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投稿者:佐多
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佐多秋男様 瀧川様 こんばんわ。 埼玉に居住しています佐多弘と申します。佐多だけですとわからないのでフルネームにしました。 江戸時代に佐多姓を許された家が九軒あります。 三代佐多豊後守氏義三男佐多左近大夫元忠…上郡中薗家佐多美舟様 高究帳では嘉祝(直正) 三代佐多豊後守氏義七男佐多讃岐守久信…上郡立薗佐多家 直八 四代佐多伯耆守親久三男佐多左京亮師義三代孫佐多筑前守倫久二男紀伊守…打出口佐多家 善助 師義二男佐多備中守忠顕…上郡仮屋薗佐多家 七郎兵衛(直行) 四代佐多伯耆守親久四男佐多左馬助通久…上郡上薗佐多家佐多直忠様 斉七後十郎左衛門(直元) 九代佐多伯耆守忠将二男佐多式部少輔久治…中郡平屋敷佐多家佐多毅様(加世田士・直臣)源右衛門 久治長男久信二男佐多少左衛門久吉…(不明、加世田士・直臣)正之丞 久吉の分家弥兵衛 九代佐多伯耆守忠将三男佐多民部少輔久宗長男佐多民部左衛門久英…中郡平屋敷角佐多家(加世田士・直臣)休次郎 平屋敷と平屋敷角の家は知覧が直轄領の時に知覧衆中として直臣に取り立てられた家です。従いまして本家と同格で島津家の家来扱いでした。陪臣(佐多家の家来)ではないので佐多姓のままです。後に久達が私領地として知覧郷を拝領したので知覧衆中は消滅したのですが、せっかく取得した地位を取り上げるのは家格にもかかわるので、久達が頴娃地頭職の場合は頴娃衆中となり、最終的には加世田衆中で固定されたようです。 戸籍ですが、一番古いのが壬申戸籍(明治期の干支が申なのでそう呼ばれたそうです)で、宗籍(宗教)や犯罪歴などが記載されているらしく個人情報の取り扱い上問題があるとのことで閲覧が禁止されています。昭和30年代までは請求の理由が正当であれば閲覧出来たようですが、現在はいっさい見れないようです。その後のものは請求されればコピーも出来ます。このものは戸籍法が改正(昭和33年?)される前ですので、一家のものは全て記載されています。
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2005年03月19日 (土) 23時01分 |
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