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生命の實相 『釈迦と維摩』の戯曲を読む人々へ (3964)
日時:2011年08月18日 (木) 14時04分
名前:童子

          一、 維摩経を読んで

 維摩経の講義の中に『大乗の菩薩は、衆生病むが故にわれ病むのであって、衆生の心の病を自分に現して見せなければ衆生に分らないから、わが体に振替えて見せて悟らすのが大乗の菩薩である。大乗の菩薩は既に現世の生を卒業して当り前なら、此の世に生れて来ぬ者である。それが此の世に生れて来て、病気などして苦しむのは、衆生を救わんがために其のようなことをするのである。すなわち、菩薩の病気といふものは、大悲にて起る。』 と維摩が云っているのであります。


 ここに大悲というのは大きな悲しみではない。慈悲の悲であります。此の『悲』という字は『楽(らく)を与える』という意味であります。 『慈』というのは苦しみを抜くという意味であります。 だから『慈悲』とつづけて、人の苦しみを見て、『あゝ可哀想ぢゃ、あの苦しみを除ってやりたい、そして楽を与えてやりたい』 というのが慈悲であります。


 生長の家ではすべての人間を観世音菩薩 ― すなわち大乗の菩薩のあらわれと観る。そこで良人なら良人の病は、大乗の菩薩の大愛に依って起るのだと観るのでありまして、真理を知らせて本当に、法の楽しみ ― 法楽を与えんが為に自分の身に病気を現わして、衆生の心を浄めてやりたい ― 『お前の心は斯ういう相であるから省みてその心を浄めよ』と、 観える形に相手の心のすがたを現わさんが為に出て来るのであります。

 そこで御主人が病気であれば、あゝ是は大乗の菩薩の姿である。観世音菩薩の悲願の現れである。自分の心に醜い姿を現わして私を救って下さるのである。 そういう風に見るのがよいのであります。


 御主人に限りません。子供の病気は親の心の影であります。子供に限らず、家族のうちの誰が病気であっても吾々はそれをその人が悪いというといけないのです。無論、病人自身は脚下照顧して自分自身を反省すべきであるが、環境はみな自心の展開であるから、 『あの人が悪いのではない。相手は自分の心の鏡であるのだ』 斯う思って、その相手を拝み、自分の心を反省して気のついたところを改めて自分の心の相を直せば、周囲(良人又は子供)にあらわれている病気が治るわけであります。




  ****

 『白鳩』誌 27年9月号 「忘れ得ぬ人々」から 約10頁転載します

 原文は正字でありますが、現代略字をお許しくだい

二、或る奥様の話 (3966)
日時:2011年08月18日 (木) 15時45分
名前:童子

 あの維摩経の講義を読んでおさとりになった奥さんがあります。

 この奥さんは或る時自動車に触れて外傷性の肋膜炎になった。それ以来、道を歩くことが恐ろしくて恐怖心で外に出ることが出来ない。半町程距っている市場に行くのも恐ろしいというので、外部に出られなかったのが、生長の家に入信なさってお治りになったのですが、その奥さんは嫂と大変仲が悪くて常に争っていられた。

 そして或る日、嫂さんに非常に侮辱されて口惜しくて口惜しくてたまらない気持で茫然と電車を待って停留場の一角に佇んでいると、突然自動車が後方から衝突して怪我をした結果、外傷性肋膜炎になったのであります。 それ以来、自動車に乗れないばかりか、あらゆる乗物が恐ろしくなって、街さえ歩くことが出来なかったのです。


 それが『生長の家』をお読みになって、人間は神の子であり、この世界は神の造り給うた完全な世界であって、歩けない人は一人もない。嫂が悪いと見えたのは自分の心の影であると悟って、心の世界で嫂と和解せられた。 すると乗物恐怖症が消え、街も自由に歩くことが出来るようになられた。

