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西郷隆盛 (4625)
日時:2011年09月24日 (土) 18時11分
名前:伝統

今日、9月24日は「南洲忌」。


明治維新の立役者である「西郷隆盛」が自刃した日です。

西郷隆盛が、不平士族に擁されて起こした西南戦争(西南の役)。
明治10年西南の役の際、田原坂で官軍に敗れた西郷隆盛が自決をした命日。
享年50。彼は西郷南洲翁と呼ばれるため、命日がこの名称となった。


雨は降る降る、人馬は濡れる・・・と歌われるように
田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂だそうです。

南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩摩軍が、
明治10年3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返し1万人余の戦死者を
出したという「西南の役」。その最大の激戦地が「田原坂」でした。

熊本城攻略に失敗し、城山での官軍の総攻撃により被弾、
1877年(明治10年)の9月24日に自刃した。

官軍として参戦した山県有朋は、届けられた西郷の首をなでて落涙したという。


<参考Web>
 @西郷隆盛 南洲翁遺訓
  http://www.youtube.com/watch?v=1zsHLMx1k0w

 A西郷隆盛 三波春夫 Minami Haruo 1977
  http://www.youtube.com/watch?v=GTUrhAHyqkU&feature=related

 Bブログ「谷口雅春に訊け」(2011年9月24日)・・・(9月25日追加)
  http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65591606.html


               <平成23年9月24日 記>

西郷隆盛と坂本龍馬 (4712)
日時:2011年09月28日 (水) 04時51分
名前:伝統

(1)出会い

  @最初の出会いは、元治元年(1864年)、勝海舟の働きかけで、龍馬が薩摩屋敷に
   西郷隆盛を訪ねたのが最初と言われております。

  Aその後、海軍操練所閉鎖によって、勝海舟は龍馬らの行く末を案じ、
   当時面識のあった薩摩藩の西郷隆盛に対し、龍馬らの庇護を求めました。

   勝に惚れ込んでいた西郷は、その依頼を承諾し、龍馬らを薩摩藩邸に匿いました。
   西郷と龍馬の本格的な交流は、この時から始まったと言えましょう。

(2)薩長同盟

   慶応2(1866)年1月、龍馬の奔走により、西郷隆盛と桂小五郎(後の木戸孝允)
   により、薩長同盟が締結されました。

   西郷そして龍馬。最初の出会いから1年余り経った後、二人は薩長同盟という
   大仕事を成し遂げたのです。

(3)お互いの評価

  @龍馬→隆盛

   「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。
   ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る」


  A隆盛→龍馬

   「天下に有志は多く、自分はたいていこれと交わっているが、度量の闊大(かつだい)
   なること、龍馬ほどの者はいまだ見たことがない。龍馬の度量は計り知れぬ」


   両者とも、相手の「器」の大きさを見抜いており、お互い信頼しあいながら、
   明治維新へと日本を導いていきます。

・・・・・・

   この掲示板において、”破邪顕正 さま”による「器」に関した記事がありますので、
   以下に、再掲示しておきたいと思います。
   (”破邪顕正 さま”のお許しをお願い申し上げます)


   『「器」は「気」なり (617) 』(2011年04月15日 (金) 17時46分)


   「器」という話の続編です。
   「器」で思い出すのは、坂本龍馬の西郷隆盛評でありますね。

   「われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。
   小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。」

   こういう言葉を聞きますと、今の危機の時代に最も必要なものは「器」である。
   そして、今の時代に最も欠落しているのも「器」である、という思いがしてまいります。

   それでは、「器」とは何か?
   これもまた四つの視点から考えてみたいと思います。

   まず、最初は「器」は「気」なり、ということであります。
   今は、「気」と書きますが、どうせなら昔の「氣」を使いたいですね。

   中の、「米」がいいじゃないですか。
   これは、四方八方に生命エネルギーを放出していく姿を表わしたものだそうで、
   「氣」を見るだけで、何だか命が迸りでるような印象を与えます。

   ところが、今の「気」、中が「メ」ですよ。
   何だか、「〆切り」の「メ」に見えて、心が「締め切り」にあったような気がして、
   どうも当用漢字って好きになれません。

   それはともかく、「器」は「気」なり、の話です。

   この「気」を用いた四字熟語に、「気宇壮大」という言葉がありますように、
   「器」とはまさしくその人の「気」にあると思うのですね。

   では、どういう「気」を培いたいか?
   「六然」これに尽きるでしょうね。

   @自処超然(自ら処すること超然)・・・物にとらわれない心でいる。

   A処人藹然(人に処すること藹然)・・・相手を楽しませ和気藹々の雰囲気にする。

   B有事斬然(有事には斬然)・・・事がある時はぐずぐずしないで迅速果敢に行う。

   C無事澄然(無事には澄然)・・・事なきときは水のように澄んだ気でいる。

   D得意澹然(得意には澹然)・・・得意なときは淡々とあっさりしている。

   E失意泰然(失意には泰然) ・・・失意のときは泰然自若としている。


   この「六然」の「気」の世界を歌にして詠まれたのが明治天皇様の次の御製ではないかと
   思わせていただいております。

   ○あさみどりすみわたりたる大空の
               ひろきをおのが心ともがな

   ○さしのぼる朝日のごとくさわやかに
               もたまほしきは心なりけり


   後者の御製について、『光明道中記』(341頁)にこう記されてあります。

   …さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むべきときには沈んで悲しむと云うことがない。
   落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。

   烈々と照っても功に誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕らず、
   去って悲しむと云うことがないのである。

   …まことに広大無辺なる姿である。…どんな時にも光のみを見るのが日本人である。


  「器」は「気」なり、結局、本来の日本人になりきれということなのでしょうね。

  これを大いなる励みとして、共に精進してまいりましょう!再拝

・・・・・・
               <平成23年9月28日 記>

維新に於ける役割 (4733)
日時:2011年09月29日 (木) 09時23分
名前:童子

 内村鑑三は彼著『代表的日本人』にて


 維新に於ける西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう。或る意味に於て、明治元年(1868年)の日本の維新は西郷の維新であったと言い得ると思う。勿論、如何なる人も一人にて一国民を再建することはできない。我我は新日本を西郷の日本と称すべきではない。斯く言うは確かに此の事業に参加せる他の多くの偉大な人人に甚だ不公平を行うものである。

 実際、多くの点に於て、西郷には同僚の間に彼より傑れた人人があった。経済編成替の諸問題に就ては、西郷はおそらく最も適任ならざる人であったであろう。彼は、内政問題の細目には、木戸、大久保のごとくに適してはいなかった。三條、岩倉は、維新後の国内安定の事業に当り、遥かに彼の右に出づる人物であった。我我の今日有するがごとき『新帝国』は、これらの人物すべてがいなかったならば、存在しなかったであろう。


 併し余輩は、維新は西郷なくして可能であったか如何かを疑うものである。木戸なり三條なりは我我になかったとせよ、而かも維新は、おそらくあれほどに成功はしなかったとしても、我我は其を有ち得たであろう。

 必要なるは、全運動に出発の合図を与え得る始動力であり、其に形を与え其を『天』の全能なる法則によりて命ぜられた方向に推進せしめ得る、人物である労役にすぎず、彼より〃より〃小なる人人の為し得るものであった。

 それゆえ、余輩が西郷の名前を斯くの如く『新日本帝国』と密接に結びつける所以のものは、彼が、一つの力 ― 彼の大なる心の中に発生し後には彼の時代の当時進行中であった種種なる事件の進路に適用された一つの力 ― 出発合図者《スターター》であり方向指示者《デイレクター》であったことを、信ずるからである。



