じ得ませんでした。


   一同の發言の終わったとき、私はかねての打合せに從って總理に合図致しました。
   總理が立ちまして徐に『本日は列席者一同熱心に意見を開陳(かいちん)致しましたが、
   只今まで意見はまとまりません。

   しかし事態は緊迫して居りまして全く遷延(せんえん)を許しません。
   誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の思召しをお伺いして、
   それによって私共の意見をまとめたいと思います』と述べられ静かに歩を移して
   陛下の御前に進まれました。
 

   その時、阿南さんはたしかに『總理』と声をかけられたと思います。
   併し總理はおきこえになったのか、おきこえにならなかったのか、
   そのまま御前に進まれまして丁寧に御禮をされまして

   『只今お聞きの通りで御座います。何卒思召しをお聞かせ下さいませ』
   と申し上げました。
 

   陛下は總理に對し席に帰って居るようにと仰せられましたが、總理は元來
   耳が遠いためによく聞き取れなかったらしく、手を耳にあてて『ハイ』という
   ふうにして聞きなおしました。

   この間の図は聖天子の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか
   何とも言えない美しい情景でありました。總理は席へ帰りました。

   天皇陛下は少し體を前にお乗り出しになるような形でお言葉が御座いました。
   緊張と申してこれ以上の緊張は御座いません。


   陛下は先ず『それならば自分の意見を言おう』と仰せられて
   『自分の意見は外務大臣の意見に同意である』と仰せられました。


   その一瞬を皆様、御想像下さいませ。
   場所は地下10米の地下室、しかも陛下の御前。
   静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。

   陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いて
   あった書類にしたたり落ちました。

   私の隣は梅津大將でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。
   私は、一瞬、各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような氣がしました。
   次の瞬間は號泣であります。

   涙の中に陛下を拜しますと、始めは白い手袋をはめられたまま親指を以て
   しきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以て
   お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
 

   建國二千六百餘年、日本の初めて敗れた日であります。
   日本の天皇陛下が初めてお泣きになった日であります。

   ああ何とも申す言葉がございません。

天皇は身を捨てて國民を救われた〜その2 (3896)
日時:2011年08月14日 (日) 17時20分
名前:伝統

(聖断の理由)

   お言葉はそれで終わりかと存じました。然るに陛下はしぼり出すようなお声をもって
   『念のために理由を言って置く』と仰せられました。

   このことは私、今日まで公開の席で申し上げたことはございませんが
   今日は申し上げます。(註・これは道徳科學研究所での講演であります)

   陛下の次に仰せられましたことの要領は次の通りであります。


   『大東亞戰爭が初まってから陸海軍のして來たことを見ると、どうも豫定と結果が
   大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、總長が申したように本土決戰
   の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその貼について心配している。

   先日参謀總長から九十九里濱の防備について話を聞いたが、實はその後侍從武官が
   實地に見て來ての話では、總長の話とは非常に違っていて、防備は殆ど出来ていない
   ようである。

   又先日編制を終わった或る師團の装備については、参謀總長から完了の旨の話を聞いたが、
   實は兵士に銃劍さえ行き渡って居らない有様である事が判った。


   このような状態で本土決戰に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。

   或いは日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。

   そうなったらどうしてこの日本という國を子孫に傳えることができるか。

   今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が將來
   再び起ち上がって貰う外に、この日本を子孫に傳える方法はないと思う。

   それにこのまま戰いを続けることは世界人類にとっても不幸なことである。

   自分は明治天皇の三國干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。
   堪えがたきこと忍び難きことであるが、この戰爭をやめる決心をした次第である。』


   陛下のお言葉は人々の號泣の中にとぎれとぎれに伺いました。
   日本國民と更に世界全人類の為に自分のことはどうなっても構わないという
   陛下の宏大無邊なる御仁慈に對し、唯ひれ伏すのみでありました。


   ……陛下が日本人のみならず、世界人類の平和と幸福のために、自分のことは
   どうなってもよいというお考えで、この聖断を賜りましたことは何とも有難いことで
   あります。

   ……私は親鸞の教えのことはよく存じませんでしたが、唯常識として阿彌陀様は
   『衆生を済度することが出來なければ佛にはならぬ』という誓願を立てられて、
   ただひたすらに、衆生済度の本願に生きて居られるのだということを聞いて居りました。

