西郷隆盛と村田新八 (5013) |
- 日時:2011年10月18日 (火) 17時34分
名前:伝統
明治維新後の新政府をみていると、西郷は、要人の参議らの私生活の増長に違和感を感じ、 岩倉遣外使節団帰国後の征韓論(西郷自身は、遣韓使節の立場に立っていた)後、幻滅し、 下野し、鹿児島へ帰り、しばらくして私学校にて、若者の育成に取りかかりました。
(南洲翁は、明治維新政府に幻滅し下野しましたが) 村田新八は大久保から維新政府に残るよう強く望まれますが、維新政府を見限り、 南洲翁の右腕として、南洲翁を支え、西南戦争で戦死しました。
村田新八は、勝海舟より、次のように評されております。
「日本の宰相には、たとえ大久保、西郷がいなくても村田新八がいる」
それほど、魅力的な男だったようです。
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村田新八
年少より西郷隆盛に兄事した。 文久2(1862)年、島津久光の上洛に際し、西郷と共に先発,京坂の形勢に対処したが、 過激派を扇動したと、久光の怒りを買い、西郷は徳之島に新八は鬼界が島に流された。
元治1(1864)年、赦免されるや、西郷を助けて王政復古運動に挺身し、 慶応2年、薩長同盟にも関わった。
また、長州の伊藤博文らと上海を訪問したり、薩土盟約の事情を記した西郷の書簡を持って 長州藩を訪問、馬関にて坂本竜馬と会談、毛利公にも拝謁しました。
戊辰戦争には薩摩藩軍の軍監として東北地方の戦線に軍功がありました。
明治4(1871)年,西郷の推挙により宮内大丞に任命、 次いで岩倉遣外使節団の理事官随行員となり米欧を視察、
明治7年帰国すると岩倉使節団と西郷が征韓論をめぐって対立、
西郷隆盛が下野して帰郷したのを聞くと、辞職して鹿児島へ帰る。 大久保利通は、村田の帰郷を聞いて、茫然としたと伝えられる。
桐野利秋、篠原国幹らと私学校の経営に携わり、特に砲隊学校の監督に当たった。 西南戦争では、薩摩軍2番大隊長として各所に奮戦、城山で最後の抵抗を遂げ戦死した。
西郷のみならず、大久保利通にも将来を嘱目された。 勝海舟は「大久保利通に亜ぐ傑物なり。惜哉、雄志を齎して非命に斃れたることを」と評したという
村田は西郷が最も信頼した男であった。 重要懸案を西郷に持ち込んだところ、先ず村田に見せたかとたずねたという。
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以下は、「南洲残影」(江藤淳・著)からの村田新八の言葉の引用です。
(1)明治維新は、失敗であった。 2年間の歳月をかけ、米欧を回覧して来て、自分にはそのことがよくわかった。
西洋を知らない者が国粋主義者になり、西洋を実地に知っている者が開明派になるなどと いうのは俗見に過ぎない。
自分は大久保(利通)と同じ汽車に乗り、同じ宿に泊まり、同じ諸国を見て廻った。 その結果大久保とは全く反対の結論に達したのであるから、これは西洋を知る知らないの 問題ではない。
いや、むしろ西洋をよく知っているからこそ、自分は到底大久保に同じ得ないのだ。 (真の明治維新への「精神気迫」が、崩壊し続けていることに危機を抱いている)
(2)「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん。 天下の人はいたずらに先生を豪胆な武将と看做しておいもうす。 薩摩の人間とて同じでごあす。じゃどん、吾輩一人は、先生を以って深智大略の英雄と 信じて疑いもはん。西郷先生を帝国宰相となし、その抱負を実行させることにこそ、 我らの責任が掛かっているもんと心得もす」
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*次回は、明治天皇と西郷南州翁とのエピソードについて、紹介する予定です。
<合掌 平成23年10月18日 拝>
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