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吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
日時:2011年09月29日 (木) 08時56分
名前:童子

 伝統様の坂本竜馬、西郷隆盛ときたら、やはり松陰でしょう。
 国文研(信和会、昭信会)、教問研の学生・青年たちはよく吉田松陰を学んでいましたね。
 
 十月二十七日に間に合うように、
『日本文化振興会』発行の『吉田松陰精神に学べ』からです。


  
       
        目次

  はしがき
  推薦の言葉

  山鹿素行の『中朝事実』との出会い
  水戸学を求めて
  五人の師に学ぶ
  燃える救国の想い
  佐久間象山との出会い
  黒船に密航
  野山獄での生活
  松下村塾
  真の学問とは
  人は人たる道
  ただひたすら尊皇崇拝
  永遠の別れ涙松
  江戸獄中での手記
  不滅の『留魂録』
  武蔵野の野辺に散る

『吉田松陰精神に学べ』 (4740)
日時:2011年09月29日 (木) 15時49分
名前:童子

         はしがき

 昨今、目にあまる暗い事件が続出している。とくに神聖であるべきはずの教育界が、さながら暴力団の争いのごとく、教師と生徒が敵対関係のようになり、時には血なまぐさい事件を起している。まことに残念なことであり悲しむべきことである。これには、いろいろな問題があると思うが、なんといっても戦後の唯物論教育、知識詰込主義の偏向がこのような悪果を起した大きな要因であることは間違いない。今こそ教育界は、その原点に立ち還って教育とは何ぞや?と、問い質してみる必要があるのではないだろうか。


 教育とは、文字通り人を育てることであり、人格向上のための〃人間づくり〃以外にない。〃人間づくり〃で大切なことは、内面的な〃心〃を主とする教育である。現状のままの唯物論的教育を続けていく限り、優勝劣敗が必然的についてまわり、その結果、落ちこぼれやツッパリ学生はなくならないと思うのである。たとえ、そのような問題児にならなくても社会全体が自己中心主義に蔓延し、生命軽視、人に対する思いやりが欠乏し、水なき砂漠のような〃愛なき世界〃が現出してくるのである。

 その現れの一つとして、とくに戦後、人工中絶が大変多くなっている。この根因は、やはり唯物論教育の副産物であり、性の氾濫とモラルの低下のほかなにものでもない。優生保護法改正という制度上の法改正も必要であるが、それ以上に大切なのは、もっと根本的な〃心〃の問題即ち道徳面を見直さなければならない。

 現在、困ったことには、教育の場で、最も大切な〃人の型〃が教えられていないことである。このままでは、日本は、どうなるのか。唯物論教育を是正しない限り、〃日本は日本〃でなくなり、阿鼻地獄に化するであろう。


 明治天皇は、明治維新にあたって人間復興を第一に掲げられ、それには先ず教育を正し、西欧崇拝主義を戒められるとともに、先ず徳育を主とし、知育を従にした教育精神を立てられたとのことである。これが後の『教育勅語』の渙発となるわけであるが、本書は、その骨格に準ずる〃吉田松陰精神〃のエキスをまとめたものである。

 松陰の偉大さは、国を救わんがため五たび決死の覚悟で起った古今東西比類なき愛国者であるとともに、もう一つ忘れてはならないのが大変な教育者でもあった。今日、吉田松陰に関する研究書は沢山出版されているが、教育者であったということがあまり書かれていないようである。これではピント外れの観が否めない。

 松陰の教育は、単なる知的なものではなく、〃生きた学問〃即ち、〃大義に生き、国のためにつくす人材を養成する〃ことを真の教育のネライとしていた。それが野山獄での囚人に対する講義となり、一流の人物を育成したのである。この精神の延長が後の松下村塾となったのである。

 ここに本当の教育のあり方があると信ずる。詳しいことは、本文に譲るとして、松陰の教育精神は、常に〃人は人たる道〃を教え、理想を語り相対する人を悉く内在の無限性に目覚めさせるとともに烈しく燃え上がらせたのである。それだけ松陰は、教育者として情熱をもち、至誠あふれ真剣に行きぬいた人である。又歴史上、松陰ぐらい真剣に一生を貫いた人も少ない。


 真の学問とは何か。真の教育とは何か。松陰精神を学ぶことによって、それがおぼろげながらわかると思うのである。単に教育の面だけではない。松陰精神を知ることによって人生の生き方が鮮明になってくると確信するのである。

 筆者が本書を書き著わそうと決意した直接の切掛は、世のあまりの乱れにたえかねたことの他、さらに市販されている吉田松陰が真実性に乏しく、その中には〃松陰は愛国者ではなく革命家であった〃と、松陰の比類なき尊皇愛国者を一片の革命家呼ばわりに引きずり落とし、さながら赤軍派の扇動者のような左傾極る扱い方に烈しい憤りを感じたからである。そういう愚劣な本を書く者も書く者、それを出版して売り出す出版社も出版社である。儲かればよいというものではない。いくら憲法で言論、出版の自由が保障されているといったも過去の歴史゛否定するばかりでなく松陰の真意を傷つけるも甚だしい限りである。

 これでは松陰が草葉の影で慟哭し、松陰の魂が浮ばれないであろう。世は、まさに顛倒妄想であり、末世である。筆者は、神国日本の左傾化がついにここまできているかと思うと洵に悲しいのである。


 そういう人たちには、本書の『燃える救国の想い』『人は人たる道』『ただひたすら尊皇崇拝』『武蔵野の野辺に散る』のところを熟読して貰いたい。さらに本書を読んでいただくことによって、松陰の猛烈な学問ぶりや真剣な教育姿勢、又、野山獄、江戸の獄の中においてすらも国を救うために囚人をはじめ看守人にまで訴え続けた不退転の愛国精神と人を感化せずにはおかない伝道力を吾々は、大いに学ぶべきである。松陰の〃生きざま〃を通してこれが真の愛国者の姿であると思うのである。


 昭和五十八年六月
                           ニ川 守 著

推せんの言葉 (4741)
日時:2011年09月29日 (木) 16時30分
名前:童子

 
          戦後教育の中からほとばしる民族の地熱
                         名越 二荒之助


 日本の心をとり戻そうと叫ばれだしてから久しい。全国各地から声はあがっている。しかし、まだこの叫びが燎原の火のように燃えあがるまでには至らない。しかしいつかは燃えだすに違いない。日本民族は決して見捨てたものではない。過去には数千年に及ぶ民族の歴史的遺産がある。父祖以来積み重ねてきたこの精神伝統が、わずか一度の敗戦で地を払うようなことはありえない。もしそれを忘れてしまうなら、我々としても日本に生きている甲斐はない。本書の中の松陰も、『神勅に相違なければ日本未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正気重ねて発生の時は必ずあるなり』との確信に立って、刑場の露と消えた。武蔵野の野辺に、大和魂を留めたわけである。

 この松陰の悲願は予言通り甦り、その『正気』は明治維新となって発した。

            ○

 現代は幕末以上に、日本人が日本を忘れている。幕末には国学が甦り、武士道精神が息づき、儒教も日本への回帰をはかった。しかし現代の日本は、ある高名な学者が言われたように、『世界で一番反日感情が強い国』と、言えるようである。金大中やワレサにあれだけフィバー(熱狂)ぶりを示すマスコミだが、ひとたぶ日本の心の根源にふれる問題(憲法、防衛、愛国心、神話、天皇の扱い、戦争史)を提示すれば、たちまち拒否反応をもって応じてくる。この不思議な『日本国』が三十数年も続いている。


