明恵上人、幼少期 (6280) |
- 日時:2012年01月24日 (火) 06時26分
名前:伝統
華厳宗(けごんしゅう)中興の祖といわれるの明恵上人(みょうえ・しょうにん)は、 1173年に和歌山県有田郡有田川町(ありだがわちょう)で生まれました。
その19年後の1192年には源頼朝が鎌倉幕府を開いているから、 平安時代末期の生まれということになります。
明恵上人の両親は、ともに紀州では勢力のある豪族の出で、 父は領主の平重国、母は湯浅宗重の四女であちました。
母は彼を懐妊した時から、将来は神護寺の薬師仏へ捧げようと決心していたので、 名も薬師丸とつけ、そういう雰囲気の中で育った上人は、極く自然に、法師になると きめていたようです。
幸福な幼年時代をすごしておりましたが、それも長くは続きません。 8歳になったばかりの正月に母が亡くなり、同年9月に父が亡くなりました。 父は挙兵した源頼朝と戦って戦死したのであります。
上人は9歳で京都市高尾の神護寺(じんごじ)に入山し、 出家するための勉強をはじめます。
神護寺へ馬で向かっていた時、さすがに家族や故郷との別れが悲しく 上人は馬の上で泣いていた。
たまたま川を渡るとき馬が立ちどまって水を飲もうとしたので、 少し手綱を引くと馬は歩きながら水を飲みはじめた。
それを見て、馬でさえ自分のつとめをきちんと果たしているのに、 人間の自分が故郷が恋しいからと泣いているのは馬にも劣ることだと反省し、 一筋に貴き僧となって親をもすべての衆生をも救おうという願を起こしたという。 武士の生まれだけに思いきりのいい子供であった。
上人はずいぶん早熟な人だったようで、13歳にして次のような事を考えた。
「今は、はや13になりぬ。すでに年老いたり。死なんこと近づきぬらん。 老少不定(ろうしょうふじょう)の習いに、今まで生きたるこそ不思議なれ。 古人も学道は火を鑚る(きる。木をこすり合わせて火をおこす)が如くなれとこそ言うに、 悠々として過ぐべきに非ず」
そして自らを鞭打ち、昼夜不退に道行に励んだという。
また、「この体があるから煩いや苦しみがある。いっそ狼や山犬にでも食われて死んで しまおう」と考えて、死体を処分する原っぱへ行って横になったこともあった。
夜中に犬がたくさん集まってきて、死体を食う音がすぐ近くでも聞こえ、 ついには横たわっていた上人の体も嗅ぎまわしたので、怖ろしいこと限りなかったが、 犬は上人を食わずに行ってしまった。
そのため、死にたくても定業(じょうごう)でなければ死ぬこともできないと納得し、 大人になってから「その時の見解にて死にたらましかば、浅ましき事にて有りなまし。 はかなかりけること哉」と言って笑ったという。
それから19歳の年まで7年間、明恵は本尊の薬師仏に祈りをこめました。
『願ふ所は永く世間の栄華を捨てて、名刹のきづなにほだされず、必ず文殊の威神に依って』 仏法の奥儀を極めんと。(伝記)
明恵は身命を賭して仏に祈ったものの、修行の方は中々はかどらない、 『然るに世間に正しき知識も誰に問ひ何れにか尋ねん』(伝記)と、次第に絶望を深めて 行くのですが、その間にも夢の中で、自問自答したり、弘法大師などに会っています。
その時の夢は象徴的で、大師が寝ている部屋へ行くと、枕元に、水晶のような眼が二つ 置いてあり、それを給わって、大事に持って帰る所で覚めている。
*「明恵上人」(白洲正子・著、講談社・刊)より
<感謝合掌 平成24年1月24日 頓首再拝>
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