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松陰スピリッツ (4756)
日時:2011年09月30日 (金) 12時46分
名前:伝統

”童子 さま”ありがとうございます。

スレッド「吉田松陰」を立ち上げていただき、心より感謝申しあげます。
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994

『吉田松陰精神に学べ』の目次を見て、そして現時点までの展開を見て、
”童子 さま”による、これからの展開に、心が躍っております。

それで、小生は、”童子 さま”の邪魔にならない程度で応援する意味合いで、
勝手に応援スレッド「松陰スピリッツ」を立てさせていただきました。

このスレッドでは、吉田松陰の周辺のエピソード等を紹介して参りたいと思います。
(”童子 さま”の広いお心でお許しをお願い申しあげます)

・・・・・・

吉田松陰 (You Tube)
http://www.youtube.com/watch?v=mFzp_EaurBA

作詞 星野哲郎 / 作曲 浜口庫之助 

  時と命の   全てを賭けた
  吉田松陰   憂国の
  夢 草莽に  果つるとも
  松の雫は   久坂に宿り
  花は桂の   枝に咲く


  口で言うより  行なうことが
  志士の志士たる 誇りなら
  かくごの罪の  踏海忌
  下田港の    弁天島の
  波も讃える   男意気


  何も持たない  若者たちの
  無欲無限の   赤心が
  日本の明日を  創るのだ
  松下村塾    長州魂
  いまも生きてる 萩の町

         <平成23年9月30日 合掌・拝>

「中朝事実」とは、 (4780)
日時:2011年10月02日 (日) 00時30分
名前:伝統

スレッド「吉田松陰」内〜山鹿素行の『中朝事実』との出会い (4748) に関連して
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994


(1)国学に基づいて、山鹿素行は道義国家・日本の誇りを説きました。
   それが『中朝事実』であります。
   「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指しております。

(2)本書の中心命題は、「日本こそが中華」であるというところにあります。
   現代からすれば、奇異に感じる表現であるが、江戸初期の朱子学で統制された
   武士教育では、林羅山のように中国を極端に美化礼賛し、現実離れした中国贔屓、
   日本卑下に走る傾向がありました。

   これに対し疑念を呈し、日本の古典の記紀を検証し、一方実際の中国の有様と
   比較し、決して日本の文化、文明が中国に遅れをとっていない事、そして
   皇統などの面に着目すれば、日本の国体の方が優れていると指摘しているのです。

   この事を象徴的に”日本こそが中華”という表現にしているわけであります。

   簡単に言えば、「もっと日本の伝統と歴史、個性に自信を持て」
   という事になります。

(3)素行の思想を継承した代表的人物が吉田松陰と乃木希典です。

  @松陰は5歳の時に、山鹿流兵学師範・吉田家に養子となっています。
   すでに11歳にして、藩主の前で素行の兵学をよどみなく講義したという。

  A一方、乃木は少年期に松下村塾の創始者・玉木文之進によって、『中朝事実』の
   精神を吹きこまれたという。
   乃木は『中朝事実』を愛読し、写本しては人に与えたという。

   司馬遼太郎『殉死』によると、乃木は殉死の2日前の大正元年9月11日、
   午前7時に参内して皇太子と淳宮、光宮の3人がそろうのを待って、人ばらいをした。
   そして、ふろしき包みから『中朝事実』を取り出し、誠心誠意の講義を行ないました。

  B日本的道義を支える素行の思想の価値は、いまなお失われてはおりません。


<参考Web>

  山鹿素行 中朝事実
  http://www.youtube.com/watch?v=t8zEJ6UnaiI

           <合掌 平成23年10月2日 拝>

正気之歌 (4791)
日時:2011年10月02日 (日) 18時03分
名前:伝統


スレッド「吉田松陰」内〜水戸学を求めて (1) (4750)における
>『弘道館』(東湖起草)、『正気之歌』には皇国日本の真姿や〃人は人たる道〃などが記されている。

『正気之歌』(現代語訳から抜粋)

天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。
開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。

(中略)

神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。
世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。

(中略〜日本国歴史上の正気の列挙あり)

しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、
すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。

正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。
かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。

抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、
両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。
学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。

ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、
幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。
藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。
東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。

(中略)

いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、
おまえと離れることを忍べようか。

わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。
生きようと死のうと、疑うことなどできようか。
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。

死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。


<参考Web>

藤田東湖 『正気(せいき)の歌』
http://www.geocities.jp/kunitama2664/seikinouta.html

水戸学 藤田東湖 文天祥の正気歌に和す
http://www.youtube.com/watch?v=pRpPxeYn4j4&feature=mfu_in_order&list=UL

           <合掌 平成23年10月2日 拝>

吉田松陰と師・葉山佐内 (4803)
日時:2011年10月03日 (月) 14時50分
名前:伝統

今回は、吉田松陰とその師・葉山佐内について紹介して参ります。

>スレッド「吉田松陰」内の「水戸学を求めて(2) (4767)」における
 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994
>”五人の師に学ぶ”でその中の一人”平戸で教えを乞うた葉山左内”

・・・

日本史の中で最高の教育者は、吉田松陰と緒方洪庵と言われております。

その理由は……
師を超えるような素晴らしい弟子たちを数多く輩出しているからです。



ではなぜ松陰の塾では、そのように師を越える弟子たちが育ったのでしょうか?


(1)弟子を見送る”師”

   嘉永3年(1850年)
   長州藩(山口県)の兵学師範の家を継いだ吉田松陰は、
   山鹿流軍学を学ぶために、肥前平戸藩(長崎県)を訪れます。

   松陰は、ここで儒学者であった葉山佐内という人物と出会います。

   葉山佐内の手元には、
   平戸という地の利で得られた新知識の書物が沢山所蔵されていたのです。

   松陰の目の色が変わります!   (読みたい、葉山先生から学びたい、と)

   平戸滞在の2ヵ月の間に、松陰は、紙屋という旅館に宿泊しながら、
   連日葉山家に通い、葉山佐内に教えを受け、
   また多くの書物をかたっぱしから書き写していったそうです!

   松陰が借りた本は80冊にのぼると言われています。


   葉山佐内は吉田松陰を毎回玄関先まで出て見送ったそうです。

   松陰は帰っていきます。
   ふと後ろを振り返る。

   すると、まだ葉山佐内は見送ってくれていたのです。

   葉山佐内は、
   他藩から来たこの若者の後ろ姿が完全に見えなくなるまで、見送っていたそうです。

   この時、吉田松陰が受けた感動が、
   後に彼が弟子たちに接する時のベースになっていくのです。


   ふと後ろを振り返ったら、
   まだ葉山佐内先生は自分を見送ってくれていた……

   これが吉田松陰の教育の原点になっていくのでした。


(2)何故、師を越える弟子が輩出したのか?