            ○

 しかし、いつまでもこのような状態が続くものではない。それではいつどういう形で甦るであろうか。それは誰にも判らない。しかし私には判ることがある。それは『日本の心を甦す主役は、戦後教育を受けた人の中から現れるであろう』ということである。戦後教育の中で与えられた教育内容に耐えられなくなって、その批判の中からほとばしり出たものこそ、『本物』であると信ずるからである。

 今年の六月二十九日の『ニューズ・ウィーク』によれば、ポーランドでは数十人の高校生によって、教科書が焼かれたという。学校の歴史教科書が、ソ連に気兼ねする内容になっており、ポーランド本来の民族英雄や歴史的偉人が教えられない。そのことを知った高校生たちが、屈辱の教科書に怒って、ワルシャワの中心地で教科書を焼いた。それに対して新聞は、『高校生にこのようなことをさせたのは、教えなかった我々大人に責任がある』と書いた。

 現在の日本の戦後教科書でも、日本民族本来の偉人や英傑が教科書に登場しない。国民信仰の対象となって現在も尊崇されている天照大御神や、初代の神武天皇や、和気清麻呂、楠木正成、吉田松陰、東郷平八郎、乃木希典というような偉人が出てこない。一揆の首謀者武左衛門(愛媛県)や、松本長操(福井県)は出てくるが。


           ○

 私はいまここで、ポーランドの高校生にならって、教科書焼き捨て事件を起せとすすめているのではない。もしそんなことをしたら、日本の新聞はたちまち、『危険思想の持主の扇動によるもの。その背景は目下調査中』とでも書くであろう。

 そういう刺激的な事件を起こす前に、先ず勉強して、現代の時代の深刻さを勉強してほしい。それを試みたのが、本書の著者である。まず念々に力をたくわえ、日本そのものを、我とわが身に甦らせて貰いたい。戦後教育の中からほとばしる民族の地熱が、この本の中に秘められているに違いないと思うのである。

山鹿素行の『中朝事実』との出会い (4748)
日時:2011年09月30日 (金) 05時29分
名前:童子

 吉田松陰の偉大さは、国のために殉じたことも勿論であるが、どんなに至難に出会っても自己の信念を生涯貫いたことである。


 松陰は、わずか三十歳という短い生涯であったが、これほど人生を大切にし有意義に活用した人も皆無に等しい。松陰の人生は、学問と教育と救国活動に明け暮れ、本当に真剣に生き抜いた人である。殊に松陰の学問と教育ぶりは、単なる机上の知的なものでなく〃生きた学問〃を終生学び実践した。

 それは、松陰が二十一歳から二十五歳にかけて九州の平戸を皮切りに熊本、江戸、会津、新潟、佐渡、弘前、青森、仙台、米沢、日光を経て再び江戸に帰り、嘉永六年二十四歳の時、再び大和路へ行き、途中安芸の宮島、四国の多度津の琴平宮、白峰山そして大阪、京都、大和、伊勢に行き、当時名たる国学者や蘭学者、神道家に会って、〃生きた学問〃を貪欲なまでに学んだことである。その距離にして、実に全国一万数千キロの遊歴行程というから驚きである。

 現代と違って当時何一つ交通機関のない頃にあって、殆ど脚を頼っての遊歴である。

 のちの野山獄にあって囚人を相手にした教育姿勢といい、或は、松下村塾の教育精神からみても、この全国行脚によって学んだ〃生きた学問〃が、松陰にどれだけプラスになったか計りしれない。且つ松陰がふれた凡ての人々に烈しい尊皇精神を殖えつけ、感化し明治維新への礎になったといっても過言ではない。


 松陰の比類なき秀れた点は、学問にあって非常に謙虚であり、求道者にも近い誠の姿勢である。さながら、仏典の『華厳経』の中に出て来る善財童子のごとく、良き師を求め歩き、その師からまた、別の師を聞き、また訪ね遍歴した。

 たとえば、萩藩の恩師村田清風から長崎の平戸には、山鹿流兵学の子孫、山鹿万助と山鹿流兵学者でもあり、陽明学者でもある葉山左内がいると教えられるとすぐに九州に訪ねた。山鹿流といえば、江戸時代の初めの頃、山鹿素行によって開かれた兵法である。

 その山鹿素行は、『中朝事実』『武家事記』「配所残筆』『武教全書』等を書き著し、単なる兵学者ではない。とくに『中朝事実』は、日本こそ中朝と唱え、

  「我れ等事、以前より異朝の書物をこのみ、日夜勤め候故・・・・覚えず異朝の事を諸事よろしく存じ、本朝は小国故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出来り候得と存候。此の段は我れ等斗(ばかり)に限らず、古今の学者皆左様に存候て、異朝を慕ひまなび候。近比(ちかごろ)初めて存入、誤なりと存候。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠きを取り候事、是非に及ばず、まことに学者の通病(へい)に候。詳(つまびらか)に中朝事実に之を記し候。」

 と、従来の支那崇拝思想を批判し、日本中朝主義への転換を書き記している。そして

  「恒に蒼海の窮り無きを観る者は、其の大なるを知らず。常に原野の畦(かぎり)無きに居る者は、その広きを識らず。是れ久しうしてなるれば也。豈唯だ海野のみならん也。愚(われ)中華文明の土(くに)に生れて、未だその美なるを知らず。」

 と、中朝は支那に非ず、開闢以来皇統連綿たる日本こそ中国であり、因って日本中朝であると強調した。


 因みに、日露戦争で活躍した乃木希典将軍は、この『中朝事実』を座右の書とされていたそうである。これは有名な話であるが明治四十五年九月十三日、明治大帝御大葬の日のことである。周知の通り、乃木将軍は、この日、妻静子夫人とともに自刃した日でもある。乃木将軍は、西南戦争の軍旗喪失事件、又、前原一誠の『萩の乱』では、縁族互に敵味方に別れ皇室に迷惑かけた件、さらに日露戦争の際、二百三高地で攻めあぐみ、政府、軍部側より『乃木が、軍の統率として能力に欠ける。乃木を代えよう』との更迭の声等々にあっても、明治天皇より御厚情賜わり、自己の生命は大帝とともにあり、大帝甍去の後は、いさぎよく殉死しようとの熱誠より発したものであった。

 その前夜、即ち十二日、学習院の院長でもあり、明治天皇の三人の御孫さんの御用係でもあった乃木将軍は、迪宮裕仁(みちみやひろひと)親王殿下(昭和天皇)に自ら写し書いた『中朝事実』をご勉強にと渡されたとのことである。

 それほど、この『中朝事実』は、皇国日本を知る上において重要な書であるとの現れである。

 

水戸学を求めて (1) (4750)
日時:2011年09月30日 (金) 07時00分
名前:童子

 松陰は、平戸に行き葉山左内、山鹿万助に会い、大きく目を開いた。松陰は、この期間に二人から百余冊の書物を借りて、読破し重要なところは書き抜いた。松陰の読書のすさまじさは、自ら記しているごとく、『一日三冊、一年に千冊読書』せよとのこと、まさに驚きである。