 それから、大変有難くなって、自分の主人は痔が悪いものですから、此の主人も何とかして病気を治してあげたいと思って、一所懸命に「あなた『生命の實相』を読みなさい、読みなさい」というのでしたけれども、中々お読みにならないのです。 そこで治してあげたいと云う執着の心で『生命の實相』に引っかかったのであります。

 『生命の實相』の悟りというものは、心をさらさらとさせるのが『生命の實相』の悟りなのですが、『生命の實相』にでも引っかかってはなりません。 人間の生命の實相が完全だと云うことは、もう既に完全である良人の生命の實相(ほんとのすがた)を観よと云うことであって、「お前の生命は不完全だから、完全になるために此の本を読め」と云うのではありません。

 それだのに此の奥さんは『生命の實相』に引っかかったために、『生命の實相』が蝿取黐みたいになって、それが心に粘りついたのであります。どうも二進も三進も行かなくなったのです。 『あなたは是の本を読まないから治らないのですよ』と始終口うるさくいって、頻りに『生命の實相』を読むようにすすめられたのです。

 そうすると、何でも、良人と云うものは天邪鬼で奥様から勧められると反抗したくなり勝ちなのであります。 そんなものに引っかかってなるものか。 そんな本に書いてある事位は既に知っている、 というので、夫婦の間に争いが起った。

 この争いの心と云うのがまた痔を悪くする。いても立ってもいられない気持が痔を起すのです。 痔だとジッと坐っておられないでしょう。それが、痔を患う人の心のすがたであります。 どうしても痔が治らないばかりか、だんだんその痔核が大きく膨れて来て、一寸歩いても身体全体に響いて飛び上る程痛いというような状態になったのであります。

 ところが、此の奥さんが或る日『生命の實相』を読んでいられると気がついたそうです。


 『生命の實相』というものはそんなに引っかかるものではないのだ。生命の實相というものは、さらさらと引っかからないものが生命の實相である。青空に浮ぶ白雲がいくら流れても引っかかりもせず、跡をも止めず、そのまま素直である。 あゝ是が生命の實相の本当の姿なんだ。私も此の青空のような心にならなければならない。 現象の姿はただ雲の去来する影に過ぎない。 雲はいかほど去来しても青空は汚れない。現象の姿はどんなにあらわれていても良人の生命の實相はあの青空のように清くけがれない、すべてのものにそのまま感謝するのが是が生命の實相であるのだ。良人の不完全な相を見て治そうとするよりも、良人の実相に感謝しましょう。 そう気がついたのであります。


 そうすると、今、私の主人が病気で寝てこんなに苦しんでいるのも、是は自分の心が鳥黐のように引っかかっていることが、これが主人にうつっているのではないか、まことに申訳ないことだ。斯う思って、夜半御主人が寝ていらっしゃる枕頭に起き出て来て、良人の寝顔に対って合掌して拝まれたのですね。 これが維摩経にある、『煩悩は如来の種』と云うことになるのであります。若し、この煩悩に引っかかる心がなければ、良人をこんなにも切実に拝む心にはなれなっかたでありましょう。


 「あゝ悪うございました。私の心が『生命の實相』に引っかかって、あなたを悪い悪い悪いと責めておりましたが、本当はあなたは悪くなかったのです。私の心の相が映っていたのでございます。私が悪かったのです。あなたは神の子であり、實相に於いて完全圓萬な佛であり、観世音菩薩のあらわれであり、もう既に救われていらっしゃる。常に健康でどこにも病気のない、自由自在な《いのち》でいらっしゃるのでした。それなのに、私の心が引っかかって、そして貴郎を、そういうような病気の相にあらわしたのです。そしてその自分の引っかかった心があなたの体に現れて、斯ういう風に痔になっていらっしゃるのは洵に申訳がございません」 といって、一心に拝まれたのでありますね。


