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島津氏について語り合う

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(78) 東郷重虎(=島津忠直)のその後 投稿者:てらだ MAIL URL
それで、鹿児島県立図書館から
 鹿児島県史料集8『本藩人物誌』
を入手いたしました。
戦国時代の島津氏に興味を持つ私には非常に興味深い内容で、じっくり
読んでおります。
これをたどっていくと東郷重虎の生涯の概略が分かりました。
もっと早く注文すれば良かった…

東郷重虎は天正2年(1574年)島津家久(義久の弟のほう)の次男
として生まれます。母親は樺山善久の娘で、豊久は4歳年上の同母兄で
す。
しかし、天正5年(1577年)東郷重尚の養子に出されます。天正1
5年の豊臣秀吉の九州征伐の際は、すでに養父重尚も亡くなり、あまり
の大軍を支えきれず、父の居城佐土原に逃げています。
文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると兄・豊久について朝鮮半
島に渡り、この時に義弘の命令で島津氏に復帰し「島津忠直」と改名し
ています。しかし、このときも病気となり参陣不可能となり帰国します。
(ちなみにこのころおこなわれた「文禄検地」の目録宛書きには”東郷
源七郎(=重虎)”とあり、改名はもうちょっと後の可能性もあります)

関ヶ原の合戦の時は兄の居城・佐土原城を守っていたようです。この時
義弘は関ヶ原から逃げてくる途中で伏見で人質になっていた豊久・忠直
の母と姉も一緒に助け出し佐土原に送り届けました。この後、佐土原は
一時徳川家康に没収となり、忠直は母親など家族や兄・豊久の遺臣を連
れて庄内に退避しています。
このあと、慶長9年(1604年)に兄の跡を継ぐよう命があったので
すが、忠直は自分の病弱を理由に固辞し、代わりに自分の娘(母は上井
覚兼の娘で、この時7歳)を喜入忠続の息子と結婚させて跡目を継がせ
ています。これが永吉島津家系図に出てくる「島津忠栄」です。しかし
島津忠栄夫妻の間には子供がいないまま、寛永元年(1624年)相次
いで亡くなりました。

その後島津忠直は曽於郡三代堂村に隠居し、元和7年(1621年)5
月29日48歳で病死。
忠直には前に述べた娘の他に2人の息子(母親は日高氏の娘)がいまし
たが、父の死後に「自分たちの血統は”衰微の身の上”」であるとして
島津の苗字を返上して「東郷」氏に戻りました。


…なんか、遠慮がちにひっそりと島津の片隅で人生を送ってられた方の
ように思いました。父・家久や兄・豊久の軍功がすごすぎるからですけ
ど、そこまで遠慮しなくてもと。


2003年05月18日 (日) 20時55分


(342) (78)東郷宗家のその後 投稿者:おかもと MAIL URL
東郷重虎の後の東郷宗家はどうなったのでしょうか。お解りの方ご教授下さい

2010年07月21日 (水) 15時30分


(346) 東郷家とは? 投稿者:東郷昌裕 MAIL URL
私は東郷家に生まれ、祖父に小さいときより東郷家の人間としてと厳しく指導を受けましたが、父が過去の事を嫌う人だったので中途半端に興味をはぐらかしていました。
今人生折り返し地点を過ぎ、私の知っているわずかばかりの情報をと思い、書き込みをします。

私の祖父は宮崎県のえびの市出身で、そのえびの市の生家はお城であったみたいです。
10人兄弟の末っ子で本家は長男系の人が継いでますが、会うたびに、『今もお城にすんでますから一度おいでください』と言われます。

実際には行ったことがなく、城の名前すら知りませんがインターネットが普及しだしてから、何度かえびの市・城・東郷、あたりで検索をしても何も出てこずで、時間もなくほったらかしにしたままでした。

東郷重虎は、たどればご先祖さまだとは思いますが、まさか宮崎の佐土原にも、東郷家の軌跡があったとはと、感動し興味がわいておりますので、今後ともよろしくお願いします。

2010年08月28日 (土) 21時27分




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