 そして松陰の読書の仕方は、のちの松下村塾の塾生たちに教えたごとく、『書を読むには、其精力の半ばを筆記に費やすべし』『書を読んで己が感ずる所は抄録し置くべし。今年の抄は明年の愚となり、明年の録は、明後年の拙せ覚ゆべし。是知識の上達する徹なり。且抄録は詩文を作るに、古事類例比喩を索するに甚だ便利なり』と、絶えず読書をし、その要点を筆録している。さしずめ、今流で言えば、松陰は、メモ魔であり、これが人を育てるための基となったとみてよい。


 平戸では、主として陽明学、日本史、海外史、地理兵学等を学んでいる。松陰が平戸滞在で一番心に残ったのは、山鹿万助より水戸学を教えられたことである。天朝を学び国学を論ずるには、水戸学を学ばなければならない。水戸学では、とくに藤田東湖、会沢正志斎、豊田天功等に会って国史を学ぶように教示されたのであった。後に、松陰二十三歳の時に水戸を訪ね水戸学の教えを乞うのである。

 水戸学といえば、江戸時代の初めの頃、水戸黄門で名高い水戸光圀公(義公)によって、日本の正統史を伝えるために三十五万石の禄高のうち、約三分の一の私財を投じて『大日本史』の編纂大事業に土台からスタートしている。

 なんといっても、光圀公は、徳川家康の孫に当り天下の副将軍としての立場にありながら、 『我が主君は天子也、今将軍は我が宗室也(宗室とは親類頭)、あしく了簡仕、取違え申まじき由』と藩臣に伝えたごとく、天朝主義一辺倒の人であった。茨城の水戸で起こったので水戸学と呼ばれているが、純粋な日本学と言ってもよい。

 この義公からはじまり九代の斉昭公(烈公)の幕末期に水戸学がもっとも花開き充実した時であった。斉昭の時代には藤田幽谷、会沢正志斎、幽谷の子、藤田東湖、豊田天功、岡崎正忠等々の英傑が続々と誕生し、当時の全国の尊皇攘夷論者に感化したのであるが、残念ながら、それほど評価されていない。ことに、斉昭公の信任を最も厚く受けた藤田東湖は、水戸の弘道館の建学の精神をうたった。『弘道館』(東湖起草)、『正気之歌』には皇国日本の真姿や〃人は人たる道〃などが記されている。

水戸学を求めて (2) (4767)
日時:2011年10月01日 (土) 05時24分
名前:童子

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須実(しばらく)も離るべからざる者なり。・・・・・」。又、「正気之歌」は、「天地正大の気粋然として神州に鐘(あつ)まる。秀ては不二の嶽と為り巍々として千秋に聳ゆ。注いては大瀛(だいえい)の水と為り洋々として八洲を環(めぐ)る。発(ひら)いては万朶の桜と為り。衆芳ともに儔(たぐひ)し難し。・・・・」であり、皇国日本の讃歌である。

 とくに松陰は、『弘道館記』の冒頭の言葉、「弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり・・・」の箇所が強烈に共感となり、後の松下村塾の教育方針の「塾則」や「士規七則」にも多大の影響となったのである。

 ところが、松陰が水戸に訪ねた時、夢にまで見た藤田東湖が藩主斉昭公同様幕府より謹慎中につき残念ながら直接二人が相会することなく、人を介しての意見の交換をしたのにとどまったとのことである。


 しかし、松陰は、『新論』の著者会沢正志斎に会って教えを乞うた。その時に七十一歳の会沢正志斎より、

  『国事を論ずる者は、もっと日本の歴史を学ばなければならない。とくに古事記や日本書紀をよく勉強されたか。日本建国がよくわからないで国事を論ずることは出来ない』

 と、この老翁より厳しい忠告を受けた。それまでの松陰は儒教を中心とする漢学だけで日本歴史には余り関心をもっていなかったことを大きく反省するとともに正志斎のこの時の言葉がその後の松陰の運命を大転換させる鉄槌となった。以来松陰は、江戸の小伝馬町で処刑されるまで水戸学を中心とする国史を猛烈なまでに勉強した。

 又、水戸に滞在中、水戸学の大家で『大日本史』編纂に力を尽した豊田天功も訪ねた。天功も正志斎と同じく「国事に奔走するほどの者が日本の歴史に暗いようでは話にならぬ」と国史研究を強調した。この水戸学の精神が松陰の将来にどれほど影響したか、その後の行動を見れば明らかである。

 
 ここで感ずることは、水戸学と山鹿素行の『中朝事実』の合作が後の松陰精神の形成に大きく関与したのではないかと拝察される。たとえば、『士規七則』の第二の「凡そ皇国に生れては、宜しく君か宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫世々禄位をつぐ。人君臣を養ひて以て祖業を続ぎたまひ臣民君に忠にして以て父志をつぐ。臣民一体、忠孝一致なるは、唯吾が国のみを然りとなす。」 この節からみても、とくに感ずるところである。



      ◆五人の師に学ぶ

 その後、松陰は、大和滞在中において尊皇愛国の大儒者谷三山(たにさんざん)に会い、教えを乞うた。ここでも、水戸学のことが話題の中心になった。このように松陰の人間形成において水戸学が非常に重要な位置を占めている。学問の師として叔父の玉木文之進は別として、主に五人あげられる。先ず第一は、少年の頃より師と仰いだ萩藩の村田清風、平戸で教えを乞うた葉山左内、水戸の会沢正志斎、大和の谷三山、そして松代の蘭学者佐久間象山の五人である。


 さて、松陰の踏まれても踏まれても起ち上がる不屈な精神力と強靭な信念は、どこから来たのか、これは現代に生きる人々にとっても非常に興味あるところであり、学ぶべきところでもある。〃艱難汝を玉にする〃という諺があるが、まさに松陰がその典型的な例である。五たびの蹶起が悉く失敗し、その度事に獄に入れられても常に光明思想を失わなかった。たとえ、どんなに計画が狂うとも益々救国精神を強め意志を強固にしていく。嘆くどころか天が自分を試しているのだと。天は大きな仕事を授けようとする時には、必ずその人に試練を与える。困難こそ成功のチャンスと奮い起たせた。それは、松陰の次の言葉によって明らかに知ることが出来る。

 「神勅に相違なければ日本未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正気を重ねて発生の時は必ずあるなり」と、御神勅が日本国の全てであると強調している。 さらに、「諸事、神武創業初ニ原(モトズ)キ」と国家の安泰は、常に神武創業精神の回帰、即ち万世一系の統治である、と力説している。

燃える救国の想い (4768)
日時:2011年10月01日 (土) 05時47分
名前:童子

 現代の社会において、政治維新を志す者や大業を願う者にとっては、松陰の常に死を覚悟のうえの不動なる信念と超人的な行動力を深く学ぶべきである。失敗しても失敗しても悔いることなく、益々信念を固め再び起ちて行動する救国精神とマコトの姿勢に只々驚嘆するのである。

 たとえば、次の行動をみるがよい。

 それは、黒船来航事件である。黒船事件は、嘉永六年六月(1853年)、徳川二百五十年の眠りから覚ました日本歴史はじまって以来の大事件であった。その当時の落首を詠めば、その頃の動揺が垣間見るようである。「太平の眠りを覚ます蒸気船」と、もう一首「たった四はいで夜も眠れず」である。ペリー米国極東艦隊司令長官が浦賀の海上に所狭しと、その四つの巨艦をもって大砲の音を轟かせ幕府に開国を迫った事件である。幕府は今だかって見たこともない黒い巨艦と大砲に、ド肝をぬかれ震えあがったのである。