   なぜ、吉田松陰や緒方洪庵の塾では、師を超える弟子たちが沢山育ったのでしょうか?

   それは、おそらく、このふたりが、弟子たちを尊敬していたからだと思うんです。

   決して弟子を上から目線では見ず、
   弟子たちの優れたところ(才能だけでなく人柄も含めて)を尊敬している点にあったと。

   素晴らしい師につくということは、単に技術を学ぶことだけにとどまらず、
   人格を含めて、その人が人生の中で培ってきたことのすべてに触れるということ
   なのではないでしょうか。


   吉田松陰が葉山佐内と交流を持ったのはたった五十余日。

   松陰が萩の松下村塾で弟子たちに講義したのも、わずか2年。

   たとえわずかな時間であったとしても、
   師の全人格・全人生に触れたから、弟子は成長し続けたのでしょう。


   師から尊敬された弟子たちは
   続々と自分を超える力を発揮していき、歴史にその名を残しました。

           <合掌 平成23年10月3日 拝>

【 二十一回猛士 】〜松陰の号 (4823)
日時:2011年10月04日 (火) 17時59分
名前:伝統


吉田松陰は、もともとの名字は杉。幼名は虎之助。
養子後、名字が吉田と変わります。

自らの号を「二十一回猛士」と名乗っていました。


「オレは日本を変えるために
 少なくとも21回はイノチがけで無茶するぜ!」

二十一回猛士とは、そういう意味です。


なぜ21回なのか?
松陰は、「氏名」の中から、自らの「使命」(数字)を割り出していたのです。

元の名字の「杉」の字を分解すると、
「十」「八」「三」にわけることができます。

すべて足すと、「二十一」
21という数字がでてきます。

また養子後の名字「吉田」の
「吉」を分解すると「十一口」
「田」を分解すると「十口」

これらを足すと「二十一回」になります。


少なくとも21回は勇気を振り絞って飛び込んでいくという覚悟を松陰はもったのです。

松陰が獄中で見た夢に神人が現れ、
持っている札を見せると「二十一回猛士」と書いてありました。

目覚めてから考えると姓の謎解きで「二十一回」という数字が分かり、

「猛士」は松陰の名が寅次郎ですから、「虎=猛獣」で「猛士」というわけです。

頓知クイズのようですが、松陰は真面目に神人からの啓示と受けとめて、
虚弱体質で気が弱い性格の自分を、「虎」の様に勇猛にならなければならないと
決意したようです。

<参考Web:松陰二十一回猛士墓>
       http://kyukyo-do.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-d7f7.html

           <合掌 平成23年10月4日 拝>

維新は三代で成立する (4846)
日時:2011年10月06日 (木) 17時51分
名前:伝統


司馬遼太郎の『世に棲む日日』には、“革命は三代で成立する“との記述があります。

詩人である予言者が第一世代として出現し、体制に自己の肉体を激突させて非業に死ぬ。
その志を継いだ第二世代が革命を成し遂げるが、その殆んどは生き残らない。
そして第三世代が、革命の果実を独占して貪り食う。


明治維新で当てはめれば、

初代は吉田松陰のように思想家として現れ、
第二代は高杉晋作のような乱世の雄(戦略家)、

そして最後に現れるのが伊藤博文や山県有朋といった実務家だというのである。

           <合掌 平成23年10月6日 拝>

その時歴史が動いた 吉田松陰 (4870)
日時:2011年10月08日 (日) 22時34分
名前:伝統


吉田松陰をさらに詳しく知ってっていただくために、次の動画を紹介いたします。


その時歴史が動いた 吉田松陰 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=95ER-pC3uZc&feature=related

(1)生い立ち
(2)兵法の講義、兵法支藩
(3)安政元年(1854年)黒船への密航の企て。
(4)同志(金子重之助)が獄中で病死。
   〜身分制度の現実に直面し、衝撃を受けた。
(5)獄中での高須久子との出会い。
(6)草莽崛起という理念(1859年)〜若者よ立ち上がれ!



その時歴史が動いた  吉田松陰 2/3
http://www.youtube.com/watch?v=mm3JMZ-e8gs&feature=fvwrel

(1)囚人達との交流、仲間同士で教え合う。(書、句) (*補足)
(2)野山獄を出て自宅謹慎へ。
(3)松下村塾の始まり。(多いときには、1日30人も集まる)
   同じ部屋で、身分の分け隔てなく学び合う。

   門弟、久坂玄瑞、高杉晋作  
      伊藤博文、山県有朋・・・

(4)再び野山獄へ再投獄 

   ・・・・・・
   (*補足)野山獄での松陰と他の囚人

   吉田松陰は、野山獄に入れられたときに数多くの奇跡を起こしたと言われています。
   同じ獄に捕らえられていた凶悪犯たちが、ことごとく改心して松陰を師と慕ったの
   です。

   松陰は、囚人たちにこんなことを言っていたのです。
   「どんな人にでも良いところがある。あなたはとても俳句をつくるのが上手だ。
   私はあなたを見習って、俳句を学びたいと思う」

   そして他の囚人も誘い、その人を師匠と仰いで俳句の稽古をはじめたのです。
   他にも、囚人それぞれの長所や得意にするところを、学んでいこうとみんなに
   説いてまわったのです。

   囚人たちは、自分の長所を認めてもらったうれしさで、よろこんでみんなに自分の
   力を分け与えようとします。

   そしてその結果、自分のなかの「できる」というところが、どんどん広がっていき、
   前向きに自分の可能性を、この世界のために役にたてようという気持ちが湧いて
   きたのです。

   自他ともに、どうしようもないと思っていた札付きの悪党たちは、
   こうして自分自身を生きていこうと、心を改めることになったのです。
   ・・・・・
  

その時歴史が動いた  吉田松陰 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=iX4WI42mDhY&feature=related

(1)高須久子と再会
(2)塾生たちへの断絶状を送付。
(3)高須久子の影響を受け、考えを改める。
   草莽崛起(そうもうくっき)
(4)江戸へ移送、高須久子との別れ。
(5)安政6年(1859年)10月27日、刑死。享年30。

(6)高杉晋作、「奇兵隊」結成
   吉田稔麿 「維新団」「一新組」発案

   長州軍が幕府軍を破ることになる。

(7)留魂録

   ・・・・・
           <合掌 平成23年10月8日 拝>

狂愚の人 (4890)
日時:2011年10月10日 (月) 15時59分
名前:伝統


以下は、メルマガ「人の心に灯をともす(2009-10-29)」からの紹介です。

・・・

  「苦しいときこそ笑っていられる」ようなアホやバカが
  いまこそ必要なのだということを述べたい。

  笑いが減るのと平行するように世の中に利口な人が増えました。

  頭の回転が速く、目先のことに鼻がきいて、機を見るに敏、人に先行して、競争に強く、
  ムダや抜け目がなく、合理的かつ効率的で、どんな問題もすばやく解いて、
  決められた道を最短距離で行くことが得意、いわばそんな人たちです。

