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島津氏について語り合う

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(120) 島津運久のもう一人の息子?追跡編 投稿者:てらだ MAIL URL
偶然に『薩摩島津氏』(三木靖著)を借りてきました。
三木氏がこの本に”島津運久のもう一人の息子”と言われる人物につい
て詳述されていたので、やや長くなりますが説明します。

戦国大名北条氏(いわゆる後北条氏)の史料の一つに
『小田原衆所領役帳』(別名『北条家分限帳』
と言う物があり、これは北条氏の家臣の一覧集なのですが
このなかに
「島津孫四郎」「島津又次郎」「島津衆 太田新次郎」「島津弥七郎」
という人物が出てきます。このうち「島津孫四郎」氏は所領533貫文
を持っていましたが、これは三木氏によると「北条氏の中でも大身の家
臣の分類に入る」と言うことです。

さて、『新編武蔵風土記塙』巻五十三と言う本に、荏原郡品川の東海寺
の内、”清徳寺”という寺の説明で
「当時は、天文年中に梅江和尚が中興した。そこで(中略)島津右衛門
 尉忠貞が寺領を寄進した。忠貞は永禄二年八月十二日に卒した。「諸
 家系図」には八月二十日戦死とあり、法号は長徳軒竜堂泉公といい、
 墓は当寺にある」
と書いてあります。この本が引いている「諸家系図」にはだいたい以下
のようなことが書いてあります。
「島津相模守入道源忠幸の子は、長徳軒と号し、幼くして剃髪し、入寺
 して学問を学んだ。享禄年中十九歳にして薩摩国を出て下野国足利学
 校に赴こうとして、遠江国今切を渡る際に船が転覆し、長徳は小舟を
 操って駿河国に流れ着いた。駿河国の領主・今川氏親は長徳の先祖の
 勇名を聞いていたので、使者をやって来路の辛苦を慰めた。そのうち
 氏親は長徳が還俗するよう願ったので、長徳は還俗し、三浦氏の娘を
 妻として一子を儲け慶弁と名付けた。天文初年の頃、北条氏綱は病気
 となり、医術の心得があった長徳を小田原に招いた。氏綱は長徳の才
 能を貴重に思い、傍らに侍らせるようになった。そのため長徳はつい
 に駿河国に帰らなかった。長徳は氏綱と共に軍法を計り、負けること
 がなかった。その効に対して氏綱はしばしば采地を与えた。長徳は永
 禄年中八月二十日に戦死した。」
ここに出てくる”島津相模守入道源忠幸”が島津運久の事なのだそうで。

で、三木氏のまとめによる島津忠貞(長徳)の一生は
1)長徳は永正八年(1510年)頃、島津運久の息子として生まれる
2)若くして出家させられた。養子の島津忠良が後継者に決まっていたからであろう
3)享禄年中(1528〜1532)に足利学校に留学しようとしたが事故で失敗した
4)遭難先で僧侶は廃業し、今川氏親→北条氏綱に使えた
5)永禄二年(1559年)50歳ぐらいで戦死した
ということだそうです。

ちなみに東京都品川区北品川3−7−22には先述の清徳寺(福聚山清
徳寺)がまだ残っていて、お墓もあるようです。

ただ、春日局にからんだ呉服屋までは言及されておらず、こっちのほう
はガセネタかも知れないですねえ(^^;)

2003年06月15日 (日) 00時35分




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