僕の両親が喜界島生まれで、僕で5代目(分家)なのです。 喜界島の本家の屋敷は800坪の武家屋敷だったそうです。 初代の町田實桃(1800年頃生)は「鹿兒島本土で人を切ってしまい、いられなくなって喜界島へ移住した...」との伝説が語り継がれているのですが、証拠はありません。 「町田實桃」が鹿兒島本土の誰なのかを研究しています。 当時、家はかなり裕福で、召使も多くいたそうです。 親戚には上級郷士(サトウキビ頭)の名前があります。 江戸時代まで、喜界島(奄美諸島)の郷士は「1文字姓」しか認められていませんでしたので「本土から来た武士」であることは間違いはないようです。この事は親戚の改製原戸籍謄本を見ても明らかな事のようです。 前ページで書いた「次男 實行、その後消息不明...」も候補者の一人です。 その他、市来町田家(その昔お墓があったとか...)・国分町田家(町田助右衛門、天保七申三月廿二日 蔵方目附下嶋 帰った記録無し「喜界島代官記より」)。 お騒がせしました。 m(_|_)m
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