 これは、余談になるが筆者が思うに、大東亜戦争終了後、東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)の時に戦勝国側が日本の侵略行為を一方的に決めつけた際、なぜ日本側が百年前の歴史にさかのぼってこの黒船以来の白色人種による東亜の侵略行為を訴えなかったのであろうか。歴史の観点からいって、この黒船来航は、紛れもなく日本に対しての侵略行為である。


 いずれにしてね、日本国は、黒船事件以来、開国派、尊皇攘夷派、佐幕派等によって四分五裂の状態になり歴史上未曾有な危機を迎えた。

 その時、松陰は、浦賀でその状況を見て祖国日本をいかにして救うか、自分が起たなければ日本は亡びてしまうと思った。

佐久間象山との出会い (4778)
日時:2011年10月01日 (土) 19時17分
名前:童子

 その頃、江戸にあって蘭学者であり、『海防八策』で著名な佐久間象山は、幕府に対して「西欧の科学の技術を学び国防を充実する以外日本は救われない」と、盛んに建言した。

 松陰は、その象山を訪ね、日本の危機を救うにはいかにすればよいか、どのような道があるか教えを乞うた。象山は、若き行動派松陰の熱烈たる愛国精神にふれ、現下の日本を救う道は、海外に渡航して欧米の科学技術を学びその技術力をもって海防を充実することだと力説した。

 当時日本は、海外渡航は国法によって堅く禁じられていた。松陰は、師の象山より、この話を聞き、折りしも嘉永六年七月に長崎に来航中のロシアの船に乗り込むことを決意し、すぐに江戸を立ち長崎に向った。〃良いと思ったら、すぐ行動、思いこんだら命がけ〃松陰には、まさにふさわしい言葉である。九月十八日に江戸を出発、東海道を歩き京都に入り、染川星巌を訪ね、天皇の時局を憂慮せられている様子を聴き強く感動した。そして皇居に額ずき皇国日本を祈った。

 松陰が、その時詠んだ詩がある。筆者は、この詩を詠むたびに、松陰の尊皇絶忠の心が痛いほどわかるのである。



   山河襟帯自然の城、東来日として帝京を憶わざる無し。
   今朝盥漱(かんそう)して鳳闕(ほうけつ)を拝し、野人悲泣して行く能わず。
   鳳闕寂寥今は古に非ず、空しく山河有りて変更なし。
   聞くならく、今上聖明の徳、天を敬い民を憐む至誠に発す。
   鶏鳴乃わち起きて親しく斎戒し、妖雰を掃って太平を致さんことを祈る。


 と、天子様の朝夕の〃上御一人の祈り〃と恩恵に松陰は、ひれ伏したのである。

 この幕末動乱期の頃、孝明天皇様は次の三首の御製にみられるごとく、非常に日本国の行末をご安じられた由である。


   国安く民安かれと思ふ世にこころにかくる異国(とつくに)の船
   ねがはくは朝な朝なの言の葉をあはれみうけよ神ならば神
   戈とりて守れ宮人九重の御柱の桜風そよぐなり

 と、どれもこれも日本の危機を憂えられ、朝夕に神に祈られている手ぶりのご日常がひしひしとわかる。


 さて松陰は、京都から瀬戸内海を出て、それから船で九州の鶴崎にわたり、そこから阿蘇に出て熊本を通り、目的地長崎には十月二十七日着いた。今の時代と違って交通機関のない頃、ただひたすらに日本国を救う一念の野望に燃えて、この四十日間寝食を忘れて歩きまくったものと思われる。

 ところが洵にも残念なことに松陰が長崎に到着した数日前、そのロシア船が引き揚げた後であった。それは言語に絶する衝撃であったろうと思われる。しかし、松陰は凡人ではないのである。益々海外渡航を断乎として行うことを決意するのである。松陰は、

   丈夫見るところあり、意を決して之を為す。
   富嶽崩るるといえども、刀水(利根川)竭くといえども
   亦誰れか之を移易せんや

 と、その信念の強さを表わしている。



         ◆黒船に密航

 嘉永七年三月に松陰は再び国禁を破って海外渡航を決行するのである。江戸で知り合った同郷の金子重輔とであった。この事件はあまりにも有名である。

 この年、再びアメリカの黒船が伊豆の下田に来航し、条約の締結を迫った時であった。三月五日に江戸を立ち三月二十六日に決行するまで、あらゆる手立てと計画を練ったものであったが、これも運悪く米水兵に発見され失敗に終ったのであった。

 ペリーの『日本遠征記』の中に、

 「この事件は我々を非常に感激させた。教育ある日本人二人が、命を棄て国を掟を破ってまでも、その知識を広くしようとする燃えたつような心を示したからである。日本人は洵に学問好きで研究心の強い国民である。この計画ほど、日本国民がいかに新しいことを好む心が強いかを示しているものはない。この精神は厳しい法律と、たゆみない監視の為に抑えられてはいるが、日本の将来に、実に想像も及ばぬ世界を拓くものではなかろうか」

 と、記している。大体、想像がつくであろう。
 

野山獄での生活 (4800)
日時:2011年10月03日 (月) 09時30分
名前:童子

 先日、筆者は、所用で萩の松陰神社、松下村塾へ参拝の後、そこより少し二キロ離れた萩の東方護国山東光寺南麓、団子岩の松陰の生誕地を訪ねた。東光寺の境内を登りきったところに、松陰をはじめ杉家、吉田家一族の墓がある。その隣りに下田における松陰と金子重輔の像がはるか北浦を眼下に建っている。その丁度前が松陰の誕生地である。

 そこは団子岩の高台にあって、『朝日は唐人山の頂きに臨み、日は指月の西山に傾く、巴城の市は手に取るが如し』と形容された景勝地で、その高台からは、萩の平野と帯のように流れている阿武川と日本海が一望できる洵に雄大な美しい所である。筆者も、銅像の前に立って眼下を見渡せば、その雄大な美しさと心広々とした清冽さに思わず感嘆の声をあげたほどである。

 松陰は、このような素晴らしい環境のもとで生れ育ったのである。そして皇国日本を夢見たのであろう。


 松陰は、この下田での金子重輔との渡航事件に失敗した後、国法を破った罪として、下田平滑の獄に入れられた。その時も松陰は、番人に対して、

  「お前たちは、日本の国の尊い成り立ちを知っているのか。日本の国柄は欧米の国々とその成り立ちが違う。この祖国日本を守るために今こそ国民が一致協力して守らなければならぬ。私たちは国法を破ることは、洵に残念であるが、このままにしておいては日本は危ない。私は、命を捨ててもやらねばならぬ」

 と、愛国熱誠の精神を語った。どこまでも国を想う自己の信念に只々感嘆するのである。


 国法を犯した重罪人ということで松陰と重輔の二人は、下田から江戸の北町奉行所に送られた。途中高輪の泉岳寺を通った時、赤穂義士の忠魂と松陰自身の心中をよく表わした有名な

  『かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂』

 の詩を詠んでいる。

 そして江戸の小伝馬町の獄での六ヶ月間の生活後、松陰と重輔は、故郷の萩の野山獄と岩倉獄へ護送され、それぞれ分れて入牢の身となった。後に金子重輔は、野望なかばにして岩倉獄中で病死した。