 ***
 出発合図者スターターと云う捉え方が面白いですな

西郷隆盛にみる「器」〜日本中が雨漏り (4784)
日時:2011年10月02日 (日) 04時35分
名前:伝統

・・・・・

(1)薩摩藩の「郷中」と呼ばれる6歳から25歳くらいまでの少年、青年たちの
   自治教育組織は、絶対に負けない、卑怯なことはしない、命をかけても名誉を守る、
   弱いものいじめをしない、と武士道を徹底させました。

   そこから、西郷隆盛や大久保利通ら英雄が現れました。

(2)器量を大きくする5つの道。

  @修行をする。
  A山っ気をもつ。
  Bゆっくり進む。
  C何ももたない。
  D身を捧げる。

       *『人間の器量』(福田和也・著)より

・・・・・


キラ星の如くスターが誕生した明治維新史の中でも
西郷隆盛は人間的に一番、”器”が大きかったと言われております。



坂本龍馬の師匠ともいえる勝海舟は、西郷をこう語っています。

「俺は今までに、天下に恐ろしいものを2人見た。
それは横井小楠と西郷南洲(西郷隆盛)だ」

「西郷がおらなければ維新の事はできないよ。西郷一人でまとまったのさ」

切れ者・勝海舟がここまで絶賛しているのです。

          勝 海舟 - 三波春夫
          http://www.youtube.com/watch?v=0f_0-r7jyh0&feature=related



こんな話もあります。

坂本龍馬が、鹿児島の西郷隆盛の家に行き、泊まったことがあります。

簡素で小さな家なので、寝床に入ってからの夫婦の会話が、
聴くともなしに耳に入ってきたという。

妻(糸子さん)は、久しぶりに自宅に帰った夫に、
「家の屋根が腐って、雨漏りがして困っております。どうか早く修繕してください」
と、繰り返す。

さて、西郷は、どう答えるのか。

聞こえてきた言葉は、
「今は、日本中が雨漏りしているんだ。我が家の修繕なぞしておれんよ」

 
龍馬は、これを聞いて、「さすがは、西郷は偉い」と感心したという。

西郷といえば、この時期、日本の将来を左右するほどの存在であった。

しかし、妻にとっては、家庭のことを、ほったらかしにしている夫でしかない。
抗議するのは当然である。


西郷にしてみれば、妻に「お金がない」とは言えない。
頭の中は、龍馬から持ちかけられた薩長連合を結ぶべきか、否かでいっぱいだった。

仕事から離れ切れないのだ。妻には到底、理解してもらえない。


しかし、「日本中が雨漏り」とは、なんとスケールの大きな弁解だろうか。

限りない深さで人を優しく包み込む。

それが、西郷隆盛という男の器です。

           <合掌 平成23年10月2日 拝>

戊辰戦争そして山形県にある南洲神社 (4802)
日時:2011年10月03日 (月) 13時58分
名前:伝統

薩摩藩(鹿児島県)&長州藩(山口県)を中心とする明治新政府勢力。
              VS
会津藩(福島県)&庄内藩(山形県)を中心とする徳川幕府を支えた勢力。


この両者の戦いを戊辰戦争といいます。
勝ったのは、新政府勢力です。


ここで、ひとつ奇妙なことがあるのです。


負けた庄内藩には敵である薩摩藩のボス、
西郷隆盛を神様として祀った南洲神社があるんです。


山形県酒田市に南洲翁(西郷隆盛)の遺徳をたたえて、
昭和51年(1976年)に創建されています。


戦争で負けてるのに、敵を神様として祀るって一体そこに何があったのでしょうか?


負けた庄内藩の戦後処理に当たったのは薩摩藩でした。


かつて三田の薩摩藩邸を焼き討ちにし
 (鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)、
戊辰戦争でも新政府軍に多大な損害を与えた庄内藩。

そのため、戦後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。 

庄内藩主・酒井忠篤は、
切腹の覚悟を決めて、薩摩藩のボス、西郷隆盛の前に現れました。


生きては帰れないであろう……
負けた側のボス、酒井忠篤は切腹する覚悟が決まっていたのです。


しかし、平伏した酒井忠篤が顔を上げると、そこにあったのは……


西郷隆盛の穏やかな表情でした。西郷の表情が、なごんでいる。


西郷の考えは、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と。 


「悪かったとおわかりになれば、それで結構。切腹して詫びるなんて、とんでもないこと」


続いて、庄内藩が武器一切の目録を差し出すと、

「貴藩は、北方からのロシアの攻略に対する備えとなる藩です。
 この武器は、すべてそのまま保管しておいてください」

え、武器も没収されないんですか!?


庄内藩を敵ではなく、新しい時代の同胞として遇する西郷の誠実な態度に、
庄内藩の藩主はじめ家臣一同、涙を流して感動したと言われています。

この時の感動が、戦禍にまみれた庄内の地を癒しました。
敗者でありながら、庄内藩には愛が溢れました。


この感動が100年以上語り継がれ、酒田の地に西郷を祀る南洲神社が作られたのです。


庄内藩の人々は西郷の考え方に甚(いた)く感激、感謝し、
戊辰戦争後、人知れず筋道をたてて西郷を訪ね、教えを請うようになったという。 

明治3年(1870年)には、藩主・酒井忠篤自らが、
78名の藩士を引き連れて、西郷の教えを乞いに鹿児島を訪れ、薩摩の人材教育を学びました。

”西郷ドン、色々教えてください”と。


後年、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたのが、明治23年発刊された
「南洲翁遺訓」であります。これを全国を歩き回って配ったのです。


西郷の庄内藩に対する姿勢も素晴らしいですが、庄内藩の恩の返し方も粋です。

『南洲翁遺訓』には、西郷の哲学がおさめられています。

例えば、

(1)「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
   この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

(2)「人を相手にせず、天を相手にせよ。
   天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、
   我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし」

   常に天を相手にするように心がけよ。
   天を相手にして自分の誠を尽くし、
   決して人を咎(とが)めるようなことをせず、
   自分の真心の足らないことを反省せよと。
 

強い立場になったものがやるべきことは、相手の気持ちをいたわることです。

憎しみの連鎖は愛によって断ち切れるんです。

           <合掌 平成23年10月3日 拝>

【西郷隆盛と門番】 (4824)
日時:2011年10月04日 (火) 18時13分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(5月27日)」より