  しかし、そういう利口な人たちを見て気づくことがあります。
  一つは、その利口やかしこさのスケールがどこか「小さい」点です。

  頭は切れる、学歴も高い、知識も豊富だ。

  しかし、ヘンに世間知らずだったり、人間関係がうまく結べなかったり、
  人の心の機微に疎かったり、あるいは分析は鋭いけれど視野がせまかったり、
  理が勝ちすぎていて柔軟性にかけていたり…。

      <「アホは神の望み」(村上和雄)サンマーク出版より>

・・・

村上先生は、DNA解明の世界的権威です。
頭脳明晰で、知の塊のような村上先生の言葉だけに、かえって胸に響く。

村上先生は、次のように語っている

『狂愚(きょうぐ)まことに愛すべし』

日本人に「ど阿呆」がいなくなった。
ど阿呆とは狂愚の人と言ってもいい。

例えば吉田松陰である。

彼は「狂愚まことに愛すべし、才良まことにおそるべし」と言った。

狂愚は愛すべきだが、頭のいいだけの人間がいかに恐ろしいかを知っていたのである。

松陰はまた

「狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨(ひすう)に疎し、
才は機変の士多く、良は郷原の徒多し」とも言う。

愚があるから計算をせずに新しいことに挑める。

「ど阿呆」とは大愚の世界、これ以上の大きな悟りはない。
 

避趨(ひすう)とは逃げることであり、「愚」 は逃げ去ることに疎(うと)いこと。

才は機変の士多く、良は郷原(きょうげん)の徒多しとは、
才人は、しばしば変節する者多く、
良識人は道徳家を装って、郷里の評判を得ようとする俗物が多い。

小利口で小才がきいた輩(やから)は逃げ足が速い。
常に効率や合理性を考えて行動するからだ。

真の人物は
どこか抜けていて、味があって、どっしりと構えている。

小賢(こざか)しく、ちょこまかと動き回る人間ではない。

我々は、ともすると狂愚の人、ど阿呆な人を疎んじる。

しかし、一旦なにか事あった時に、頼りになるのは、小才のきいた小人ではない。
狂愚の人は愚直で、律儀で、素朴で、誠実な人、つまり、至誠(しせい)の人だ。

至誠とは、まごころをもって、誠実を尽くすこと。

吉田松陰は

「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」

といった。

すなわち、「至誠天に通ず」の心意気。
誠を尽くせば、それは必ず天に通じる。

まさに、「アホは神の望み」だ。

           <合掌 平成23年10月10日 拝>

松陰の『「平等」という発想』 (4991)
日時:2011年10月17日 (月) 06時54分
名前:伝統

   *以下は、メルマガ「名言セラピー(2009年07月23日)」からの紹介です。

(1)「平等」という発想

  @今となっては信じられない話しですが、
   江戸時代は、「切捨御免(キリステゴメン)」という法律がありました。

   武士が町人から無礼を受けた時は、斬殺しても処罰されないというものです。
   無礼があった場合、身分が高いものが低いものを切り殺しても罪に問われなかったのです。

   200年ほど前の日本はガチガチに身分が決められていて
   「平等」という発想を誰ももっていない時代だったのです。

  Aしかし、松陰は違いました。
   「志あれば身分は一切関係ない」
   と、松下村塾に集まってくる塾生たちの身分を一切問わなかった。

   それは弟子・高杉晋作にも受け継がれ、
   身分を問わない奇兵隊の誕生につながっていきます。

   なぜ、封建制度のど真ん中に生きていた松陰に、
   平等という思いが生まれたのでしょうか?

(2)二十一回猛士

  @吉田松陰は、自らの号を「二十一回猛士」と名乗っていました。
   (本スレッド「【 二十一回猛士 】〜松陰の号 (4823)」参照)

  A「オレは日本を変えるために 少なくとも21回はイノチがけで無茶するぜ!」

   少なくとも21回は勇気を振り絞って飛び込んでいくという覚悟を松陰はもったのです。

   最初の無茶は、黒船に乗り込むことでした。
   1回目の無茶ということで、これは歴史マニアたちの間では「松陰ファースト無茶」と
   名づけられているわけですが、1回目からまさにイノチガケでした。

   しかし、そのファースト無茶は失敗に終わり、
   松陰は野山獄(山口県)という刑務所に入れられることになります。

(3)獄中での出会い

  @その獄中に高須久子という女性がいたのです。
   このとき松陰25歳、久子37歳。
   (本スレッド「その時歴史が動いた 吉田松陰 (4870)」参照)

  A高須久子は300石の高須家のあととり娘でした。
   養子に迎えた夫が早くなくなったこともあり、
   三味線などに興味を覚え、町の三味線弾きなどを度々呼んで家で演奏させていました。

   しかし、封建時代の当時としてはこれはNG!
   「武士が被差別部落民と交際するとはけしからん」
   と訴えられて、高須久子は獄に入れられていたのです。

   裁判史料では、高須久子は町の三味線弾きなどについて
   「すべて平人同様の取り扱い」をしたとたびたび述べています。

   「ひとはみな平等」
   今は当たり前に思えるこのことも、当時は反逆的な革命的な思想だったのです。

  B日本のためにイノチをかけようとしていた吉田松陰が、野山獄という牢獄で
   「ひとはみな平等」という高須久子と出会ったのです。

   ひとはみな平等……

   吉田松陰の一生涯を貫くその精神は、高須久子との出会いから大きく育まれたのです。

  C別れの日……

   吉田松陰は江戸へ呼び出されることになります。
   江戸で松陰を待っているのは、処刑です。

   吉田松陰、高須久子、永遠の別れ。
   その直前に、萩の牢獄で吉田松蔭と高須久子が交わした歌があるのです。


   「手のとわぬ 雲に樗(おうち)の 咲く日かな」高須久子
   (あなたはついに……手の届かないところへ行ってしまうのですね……)

   そして、久子はてぬぐいを松陰へプレゼントします。


   松陰はこう歌で返す。

   「箱根山越すとき汗のい出やせん 君を思ひて ふき清めてん」吉田松陰
   (江戸へ向かう箱根山。そのてぬぐいで汗をふきます。あなたを思って)

   「一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)」吉田松陰
   (あなたの最後の一声をどうして忘れられようか……」

(4)その後の、高須久子

   後に、高須久子の歌が刻まれた茶わんが見つかっております。

   茶碗には松陰への想いがあふれ、末尾に「久子 六十九才」とあった。
   つまり、松陰の死から27年後に作られた茶碗です。

   その茶碗は、 口径12.5cm、高さ4.7cm。
   ろくろは使わず、手びねりで作られたらしい。

   「木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」
   の歌が、茶碗の裏面にくぎのようなもので彫られていた。