 この年の正月(安政二年正月)野山獄で新年を迎えた。家族の者から届いた餅とお屠蘇を味わい乍ら、天下国家のことを思いめぐらした。この頃の松陰は、兄の梅太郎の深い愛念によって次々に書物が届けられてきた。『一日三巻、一年に千巻』まさに読書三昧の日課である。

 この時の一巻に孝明天皇の御製が目に止った。
   『戈とりて守れ宮人九重のみはしの桜風そよぐなり』
 この御製を目にした時、松陰は、心の底から熱いものがこみあげてきたのであった。

 『天子様のご心中は、いかばかりか。今こそ武士(もののふ)は、武をとって神国日本のため九重をまもらねばならぬ』と堅く胸に誓った。その時、詠んだ返歌がこの詩である。

   『九重の悩む御心思へば手にとる屠蘇も呑み得ざるなり』

と、切々と詠んでいる。即ち天子様の大御心を思えば、今夜こうして手にした一杯のお屠蘇も熱き涙で呑むことが出来ないという、ただひたすらに天皇仰慕の精神をうたった深い味わいの歌である。

 又、この当時、松陰はよく夢を見、神からのお告げによって、自らのことを『二十一回猛士』と呼んでいる。

  『・・・吾れ生来事に臨みて猛を為せしこと、凡そ三たびなり、而るに或は罪を獲、或は謗を取り、今は則ち獄に下りて復に為すあること能はず。而して猛の未だ遂げざるもの尚十八回あり。其の責も亦重し。・・・』

と、信念を強め断食の効果もあって、まさに神がかり的になっていた。松陰の頭には、只々天子様のご安泰と国家の救済しかなかったのである。 『思うまいと思うても又思い、言うまいと思うても又言うものは天下国家の事』 これが偽ざる心境であった。

 ここで松陰の驚くべき特筆は、獄の中にいても寸暇を惜しんでよく学び、そして囚人に教えたのである。野山獄は、松陰を入れて十二人、みな夫々独房であり、ここに入ったら一生世の中へ出られる見通しの立たない獄であった。それだけに入獄者は、生きがいを全く失っていた。だが松陰は、たとえどのような環境におかれても、人は人たる道を歩み、魂の向上のためには、学問を怠ってはならぬと考えた。 〃朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり〃 これが真の学問であり、人の道であると思い、松陰は囚人達に道を説いた。

 主として、孟子の講義を熱っぽく真剣に説いた。これが本当の人間教育であり、伝道である。長い間、生きる屍のような囚人たちが、松陰の講義により、光明が点じられ、夫々の瞳が輝き出し、しまいには皆熱心に聴聞した。まさに囚人たちは、形の世界は獄に入りながら、心は生れ更ったのである。

 後の松下村塾の一員になった富永有隣、大深虎乃充、俳句づくりの名人高須久子、河野数馬、吉村善作等々素晴らしい人材がこの獄より発掘された。人間に宿るところの無限力の開発であり、神性の啓発である。この講義の座に列する者は囚人だけにとどまらず、獄吏福川犀之助も松陰の気高い学識にふれ、すっかり松陰に魅せられ講義を傾注した。自分一人だけではなく、講義の席には弟の高橋藤之進も同席させ熱心に聞き入った。まことに驚くべき感化力であり、松陰の情熱であった。

 とくに松陰は、単に孟子の学者的解説でなく、その奥にあるところの心、精神を説いた。

  『心が直ければたとえ千万人の敵があろうとも突き進んで行こう。この世の中は、全て楽しいとか、苦しいとかは、心のもち方から起こる。心を明るく持てば、明るい人生がやってくる。たとえ、身は獄中にあろうとも、心の持ち方一つで価値ある人生が送られ、楽しむことができる』

と、説いた。まさに『生長の家』の光明思想そのものである。

 この時の孟子の講義が松下村塾にも続けられ、『講孟余話』になったのである。吾々は、この時の松陰の教育精神からも人を育成するのは環境云々ではないことがわかる。たとえ、いかなる環境におかれても、この環境をネジ曲げるごとく、或いは、悪現象にとらわれることなく敢然と立って、その中において光明生活を送ることが出来るのだという、その証しが、松陰精神であり、吾々は、このところを大いに学ぶべきであろう。



  ***

 ※参考に:
  池田屋事件で憤死した熊本の憂国志士 宮部鼎蔵は孝明天皇の御製の返歌として

     いざこども馬に鞍置け九重のみはしらのさくらちらぬ間に

 と詠んでいる

松下村塾 (4817)
日時:2011年10月04日 (火) 08時21分
名前:童子

 安政二年十二月、松陰は野山獄を出て、杉家に幽囚の身となった。松陰の幽囚の部屋は、四畳半の狭い一室であったが、この中に閉じこもってひたすら読書と思索の謹慎生活を送った。これが松下村塾のはしりである。


 この松下村塾は、元々、松陰の叔父玉木文之進が天保十三年(一八四ニ年)に始めた塾で、松本村にあったので中国風に松下と名づけられた。松陰も幼少の頃、兄の杉梅太郎と一緒に玉木文之進より厳しい教育を受けた。二代目が、杉家の隣りに住んでいた親戚の久保五郎左衛門であった。そして松陰が三代目であるが、松下村塾といえば今では吉田松陰が教えた塾の代名詞のようになっている。それだけ、松陰は、多くの人材を育て、且つ教育指導が抜群であった。

 松陰の教育方針は、『松下は陋(ろう)村といえども誓って神国の幹とならん』という信念をもって尊皇の大義を説き、熱誠にて青年の教育に全精魂を傾け人材を養成した。

 しかもその教育姿勢は、指導者として高い座にて指導するのではなく自ら率先垂範し、人に応じて一対一の体当たり教育であった。その情熱と迫力は、人の心を動かさずにいられない至誠の一語につきた。しかも塾生には、

  『学者になってはいかんぞ、人は実行が第一だ。国のためにお役に立てる立派な人間になることが何よりの学問である』

と、松陰は机上の知的なものだけでなく常に生きた学問をめざした。たとえば、晴天の下で田畑を耕作しながら問答形式で教えたり、師弟二人で米ツキをしながら今流のマンツーマンで教えたり、洵に理想的な教育である。

 ここで松下村塾規則を紹介する。

  一、両親の命必ず背くべからず。
  ニ、両親へ必ず出入を告ぐべし。
  三、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、京にむかひ天朝を拝する事。
     仮令病に臥するとも怠るべからず。
  四、兄はもとより年長又は位高き人には必ず順ひ敬ひ、無礼なる事なく、
     弟はいふもさらなり、品卑き年すくなき人を愛すべし。
  五、塾中においてよろず応対と進退とを切に礼儀を正すべし。

 この五則をみても、松陰は水戸学によって開花した天朝日本精神を教育の基とし、人は人たる道を歩むことを主眼としていた。即ち神ながらの精神であった。

 松下村塾が日本で最小の学舎でありながら、わずか二年半の短き歳月の中で、かくほどまでに後世に燦然と輝き遺しえたのは、素晴らしい後継者、良き人材、日本の宝を養成したことであった。


