(131) 又あてにならない(^^;)口語訳してみます |
投稿者:てらだ
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※<>は私がつけた注記などです。
旧記雑録拾遺家わけ三、藤原姓町田氏正統系譜巻第十二久倍 >初久増(増或作益) 助太郎 伊賀守 出羽介 出羽守道存松、 はじめ「久増」(増は或いは「益」とも書く)<字は>助太郎、 伊賀守、出羽介、出羽守道存松などを名乗る >初稱石谷、後改町田氏 又 別號、曰一言 はじめは「石谷」氏を名乗っていたが、後に「町田」氏に改めた。 また、別に”号”があり「一言」と言った。 >○生月閑焉、 生まれた月は分からない ○母伊集院刑部少輔久盈第二之女、 母は伊集院刑部少輔久盈の次女 >○天文十四年乙巳、貴久公甘伊作城、 天文十四年(1545年)乙巳の日に<島津>貴久公は伊作城に甘んじた <てらだ注:この箇所意味不明> >○天文十九年庚戊、義久公自一内城、捗伊集院一内城、移鹿兒島御内 天文19年(1550年)庚戌、<島津>義久公は一内城<=一宇治城>、 より、伊集院に一内城を渡して、鹿児島御内<城>へ移った。 (中略) >○慶長四年十二月廿二日前夜鶏鳴、久倍啓行駕舟向 干京師、 慶長四年(1599年)12月22日前夜夜明けの頃、久倍は駕籠・船 を使い京師<京都のこと?>へ向かった。 >斯時久倍處守大口城、因還書告干津曲・城両士曰、 このとき久倍は大口城を守っており、よって津曲・城二人に書を書き送って 言うところには >當以警衛内城疆理邊境、若夫有流言雜説、 辺境の城<注:大口城は薩摩と肥後の国境にある要地>を警護するに当 たり、もし根も葉もないうわさ話などが流れるようなことが有れば >宜奉檄以(スミャカニ)?告濱市及營中矣、 速やかに浜の市<注:富隈城在住の島津義久を指すか?>と営中<注: 鹿児島城のことか?>に知らせよ。 >此他託以土工事(フシン)、蓋大口城修築(サクシ)未竣也、 この他、工事について依頼した。いまだ大口城の修理は完成していなか ったからである。 >又囑曰我今遠離老母在堂、奈夫索居何、吾子等幸時看顧老母慰安無聊、 >唯懇託焉、 また<久倍が>言うには、私は今老母と遠く別れている、いかにして <母の>住居を訪ねようか?私の子供達は私の母を訪ねてその孤独を慰 めて欲しい、と、ただただ懇ろに託された。 >蓋久倍之萱堂長壽、慶長己亥猶存、而翌年庚子、久倍畢命赤石、 けだし、久倍の母親は長寿で慶長己亥(=1609年)にはまだ生きており 翌年庚子(=1610年)久倍は赤石(=明石)で亡くなった。 >豊憶以當時為母子永訣之別也、即今百歳之下堪悲愴、況老母尋平生於響像乎 その時をもって母子の永遠の別れであった。今<久倍の母は>100歳にな り悲愴に堪え、老母は響像<すいません、意味不明>において日常を訪ねて いる。
… すいません、今回は余り自信がありません。細かいところで意味が異なって いることがあるかと思いますので、お知り合いで詳しいかたがいたらその方 に見てもらった方がよいかと思います。ご参考程度までに。
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2003年06月19日 (木) 11時59分 |
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