ペリー提督が見た日本 (5944) |
- 日時:2011年12月30日 (金) 04時55分
名前:伝統
幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、 世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こきました。
浦賀沖にペリーがやってきた翌年の1854年12月23日(嘉永七年/安政元年)、 東海道地区で安政東海大地震(マグニチュード8.4の巨大地震)、
その僅か32時間後には安政南海大地震(これもマグニチュード8.4の巨大地震)と、 立て続けに発生しております。
その翌年の1855年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした 安政の関東大地震(マグニチュード6.9)が起きており、 この一連の大地震を安政三大地震と言います。
安政南海大地震による津波は房総半島から九州までの太平洋沿岸を襲い、 死者は3万人、全壊家屋2万戸、焼失、流失家屋それぞれ6千余戸という 大惨事でありました。
ペリーは1855年に帰国し、遠征についての記録 「アメリカ艦隊の中国海域および日本遠征記」をニューヨークで出版し、 大ベストセラーになりました。
1858年3月4日に心臓発作のため63歳で永眠。
ペリーは、地震に遭遇した日本人について、次のように記述している。
「地震によって生じた災禍にも拘わらず、日本人の特性たる反発力が表われていた。 その特性はよく彼らの精力を証するものであった。 彼らは落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかかり、意気阻喪することも 殆どないようであった」 (「ペルリ提督日本遠征記 」)
・・・以下に、「ペルリ提督日本遠征記 」から他の項目についても紹介しておきます。
(1854年、日米和親条約<神奈川条約>の調印後)
(1)4月10日、神奈川郊外を視察
ペリーたちはある町で「町長」の自宅に招かれ、酒と茶菓の接待にあずかった。 「町長」の妻と妹が給仕にあたったが… こうした女たちの態度と行動に ペリーたちは好感を抱いたようである。
「遠征記」は日本の女性の地位について次のように書きとめている。
『日本の社会には、他の東洋諸国民にまさる日本人民の美点を明らかにしている 一特質がある。それは女性が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されて いないことである。
日本の母、妻、および娘は、中国の女のように家畜でもなく… 一夫多妻制の存在しないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民のうちで 最も道徳的であり、洗練されている国民であるという優れた特性をあらわす 著しい特徴である。
この恥ずべき習慣のないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかり でなく、家庭の道徳がおおいに一般化しているという当然の結果のなかにも現れている。
…日本婦人の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、 立ち居振舞いはおおいに活発であり、自主的である。
それは彼女らが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来る ものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女も加わるのであって、 互いの訪問、茶の会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている』
さらに、
『下流の人民は例外なしに、豊かに満足しており、過労もしていないようだった。 貧乏人のいる様子も見えたが、乞食のいる証拠はなかった。
人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くのところと同じく、女たちが耕作労働に従事して いるのもしばしば見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、 誰をでも忙しく働かせる必要があることを示していた。
最下層の階級さえも、気持ちのよい服装をまとい、簡素な木綿の衣服を着ていた。 …あらゆる階級の人々はきわめて鄭重で、外国人について知りたがり屋だが、 決して図々しくでしゃばりはしない。
…彼らの習慣は彼ら自身の間では社交的で、 しばしば互いに親しい交わりをむすんでいる』と描写している。
(2)4月18日下田入港時
『下田の町は小じんまりと建設されていて、規則正しくできている。 …街路の幅は約20フィートで、一部分には砕石が敷かれており、 一部分は舗装されている。
下田は進歩した開化の様相を呈していて、 同町の建設者が同地の清潔と健康に留意した点は、我々が誇りにする 合衆国の進歩した清潔と健康さよりはるかに進んでいる。
濠があるばかりでなく下水もあって汚水や汚物は直接に海に流すか、 または町の間を通っている小川に流し込む』
と、清潔と健康に留意した町づくりを称賛している。
(3)5月13日下田を出港し、5月17日函館の港に投錨
①『函館はあらゆる日本町と同じように著しく清潔で、街路は排水に適するように つくられ、たえず水を撒いたり掃いたりしていつでもさっぱりと健康によい状態に 保たれている』
②教育については、下田でも函館でも、書物は店頭で見うけられ、 『明らかにおおいに需要されるものであった』として次のように述べている。
『人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心だからである。
教育は同帝国いたるところに普及しており、また日本の婦人は中国の婦人とは 異なって男と同じく知識が進歩しているし、女性独特の芸事にも熟達している ばかりでなく、日本固有の文字によく通じていることもしばしばである。
アメリカ人の接触した日本の上流階級は、自国のことをよく知っていたばかりでなく、 他の国々の地理、物質的進歩および当代の歴史についても何事かを知っていた』
(4)当時、ペリーらが日本から受けた印象は、
①鎖国下の日本が他のアジア諸国とはかなり違った文化的・社会的発展を遂げつつある国 であり、近代欧米文化に適応する能力と文化水準を十分にもち、
いずれは欧米先進諸国の競争者の仲間入りをする可能性を秘めた国である、 ということであった。
②「遠征記」は、日本を観察した結論として、 『人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功している 工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう』
『日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、 強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう』
と予言している。
*Web:「ペリーの見た幕末の日本」 http://mirror.jijisama.org/bakumatsu.htm
<感謝合掌 平成23年12月30日 頓首再拝>
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