 松陰の至誠あふれる教育者としての精神は、塾生の魂を動かし感動を与えた。高杉晋作をはじめ久坂玄端、木戸孝允(桂小五郎)、前原一誠、吉田栄太郎、品川弥二郎、野村靖(和作)、山田顕義、山縣有朋、松浦松洞、増野徳民等々幕末から明治維新の大業にたずさわった超一流の人物を輩出した。

 残念ながら松陰は、若くして武蔵野の露と消えたが松陰の尊皇絶忠の精神は、これらの門下生に流れ伝えられ、わが日本国においては、永遠不滅のごとく、今日まで受け継がれている。


 なぜ松陰の教育指導がこれほどまでに多くの人を魅了し、且つ日本中に影響をあたえたのか。今日の混迷する日本においては、教育の貧困が大きくとりざたされているだけに洵に興味あることであり重要なことである。

 それは、松陰の教育指導は、各自の適正を洞察し、個性を豊に伸ばす〃天才教育〃であり、生きがいを与える教え方であった。そして松陰は常に真剣であり、自分も一人の求道者のように多くのものを学んだ。

真の学問とは (4855)
日時:2011年10月07日 (金) 09時55分
名前:童子

 松陰は、先に記したように二十一歳から二十五歳まで全国を遊歴し、当時の一流の学者から〃生の学問〃を学びとった。儒学、兵学、神道学、地理学、国学、蘭学等自分に必要なものをドンドン吸収し、それを確実に血肉とした。とくに、水戸学と山鹿素行の『中朝事実』に魅きつけられたようである。又、下田の獄にあっても、野山獄にあっても絶好の学問の場と考え、猛烈に学んだ。

 松陰の二十代からの十年は、人の十倍、即ち百年に値いするほど時間をいかしたのである。松陰は朝起きてから夜寝るまで勉強を怠ることなく、松下村塾の時代は満足に布団を敷いて寝ることはなかったという。眠ければ机にうつ伏してしばらく休み、又起きて読書をし、講義をする超人ぶりであった。しかも松陰の教育は家庭を非常に大切にし、忠孝を基いとしていた。

 真の学問は、理論だけの言挙げしたものではなく、敢くまでも実践学と一致したものでなくてはならないとの考えからである。それゆえに松陰は父母をことさら大切にし、妹たちをも非常に愛した。

  『凡そ人のかしこきもおろかなるも、よきもあしきも、大てい父母のをしへに依ることなり。就中、男子は多くは父の教を受け、女子は多くは母のをしへを受くること、又其大がいなり・・・・』

と、松陰は家庭教育を教育の根幹においている。のちに松陰は間部詮勝老中事件の発覚により、再び野山獄の人となった時、父母に、叔父、兄に深くお詫びの書を送っている。その手紙を見ると、

  『度重なるご迷惑をかけることになり、これ以上の不幸はありませぬ。しかし、今日の時勢を想うに真の国家の存亡に関わる重大な時、じっとしておるわけに参りませぬ』

と、深く肉親を思い詫びている。ここが松陰の比類なき素晴らしい〃人となり〃である。単なる革命家と本質的に異なる。烈しいまでも国を想う愛国精神に驚嘆を感ずるとともに、今日の吾等の行動を顧みる時、松陰の塾生たちにも別れの詩として次の一篇を示した。

  『宝祚天壌と隆に、千秋其の貫を同じうす。如何ぞ今の世運、大道糜爛に属す。今我れ岸獄に投じ、諸友半ば難に及ぶ。世事言うべからず。此の挙施(かえ)って観るべし。東林秀明に振い、太学衰漢を持す。松下陋村と雖も、誓って神国の幹とならん』

と、塾生たちには、常に神国の幹とならんことを教化した。

 ここで注目すべきことは、松陰の書き記したものは、『山河襟帯の詩』を別として、『士規七則』『講孟余話』『七生説』『二十一回猛士の説』『志』『自詒(じい)』『至誠』『詠名詩』『奉別家大兄の詩』『肖像自賛の詩』『留魂録』等は、その大半が、獄中のものか、幽囚中で記されたものである。しかも、どれもこれも、国を憂い大義を尽し、死を恐れることもない至誠のほとばしる内容である。


 松下村塾は、当初八畳の一間から始まり、塾生の数が増えるにしたがって、新たに十畳半と土間一坪が増築された。それも、専門家の手をわずらわすことなく、松陰自らが陣頭に立ち、塾生たちと共同で作業しこしらえたものである。塾生の中には、大工や左官、或は、屋根葺きの心得のある者がいて、夫々材料を持ち込んで造った。いわば、松下村塾の建物は、本当の手造りである。


 筆者も、松下村塾の建物を眼の当りにして、余りの小さきに驚いたほどである。本当に学問を志し、教育を為すものにとって学舎は、形や外観ではなく、指導者の姿勢と情熱と使命感が何よりも大切であることを松下村塾は、吾々に無言のうちに語っているような気がするのである。

 丁度、親鸞聖人が浄土真宗を拡められた時、『たとえ、ポロ屋でも、この教えを聞いてくれる人がいれば、それでよい』と、大きな伽藍道場を建てることを戒められていたことと類似している。人材育成のための学校は、外形ではなく問題は、その中味である。松下村塾の建物を見て感ずることは、この程度の大きさならば、現代の吾々にとって、自分の住んでいる家と変りなく、〃やる気〃さえあれば、安心して自宅を解放できると思うのである。

人は人たる道 (4869)
日時:2011年10月08日 (土) 16時05分
名前:童子

 松陰の教育方針は、今日の日本において、一番必要なことであり、且つわが国にとって永遠不滅の精神である。否、日本のみならず、万邦に比類ない教育方針である。それは、教育にとって最も大切なことは、国体の精華を明らかにし、国のために尽す精神の培い、〃人は人たる道〃を修めるよう教え育てることが、なにより肝要だからである。

 松陰の『松下村塾規則』や『士規七則』から見ても、それらの思いと精神が溢れている。又、この精神は、後の『教育勅語』に相通ずるものである。その『教育勅語』は、作成に当って、山縣有朋(松下村塾出身者)の内閣時代、文部大臣芳川顕正が就任を折、明治天皇より勅語を起草するように御沙汰があり、法制局長井上毅と協力して草案作成に努力した。又、この井上毅は、大日本帝国憲法の草案においても身命を尽した人であり、大変な水戸学の心酔者でもあった。

 従って『教育勅語』の背景には、水戸学(とくに『弘道館記』)が非常に影響を及ぼしていると思われる。それは『教育勅語』渙発の明治二十三年十月三十日の前日まで、明治天皇が水戸にあって近衛機動演習統監のため御幸されていたことでも頷ける。

 これらのことを考えると、松陰は、先に述べたように水戸学を尊崇していただけに、当然、松陰の『松下村塾規則』と、後の『教育勅語』の精神とは一致したものであり、日本人がいかなる時代を迎えようと、万古不易として、踏み行うべき〃道〃である。


 この最も大切な〃道〃が、敗戦を境として失われてきていることが、今日の〃病める日本〃に陥落し、目を覆うような事件が続出している素因となっている。人は踏むべき〃道〃を踏み外した時、悪逆無道の世になるのである。

 昔から言われるように、〃人心危うく、道心是れ微かなり〃の諺が示すように、人は人たる道を踏み行うことが、本当の平和への道であり、素晴らしい明日への社会建設にあるのである。