 そうしますと、或る朝、御主人がお便所においでになって、廊下で奥様と出会いがしらに顔を見合わせると、

 「今日は不思議だ、不思議なことがあるものだ、すっかりあのひどい痔がよくなって、今便所に行ったけれどもちっとも痛くない」 斯ういって喜ばれたのであります。 

 奥様が良人の實相を観世音菩薩として拝まれたとき、完全圓萬な良人の實相があらわれて病が消えたのです。 そうすると、良人は「大乗の菩薩」であり、「あなたが『生命の實相』を読まぬから病気が治らぬ。病気がなおらぬのはあなたが悪いのだ」 と考えておったのは間違いであって、実は、奥様の心の状態を身にあらわして病気しておられたのが大乗の菩薩であるところの良人の姿であったと云えるのであります。


 奥さんが鳥黐桶に足をつっ込んだような、そういう引っかかった気持をしておられたから、その心を救わんがために、大乗の菩薩たる良人が痔をあらわして苦しんでいたのであります。


 生長の家は『生命の實相』でも執着したらいかぬというのであります。 善でも「これが善である」と形をつかんだら悪になるのであります。中々難しいようですね。だけども一番やさしいのが生長の家の生き方なのであります。


 何でもくっ着いたら窮屈になります。 動けなくなります。 その窮屈な状態から解放されるように教えるのが生長の家なのですから、最もやさしい楽行道が生長の家なのであります。

三、 その頃の想い出 (3968)
日時:2011年08月18日 (木) 16時56分
名前:童子

 それは日本の軍国主義盛んなりし時代のことでありましたが、病気は心の迷いに依って起るというので、心を一転することによって無数の病気が治ったのであります。


 近眼なども「近眼はチカメだ」と一喝することによって治ったこともあるのです。チカメと云うのは實相がわからないで、身近にある現象ばかりに心がひっかかっていることなのであります。 だから迷いによって近眼起っているから、近眼を治すには迷いを取去りさえすればよいと云うことになったのであります。

 すると、「迷いに依って病気が起るとすると、畏多くも天皇陛下が病気にお罹りになった時には、天皇陛下が迷われたと云うのか」 と云って極右翼を装ったヤクザ者が恐喝に来たことがありました。


 「陛下が近眼でいらっしゃるのは陛下が近眼(ちかめ)か、近視眼者流だと貴様は云うのか。生長の家の教えは不敬であるから、解散させねばならぬ」 と云うのです。

 大本教の解散命令が出、「ひとのみち」が解散命令を受け、次に大きな新興教団は生長の家だから、この次の解散は生長の家だろうと云うので、いずれも神経をとがらしている頃でした。

 しかし、其頃も唯今も、生長の家の教義も信念も決して変わらないのであって、生長の家は決して機会主義者オポチュニストではありません。


 大乗の菩薩は衆生の心を浄めんとの本願に依って身に病いをあらわすのであって、陛下は『大乗の菩薩』であるから、陛下の身に近眼が現れて来るというのは、それは吾々国民、特に国民全体の代表者として政治をとっている人たちの心が迷って近眼であったから、その大多数国民の「近眼の心』の有様を陛下は自分の身にあらわして近眼の姿をあらわしておられたのであります。


 良人の病気が妻の心のすがたの反映であるように、国民の心の「チカメ」が〃国民の総意の象徴〃(その頃はこんな語は使わなかったが実質は同じことであります)であらせられる天皇の玉体に鏡に映るが如くあらわれていたのであります。 

 だから天照大御神の神勅には『我を見ること此の鏡を見るが如くせよ』と仰せられてあったのです。


 天皇は国民総意の象徴として鏡の働きをしていらっしゃる。ですから、国民のチカメの総意が陛下に現れて来るということになって、そこに畏多いことながら、陛下は身に近眼を現わされていたまうのであります。


 国民の心のチカメは国民の総意の象徴たる天皇に現れる。 若し国民が(その内には当時の軍閥も含まれている)チカメでなかったならば日本はあんな愚かな太平洋戦争などしなかったでありましょう。

 吾々は天皇は『国民の総意(こころ)の象徴』であると云うことを、よく身に心に体して常に反省し、心を浄めて陛下の御宸襟を悩まし奉らないようにしなければならないでありまして、現在の陛下のお姿を拝するにつけても、日本国民の心はまだまだ充分反省すべき余地があると思うのであります。