   「木の芽を摘んでいると、樹上からホトトギスの一声が聞こえてきた。
   その声をきくと、吉田松陰さんのことが思い出される」という意味です。

   「一聲」とは、久子へ贈った松陰の歌
   「一声をいかで忘れんほとゝきす」の「一声」を指し、
   「よをうち」には「世を撃ち」の意味が込められているといいます。

   松陰の人生はまさに「世を撃つ」ものでしたから。

   久子は69歳になっても、松陰のことを忘れていなかった。
   そして、その思いを茶碗に彫っていたのです。

           <合掌 平成23年10月17日 拝>

<参考Web:吉田松陰生誕180年記念〜映画『獄(ひとや)に咲く花』>
http://www.youtube.com/watch?v=1tsI__NCwcE&feature=related

           <合掌 平成23年10月22日追記 拝>

「実践者たれ!」 (5012)
日時:2011年10月18日 (火) 17時17分
名前:伝統


吉田松陰は学問の心得として、
「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」と説きました。

集ってきた塾生たちに座学でもって諭すだけではなく、
松陰みずから脱藩して地方を遊歴したり、密航を企てたりしてきた熱き心の実践者として
弟子たちに「実践者たれ!」と訴えております。


<参考Web>

@吉田松陰に会う 1
 http://www.horom107.com/sanyo2.syouin1.html

A吉田松陰に会う 2
 http://www.horom107.com/sanyo2.syouin2.html

           <合掌 平成23年10月18日 拝>

松下村塾でのエピソード (5038)
日時:2011年10月20日 (木) 19時40分
名前:伝統


(1)エピソードその1

   塾へ行くんだけど、お前も行かない?

   そんな風に誘われて行ってみると、塾には誰もない。
   上がって待っていたら、 綿糸の粗末な身なりをした人がでてきた。

   「『お前は本を読むのか』と聞かれて、『久坂氏を頼ってきた』と告げると

   『何、久坂を訪ねてきたのか。よし。わが輩が教えてやろう』と言って、
   すぐに『国史略』の本を開いて熱心に教え始めたが、字句のことは説明せず、
   文章の裏面の意味を語った」

   その粗末な身なりの男は、
   知らない文字があっても、そんなことは構わぬといったふうで、
   国家の大事を説き聞かせた。

   わずか十歳の子供に。

   「あっけに取られて、この先生は奇妙な教え方をなさると思ったが、
   かれこれ半時あまりも、その講義を聴いてるうちに、
   心は先生に吸い取られてしまったようになった。

   家に帰っても、本のことよりも先生のきらきらした眼と、
   火のような弁舌とが頭の中を往来して、まるで夢心地であった」

   これは松陰門下生の中島靖九郎が、
   十歳の時に初めて吉田松陰と出会ったときのエピソードです。

   わずか十歳の子に国家のことを、きらきらした眼で語る。

   きらきらした眼。

   ここに日本一の教育者、吉田松陰の核があるようです。

(2)エピソードその2

   吉田松陰の松下村塾に贈り物が届けられることがある。

   松陰は、わずかな贈り物でも、一口に足りないくらいでも
   細かく分けて門人一同に与えたといいます。

   一口に足りないくらいでも
   門人一同にわけた……


   吉田松陰は ”僕のものは、全てみんなに分け与える! ”

   それが吉田松陰のスピリッツです。


  <参考Web:吉田松陰 >
         http://www5f.biglobe.ne.jp/~yoshi3/ituwa.yo.htm

           <合掌 平成23年10月20日 拝>

松下村塾のエース〜吉田稔麿(としまろ) (5069)
日時:2011年10月24日 (月) 04時18分
名前:伝統


     *メルマガ「名言セラピー(090614)」より

(1)幕末のスター集団

   幕末、吉田松陰の門下生たちから
   キラ星のごとくスターが誕生しました。

   久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、
   伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎など。

   後の総理大臣になる、あの伊藤博文でさえ
   晋作のパシリにちかい役回りだったことからも
   チーム☆吉田松陰の選手層の厚さを伺えます。

(2)No.1は誰?

   では門下生から見て、ぶっちゃけ、誰が一番すごかったのか?

   そんな質問に対して、吉田松陰門下生の中で珍しく天寿をまっとうした
   品川弥二郎は晩年こう答えています。

   「吉田稔麿だ」

   天才革命家・高杉晋作ではないのか!

   吉田松陰門下生の中のスーパーエースは、”吉田稔麿”だというのです。

   吉田稔麿は、吉田松陰が最もその人柄、才質を愛したといわれている男です。

(3)稔麿と松陰の出会い

   初めて吉田稔麿が松陰の塾、松下村塾をたずねたとき、
   松陰は韓退之の立身出世のための書を読ませた。

   吉田稔麿はこう松陰に返したといいます。
   「僕はこんなことを学びに来たのではありません」

   出世なんかどうでもいい。
   僕はもっと本質を学びたいんだと稔麿は松陰先生にきり返したのです。

   当時、稔麿16歳です。

   出会いがしらに松陰も吉田稔麿という男に惚れこんだようです。

   「稔麿はわが良薬なり」と稔麿を絶賛します。

(4)手紙

  @さて、仕事で江戸に向かうことになった稔麿に
   松陰はこんな手紙を書いています。

   「僕の身の上はご存知の通り、
   すでに決定してしまってどうにもならないが
   貴君なら、僕の志を継いでくれよう。

   僕の志をつぐにふさわしい人が見つかったら、その人に力添えをして欲しい。
   だがそのような人がいなければ、貴君がその人になってほしい」


   稔麿よ、あなたこそがその人になってほしい!
   僕の志を引き継いでくれと松陰は願ったのです。


   稔麿は足軽の貧しい家に生まれたので姓はありません。
   だから、吉田という姓は自称。
   家の借金に負われて江戸へ働きにいくことになったのです。
   稔麿17歳のときです。