 かつて、イギリスの有名な陶芸家バーナード・リーチ氏が万博の時に来日され、日本感想記を述べた中で、 『日本にないものはない。なんでもある。唯一つ日本がない』 と、今日の〃病める日本〃を指摘していた。この意味は、現代の日本人の精神構造を指摘しているようであり、洵に恥かしい限りである。

 今日の日本は、物質中心主義に走り、政界や経済界ばかりか、もっと神聖であるべきはずの教育界までも唯物論の蔓延によって、教師と生徒が敵対関係のようになり、その結果、校内暴力、非行化は目に余る現況である。これを一掃するには、現在の唯物論的押しつけ教育を根本的に見直し、幼少の頃から、もっと〃人の型〃即ち、人は人たるべき道を教え、個性豊な天分を引出す教育に早く転換することである。

 それには、徳育を主とし知識は従にし、心に潤いのある情緒豊な教育が必要である。具体的には、日本の正しい神聖性のある歴史を教え、生きた学問ちとして神社参拝を励行し、わらべ唄を歌わせることが大切である。その意味からいっても、吉田松陰の精神に触れ学ぶことは、単に懐古主義でなく、真の日本人育成に洵に重要なことである。


 松陰においては、わずか二年半の松下村塾時代が、もっとも楽しく幸福な頃であった。

ただひたすら尊皇崇拝 (4929)
日時:2011年10月13日 (木) 12時51分
名前:童子

 松陰は、間部老中事件の発覚により、再び四年ぶりに野山獄に幽閉された。その時に詠んだ詩が

  『斯の身獄に降るも未だ心は降らず、寤寐(ごび)猶迷う皇帝の邦、
   聴き得たり三元鶏一唱、勤皇今日郭れか無雙ぞ』 

と、身は幽閉されてもなお益々尊皇崇拝を心に誓っている。このような松陰のあまりの憂国の烈しさに、同志や門下生ですら身の安全を思って、一人去り二人去りと、だんだん遠のいていくほどであった。とくに桂小五郎や吉田栄太郎などそうであった。松陰にとっては、友が去っていくことが獄にいる以上に辛いことであった。しまいには、音信すら全く途絶えてしまった。


 安政六年五月、松陰は故郷の野山獄から江戸へ送還されることになった。五度奮起して五度敗れた松陰は、もう二度と萩へ帰ってくることはないだろうと察知していた。

 松陰はこの時、父母と三人の妹たちに別れの手紙を書いた。その中で、五月十四日に妹たちに宛に書いた手紙は、今日の乱れた世において、道徳教育の面からみても、洵に素晴らしい内容である。松陰がいかに親を思い、妹等のことを案じているか、松陰の〃人となり〃が、よく文脈に現れている。


   『拙者儀この度江戸表へ引かれ候由。如何なる事か趣は分り申さず候へども、いずれ五年十年に帰国出来る事も存ぜず候へども、先日委細申し置き候故別に申すに及ばず候。拙者この度たとひ一命捨て候とも、国家の御為めに相成る事に候はば本望と申すものに候。両親様へ大不孝の段は先日申した様に、その許達申し合わされ拙者代りにお尽し下さるべく候。併し両親様へ孝と申しても、その許達各々自分の家之ある事に候へば、家を捨てて実家へお力を尽される様な事は却って道にあらず候。各々その家その家を整え夫を敬い子を教へ候て、親様の肝をやかぬ様にするが第一なり。婦人は夫を敬う事父母同様にするが道なり。・・・』


と、人の道たる倫理道が記されている。松陰は、国家の救済を本意としながらも、なお家庭のことまで心配りを怠らなかった。ここが松陰素晴らしさである。

永遠の別れ涙松 (5006)
日時:2011年10月18日 (火) 08時44分
名前:童子

 五月十六日には、門下生の岡部富太郎、福原又四郎、松浦松洞の三人が獄を訪れ、最後の別れに臨んだ。その時松陰は『人間として至誠がなければ真の人間ではない。孟子の言った〃至誠にして動かざるもの未だ、之有らず〃これが私の守礼である。どうか諸君もこの言葉を深く覚えておいてほしい』と言って別れを惜しんだ。

 松陰は、倒れても倒れても起ち上がる不屈の闘志は、〃吾れは忠義を為すつもり、諸友は功業を為すつもり〃の心が深く信念として根ざしていたものと思われる。このことが、父の妹佐々木叔母や野村和作、品川弥二郎、妹たちにおくった詩からも、はっきりとくみとれる。

 佐々木叔母には、『今更におどろくべくもあらぬなりかねて待ち来しこのたびの旅』とうたい、和作には『君のみは言はでも和らむわが心心のほどは筆もつくさじ』、又、弥二郎には『逢ふことは是れやかぎりの旅なるか世に限りなき恨なるらん』と詠み、妹たちへは『心あれや人の母たる人達よかからん事は武士の常』と、夫々詠んでいる。これらの詩によって、松陰の国を想う心情と温かい人柄がよくわかる。


 父母とも別れ、塾生とも最後の惜別した松陰は、駕籠に乗って五月雨の降る中を萩を後にした。その時、詠んだ詩が有名な『涙松』の句である。

  『帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな』

 萩から山口に出る途中、鹿瀬ケ峠に向うところに涙松と言われた古い松の木立がある。ここを過ぎれば、もう萩は視界から遠ざかる。松陰はなつかしい故郷の萩の風情や肉親、塾生等の永久の別れに、はらはらと流れる涙に言葉もなかったのである。

 筆者はなぜかこの松陰の江戸護送を考える時に菅原道真公の太宰府への流人の状況と重なってしまうのである。菅原道真公は、宇多、醍醐天皇からも信任厚く、五十六歳の時、右大臣兼右近衛大将に任ぜられ異例の昇進によって、藤原一門の嫉み烈しく、中でも藤原時平のざん言により、ついに太宰権帥に左遷のうき目となった。その時、道真公は庭の紅梅を見つめ、あの有名な『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』と詠み、妻子や民衆に送られながら京をあとにした。この時の道真公の心中と今の松陰の無念やるかたない心中は甲乙つけがたいものがあったろう。奇しくも、道真公も松陰もともに『学問の神様』として夫々の神社に祭祀されている。

江戸獄中での手記 (5047)
日時:2011年10月21日 (金) 12時01分
名前:童子

 松陰を乗せた駕籠の一行は、一ヶ月間かかって江戸に着き、幕府最高の裁判所たる評定所にて厳しい取り調べを受けた。幕府側は、安政の大獄によって、幕府に楯突いた水戸、土佐藩の他、佐久間象山、梅田雲浜、橋本左内、頼三樹三郎等の反幕府思想家に対して強烈な弾圧が施された。そのため奉行所では、松陰に対しても過激思想家として想像以上に重く罰せられた。しかし松陰は臆することなく國を思う至誠の前に堂々と自己の信念を貫いた。

 松陰、三十歳の誕生日の八月四日に次のような詩を詠んでいる。

  『國を許すの身敢へて親を顧はんや、安然獄に坐す亦吾が真。忽ち逢ふ父母苦労の日、復た被る西風の人を愁殺するを』

と、松陰は国に捧げた身とはいえ、故郷の父母をしのんだ詩である。既に松陰は、この頃死を覚悟したものと思われる。


 松下村塾門下生の高杉晋作が江戸の獄に面会に訪ねた折、松陰は

   『死は好むべきにも非ず。亦悪(にく)むべきにも非ず。道尽き心安ずる。便(すなわ)ち是死所。世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし。』