四、 維摩の部屋は何故空であったか (3969)
日時:2011年08月18日 (木) 17時48分
名前:童子

 文殊菩薩が維摩居士の病気見舞に行ったときに、部屋は空(からっぽ)であって唯一人維摩だけが寝ているのであります。

 是だけ広いお金持の家なら沢山の家の子郎党などがおりそうなものですけれども誰もいない。そこで空(からっぽ)であるというのは『空(くう)』を現わしているのです。空(くう)でなければ、自由自在になれません。何かを掴んでおればそれだけ不自由なのです。だから仏の国というのはからっぽなのです。

 〃からっぽ〃だから、極楽であり、からっぽだから無尽蔵のものが生ずるのです。 これが空即是色であり、無一物中無尽蔵であります。 吾が富をつかんで、「私は金持になりました」と富を掴んだときにはきっとその人は富に心が引っかかりどこかの点で心の「自由自在」を失っているのでありますから、形は富んでも心はそれだけ貧乏になり餓鬼道に堕ちているのです。 だから真の仏の国はからっぽであり、真に富める者は『掌中無一物』です。

 『掌中無一物』といっても何もない貧窮の状態ではないのであります。あの物理学上のエーテルのように何もないところから一切のものが生れて来る、『空(くう)』のままに一切が其処にある、必要に随って一切が自由自在に出る世界なのであります。

 執いやらしい心、欲望、執着、凝り、そういうものが一切ないから、本当のからっぽであり乍ら一切が其処に備わっている。此れが『空即是色』と云うもので、そう云う世界が佛の国である。それが極楽の世界である。或る人は生長の家は『色即是空』は説いてあるが、『空即是色』は説いていないと評したが、これが、空即是色である。 佛の国は空のままで一切が備わっている、これが實相です。


 どうして佛の国は空であるかというと、「空であるから空なんだ」ここのところの問答が中々難しいのです。

  「何故空であることが判るのか」 
  『「何故」はない、「何故」があるなら空ではない。「何故」と分別出来るならば空ではない。分別しようにも無いのが空なのぢゃ』
  「その空であることを何によって悟るのか」
  「悟りに依って悟るのでぢゃ」
  「では、悟りというものは何処にござるのか」
  「佛の中にある」
  「その佛というのは何処にござるかの」
  「佛は衆生の中にある」 
    ・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・

 問答はまだまだ続きますが、これは私の戯曲をお読みになるときの心構えにつて申し上げたのであります。

五、 極楽は空である (3970)
日時:2011年08月18日 (木) 18時18分
名前:童子

 さて佛の國というのは空である。 空というのは引っかかりのない、心に迷いがない。 惜しいとか欲しいとか、或は名利の欲とか、貪りの欲とか色欲とか色々の芥がない。 そんなものがないから空である。空であるから引っかからない自由世界が佛の國である。そういう世界が極楽浄土である。

 どうして佛の國がそういう世界だということが分るかとたづねる人がある。 また時々斯ういうことを言われるのです ― 神様が完全であると云うことはどうして分るか ― 何故完全であるのか、斯ういって質問なさる人があるのですが、理屈をいえば言えぬことはないのですけれども、神様が完全であるということについては、何故はないのです。


 神様は完全であるから完全である、というだけのことであります。


 吾々の心の中に描かれた最高完全の理想を、客観界又は絶対界に投影して神というのですから、神は完全であるほかはない。吾々の内に神(なる理想)が宿っているから神を知ることが出来る。

 それと同じでありまして佛の國が何故空であるかというと、空であるから空である。吾々の心が本来『空』であるから『空』を知ることが出来るのです。


 吾々が執着とか怒りとか、財産の欲とかいろいろなものを捨ててしまって、本来の姿にかえったとき、自分の心が空であり、其処に佛の國があると云うことがわかるのです。

 何故その佛の國が空だという『何故』はないのであって、そんなものがないところが佛の國だというのです。吾々が心からそんなものを掴んでいるもの悉く放してしまったら、そこが佛の國であります。