・・・・・
  
  こんなエピソードがある。

  明治4年ごろのことだろうが、あるとき西郷は宮内省へ用事があって出かけた。
  夕暮れで、ひどく雨がふっている。

  宮内省の門へ来て気がつくと、西郷は門鑑(もんかん)を忘れていたのだ。

  「まことにすまぬが、急用なので通していただきたい」
  と、門番に頼むと、

  「門鑑がなければ通せませぬ」
  若い男だが、きっぱりとはねつける。

  粗末な縞(しま)の着物に袴をつけ、大小を横たえている大男が、まさか西郷隆盛だとは思わない。


  「いかぬかな?」

  「規則です」

  「フム。そりゃたしかにそうじゃ」

  こうなると、自分の名前で門を通るということができなくなるのが西郷である。

  しばらく、茫然(ぼうぜん)として雨にぬれたまま立ちつくしているところへ、
  岩倉具視が馬車でやって来て、

  「何をしておられる?」

  「いや、門鑑を忘れたので…」

  そこで、岩倉が、
  「けしからん、このお方は西郷陸軍大将じゃ」 、門番を叱りつけた。

  門番はびっくりしたが、それでも屈しない。
  西郷だろうとなんだろうと、自分は門番としての責任を果たすまでだ、というわけである。

  岩倉右大臣はカンカンになったが、


  「そりゃ、あんたが悪い」
  西郷は岩倉をなだめ、国家の急用なのだから特別に見のがしてもらいたい、
  と門番に敬礼したそうだ。

  「国家のためとあれば、仕方ないでしょう」
  門番もようやくゆるしてくれたという。

  この門番の青年、出身地も名も知れてはいないが、
  後に西郷が可愛がって、学問をさせ、立派な官吏になったらしい。

    <『一升枡の度量』(池波正太郎・著、幻戯書房)>

・・・・・

勝海舟は、西郷を、「大胆識と大誠意の人」と評した。
まさに、度量と徳望をあわせもつ、当時第一等の人物であった。


安岡正篤師は理想の君子について、こう語る。

欲して貪(むさぼ)らず、
泰(ゆた)かで驕(おご)らず、
威あって猛(たけ)からず。

  『論語・堯日(ぎょうえつ)』安岡正篤一日一言(致知出版)より


ガツガツせず、貪欲ではなく、淡々としている。
泰然(たいぜん)として、おごり高ぶらない。
威厳はあるが、上から偉そうにものを言わない、度量の広い人。


まさに、西郷翁その人だ。
相手が目下であろうが、部下であろうが、決して偉そうな口をきかない。


えてして、英才、俊才は、自分の意に沿わないことがあると、瞬間的に反発する。
鋭(えい)の人だ。

大人物や英傑は、泰然として、大騒ぎせず、ひと呼吸おきゆったりと応対する。
鈍(どん)の人だ。


鋭の人には、どこか錐(きり)のような冷たさを感じる。

どんな事に出会っても、ゆったりと余裕を持つ、鈍の人でありたい。


           <合掌 平成23年10月4日 拝>

上質な日本人 (4845)
日時:2011年10月06日 (木) 17時41分
名前:伝統

     *「人生の王道」稲盛和夫・著(P11〜P16)より


かつて日本には社会のいたるところに、上質な人間がいました。

たとえ経済的に豊かでなくても高邁に振る舞い、上に媚びず下には謙虚に接し、
自己主張することもなく、他に善かれかしとと思いやる。
── そんな美徳を持った日本人がたくさんいました。

また、そのような人々によって構成された集団も、自ずから高い品格を備えていました。



ところが近年、世の中を見渡せば、以前にはとても考えられなかったような、
ひどい出来事が続いています。

たとえば、それは食品偽装事件やリコール隠し、また粉飾決算やインサイダー取引に見られる、
企業の社会的意義が根本から問われるような、不祥事の数々です。

官庁でも同様です。談合から裏金づくりまで、公僕として民に貢献すべき人たちの情けない
事実が次々と露になっています。

家庭でも、「親殺し」「、あるいは「子殺し」といった、人間としての尊厳を真っ向から否定
するような、悲惨な事件が続いています。



私は、そうした社会の現象もすべて、日本人の質的低下がもたらしたのだと考えています。

戦後60年、日本は廃墟の中から敢然と立ち上がり、奇跡的な経済発展を成し遂げました。
その結果、確かに物質的には豊かさを得ましたが、逆に精神的な豊かさを急速に失いつつある
のではないでしょうか。

この進み行く心の荒廃こそが、日本人として、その質が劣化してしまったように見せるのです。
また、現代の日本社会に混迷と混乱をもたらしている真因なのです。



(歴史をひもとけば)国家の盛衰は、国民の心の様相と一致しています。

今こそ、日本人一人ひとりが、精神的豊かさ、つまり美しく上質な心をいかにして取り戻すか
を考えなければなりません。



そのようなことを思うとき、
かつて、とびきり美しく温かい心をもった、
ひとりの上質な日本人がいたことを思い起こすのです。

それは、西郷隆盛です。

西郷の生き方、考え方こそが、
日本人が本来持っていた「美しさ」「上質さ」を想起させるのです。

近代国家をつくるために、激動の幕末、
たくさんの人間が志を抱き情熱を燃やし、多くの血を流しました。

しかし、そのようにして、せっかくつくり上げた新政府は、
いつの間にか西郷の期待にはまったく反するものになりました。

かつての同志は、維新の功労者として政府の要職に就いたことで、奢り高ぶるようになり、
わが身の栄達と保身を優先させるようになってしまいました。
彼らが栄耀栄華を極めるために、明治維新を断行したわけではない。

遣韓使節団での対立を機に、参議筆頭という重職にあった西郷はさっさと官を辞し、
鹿児島に帰って、私学校で青少年の教育に情熱を注ぎます。


この私学校の生徒を中心に不平氏族が決起します。
決起のとき、西郷は大隅半島の山奥に犬を連れて猪狩りに行っていました。
生徒らが決起したことを聞くと、「しまった、大変なことをしでかした」と嘆きます。

しかし、西郷は、若者たち情にほだされ、負け戦を承知のうえで生徒らと行動をともにします。
これが西南戦争です。


新政府に刃向かった西郷は、いったん明治政府から逆賊の将として扱われましたが、
明治維新への貢献による存在感により、1889(明治22)年の大日本帝国憲法
発布に伴う大赦によって、西郷は名誉回復を果たします。

西郷が残した言葉は、庄内藩の有志の手によって『南洲翁遺訓』にまとめられ、
その大赦の翌年に出版されました。

           <合掌 平成23年10月6日 拝>

西郷の普遍的な哲学 〜西郷南洲遺訓集 (4866)
日時:2011年10月08日 (土) 10時43分
名前:伝統

     *「人生の王道」稲盛和夫・著(P18〜P21)より

明治政府における西郷の偉業の一つに廃藩置県の断行があります。
戊辰の役で徳川幕府を制し、王政復古、版籍奉還によって、日本は天皇を中心とした
立憲君主国家への道を歩み出しました。

ただし、軍事や徴税を握る藩の力は依然として強く、幕藩の封建体制から脱しきる
ことができずにいたのです。

また、薩長が中心となってできた明治政府には、諸藩から根強い反感がありました。
特権と職を失ったかつての武士たちのあいだには不穏な動きもありました。

その中で、明治新政府の参議らが集まり、議論をしますが、
議論は膠着して前に進みません。

黙って聞いていた西郷が、ついに口を開きます。

「議論は尽くした。反対があろうが、この改革を断行しなければ日本に未来はない。
後で問題が生じたら、自分がすべてを引き受ける」

西郷の決意と覚悟の迫力に、その場にいた誰もが圧倒されます。
旧来の枠組みを排する、廃藩置県の勅令が発布されたのは、その数日後のことでした。

武士としての誇りを最も尊ぶ人であった西郷が、その手で武士のよりどころであった
藩という組織、また録を食むという仕組みを壊し、かつての主君や仲間の生活を一変
させたのです。

西郷の胸中は、おそらく逡巡や躊躇もあったことでしょう。
それでも、西郷を突き動かしたのは何だったのでしょうか。

それは、日本という国を正しい方向へ導かねばならないという「大義」であり、
その「大義」に基づく「信念」でした。
その信念が、西郷に「勇気」を与えたのです。

『西郷南洲遺訓集』には、その西郷が残した素晴らしい考え・哲学がまとめられています。

           <合掌 平成23年10月8日 拝>

【遺訓 一条】〜無私 (4921)
日時:2011年10月13日 (木) 04時55分
名前:伝統

  *「人生の王道〜西郷南州の教えに学ぶ」稲盛和夫・著(P24〜P38)より


【遺訓 一条】〜無私

廟(びょう)堂(どう)に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些(ち)とも私を
挟(はさ)みては済まぬもの也。