   江戸では仕事に追われる毎日で心身もくたくた。
   でも、松陰先生の志を受け継ぐ男になりたいと学問を怠りません。


   こんな手紙を書いて松陰に送ったこともありました。

   「こんなことでは、私は俗物になりかねない。
   それを思うと胸が一杯になり涙さえでてきます」


   しかし、松陰の志を継ぐとは文字通り命をかけるということです。
   未来の日本のために命を投げ出すということです。

   それは、家族との平穏無事な生活を捨てることを意味します。

   まだ10代の稔麿にそれを求めるのは酷。

   いろんなことが重なり、稔麿は松陰との縁を切ることになります。
   音信不通になるのです。


  A松陰は稔麿にこんな手紙を出す。

   「栄太郎君(稔麿)、君は現在どうしておられるのか。
   何を考え、何を為そうとしておられるのか。

   僕は下獄以来、ずっと君のことを思ってきたが、
   君もきっと僕のことを思ってくれているに違いない。

   お互いにこんなに思いあいながら、お互いに手紙を書くこともなく、
   相遠くなっているのはなぜなのか。

   今は大変な時期、君もそのことをよく知っているはずだ。
   こういう時に、慈母の愛や親兄弟のことを省みずに
   大事をなすことができるのは非常の人だけである。

   この言葉は強すぎるかもしれないが、すじの通った意見であることに間違いはない。
   君はどう思うか、ぜひ聞かせてほしい」


   しかし、稔麿は沈黙を守ったまま……
   門下生との交際も断った。

  B松陰は友人にこんな手紙を出している。

   「頭痛のために一眠りしていると、栄太郎(稔麿)のことを夢にみ、泣いてしまった。
   (中略)僕は栄太郎の心をとらえることができなかったのであろうか。

   今こそ、心をあわせて、大事をなそうとするとき、
   栄太郎に去られるとは一体どういうことであろう。

   もちろん、僕としては、無理に僕の方向に彼をまきもうとは考えてない。
   栄太郎は彼なりに、歴史に残るような人になってくれたら、
   僕に背いたからといっても問題ではない」
 
  Cようやく、稔麿からの手紙が松陰のもとに届く。

   手紙にはこう書かれていた。


   「母に心配をかけたくない」

   稔麿18歳。

   2人の関係は縮まることなく、吉田松陰は伝馬の獄で処刑された。

   稔麿、松陰刑死を耳にしながらも沈黙を続ける。

  D生前、吉田松陰は、
   音信不通になって仲間たちとの縁を断ち切った稔麿のことを
   高杉晋作あての手紙にこう記しています。

   「栄太郎(稔麿)のことは特別に心をつかってほしい。
   彼は今苦しい立場にあって、皆に疑われてるが、
   僕は昔と同じように彼を愛している。

   僕が愛するために、かえって禍になると思って、僕をさけている。
   だが僕には彼を捨てることができない」

(5)稔麿の覚悟

   稔麿、吉田松陰の刑死を耳にしながらも沈黙を続けること2年。

   ついに、稔麿の覚悟は決まったのです。
   稔麿は吉田松陰の慰霊祭に旧友たちと参加します。

   志のために、この命をかけよう。

   吉田稔麿、その後の活動はめざましいものとなり、
   各藩の志士たちの中心的役割を果たしていくことになります。

   吉田稔麿は松陰が信じていた通りの男になったのです。

(6)池田屋事件

  @1864年7月8日
   池田屋事件は起きました。

   司馬遼太郎曰く
   「この事件がなかったら薩長主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」
   という極めて重要な事件です。

   江戸幕府を倒そうと
   当時の最も尖鋭の志士たち二十数名が、京都の旅館・池田屋に集結。

  Aしかし、その情報は幕府方に漏れていたのです。

   幕府方の兵、その数、3000名を動員して
   池田屋を包囲する手はずになっていました。

   どどどどどどどどと真っ先に
   2階に駈けあがっていったのは幕府方の新撰組・近藤勇。
   近藤勇が斬り込んでいく。

   池田屋の2階に斬りこんでいった突撃隊の新撰組34名。
   一方、志士たちは20数名。
   彼らが旅館の中で斬り合うのです。

   2時間にわたった血みどろの合戦が始まったのです。

   この場合、襲撃する側が圧倒的に有利。
   そのうえ、幕府方3000の兵が遅れているとはいえ続々と池田屋を包囲する。

   逃げ場がない。もはや志士たちに勝ち目はない。

  B志士の一人、その男は、
   背後から襲ってきた新撰組の安藤早太郎に左肩を斬られた。

   しかし、その男は池田屋をなんとか逃げ出し、
   路上で包囲してる数百の幕府兵を阿修羅のごとく追い散らし
   見事にその場を脱出したのです。

   まさに、奇跡です。

   そして、その男が向かった先は長州藩の藩邸の玄関。

   「杉山、援軍を頼む!!!」

   その男は、一声そうどなった。
   杉山とは、その男の親友。

   しかし、杉山が玄関を出てみるとその男の姿はもうなかった……

   その男は、親友に「援軍を頼む!!!」と一声伝えると、
   なんと、再び、仲間が戦っている池田屋へ戻ったのです。

   数百人の包囲網を奇跡的に脱出できたにもかかわらず
   その男は、再び戦場へ戻ったのです。

   仲間とともに戦うために。

   戦場に戻ったその男は斬られては戦い、
   駈けては斬られつつ死にもの狂いで戦いましたが
   ついに新撰組、沖田総司の一刀で絶命。

   
   その男……

   吉田稔麿24歳、死亡。


    <参考Web:無逸の心死を哭す 吉田松陰 >
   http://www.youtube.com/watch?v=WH0bbJTo024&feature=related

   <参考Web:吉田稔麿 >
   http://www.geocities.jp/hirokami1024/sisisyunjyu/toshimaro.htm

        <合掌 平成23年10月24日 頓首再拝>

吉田松陰の死生観 (5081)
日時:2011年10月25日 (火) 06時02分
名前:伝統

スレッド「吉田松陰精神に学べ(全文)」内〜不滅の『留魂録』 (5064) に関連して
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994

>この『留魂録』は門人達への遺書である。
>『留魂録』の最初の出だしが、あの有名な

>『身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂』 の一首である。

>松陰は、肉体は武蔵野原に朽ち果てても、天皇国日本への燃ゆるわが胸の思いは、
>永久にとどめておきたい。自分はこうやって死の運命を静かに迎え得るのは、
>平生の学問の賜であると冷静沈着に筆を運んでいる。洵に堂々たる不動心である。


>『留魂録』の最後には、更に五首の歌を認めた。

>『心なることの種々書き置きぬ思ひ残せることなかりけり』

>『呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりかるかな』

>『討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ』

>『愚かなる吾れをも友とめづとも友とめでよ人々』

>『たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや』


>この五首から拝察して、松陰はもう思い残すことなく、”使命は己に為せり”の気持。



吉田松陰の死生観(留魂録)

次の部分が、死について書いてある「留魂録」の中でもっとも重要な部分です。

【松陰の死生観】〜第八節(現代語訳)

「今日、私が死を目前にして、平安な心境でいられるのは、
春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。

つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。
秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、
村々に歓声が満ちあふれるのだ。

この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを
聞いたことがない。
 
私は三十歳で生を終わろうとしている。

いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた
穀物が花を咲かせず実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。


なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が必ず四季をめぐって営まれるようなものではないのだ。
しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。

十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。
二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、
五十、百歳にもおのずからの四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとすることで、
いずれも天寿に達することにはならない。


私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻(モミガラ)なのか、成熟した栗の実であるかは
私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうと
いう人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと
同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。