と、松陰は淡々と生死を超えた心中を語った。さながら宗教家の死を超越した〃悟り〃の境涯である。


 心の定まった松陰は郷里萩の父兄へ最後の手紙を書いている。

   『平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申候。さぞさぞ御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。

    親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん

 さりながら去年十月六日差上げ置き候書、得と御覧遊ばされ候はば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。尚又当五月出立の節心事一々申上げ置き候事に付き、今更何も思ひ残し候事御座なく候。・・・幕府正議は丸に御取用ひ之れなく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神国未だ地に堕ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力御落し之なく候様願ひ奉り候。随分御気分御大切に遊ばれ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上』

松陰が十月二十日に書いた手紙である。

 子の自分が親より先に逝くということは、どれほど親に心労を与えるか。そのはり裂けるような胸中を松陰は、
   『親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん』
の名文句を切々と詠んだのである。 

 現在、松陰神社の境内にその碑が建っている。

不滅の『留魂録』 (5064)
日時:2011年10月23日 (日) 22時40分
名前:童子

 松陰は十月二十五日から二十六日にかけて、あの有名な『留魂録』を書いた。松陰最後の訣別の記録である。

 筆者はこの『留魂録』を松陰遺墨展示館で直接拝観した時、あまりの小さな帳面と字に驚いたほどである。これから推察しても、斬刑前夜、看囚人の目を盗みながら黄昏の頃、記録したものと思われる。『留魂録』の最初の出だしが、あの有名な

   『身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂』

の一首である。

 この『留魂録』は門人達への遺書である。幕府取調べの模様、死に臨む心境、獄中同志の消息、門下生たちへの委託等書かれている。この原本は同囚沼崎吉五郎に托されたが沼崎は後三宅島へ流罪となり、明治九年頃、三宅島から帰るや、松陰門下の野村和作(当時神奈川県令)に手交した由緒あるものである。

 とくにこの中で松陰は、肉体は武蔵野原に朽ち果てても、天皇国日本への燃ゆるわが胸の思いは、永久にとどめておきたい。自分はこうやって死の運命を静かに迎え得るのは、平生の学問の賜であると冷静沈着に筆を運んでいる。洵に堂々たる不動心である。そして『留魂録』の最後には、更に五首の歌を認めた。


   『心なることの種々書き置きぬ思ひ残せることなかりけり』
   『呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりかるかな』
   『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ』
   『愚かなる吾れをも友とめづとも友とめでよ人々』
   『たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや』

 
 この五首から拝察して、松陰はもう思い残すことなく、後は呼びだしを待つのみの淡々とした諦観の境地になっていたのではなかろうか。さしずめ仏典の『大無量壽経』の如来の〃使命は己に為せり〃の気持になっていたのではないかと思われるのである。

武蔵野の野辺に散る (5078)
日時:2011年10月25日 (火) 01時31分
名前:童子

 安政六年十月二十七日遂にその日は来た。今上最後の日である。

 松陰は評定所から最後の呼び出しに衣服を改めて伝馬町の獄を出た。出るにあたって、

  『此の程に思い定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける』

と、一首書き留めた。松陰は死刑の恐怖や生への未練はいささかもなく、むしろ新たなる出立の今日を待ち望むかのような透徹した境地である。さらにお世話になった看守人には丁重に別れの挨拶をし、獄の部屋もきれいに片付けた。ここが松陰の〃人となり〃の言行一致の誠の姿であり、偉大さである。


 この松陰と同様、後の明治の軍人乃木希典もまた自決と斬刑との違いこそあれ、死を直前にしていささかも心乱すことなく見事に散った人である。この二人はともに親類にあたり、ともに尊皇崇拝であり、限りなく国を愛し、又教育者でもあり、至誠〃忠〃に生ききった人であった。

 遺書となる『留魂録』といい、乃木希典の二首 (『神あかりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる』 『うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり』) の辞世他遺書の筆跡は、ともに最初から最後まで心乱れることなく安静の筆致、光風霽月(こうふうせいげつ)、砥ぎ澄まされた日本刀のような清澄にして不動心が表れている筆運びである。

 筆者は、松陰の『留魂録』を萩の松陰神社境内にある松陰遺墨展示館で、乃木希典の遺書は下関市の長府町にある乃木神社境内にある乃木展示館で夫々拝観したのであるが、ともに達人の境地に到る筆運びに唯々驚嘆したほどである。


 さて松陰は、十月二十七日朝、幕府の評定所において松平、久貝、石谷の三奉行から死刑を宣告された。当初流罪の刑であったが、過激な尊皇思想家を嫌う井伊大老によって死刑となったとのことである。

 刑場に引かれる時、松陰は声高らかに皇国の大精神を辞世の詩として朗誦した。ここが普通の武人や軍人と違うところである。例え殺されても、最後の最後まで天皇を仰慕し、国を愛してやまない松陰魂に驚くのである。

   『吾今国の為に死す、死して君親に負かず。悠々たり、天地の事、鑑照、明神に在り』

と青天白日のように澄みきった心で、武蔵野の露と消えたのである。自分は今、国のために死するが、死んでも大君や親の心持にそむくものではない。悠々に続く天地の事、わが〃忠〃の心は神のみぞ知ることゆえ、死しても心に何も残ることはない。自分が滅した後の光輝く万乗の世界を期待してやまないという、松陰の赤き心が脈々と流れている空前絶後の尊皇愛国の名歌である。

 とくに、ここで注目したいことは〃悠々たり、天地の事〃という言葉の意味である。この真義は、日本の国は天地の始まりとともに肇国以来万世一系の天子さまによる国柄によって悠久不滅であるとともに、わが心も日本国と同様、この場になってもいささか恐れることなく悠々たる境地であり、この精神は永遠不滅であるという深い深い掛け言葉であると拝察されるのである。

 松陰のこの美しいまでも烈しい尊皇、愛国の精神は時代が移り変わろうとも、吾々日本民族は忘れることなく永遠に残していかなくてはならない道統精神の遺産である。そして、松陰はこの日潔く散っていったのである。


 世の愛国者と呼ばれる人々よ。今こそ松陰精神の何分の一でも、わが心とし、ただひたすらに『天皇国日本』実現をめざして祈り且つ行動にうつることを希うのである。真の愛国者には名もいらぬ。地位もいらぬ。ただ天皇を仰慕してやまぬ愛国熱情の松陰精神と団結心が何よりも大切である。

 世に愛国者と言われる人は多い。しかし残念なことに団結心が乏しいゆえに、力が分散し脆弱である。それは似非愛国者か、遺物的愛国者にすぎない。或いは、自己の主張にこだわるあまりに自己の領域を固守して同志を批評する識別的愛国者である。もう、そういう議論した時代は過ぎたのである。

 真の愛国者は道義に生き広々とした心で大同団結できる包容精神をもち、至誠を貫き、炎のごとく燃え熱き血潮で祖国日本を守らんがために決起する勇者でなければならない。


 現下の日本をみるときに、真の愛国者は今こそ神国日本復活をめざし、眠れる心に松陰魂を吹き込み、心を一つにして立上る秋(とき)が〃今〃来たのである。


                 完。



  ***

 二川 守氏 : 58年当時 生長の家本部講師 練成局主任



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