いかにも心を公平に操(と)り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能(よ)く其職に任(た)
ふる人を挙げて政(せい)柄(へい)を執らしむるは、即ち天意也。

夫れゆゑ真に賢人と認むる以上は直(ただち)に我が職を譲(ゆず)る程ならでは叶(かな)
はぬものぞ。

故に何程国家に勲(くん)労(ろう)有り共、其職に任(た)へぬ人を官職を以て賞するは
善からぬことの第一也。

官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸(ほう)禄(ろく)を以て賞し、之を愛し置く
ものぞと申さるるに付、然らば尚書(書経)仲(ちゅう)#(ぎ)之誥(こう)に
「徳懋(さか)んなるは官を懋(さか)んにし、功懋(さか)んなるは賞を懋(さか)んにす」
と之れ有り、

徳と官と相(あい)配(はい)し、功と賞と相対するは此の義にて候ひしやと
請(せい)問(もん)せしに、翁欣(きん)然(ぜん)として、其通りぞと申されき。 

・・・

(訳)政府にあって国のまつりことをするということは、天地自然の道を行なうことであるから、
たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。

だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、
その職務に忠実にたえることのできる人に政権をとらせることこそ天意すなわち神の心に
かなうものである。

だからほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職をゆずるくらいで
なくてはいけない。

従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職を与えてほめるのは
よくないことの第一である。

官職というものはその人をよく選んで、授けるべきで、功績のある人には俸給を与えて賞し、
これを愛しおくのがよい、と翁が申されるので、それでは尚書(中国の最も古い経典、書経)
仲#(き)(殷の湯王の賢相)の誥(こう)(官吏を任命する辞令書)の中に

「徳の高いものには官位を上げ、功績の多いものには褒賞を厚くする」というのがありますが、
徳と官職とを適切に配合し、功績と褒賞とがうまく対応するというのはこの意味でしょうかと
たずねたところ、翁はたいへんよろこばれて、まったくその通りだと答えられた。

・・・

(1)トップに立つ者の心構え

  @人の上に立つリーダーは私利私欲を捨てて正道を歩まなければならない。
   リーダーたるもの、いささかの私心もはさんではならない。

  A組織に命を吹き込むことこそが、トップのつとめであります。
   そうであるなら、トップたる者、四六時中組織のことを考えていなければならないこと
   になり、個人というものは一切有り得なくなってしまう。

  B「無私」の姿勢を貫き通すことは厳しいものがありますが、集団を統率していくため
   には、何としても身に付けなければならない、リーダーの条件であります。

(2)成功し、驕り高ぶる昨今の経営者

  @昨今の若い経営者は上場を果たそうものなら、すぐに株式を市場に売り出し、巨万の富
   を得ようとします。

   その結果、経営者は豊かになるものの、企業は財務的に強くなることもなく、また新たな
   事業に投資する資金を確保することもできず、上場という第二の成長期を逃してしまう
   のです。

  A成功すればするほど、偉くなればなるほど、謙虚に振る舞うようになれなければなり
   ません。さらには、自分が率先して自己犠牲を払うべきなのです。

  B自分が最もそんな役を引き受けるという勇気がなければ、上に立ってはならないのです。
   自己犠牲を払う勇気のない人が上に立てば、その下に位置する人たちは不幸になって
   しまいます。

  C西郷は、この「無私」という思想を一貫して主張し続けました。
   私心を排することが、リーダーにとって最も必要な条件だということを、西郷は
   「遺訓集」の全編にわたって述べています。

(3)人材登用の鍵は、人間の成長を信じること

  @組織をつくるのは、城を築くようなものと考えられます。
   城の石垣を組むには、巨石と巨石にあいだを埋める小さな石が必要になるのです。

  Aつまり、巨石として優秀な人材を外部も含め登用する一方、古くから献身的に努力して
   くれた人材には巨石と巨石の間をうめる貴重な石として働いてもらうべきなのです。

   小さいけれどイブシ銀の働きをする古参を捨て去ってはいけません。
   縁の下の力持ちのような古い人たちが残ってくれてはじめて組織は強くなるのです。

  B西郷は、真理に通じるとともに、人間の機微にも通じていたからこそ、このような
   人事の要諦に気づくことができたに違いありません。

           <合掌 平成23年10月13日 拝>

西郷隆盛と村田新八 (5013)
日時:2011年10月18日 (火) 17時34分
名前:伝統

明治維新後の新政府をみていると、西郷は、要人の参議らの私生活の増長に違和感を感じ、
岩倉遣外使節団帰国後の征韓論(西郷自身は、遣韓使節の立場に立っていた)後、幻滅し、
下野し、鹿児島へ帰り、しばらくして私学校にて、若者の育成に取りかかりました。

(南洲翁は、明治維新政府に幻滅し下野しましたが)
村田新八は大久保から維新政府に残るよう強く望まれますが、維新政府を見限り、
南洲翁の右腕として、南洲翁を支え、西南戦争で戦死しました。


村田新八は、勝海舟より、次のように評されております。

「日本の宰相には、たとえ大久保、西郷がいなくても村田新八がいる」

それほど、魅力的な男だったようです。

・・・・・

村田新八

年少より西郷隆盛に兄事した。
文久2(1862)年、島津久光の上洛に際し、西郷と共に先発,京坂の形勢に対処したが、
過激派を扇動したと、久光の怒りを買い、西郷は徳之島に新八は鬼界が島に流された。

元治1(1864)年、赦免されるや、西郷を助けて王政復古運動に挺身し、
慶応2年、薩長同盟にも関わった。

また、長州の伊藤博文らと上海を訪問したり、薩土盟約の事情を記した西郷の書簡を持って
長州藩を訪問、馬関にて坂本竜馬と会談、毛利公にも拝謁しました。

戊辰戦争には薩摩藩軍の軍監として東北地方の戦線に軍功がありました。

明治4(1871)年,西郷の推挙により宮内大丞に任命、
次いで岩倉遣外使節団の理事官随行員となり米欧を視察、

明治7年帰国すると岩倉使節団と西郷が征韓論をめぐって対立、

西郷隆盛が下野して帰郷したのを聞くと、辞職して鹿児島へ帰る。
大久保利通は、村田の帰郷を聞いて、茫然としたと伝えられる。


桐野利秋、篠原国幹らと私学校の経営に携わり、特に砲隊学校の監督に当たった。
西南戦争では、薩摩軍2番大隊長として各所に奮戦、城山で最後の抵抗を遂げ戦死した。

西郷のみならず、大久保利通にも将来を嘱目された。
勝海舟は「大久保利通に亜ぐ傑物なり。惜哉、雄志を齎して非命に斃れたることを」と評したという

村田は西郷が最も信頼した男であった。
重要懸案を西郷に持ち込んだところ、先ず村田に見せたかとたずねたという。

・・・・・

以下は、「南洲残影」(江藤淳・著)からの村田新八の言葉の引用です。

(1)明治維新は、失敗であった。
   2年間の歳月をかけ、米欧を回覧して来て、自分にはそのことがよくわかった。

   西洋を知らない者が国粋主義者になり、西洋を実地に知っている者が開明派になるなどと
   いうのは俗見に過ぎない。

   自分は大久保(利通)と同じ汽車に乗り、同じ宿に泊まり、同じ諸国を見て廻った。
   その結果大久保とは全く反対の結論に達したのであるから、これは西洋を知る知らないの
   問題ではない。

   いや、むしろ西洋をよく知っているからこそ、自分は到底大久保に同じ得ないのだ。
   (真の明治維新への「精神気迫」が、崩壊し続けていることに危機を抱いている)


