(214) 七人島津 |
投稿者:佐多
MAIL
URL
|
瀧川様 島津下野守(上総介)忠宗には七子あり、長子上総介貞久が家督を継ぎ 二男和泉下野守忠氏(實忠)…五代目直久が戦死中絶(和泉島津家) 三男佐多山城守忠光(師忠)…知覧島津家 四男新納近江守時久 五男樺山安芸守資久 六男北郷尾張守資忠…都城島津家 七男石坂九郎左衛門尉久泰(義久)…無子孫(貞久子但馬守氏忠が相続?) 俗に七人島津といわれていました。 和泉家は薩州出水を領し、佐多家は大隈佐多を領し知覧も知行(一時川辺へ転封)、新納家は日向新納院を領し、後年志布志へ移住して戦国末まで保持、樺山家は日向臼杵院(都城の近く)を領し、江戸期には薩州藺牟田郷の領主、北郷家は日向都城を領し(一時宮之城、旧祁答院へ転封)、石坂家は日向石坂(都城の近く)を領していました。 こうしてみると、初期より領有地を保持しているのは佐多家と北郷家のみです。 ちなみに島津忠久とその周辺(高城書房刊:江平望著)に佐多家の話が少し出ています。復刊する前に古書で手に入れました。 忠充代には300人の家臣がいて、30〜40石に1人の軍役負担の計算をすると約1万石相当の石高になります。一族に海賊をしていた人物(門之浦佐多家周防介久福)もおり、貿易は私領主の権利として行使出来たものと推測されます。島津左兵衛尉尚久(宮之城祖)は鹿籠を領して倭寇の棟梁と言われていました。戦争をして領地を増やさなくても交易で裕福だったのかもしれません。関が原の役に軍代として参陣した狩野介久朝も京都へ遊学していたことが系譜に記載されています。
話は変わりますが、佐多姓への復姓願いがあります。上薗佐多家文書蔵 私先祖佐多親久流ニ而佐多名字名乗来申候処、正徳三年已三月二男以下達山名字名乗候様被仰渡、二男以下小名達山名字相名乗来申候得共、此節御一新二付士族被召出候二付、近比恐多奉存候得共、御差支無御座候ハバ如本二男以下嫡子同様佐多名字相名乗候様被仰付被下度奉願候、何卒此等之趣被仰上被下度奉願候以上 他家では明治三年辺りから復姓していますが、知覧では七年とちょっと遅いですね。
|
|
2005年02月27日 (日) 02時53分 |
|