同志よ、このことをよく考えてほしい」 

  *Web:「留魂録に見る吉田松陰の死生観」より
   http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/ryukonroku.html


<参考Web>

 @留魂録(全文)
  http://www.j-texts.com/kinsei/ryukon.html

 A留魂録(意訳)
  http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/4kaikensyujyuku/ryukonrokuwoyomu.htm

 B『留魂録』の解説
  http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020004.html

        <合掌 平成23年10月25日 頓首再拝>

松陰を支えた母〜松陰の死刑の時刻に、息子の夢を見た  (5089)
日時:2011年10月26日 (水) 06時44分
名前:伝統



   親思う 心にまさる親心

         今日のおとずれ何ときくらん

                   (吉田松陰)

  
幕末の思想家、吉田松陰が、30歳で処刑される1週間前に詠んだ歌である。
※吉田松陰(1830−1859)

信念を貫いた本人に、悔いはないかもしれない。
しかし、息子の死を聞いたら、親は、どう思うだろうか。

信念を貫いた自分は仕方がないが、
私を思ってくれる親に対して申し訳ない、という切々とした思いが伝わる。

子供は親のことを忘れて突っ走るが、親は、常に子供を案じてくださっている。
松陰の胸にも、込み上げてくるものがあったのだろう。



松陰は、23歳の時、10年間諸国遊歴の許しを受けて旅に出る。
著名な人物を訪ね、勉学に励むためである。

この時、母は息子に多額の旅費を渡した。驚いたのは松陰である。
そんな余裕がわが家にあるはずがない。

息子の万一の時の備えにと、貧乏の中から両親が、
少しずつ節約してためていたものであった。
松陰は、感極まって泣かずにおれなかった。

この親心で実現した遊学が、松陰の人生と日本の歴史に重大な影響を与えるのである。

松陰が江戸に滞在中、ペリーがアメリカの軍艦を率いて浦賀に入り、開国を迫った。
黒船来航である。

「今や、世界情勢を学ぶことが急務」と考えた松陰は、
大胆にも小舟で軍艦へ近づき、アメリカへ密航を頼んだ。

しかし、交渉は失敗。幕府に捕らえられ、長州へ送られた。

長い牢獄生活が始まるのである。

両親は、牢獄へ、温かい着物や食べ物を差し入れ続けた。
退屈しないようにと、書物や筆、紙に至るまで届けるという大変な心遣いであった。

また牢獄は湿気が多く不衛生なので、衣類は、すぐシラミがわく。
母はよく洗濯に訪れ、わびしい生活を慰め、息子の健康に気を配ったという。

松陰は、牢獄に入っている人たちを次々と感化したと伝えられているが、
その陰には、両親の涙ぐましい支えがあったのである。

やがて牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。


塾に寝泊りして苦学している者もいる。
松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、
細々と門下生の世話を焼いた。

時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことがたびたびあった。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、
皆の疲れをいたわっていたという。

松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、
優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。


徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。

母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」

心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。


松陰が江戸へ向かってから5ヵ月後のこと、母は、疲れてうたた寝をしていた。

すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と、元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。

母は、非常に喜んで、 「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。

それから、20日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。

母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。 

        <合掌 平成23年10月26日 頓首再拝>

「山河襟帯の詩」 (5097)
日時:2011年10月26日 (水) 20時25分
名前:伝統

「山河襟帯の詩」〜吉田松陰が初めて京都御所を拝し、詠んだ詩


「鳳闕を拝し奉る。山河襟帯自然の城、東来日として神京を憶はざるなし
、今朝盥嗽して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、上林零落、復た昔に非ず、
空しく山河の変更なき有り、聞説く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、

鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖気を掃ひて太平を致さんことを祈る、従来英皇世出てず、
悠々機を失す今の公卿安んぞ天詔を六師に勅して、坐ながら皇威をして八紘に被らしむるを得ん。
人生は萍の若く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明なるを拝せん。

右は癸丑十年朔旦、鳳闕を拝し奉り、蕭然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす、
丙辰季夏、二十一回藤寅手録。」

・・・

(大意)

京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている
江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない
この朝身を清め御所を拝した
政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない
というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく
周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ
もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで
天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる

日出には起きて身を清め
日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると
いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに
役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ
なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし
思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ
なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身
ふたたび御所を拝する日が来るだろうか

・・・

<参考Web>
 @吉田松陰山河襟帯詩碑(左京区)
  http://blogs.yahoo.co.jp/takuya_o0917/41146386.html

 A吉田松陰拝闕詩碑 
  http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa155.html

  碑文の大意
  http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa155_abst.html

        <合掌 平成23年10月26日 頓首再拝>

士規七則 吉田松陰 (5115)
日時:2011年10月28日 (金) 04時59分
名前:伝統

抜粋・要約

(1)人の人たるゆえんは忠孝を本となす。

(2)皇朝は万葉統一にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。
   君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。

(3)士の道は義より大なるはなし。
   義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。

(4)士の行は、光明正大、みなこれより出ず。

(5)人、聖賢を師とせよ。
   読書尚友は君子のことなり。

(6)徳を成し材を達するには、交遊を慎む。(交遊相手を選ぶ)

(7)何事にも動ぜざる者になれ。そのためには、堅忍果決。




(原文)

披繙冊子。嘉言如林。躍躍迫人。顧人不讀。即讀不行。苟讀而行之。則雖千萬世不可得盡。
噫復何言。雖然有所知矣。不能不言。人之至情也。古人言諸古。今我言諸今。亦?傷焉。
作士規七則。

■凡生為人。宜知人所以異於禽獣。蓋人有五倫。而君臣父子為最大。故人之所以為人忠孝為本。
■凡生皇國。宜知吾所以尊於宇内。蓋皇朝萬葉一統。邦國士大夫世襲禄位。人君養民。
 以續祖業。臣民忠君。以継父志。君臣一體。忠孝一致。唯吾國為然。
■士道莫大於義。義因勇行。勇因義長。
■士賢以質實不欺為要。以巧詐文過為耻。光明正大。皆由是出。
■人不通古今。不師聖賢。則鄙夫耳。讀書尚友。君子之事。
■成徳達材。師恩友益居多焉。故君子慎交遊。
■死而後已四字。言簡而義廣。堅忍果決。確乎不可抜者。舎是無術也。
右士規七則。約為三端。曰立志以為萬事之源。選交以輔仁義之行。讀書以稽聖賢之訓。
士苟有得於此。亦可以為成人矣。


(現代語訳・抄訳)

書物に溢れる偉大な言葉の数々は人の感奮を興起させる。
しかし、今の人々は書を読まず、読んだとしても実行をしない。
もしも読みて実行したならば、千年万年と受け継ぐに足るものなのである。
ああ、また何をか言うべきことがあろうか。
そうは言っても、良き教えを知りてどうしても伝えたくなるのは、人の至情である。
だから古人はこれを古(いにしへ)に述べ、私は今これを述べる、
また何を憂えることがあろうか。
士規七則を作す。