(2)「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。
   天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。
   薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と
   信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、
   我らの責任が掛かっているもんと心得もす」

・・・・・

*次回は、明治天皇と西郷南州翁とのエピソードについて、紹介する予定です。

           <合掌 平成23年10月18日 拝>

明治天皇の側近役〜山岡鉄舟 (5070)
日時:2011年10月24日 (月) 04時22分
名前:伝統

(1)西郷隆盛と山岡鉄舟

  @慶応4年(1868)徳川慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に
   追討軍が江戸に到着し、慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。

   そんな背景の中で勝海舟は山岡鉄舟を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、
   江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。

   官軍が埋めつくされる東海道の駿府へ、山岡の肝をすえた気迫に慶喜の件は何とか
   西郷預かりになった。

   この山岡の働きによってようやく総督府との具体的な交渉の手がかりがつかめ、
   後の「海舟・西郷会談」の成約を向けてのレールが敷かれたと言われている。

   江戸での西郷と勝の会見が、後に大きく取り上げられるが、実質的な交渉は静岡会見での
   山岡に負う所が大きく、江戸での会見は単にセレモニーとも思える。

  A山岡鉄舟はそんな経過を踏まえ西郷隆盛から人物評価されており、特別な推薦もあって、
   明治5年、明治政府から天皇陛下の側近侍従長として教養及び剣術の御指南まですること
   になった。

   平安朝以来、女官たちに囲まれた天皇の生活に、無骨な男子の空気に一変させようと言う
   西郷の官中改革に協力したものであった。

  B西郷隆盛は、次のごとく山岡鉄舟を評しております。

   「さすがは徳川公だけあって、えらいお宝をおもちです。
   山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせませんが、
   何分にも腑の抜けた人です。

   命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、というような始末に困る人ですが、あんな始末に
   困る人でなくては、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけにはいきません。
   本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんのような人でしょう」

   と賞賛し、山岡鉄舟に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われています。

(2)青年 明治天皇と山岡鉄舟

   侍従鉄舟のエピソードに彼が青年明治天皇に相撲の相手をし、畏れ多くも天皇を投げたおし、
   辞職を願い出たという話がある。
   弟子はこれを否定している。

   鉄舟は天皇の青年らしい、多少度の過ぎた奔放な行跡を改めていただくよう、
   相撲の機会に諌言(かんげん)し、聞き入れなかったら辞職すると言って自ら謹慎した
   というのである。

   山岡鉄舟は、明治天皇の教育係として10年間仕え、高く評価されております。

(4)山岡鉄舟の『修身二十則』

  @嘘を言うべからず。

  A君の御恩忘れるべからず。
  B父母の御恩忘れるべからず。
  C師の御恩忘れるべからず。

  D人の御恩忘れるべからず。

  E神仏ならびに長者を粗末にすべからず。
  F幼者を侮るべからず。

  G己に心よからず事 他人に求めるべからず。
  H腹をたつるは道にあらず。
  I何事も不幸を喜ぶべからず 。

  J力の及ぶ限りは善き方に尽くすべし。
  K他を顧して自分の善ばかりするべからず。

  L食する度に農業の艱難をおもうべし 草木土石にても粗末にすべからず。
  M殊更に着物を飾りあるいはうわべをつくろうものは心濁りあるものと心得べし。

  N礼儀をみだるべからず。
  O何時何人に接するも客人に接するよう心得べし。

  P己の知らざることは何人にてもならうべし。
  Q名利のため学問技芸すべからず。

  R人にはすべて能不能あり、いちがいに人を捨て、あるいは笑うべからず。
  S己の善行を誇り人に知らしむべからず すべて我心に努むるべし。

(5)(山岡 鉄舟の詩)

   人生は心一つの置き所
      晴れてよし、曇りてよし富士の山
           もとの姿は変わらざりけり


  <参考Web@:明治天皇と山岡鉄舟>
   http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-4fd3.html

  <参考WebA:山岡鉄舟>
   http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/tesyuuji/yamaoka/yamaoka.htm

  <参考WebB:子供たちに教えたい維新の偉人『山岡 鉄舟』>
   http://www.geocities.jp/ikiiki49/page006.html

   
   *”がんばれ日本 さま”のスレッド「日本再興」内の
    「カダフィの死に西郷さんを思う (5057)」にて、
    明治天皇と西郷隆盛のエピソードが紹介されております。
    http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=20

       <合掌 平成23年10月24日 頓首再拝>

明治天皇と山岡鉄舟 (5134)
日時:2011年10月29日 (土) 06時35分
名前:伝統

明治維新によって、天皇さまの周囲、つまり宮中・朝廷にも変化がみられた。
明治4年の宮中大改革である。

今までは、天皇さまはふだんはほとんど女官にとりかこまれていた。
しかし、そういうことでは、この民族の先頭に立つ、と決然として宣言された
天皇さまのご成長がのぞめない。

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通といった人々はそう考えた。
そこで女官総免職、といっていい大英断のナタをふるった。

だから宮中は、女性的な雰囲気から男性的、男臭い世界とかわった。
侍従という制度がこれで、旧各藩から剛直な人物が天皇さまのおそばにつとめるようになった。
鹿児島から村田新八、熊本から米田虎雄、佐賀から島義勇、そして山岡鉄太郎(鉄舟)など9人。

山岡が侍従となるのは明治5年6月、そして10月には侍従番長となった。
山岡37歳、明治天皇21歳。

明治天皇さまは背も高く体重75キロぐらいおありだった。
お若い、力が余っていらっしゃる。周囲も荒武者ばかりである。お酒も強い。
といったこともあって徹夜のお酒、それに相撲をおそばのものにいどまれることが
ずいぶんあった。

(お元気はいいが、いきすぎはいけない)
山岡は一度お諌めしようと思っていた。その日がきた。

「山岡の撃剣(剣道)は有名である。相撲もつよいであろう」
私と立ち合ってみぬかと仰せだ。

しかし山岡は、
「剣と相撲の道はまた別でございます。それがし、一向に相撲はわきまえません」
おことわりした。

そのときである。陛下はヤッと声もろとも山岡ねがけて体当たりを敢行された。
山岡は坐ってお答えしていたから、瞬間、爪先立ち、左膝を軸にからだを右にひらいた。
だから陛下は対象をうしなって前のめりとなってたおれる。

そこを、
「ご免ッ」
山岡がおさえこんだ。

アッと近侍の人々が叫んだ。口々に、
「無礼だ山岡、不敬なり・・・」
大騒ぎとなった。

山岡はかねてから機会があればと思っていた。そこへ陛下のこの突進。
が、「しめた」もなにもない。身体(からだ)がそうなってしまったのである。

言った。
「不敬は万々承知である」
ぎろり、と一同をにらみ、そっと陛下をお放しし、そして言った。

「おかみ(天皇)は三千数百万国民のあるじにまします。おん力業(ちからわざ)の
おためしは結構なれどほかにいくらでも方法はござるはず。また、夜おそくまでの
ご酒をふくめ、そのようにおん行跡が改まらぬにおいては鉄太郎今日かぎり
出仕つかまつりませぬ」

