西田幾多郎、娘への手紙 (2783) |
- 日時:2011年06月15日 (水) 06時07分
名前:伝統
~ 遠くに離れていても、父の心は、いつもお前の側にある ~
京都には「哲学の道」がある。 北は銀閣から南は若王子に至る約1.5キロの小径(こみち)である。
もともと「思索の小径」と呼ばれていたが、近代を代表する哲学者・西田幾太郎が 好んで散策し、思索にふけったことから「哲学の道」と呼ばれるようになった。
哲学者というと、何か気難しい感じがする。 西田幾多郎には二男六女があったが、どういう父親であったのか。
三女の静子(しずこ)は、こう記している。 「父は世間話や冗談はあまり口にしないひとでした。 この口数の少ない、日によっては一日中家族の者とも口を利くことのない、 世の普通の父親とはどこかが変わっているらしい、
子供の私どもにさえ、その心のうちを窺(うかが)えないような父を、 物足りなく淋しく思ったこともないではありません。
別に世間のひとの仰言るような偉い父であってくれなくてもいい。 普通の世間並の父親であって欲しいというようなことを考えてみたことさえもありました」 (『わが父西田幾多郎』)
厳格で、取り付く島もない父親のように見える。 しかし、実は心の中は、子供のことを一途に案じ続ける普通の父であった。
男親には、面と向かって気持ちを表せない不器用さがあるのかもしれない。
西田幾多郎は手紙の中で、まるで別人のように、 子供たちへの思いやり、愛情をハッキリと表している。
大正十四年春に、病気療養中の静子(二十一歳の時)へあてた手紙を紹介しよう。
「七度でも一分でもそうつづいて熱が出る様であったら画をかいたり歩いたりせないで 病院にいた時の様にして絶対安静にしていなければならぬ。
食物などもどういうものを食っているのか。 不消化なものを少しも食べない様にせなければならぬ。
よく田舎の人は親切にあれを見よとかこれを見よとかいうものだが、 特に立つ前にここを見てゆけとかあそこを見てゆけとかいうものだが、 そういう熱が出るのに少しも外に動いてはゆかぬ。
又さびしいかなどいっていろいろ話しに来る様なこともあるが、 人と長く話しするのもその為に熱が出るものだから絶対に 心もつかわず体もつかわぬ様にしていなければならぬ。
どうか体の具合をありのままに、よい所もわるい所も知らせて下さい。 よいかげんなことを云って人を安心させる様なことは甚だよくない」 (『西田幾多郎全集』18)
心配で心配でならないという父親の姿が浮かんでくるようだ。 哲学者だけあって分析が細かい。 具体的で行き届いた配慮が示されている。
このころから静子の長い闘病生活が始まり、父の心配は尽きない。 西田幾多郎は、自分が昭和二十年に亡くなるまで、六十四通の手紙を送り続けた。
健康への気づかいだけでなく、病気療養で結婚する機会を失った娘への、 生き方のアドバイスもつづられている。
昭和十九年には、四十歳になった静子へ、次のような手紙を出している。
「体はそう悪いくもない様で安心して居ります。 どうか体と心とを大切に、油断なく気をつける様に。
遠くにいても私の心はいつもいつもお前の傍(そば)につきそうています。 昼も夜もお前のことを思わない時はありませぬ。 私はいつ死んでも思い残すことはないが唯お前のことのみ気にかかります。 どうか立派に一人でやっていく様に」 (『西田幾多郎全集』19)
どこまでも、どこまでも、自分が死んだあとまでも、娘のことが案じられてならない親心。 この手紙は、静子に大きな力を与えた。
彼女は父との思い出をつづったエッセーの最後を、次のように結んでいる。
「私は今、淋しい時困った時悲しい時この手紙を見る事にしています。
『遠くに離れていても父の心は何時もお前の側にある』
この言葉にはげまされて、 女の独り歩きをあやまたない様にこれからを生きて行きたく思います」 (『わが父西田幾多郎』)
「遠くに離れていても、父の心は、いつもお前の側にある」 すべての父親の叫びでもある。
<平成23年6月15日 記>
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