■およそ人として生まれたのならば、人の禽獣と異なる所以を知るべきである。
 そもそも人には五倫があり、その中でも特に父子の親と君臣の義を最も大なりと為す。
 故に人の人たる所以は忠と孝を本と為す。

■およそ日本に生まれたのならば、日本の偉大なる所を知るべきである。
 日本は万世一統にして、地位ある者たちは世々に禄位を世襲し、
 人君は民を養いて祖宗の功業を継ぎ、臣民は君に忠義を尽くして祖先の志を継ぐ。
 君臣一体、忠孝一致たるは、ただ吾が国においてのみ自ずから然りと為す。

■士の道は義より大なるは無し。義は勇によりて行われ、勇は義によりて長ず。

■士の道は質朴実直にして欺かざるを以て要と為し、偽り飾るを以て恥と為す。
 公明正大なること、皆これより始む。

■古今に通ぜず、聖賢を師としなければ、くだらぬ人物となってしまう。
 故に読書して古人を友とするは君子の事である。

■盛徳達材は、師の教導と友との切磋琢磨をどれだけ経験するかである。
 故に君子は交遊を慎む。

■死して後已(や)むの四字は簡単な言葉だが言うところは遠大である。
 堅忍果決、何事にも動ぜざる者は、この言葉を置いては成る術は無い。

この士規七則は、要約すれば三点である。
即ち、立志を以て万事の源と為し、選友(せんこう)を以て仁義の行を輔(たす)け、
読書を以て聖人の訓を稽(かんが)える。

士たる者、もしもここに得ることが有れば、また人と成るに足るであろう。

 (原文、現代語訳・抄訳は、
  http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_760.html
  より)


<参考Web>

 @士規七則 吉田松陰(youtube)
  http://www.youtube.com/watch?v=bSnSTnMLQvk

 A山ちゃん1952の日記〜吉田松陰「士規七則」
  http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201109150001/


  (ブログより抜粋)

  この「士規七則」を見るたびに「ジュニア友の会の歌」を思い出します。

  その歌詞は

  生長の家ジュニア友の会の歌  谷口雅春先生作詞

  (一)
     よろず生物 神やどす
     禽獣(きんじゅう)さえも 徳を具(ぐ)す
     されど秀でて ”神の子”の
     神の世嗣(よつぎ)の 全徳を
     表現せんと 今学ぶ
     ジュニアの吾ら ”神の子”ぞ

  (二)
     人みな天賦(てんぷ)の 徳宿す
     されど天賦の 万徳は
     磨かざるとき 光り無し
     学ぶに従い 光り出で
     神徳あまねく 世を照らす
     ジュニアの吾ら”神の子”ぞ

  (三)
     道を明らめ 徳を樹つ(たつ)
     忠孝倫理の 道を知り
     大義を知りて 小技棄て(しょうぎすて)
     国の柱と 成るべしと
     志立て 道はげむ
     ジュニアの吾ら”神の子”ぞ

  (四)
     ”神の子”立ちて 道はげむ
     正大の気 友を呼ぶ
     雲と集まる 同志たち
     血の盟(ちかい)たて 結び合う
     ここに不滅の 集団と
     なりしジュニアの友の会
     金剛不壊(こんごうふえ)の 集団と
     なりしジュニアの友の会

     新版 生長の家 聖歌歌詞 平成十四年六月一日 初版発行


   何か似ていませんか?


 B「士規七則」(若者必読) 
  http://blog.livedoor.jp/gokokumin/archives/51011888.html 

 C「士規七則」 (用語解説あり)
  http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-60.html

 D乃木希典将軍 士規七則講話 (youtube)
  http://www.youtube.com/watch?v=mvgjSTCKKY4&feature=related

        <合掌 平成23年10月28日 頓首再拝>

歴史の空白を埋める貴重な資料 (5133)
日時:2011年10月29日 (土) 06時30分
名前:伝統

松下村塾塾生幕末の志士の手紙 歴史の空白を埋める貴重な資料.mpg
2010/06/13 にアップロード

(1)桂小五郎
(2)前原一誠
(3)久坂玄瑞
(4)品川弥次郎

http://www.youtube.com/watch?v=qBNXJwIVU74&feature=related

        <合掌 平成23年10月29日 頓首再拝>

百年一瞬 (5145)
日時:2011年10月30日 (日) 06時03分
名前:伝統

Web:Yoshida Shoin's word - 百年一瞬
http://www.youtube.com/watch?v=18BV5r6IfeY&feature=related


立志尚特異    立志は特異を尚(たっと)ぶ,
俗流與議難    俗流は與(とも)に議し難し。
不顧身后業    身后(しんご)の業を顧(おも)わず,
且偸目前安    且つ目前の安きを偸(ぬす)む。
百年一瞬耳    百年は一瞬のみ,
君子勿素餐    君子素餐(そさん)するなかれ。
              (『吉田松陰全集』山口県教育会)より)


(訳)

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目前の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように)



(英訳)

To accomplish a purpose in your life,
Do not be afraid of being different,
Do not lose yourself in common sense, and
Do not be scared of your death.
Ignoring the comfort at hand,
A hundred years of time is only a second.
Please not spend your life for nothing.
 
・・・

吉田松陰の「百年一瞬」は、
10月5日逝去した、スティーブ・ジョブスが、
2005年、若者に贈った次の言葉にも通じます。



君たちの時間は限られている。
だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。

ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。
それは他の人 たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。

その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。
自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、
もうとっくの昔に知っているんだ。

だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。


*スティーブ・ジョブスの言葉に関しては、スレッド「アホは神の望み (4907)」内の
 「 Stay hungry, Stay foolish 」 (4927)、スティーブ・ジョブズの言葉 (4972)を
 参照することができます。
 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1030

        <合掌 平成23年10月30日 頓首再拝>

松陰語録 (5156)
日時:2011年10月31日 (月) 04時52分
名前:伝統

吉田松陰の教え(松陰語録)
http://www.yoshida-shoin.com/torajirou/goroku.html

(1)至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

  (至誠をもって対すれば動かすことができないものはない)

(2)志をたててもって万事の源となす

  (何事も志がなければならない。志を立てることが全ての源となる)

(3)志士は溝がくに在るを恐れず

  (志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて
   屍(しかばね)をさらしても構わないと常に覚悟しているものだ)

(4)己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る。恐るるにたりず

  (自分に真の志があれば、無志(虫)は自ら引き下がるものだ)


(5)凡そ生まれて人たらば 宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

  (人として生まれてきた以上、動物とは違わなければならない。
      人間は道徳を知り、行なわなければ人間とは言えない)