ごめん、とばかりにさっさと退出してしまった。

翌日、山岡の家に陛下のお使いがみえた。おことばをおつたえします、といい、
「以後、相撲と酒はやめる。これまでどおり出勤するように」
と伝えた。

山岡は、畏まってききながら、
(よくおききいれくださった・・・)
涙を、ホロリと手のうえに落とした。

すぐに皇居にゆき、おとがめもなく有難いことにございます、
と失礼をおわびするのだった。

以降、陛下はご酒と相撲をやめられた。
ただし、酒のほうは、山岡がぶどう酒を1ダース献上したことから解禁になった。

しかし、それまでのように、お若さにまかせて夜通し侍従たちと盃を重ねられる
ようなことはなくなる。


翌、明治6年5月5日、皇居が炎上した。山岡の家は当時淀橋区内今の新宿区である。
皇居が火事ときくと寝着の上に、袴をつけて駆けだした。
山岡の足は早い。(他の誰よりも足は早かったようです)

こんな山岡だからたちまち皇居にとびこんだ。
火は表御座所から奥へと迫っていた。
奥の入口、その杉戸には錠がかたくかかっている。

押しても引いてもあかばこそ。
エエイッ、山岡は杉戸に体当たりをくれた。
煙りとともに山岡はそこへころげこんだ。

駈けた。駈けた、陛下のお部屋だ。
「お上ッ」
叫んだ。

おお、とご返事をかえされた陛下のおそばには、なんと唯一人まだいない。
「鉄太郎、はやばやと参ってくれて有難い」
悠然とお立ちになった。

立ちのかれる陛下と山岡の背が熱い。
火はもうすぐそこだったのである。
危いことであった。

  *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 より

       <合掌 平成23年10月29日 頓首再拝>

明治天皇と西郷隆盛のエピソード(1) (5143)
日時:2011年10月30日 (日) 05時57分
名前:伝統

(1)明治4年11月11日づけの手紙より(隆盛⇒郷里の叔父への手紙)

   最近の東京での変革は多いのですが、
   とくに尊ぶべき喜ぶべきことは主上(陛下)のことです。

   これまでは公家・大名といった身分の高い人々でなければ
   陛下の前には出られませんでした。

   ところが、今は、すべて従来の弊害は改められ、陛下のすぐおそばに仕える侍従も、
   公家とは限らず、これは士族出身のものに変わっています。

   陛下は、武家出身の侍従をたいそうおよろこびになられ、奥の方へいかれることは余り
   ありません。したがってほとんど表におられて和漢洋のご学問、また侍従を相手に
   会話もなさいます。

   というわけで、すこしもおひまもなくご修行で、これまでの大名などよりずっと
   私どもに近い存在といえます。

   こういうことですので、これはもはや昔の皇室とは大へんな変わりようであるぞ、と
   三条、岩倉の両大臣も申しておられるぐらいです。

   それにもともとご英邁のご性格、またお丈夫でもあられる、と公家がたも申しています。
   そういうことですので馬術のほうはお好きで毎日のようにおはげみです。

   (中略)

   また、近々、政府、諸省へのおいでになられ、私どももお呼び出しになり、同じところ
   で食事もなさいます。さらにこれからはひと月に三度は政府・諸省の長官を呼ばれて
   政治のいいところ、わるいところもご討論、かつご研究なさることを内定しています。

   こういう次第ですので、天皇さまが、いたずらに尊いものとして奥殿ふかくこもられ、 
   臣下がめったにお顔も見られないような今までの習わしはまったくなくなり、ついには、
   君臣水魚の交わりになることと思われて、まことによろこばしいかぎりです。

(2)陛下の御練兵

  @いつも大西郷の謹厳な姿がおそばちかくに見られた。参議、近衛都督にして陸軍大将で
   あった大西郷は、聖上が御練兵に熟達あそばされ、大元帥(全軍の統帥者である天皇)
   としての大器をご練成あそばす日の一日もすみやかならんことをねがうのが、臣下と
   しての責任とも義務とも感じていたに相違ない。<「御練兵と大西郷」陸軍少将亀岡泰辰>


   陛下が馬上のときは、その馬のあとを追って西郷は練兵場のうちを東に西に走る。
   肥っているから馬に乗れず、走るというより歩く方に近かった。
   それでも西郷はせい一杯おあとにつきしたがう。

   そのさまをみて亀岡たちは、なんともいえない感激に打たれたという。

  Aある日のご練兵で、どうも陛下の号令がちいさいという声が出た。そこで、補導の武官が、
   「いますこしお声をお出しあそばしませねと徹底いたしませぬ。とくに、今後、大隊の
   ご指導をあそばすときなどなおさらのことでございます」とご注意申しあげた。

   そうかと、たちまち大きな声での号令である。
   見事、兵はただちに動作にうつった。

   陛下は、おそばの西郷に。
   「今の号令はちいさかったか」 といわれた。

   すると西郷は、
   「いや、日本中にきこえわたりました」 とおこたえ申しあげたことである。

   謹直な大西郷のこの言葉に、陛下は、
   「はっはっはっは・・・・・」 と高らかにお笑いになった。
   
  *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 より

       <合掌 平成23年10月30日 頓首再拝> 

明治天皇と西郷隆盛のエピソード(2)〜習志野御仮泊 (5192)
日時:2011年11月03日 (木) 04時37分
名前:伝統


明治6年4月から5月にかけて習志野で大演習があった。
習志野の大演習は、遷都この方、陛下が皇位に即かれてから始めて行なわれたもので、
天皇みずから統監なされることは、当時種々異論があった。

しかし、西郷翁は頑として御統監の然るべきことを主張し、
陛下は、翁の意見を御採用になって御出掛けになることに定まった。

陛下は騎上、習志野まで近衛兵二千八百をひきいて馬をすすめられた。
このときおとしは22歳。

現地到着の夜、舞台は豪雨に見舞われた。陛下をはじめ皆野営のテントである。
この夜、明け方まで雨は続いた。西郷翁や徳大寺(宮内卿)は陛下のテント近くにあって
ご警護申しあげ、終夜まんじりともしなかったという。

今日ならば、侍従や宮内官が大騒ぎするところであろうが、西郷翁はあわてもせず、御仮泊所の
幕の間から、ヌッと顔を出して、「陛下、どうですか」と薩摩なまりで、唯一言のご機嫌伺いを
を申し上げると、陛下は、「雨が降って困るよ」とこれもまた、たった一言の御返事。

「そうですか」と申し述べたきりで、御幕から顔を引いた。

しかし、西郷翁は、心配でじっとして居られない。

お若い陛下が、こうやって大雨のテント生活で、もしおかぜでも召されたらいかぬ。
心配のあまり股肱の部下である桐野利秋陸軍少将を呼びつけて、
「陛下が、かぜをお引きになるといかぬから、厚いシャツを、すぐ持って来い」と厳命した。

桐野少将は西郷翁と一生を共にした猛将軍だが、性急なたちであったので、大急ぎで宮内官の
ところへいって、大声で「陛下のシャツを出せ」といった。

その剣幕に宮内官が驚いて、あわてたために、タンスのカギをみうしなってしまい、タンスを
あけることができないでおりました。

桐野少将は、もうじっとしておられない、陛下にかぜお引かせしてはいかぬという気持ちから、
がまんがならず、長靴で蹴破って、自分でシャツを出して走ったよし。


このように、お若い明治天皇に対する、西郷の心境といい、桐野の心構えといい、まことに
天皇と臣下との間に一分のすきもない状態で、ほんとうに、明治天皇をお育て申し上げることに、
全力をつくしたものである。

  *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 より
   「大西郷の逸話」西田実・著、南方新社・刊より