   阿彌陀様にこの本願であるが故にこれを信ずることによって、
   衆生はその他力によって済度されるのだというのであります。


   私は陛下のお姿を拜しお言葉を伺っている中に、陛下が御自分のことはどうなっても
   構わない、日本人が一人でも多く生き残って、否、世界全人類が幸福になるように
   というお心持を拜しましたときに

   彌陀の本願というものはこういうものではなかろうかと考えました。

   陛下のお姿には後光がさしていたと申す外はありません。
   もし繪に寫すのならその尊い有難いお姿は後光を書きそえて表わす外はないで
   ありましょう。

   私は陛下におすがりすることによって、そのお力によって救われると思いました。」

   迫水久常氏は当時の感想をこのように書いているのであります。

天皇は身を捨てて國民を救われた〜その3 (3897)
日時:2011年08月14日 (日) 17時22分
名前:伝統

(第2回目の聖断)

   その後、ポツダム宣言を受諾した場合の日本の「國體の護持」について疑問があり、
   そのために連合国に対しての回答が遅れていたのでありますが、米國側からは
   日本の回答を迫ってまいります。

   それで迫水氏は鈴木總理を促して陛下より最終段階の御前會議を召集して頂く
   ことにしたのでした。
   迫水久常氏は、終戰直前の御前會議の模様を次の如く語っていられます。


   「總理は14日早朝参内して拜謁して陛下の方から16人の大臣全部、
   枢密院議長、海軍の總長のお召しを願って、おさとしを頂くことにお願い申し上げ
   お許しを受けました。

   14日午前10時一同はお召しによって参内、先般の御前會議の室に集まって
   陛下の御出席をお待ちしました。私も出席致しました。
   今度は全部で13人であります。

   總理より経過の概要を説明したあと、陸軍大臣、参謀總長、軍令部總長から
   それぞれ先方の回答では國體護持について心配である。

   しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答は得られないであろうから
   このまま戰爭を継続すべきであるという意見を聲涙共(せいるいとも)に
   下って申し上げました。

   陛下は總理の方に向かって、外に發言するものはないかという意味の御合図が
   あって後、『皆のものに意見がなければ自分が意見をいおう』と前提せられて
   お言葉がありました。


   『自分の意見は先日申したのと変りはない、
   先方の回答もあれで満足してよいと思う』と仰せられました。


   號泣の聲が起こりました。
   そして陛下は玉碎をもって君國に殉ぜんとする國民の心持ちはよく判るが、
   ここで戰爭をやめるほか日本を維持するの道はないということを、

   先日の御前會議と同じように懇々とおさとしになり、更に又皇軍將兵戰死者、戰傷者、
   遺族更に國民全般に御仁愛のお言葉があり、しばしば御頬を純白の手袋をはめた
   お手にて拭われました。

   一同の感激はその極であります。
   椅子に腰かけているのに堪えず、床にひざまずいて泣いている人もありました。


   しかし私共を現實の敗戰の悲しみを超えて、寧ろ歓喜にひたらせたものは、
   この次に仰せられた陛下のお言葉で御座います。

   陛下は『こうして戰爭をやめるのであるが、これから日本を再建しなければならない。
   それはむずかしいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには國民が
   皆一つの家の者の心持ちになって努力すれば必ずできるであろう。
   自分も國民と共に努力する』と仰せられました。


   ……陛下のお言葉の中には全く他日の復讐を期するというお心持はないのであります。
   宏大無邊な御仁慈は國民のみならず、廣く、人類の安心平和幸福を希(こいねが)い給い、
   又將來日本が國際社會の一員として世界平和の確立に大いに寄與するため、
   新しき日本が新しき民主主義の基礎の上に、道義の香り高き文化國家を再建すること
   を希い給うたのであります。」
 

   こうして陛下は一般國民に對しては納得の行くように、みずからマイクを通じて
   話しかけてもよいと仰せられ、昭和20年8月14日午後11時、
   米國にポツダム宣言を受諾する旨の電報が發せられたのであった。

    (以上で、第8章終わり)
                  <平成23年8月14日 記>



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