(6)体は私なり 心は公なり
    私を役して公に殉(したが)う者を大人と為し
      公を役して私に殉(したが)う者を小人と為し

  (私を使役して、道を行なうことに心がける者が大人であり、
   反対に、私の欲望を満足させる事を目的とするものは小人である)

(7)人賢愚ありといえども各々一二の才能なきはなし
     湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

  (人には能力の違いはあるけれども、誰にも長所はあるものである。
      その長所を伸ばしていけば必ず立派な人になれるであろう)


(8)■して不朽の見込みあらばいつでも■ぬべき
      生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

  (■んでも志が残るものであれば、いつでも■ねばよい。
   生きて大事を為せるならば、いつまでも生きてそれをやればよい)
 ※「男児たるものどう生き、どう■ねばよいのか」という問いに対して。

<参考Web:吉田松陰の遺訓>
       http://www.youtube.com/watch?v=3wcFIMDMVCw&feature=related

        <合掌 平成23年10月31日 頓首再拝>

魂を鼓舞する感奮語録〜睦月@ (6136)
日時:2012年01月14日 (土) 04時47分
名前:伝統


 *「吉田松陰一日一言〜魂を鼓舞する感奮語録」(川口雅昭・著、致知出版社)
  からの紹介です。

本書は吉田松陰研究30余年の編者の訳文が収められ、
松陰の魂の叫びが見事に現代に蘇っております。

「吉田松陰 年表」で年代を確かめながら味わうとさらに深く理解できるでしょう。
   ⇒ http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/cyosyu/yosidashoin.htm 


(1)元旦〜『人の禽獣に異なる所以』 

   凡そ生まれて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。
   蓋し人には五倫あり、しこうして君臣父子をもっともだいとするなり。
                       (安政2年3月「士規七則」)

   <訳>

   だいたい、人間としてこの世に生を受けたのであらば、
   当然、人間が鳥や獣とはちがうという訳を知るべきである。

   まさしく、人間には五倫があって、つまり父子(ふし)の親(しん)、君臣の義、
   夫婦の別、長幼の序、朋友の信という、人の常に守るべき5つのありようがある。

   その中でも、君臣のと父子のあり方が最も大切なものである。


(2)2日〜『独り身之に坐せん』

   貫高の「事ならば王に帰し、事敗れなば、独り身(み)之(こ)れ坐せん」とは、
   僕(ぼく)素(もと)より掲げて佳話(かわ)と為す。 
                       (安政6年正月「士毅に与ふ」)

   (この言葉は中国の漢の臣 貫高と言う人が言った言葉で、
    吉田松陰はこの言葉を長州藩士小田村伊之助に送った)

   <訳>

   私は、貫高の、「事が成功すれば王様の手柄とし、失敗すれば、自分一人が罪に服す」
   という話を、以前からすばらしいと考えている。


(3)3日〜 『何か心得になるほんなりとも』 

   正月にはいづくにもつまらぬ遊事(あそびごと)をするものに候(そうろう)間、
   夫(そ)れよりは何か心得になるほんなりとも読んでもらひ候へ。
                        (安政元年12月「妹千代あて書翰」)

   <訳>

   正月にはどこでもつまらない遊びをするものである。
   そんなことよりも本でも読んでもらいなさい。


(4)4日〜『孜々(しし)として』 

   古より志士仁人、恩に感ずる報を図るや、往々一身の力を尽くし、
   而して之に継ぐに死を以ってす。

   亦、唯だ当に諮ク力(れいせいちから)を竭(つく)し、
   日夜懈(おこた)ることなく、家業に孜々として死を以って之を争ふべきのみ。
              (嘉永元年9月「じん余の七書直解の後(あと)に書す」)

   <訳>

   昔の心ある人のようにするのみである。
   昔から、志ある立派な人は、御恩を感じ、その御恩に報いようとする時には、
   全力を尽くし、命がけで行なうものである。

   また、心を励まし、全力を尽くして、いつも怠ることなく、
   家業に対し、真面目に命がけで勤めるだけである。

  
(5)5日〜『天下の大患は』

   天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるに在り、
   苟(いやしく)も大患の大患たる所以を知らば、
   寧(いずく)んぞ之が計を為さざるを得んや。
                    (安政5年正月「狂夫の言」)

   <訳>

   世の中で大いに憂うべきことは、
   国家が大いに憂慮すべき状態にある理由を知らないことである。

   もしその憂慮すべき事態になる理由が分かれば、
   どうしてその対策を立てないでよかろうか、立てるべきである。 

             <感謝合掌 平成24年1月14日 頓首再拝>

魂を鼓舞する感奮語録〜睦月A (6161)
日時:2012年01月16日 (月) 08時24分
名前:伝統


(6)6日〜『父父たり子子たり』 

   乱は兵戦にも非ず、平は豊穣にも非ず、
   君君たり臣臣たり、父父たり子子たり、天下平かなり。
                       (安政2年「講孟箚記」)

   <訳>

   乱とは戦争や争いごというのではない。
   平とは五穀は豊かに実るというのことではない。

   それは君主が君主の道を尽くし、家臣が家臣の道を尽くす。
   父が父の道を尽くし、子は子の道を尽くす時、天下は平らかであるというのである。


(7)7日〜 『真に道に志す者』 

   花柳詩酒に陥る如きは、真に道に志す者の必ず暇にあらざる所なり。
                         (安政3年3月「講孟箚記」)

   <訳>

   本当に人として道(自分の進むべき)に志した者にとっては、
   飲食街で遊んだり、詩や、酒に狂うというような暇は絶対にない。


(8)8日〜 『我が志を行わんのみ』 

   吾は我が志を行はんのみ。     (安政6年3月「福原又四郎に復す」)

   <訳>

   私は私の志して(目指して)いることを行なうのみである。


(9)9日〜 『父母を不是と思わぬは』 

   「天下に不是の父母なし」と云う如く、
   人子の心にては豪末も父母も不是とは思わぬこそ孝と云うべし。
                       (安政2年9月「講孟箚記」)

   <訳> 

   「世の中に正しくない父母はいない」というように、
   人の子の心においては、ほんの少しでも父母を正しくない、
   と考えないことこそ孝行というべきである。


(10)10日〜 『覚悟を失わず』 

   凡(およ)そ士たる者何程困窮すと云へども、遂に士の覚悟を失はず、
   又顕達すると云へども、富貴に淫して平生(へいぜい)の志を亡失することなく、
   治を致し民を沢(たく)し民の素望に協(かな)ふなり。  
                         (安政3年5月「講孟箚記」)

   <訳>

   だいたい侍というものは、どれほど困窮しても、絶対に侍の覚悟は失わない。
   立身出世をしたとしても、富裕や高貴におぼれて、日頃の志しを忘れることはない。

   正しい政治をして、民に恵みを与え、彼らの期待にそうものである。

             <感謝合掌 平成24年1月16日 頓首再拝>



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