       <合掌 平成23年11月3日 頓首再拝> 

明治天皇と西郷隆盛のエピソード(3)〜西国巡幸鹿児島入港 (5207)
日時:2011年11月04日 (金) 00時15分
名前:伝統


明治5年の西国巡幸は、軍艦が使われました。

鹿児島は、西郷の故郷である。
西郷は、鹿児島入港その他、万全を期したかった。いや期さねばならない。

西郷は、安全第一を心がける。
「しっかりした木材で桟橋を設けよ」 そう命じていた。ところがしてない。

以下はそのときの陛下の思い出話(西南戦争後の思い出話)である。

「西郷が怒った。みるみるうちにおっとし、はしけ(ボート)に乗り込んだがそこに西瓜がある。
暑いときから心づかいであったのだろう。ところが彼はそのうちの大きなものをひとつとった。
とみるまにいきなりげんこつでぐわんと叩き割った。顔にも胸にも赤い汁がとんだ。

しかしぶぐいもせずに西郷はそれを手づかみでむしゃむしゃたべた。

西郷のそんな怒った顔をはじめてみたが、実にこわい顔であった。しかし、おかしかった」

そんな意味をお話になられたという。

この思い出話を、明治22年3月11日の西郷への贈位で、賊名が除かれるまで、なされたが、
その後は、ぴたりとそのお話をおやめになったという。
                 
陛下は、西郷のことをつねにお心にかけられ、政府の要人にそのお気持ちを気づかせようと
意図していたのである。

  *「エピソードで綴る 天皇さま」杉田幸三・著、日本教文社・刊 より

       <合掌 平成23年11月4日 頓首再拝>

明治天皇と西郷隆盛のエピソード(4)〜西郷の持病を気遣う明治天皇 (5256)
日時:2011年11月08日 (火) 04時55分
名前:伝統

西郷隆盛のピーク時の体重は、110キロにもなった。

沖永良部島に島流しになって1年6ヶ月。格子牢生活で、塗炭の苦しみを味わった。
3食とも、冷飯に焼塩を振りかけるだけという食生活。
赦免されて帰ってきたときは、38キロ減って、72キロのスリムな体になっていた。

赦免されてからの7年間は、獅子奮迅の活躍…禁門の変で奮戦し、
第一次長州征伐では、単身長州に乗り込み、戦わずして講和に成功。
そして、坂本竜馬の斡旋で、犬猿の仲の長州と同盟に成功した。

その勢いで、王政復古、更に、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城と、
肉体的にも、精神的にも、計り知れないストレスに見舞われたこの時期、
糖尿病を病んでいたのです。

生来肥満体質の西郷は、いつしか元の110キロに戻っていた。


西郷隆盛の糖尿の病を心配された明治天皇は、直々に減量をすすめられた。
天皇のドイツ人侍医が、西郷にヒマシ油を飲ませ、減量を試みた。

只でさえ飲みにくいのに、量が多いものだから、
さすがの西郷どん、侍医を差し向けると閉口して、「これだけは…」と、逃げ回ったという。

       <合掌 平成23年11月8日 頓首再拝>

明治天皇と西郷隆盛のエピソード(5)〜小さなタンス (5384)
日時:2011年11月17日 (木) 19時02分
名前:伝統


西南戦争後の翌年(明治11年)に皇居に火事があった。
天皇は夜中、避難されていたが、既に火の入った宮内省の倉庫に、
「こういう小さなタンスがあるから、これを出してこい」と侍従にご命令になりました。

その侍従は火を見て躊躇していると、天皇が自分で飛びこんでいかれそうなご様子であったので、
火炎を冒して侍従が飛びこみ、なんの変わりもない小さなタンスを出して参った。

鎮火ののち、侍従はその小さなタンスの由来についておたずね申しますと、
天皇は「あのタンスは西郷が献上したものだ」とおっしゃったよし。

いかに明治天皇が西郷を股肱の臣と頼まれ、西郷の戦死をいかにお悲しみされていたかは、
この一事でもよくわかる出来事でした。

   *「大西郷の逸話」(西田実・著、南方新社)より

       <合掌 平成23年11月17日 頓首再拝>

西郷隆盛の「死生観」 (6446)
日時:2012年01月31日 (火) 07時09分
名前:伝統


(1)「七生報国」の精神

   幕末の当時は徳川光圀が湊川に楠木正成の墓碑を立て、
   その墓碑に「嗚呼忠臣楠子之墓」ときざまれた墓石だけがありました。
   湊川神社は創建されていませんでした。

   その墓碑に西国大名が参勤交代の際には拝み、坂本龍馬など幕末志士も拝礼しました。
   その石には、楠木正成の怨念にも近いはげしい最期の一念「七生報国」の
   神州正気の精が留まっています。

    <参考Web>
     @「嗚呼忠臣楠子之墓」
       http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/edomin.cgi/kihu/_tC05xiS.html
     A楠公碑陰記
       http://www.geocities.jp/sybrma/208syusyunsui.nankouhiinki.htm
     A嗚呼忠臣楠子の墓
       http://marute.co.jp/~hiroaki/kansi_syuu/kansi_syuu-02/nansi_haka.htm
      

   西郷隆盛も楠木正成を尊敬し、「七生報国」の精神を学び志を励ました人物です。
   その思いは、以下の西郷隆盛の漢詩「楠公の図に題す」に表現されております。

   【楠公題図】          楠公の図に題す
   奇策明籌不可謨。  きさくの、めいちゅう、はかるべからず
   正勤王事是真儒。  まさに、おうじに、つとむる、これ、しんじゅ

   懐君一子七生語。  おもう、きみが、いっし、しちしょうの、ご
   抱此忠魂今在無。  この、ちゅうこんを、いだくもの、いまありや、なしや

   (意訳)

   作戦は奇抜で戦略に明るい、そうした楠公の大きさは常人には測りがたい。
   しかも、ひとえに天子の為に力を尽くす、これこそ真の儒者といえる。

   楠公兄弟が死に臨んで、 「七たび生まれかわっても朝廷に尽くそう」
   と語ったことが偲ばれる。
   これほどの忠心をいだいているものが、今の世にいるだろうか。


(2)獄中有感り

   西郷隆盛の「死生観」は
   楠木正成と同様に「願はくは、魂魄を留めて皇城を護らん」につきます。

   【獄中有感り】
   朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙(こうむ)り 夕べに焚坑(ふんこう) 
   人世の浮沈 晦明(かいめい)に似たり

   縦(たと)い光を回らさざるも 葵は日に向かい
   若し運を開く無きも 意(い)は誠を推す

   洛陽の知己皆な鬼(き)と為り
   南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしゅ)独り生を窃(ぬす)む

   生死何ぞ疑わん 天の附与せるを
   願わくば魂魄を留めて皇城を護らん

   (意訳)

   朝には主君の寵愛を受けていても、夕方には指弾される。
   人生の浮き沈みは、夜と昼とが代わる代わる巡ってくるようなものだ。

   たとえ日光が射してこなくても、向日葵はひとえに日射しをもとめていく。
   私も運命が開けてゆかなかったとしても、ひたすら心の誠を尽くすばかりだ。

   かって京都でともに事に当った同志たちは、いまやみな死者となってしまった。
   南の島の囚われ人として、私ひとりがおめおめと生きのびている。

   人生の生き死にが天の定めるところであることは、まぎれもない。
   ならば死を迎えたとしても、わが魂魄を長くこの世に留めて、祖国を護持したいものだ。

            <感謝合掌 平成24年1月31日 頓首再拝>

「おいしゅうございます」 (6506)
日時:2012年02月02日 (木) 06時49分
名前:伝統


   *「人生に悩んだら『日本史』に聞こう」(ひすいこたろう/白駒妃登美・著)
    からの紹介です。

西郷隆盛の妻イトの妹さんの回想録によると、
西郷は味噌や醤油をつくるのが上手で、倉のなかで家人に手ほどきをしたそうです。
「男子厨房に入らず」の時代、しかも九州男児でもある英雄・西郷隆盛が、
家事に関心があったなんて、そのギャップが素敵です。

