(146) その次男の出てくるところだけ参考に |
投稿者:てらだ
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もう手遅れかも知れませんが(^^;)あてにならない口語訳です。
>○同月三日、公放鷹尾畔之下、哺後降臨種福園、吾迎伏門前橋頭道左、 同月3日、殿様は尾畔の下で鷹狩りをされ、(鷹を)捕まえた後、種福 園にお越しに成られたので、私は門前の橋の先の道の左で伏して出迎えた。 >『久要、實行』二子迎伏橋外、前導至庭、公入室、乃獻茶煙進見焉、 久要、実行の二人の子は橋の外で迎えた。(殿様の)前を導いて庭に いたり、殿様は部屋に入られたので、茶を献じてたばこを勧めた。 >則命陪席、ハイ鳧一隻、關山金武宣旨、二階堂行佐讃之曰、 すなわち同席を命じられ、【ハイ鳧一隻、關山金武宣旨、(この部分 意味不明)】二階堂行佐がほめて言うには >今日所自獲其隼鷹木崎原名、唯一而、専賜之、不亦恵哉、 今日の所はその”木崎原”という名の鷹が捕らえたのが、唯一のものだ、 これを(鷹狩りの獲物か、鷹本体か判断つかず)賜り、また恩恵を受けた。 >『久要・實行』亦拝謁於 公、而賜盃吾曁二子 久要、実行もまた殿様に拝謁して、殿様は杯を二人に賜った。
この書類に出てくる「実行」氏が系図では消息不明になっていると 言うことですが、他の書類で名前が出てくるかどうか、調べる必要 があるかも、です。「殺人」に関わりがあるのなら、此の当時の犯 罪の史料など有れば分かるのかも知れないですが、でも、すごく大 変な作業になりそう(^^;) 国老の息子なら、裁判自体もみ消されてる可能性もあるでしょうし。 私は江戸時代の鹿児島藩の事情には全く疎いなので、もう想像がつ かないです。
それと 「人を切って本土にいられなくなり逃げてきた」というのと 「島では召使が一杯いて裕福だった」というのが、 私にはどうも矛盾するんですけどねえ。
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2003年07月03日 (木) 11時32分 |
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