 『心外無別法』 『是心是佛』 と佛教では言います。

 キリストは『神の國は汝らの内にあり』と申しました。神の國も、佛の國も別のところにあるのではないのであって、執着で掴んでいる時には、『佛の國』は隠れておるが、空(から)になったら佛の國になるのであります。


 道元禅師は『空手(くうしゅ)にして郷に還る』と云われました。何故佛の國は空であるかと云う理屈ではないのであって、放った時に自ら佛の國が現れて来るのであります。

六、 悟りと云うこと (3972)
日時:2011年08月18日 (木) 19時21分
名前:童子

 だが、その放ったら佛の國がそう現れて来るということは、それはどうして知るのであるかという悟りで知る。 悟りというものは体験である。宗教は体験である。 体験のない悟りは九官鳥が人の云う言葉を鸚鵡返しに意味もなく喋るのと同じであって、悟ったようなことを云うが、本当は何の意義も把んでいない。

 そんならその体験による悟りと云うものはどこにあるかと、理屈を云う人もあるのですが、悟りというものはどこにあるかと云うと(リッシン)扁に(吾)と書いてありますように、本来吾々の心の中にあるのです。 自分の内に佛の世界があるのです。自分の内に佛の世界が初めからあって、そこが極楽なんです。 これを『一切衆生佛性あり』と云うのです。


 その『佛性』はどんなものか『空』である、引っかかりがない。それだから自由自在だ、自由自在だから極楽である。 極楽がくらまされて其の圓萬な姿が消えた時に、そこに争いや、病気や、地獄、餓鬼、畜生の相があらわれるのです。


 極楽と云うものは本来ある。これから極楽を造るのではない、極楽の姿は初めから自分の心の中にあるのであって、その本来の姿を出すのは、吾々の心の世界の掴みというものを放したら好いので、放したら空であって、その空の世界が佛の世界で、極楽の世界、圓萬で、完全である。

 そんならそれをどうして知るかというと、吾が本心を出せば好いのです。


 この世を地獄ぢゃと思う人は自分の本心を出さないでニセ物を出すからなのです。自分の本心の中に初めからあるところの圓萬な實相、それが吾が心を出す。 即ち(リッシン)に(吾)が心というところの『悟』を得たことになるのであります。


 佛の世界と云うものは、他所から色いろと掻き集めて来て混合して出来るものではないのです。あそこから百萬圓寄付して貰い、ここから何千圓寄付して貰いして、諸方から掻き集めて佛の世界が出来るのではなくて、佛の世界というものは、自分の心の中から出して来るのです。

 佛の世界がどこにあるかということは悟りで分る。その悟りは自分の心の中にある。その自分の心というものはどこにあるかというと、衆生の中にある。 佛は衆生の中にある。衆生が此のまま佛である。

 衆生が此のまま佛であったらそしたら悟らす必要はないではないかと云う人がある。本当です。悟らす必要は本当は何にもないのです。悟らす必要は何もないのですけれども、多くの人は何か掴んでいる。その掴みを放たせるだけなのです。


 悟らすために説教するのではないのであって、心が執着で〃そのまま〃になっていないから、その執着を放たせて〃そのまま〃にさせるだけなのです。

 『無執着』になった状態が、そのまま佛であります。佛はホドケルと語源が同じでありまして、執着から解放された状態と云うのであります。


 多くの人は悟らねばならぬと思って、『悟り』を掴む。つかんだら、もう歪んでしまって、本来の相を失う。 ですから凡夫は迷いで掴んで、もう一つ悟りで掴んで、そして両方から歪めては、この世は地獄だ鬼千疋だなどと云うのであります。

 そこで、悟りも執着も悉く放ってしまうことが必要です。悟りに執せず、迷いに執せず、そのままの本心を出して来たときに、圓萬完全な本の相があらわれて此の世が此の侭極楽になるのであります。



                          (この項終り)



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