さらに西郷どん、イトの料理を
「これはよくできました。おいしゅうございます。おいしゅうございます」と、
ひとつひとつ褒めながら口にしたそうです。

それに対してイトは、
「人前で褒められると、かえって恥ずかしいじゃありませんか」と照れていましたが、
それでも西郷どんはいつも褒めながら食べたとか。

「おいしゅうございます。おいしゅうございます」と。

これは、妻イトへの普段の感謝の気持ちあってこそでしょう。

妻の料理を毎日毎日、ひとつひとつ褒めながら口にする英雄。
そこに、いまなお熱狂的に愛されている西郷隆盛の人間性が表われています。

            <感謝合掌 平成24年2月2日 頓首再拝>

「言志四録」と西郷隆盛 (10258)
日時:2012年06月14日 (木) 04時35分
名前:伝統


(1)「言志四録」

   「言志四録」は江戸時代の儒学者佐藤一斎(1772〜1859)終生の処世訓であり、
   幕末の西郷隆盛や佐久間象山・吉田松陰その他多数の志士達に多大の感銘を与え
   座右の戒めとし、維新の原動力の源となりました。

   また味読する事により長寿の秘法とも言われている金科玉条の名著でもあります。

(2)「南州手抄言志録」

  @西郷隆盛は、「言志四録」1133条の中から、101条を抄出して、
   修養の資(もと)としていたようです。

   西郷の死後、叔父宅に保存されていたのを、儒学者だった秋月種樹(たねたつ)が
   注釈を加えて『南洲手抄(なんしゅうしゅしょう)言志録』として刊行し、
   これにより、西郷が『言志四録』を座右の戒めとしていたことが、広く知られたので
   あります。

  Aちなみに、南洲とは西郷の雅号で、明治に入ってからは、南洲、南洲翁(おう)などと
   呼ばれるようになりました。手抄とは手ずから書き抜くことであります。

  B『言志四録』の著者佐藤一斎は、昌平坂学問所の儒官、現在でいえば東京大学の総長まで
   務めた儒学者である。

   門下には、佐久間象山、横井小楠、山田方谷(ほうこく)らがいて、
   佐久間象山には勝海舟や吉田松陰が薫陶を受けるなど、一斎の教えに接した幕末動乱の
   志士は少なくない。

   しかし、西郷はその謦咳に接する機会に恵まれなかった。
   西郷が『言志四録』を読んだのは、二度目の流罪先、沖永良部島の獄中でした。

   行李3箱分の書物を読破し、
   「学者の塩梅(あんばい)にて可笑(おか)し、学問はおかげにて上がる」と年賀状に
   記しているほどだが、なかでも心動かされた書物が『言志四録』だったのであります。

   流罪が解け沖永良部島を脱した西郷は、内村鑑三言うところの「始動させる原動力として」、
   革命=維新という運動を猛烈な勢いで遂行していったのです。

   <参照: 本スレッド内記事
    ”童子 さま”による「維新に於ける役割 (4733)」日時:2011年09月29日 (木) 09時23分>

  C『南洲手抄言志録』を編纂(へんさん)した秋月が、条文との符合を試みるかのように、
   自らが伝え聞く西郷の言動を注釈として加えていき、現代に伝わっております。


  <Web:南洲手抄言志録
    http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/saigo/win0040003.html

            <感謝合掌 平成24年6月14日 頓首再拝>

無私にして高潔の士 西郷南州 (11262)
日時:2012年07月14日 (土) 07時54分
名前:伝統

     *石平・著「私はなぜ「中国」を捨てたか」(P223〜225)より

私が、その生き様においてもっとも美的な魅力を感じたのは、
武士の中の武士である西郷南州(隆盛)である。

幕末維新の歴史の中で、西郷南州こそは、維新という回天の大業を成し遂げた最大のカリスマで
あり、最大の功労者であった。しかし彼には、それを利用して自らの政治的野心や私利私欲を
満たそうとする考えは、つゆほどもなかったように思われる。

明治維新が成立した時、彼はその最大の功労者として、高位高禄が約束されていたにもかかわらず、
あっさりそれを辞して故郷に帰り、犬と猟師と山川を相手に、野人同然の生活を楽しんだ。

「征韓論」をめぐる政争に敗れた時、彼は兵力を一手に握る実力者の立場でありながら、
クーデターを起して自らの主張を押し付けたり、自らの地位を守ったりするようなことは
一切しなかった。

彼は、ただ潔く官職を辞して、故郷の鹿児島に戻った。
彼は、鹿児島にあっても、明治維新政府にあっても、質素極まりない生活を送った。


中国の歴史上では、政略家として西郷南州以上に、権略策謀を駆使して一世を圧倒する
ような英雄豪傑を、いくらでも輩出した。しかし、それらの英雄豪傑からは、日本の西郷南州の
ような高潔の士は、ついに一人も出なかった。

英雄豪傑であればあるほど、個人的な権勢や一族の栄達を求めて独裁者への道を歩んでいくのが、
中国歴史上の常であった。為政者は私利私欲の誘惑から逃れられない、というのが中国社会の
法則となり、中国の歴史の不幸の源でもあった。

しかし、日本の西郷南州は、それを見事に超越した。

日本史上最大の攻略家でありながら、この世の権勢や栄達富貴をいくらでも手に入れられる
立場でありながら、彼はどこまでもその高潔無比、精誠純一の生き方を貫き、
どこまでも「一点の私心もない光風霽月(こうふうせいげつ)の人」(伊藤博文)であり続けた。

後に、犬養毅が評したように、西郷南州こそはその一生において
「まったく彼我の見、利害の念を離脱した心境に到達した」人物であった。

彼は武士道の伝統を持つ日本の男児であるが故に、彼は武士道教育の見本となる薩摩の
郷中教育によって鍛えられてきた生粋の日本武士であるが故に、このような境地に
達することができたのであろう。


西郷南州は、郷中教育及び藩校の武士館での教育を通じて、四書五経を熟読し、人並み以上の
儒教的教養を身につけた。その後さらに、沖永良部島に流された時、書家で陽明学に通じて
いた川口雪蓬の指導を受けて、陽明学及び儒学への理解を深めた。

彼は参禅もした。故郷にいた19歳から25歳までの間に、西郷は地元の傑僧といわれた
無参禅師に参じて、厳しい禅の修行を重ねた。

彼はまた、漢詩の作り手でもあった。その四百八十余篇の自作漢詩の中で、中国古代の
荘子や屈原や陶淵明などの高潔の士に対する傾倒を吐露している。

儒学を学び、禅に参じて漢詩を読むこの典型的な日本武士は、
いわゆる東洋的教養人の典型でもあった。

武士の魂と儒教の理念と、禅の境地が結合して、渾然一体となって、
西郷南州という高潔無比、純一至大の人格を造り上げた。

(中略)

いわゆる東洋的理想が、そのもっとも相応しい具現者を得たのである。

そして、その人生の最期の時、政府軍の弾雨の中「もう、ここらでよか」の淡々たる一言を
発して、従容として最期を迎えた。もっとも武士らしき死に方をもって、その日本武士の魂
の真骨頂を見せた。彼は、武士としての人生を見事に完結させたのである。

私は、西郷南州を知ることによって、この日本という文化的生命体に、この日本という
心の美しい国に、いっそうの敬意と、いっそうの熱愛を感ぜずにはいられないのである。

   *著者:石平氏のWeb → http://www.seki-hei.com/

            <感謝合掌 平成24年7月14日 頓首再拝>



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